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米国映画:故ジョンソン米大統領の物語

2018.10.08 Mon
社会

米国映画:故ジョンソン米大統領の物語

仲津 真治 2018  10
この程、原題「LBJ」といい、それをそのまま邦題とした米国映画を
見ました。 ところは、新宿駅東口の「シネマカリテ」と言うミニシアターで、
其処はスタッフに拠れば質の高い作品を上映している由、確かに、このLBJは
中身が濃く、見応えがありました。 以下、幾つかの印象点を順に記します。

1)「LBJ」と言う呼び方は、日本では余り知られていませんが、アメリカ合衆国
本国では一般的なようです。 1960年11月の米大統領選挙で、民主党から
当時のケネディ米上院議員(JFK)と組んで、副大統領候補として出馬し、勝利を
納めます。 もともと、此の二人は、ライバルの上院議員で競り合っていたので
すが、米民主党の党大会で、ケネディが得票第一位となり、大統領選候補として
指名を獲得すると、一転してケネディは、南部出身のLBJの持つ集票力が欲しいと
すり寄ってきて、LBJを副大統領候補にならないかと説得します。 その事を話し
合う二人の会談の場面は出色でした。 ケネディは、「ずばり南部の票が欲しい、
組みたい。」と言ったのです。

大統領候補となれず、斯くて政府内では無く、議会こそ活躍の場として、民主党
の上院院内総務に止まることを考えていたLBJは、悩みつつも結局、この申し入
れを受けます。 夫人の意見も参考にしたようです。

でも実は、副大統領とは「五番目の車輪」と言われる如く、閑職なのでした。
斯くてLBJは、議会人としてのプライドやノウハウもあり、当選した場合の処遇に
ついて、ケネディにいろいろと注文を付け、要望します。 大統領次第のところ
がありますからね。これらは、思いも掛けず後年生きてきます。

2)   1960年11月の米大統領選挙で、この二人のコンビが,米共和党の
ニクソン陣営と対決し、僅差で勝利を納めます。 ケネディ政権の誕生です。
そのスローガンは「ニューフロンティア」路線で、ケネディは米大統領就任後
日ならずしての演説にて、「1960年代の内に、人間を月に送り、着陸させ、無事
帰還させる」と宣言します。 宇宙開発はこの路線の一環でしたし、月へのアプ
ローチとは、対ソ優位を示すためでもありました。

とはいえ、このプロジェクトを実際に具体化し、動かして行ったのは、LBJでした。
その地元テキサスに、アポロ計画を推進する基地として、国の巨大な「ジョンソ
ンスペースセンター」という施設を造ったのは何よりの証拠です。

ケネディは格好良く、演説が旨く、人心を鼓舞するのに長けていましたが、実務
的な実行力には疑問があり、実績は殆ど上げずじまいで、不幸なことに、1963年
11月22日,テキサス州ダラスににて暗殺されてしまいました。

3) すると、憲法の規定により、米副大統領即ち、LBJが大統領に間髪を入れず
昇格します。空席には出来ないのです。

予期せぬ事でしたが、ダラスの飛行場にいた大統領専用機の機内で、誰かが「大
統領」と声を掛けます。 その瞬間、怯えたような表情を見せたLBJ
でした。ここのところは実に印象的でした。 LBJは憲法上そうなっていることの
認識がなかったのです。

さて、米大統領就任の宣誓式が必要となります。「いつ、何処で・・・・。」の
問いに「速やかに、機内ででも」と言う話になりました。 では宣誓を受ける最
高裁判事はどうするか。 これも解釈から、「長官で無くても、他の最高裁の判
事なら誰
でも執行できる」と言うことになり、近在であった、さる判事が急遽呼び寄せら
れました。 狭い機中での俄な宣誓式の場面、映画とは言え、こういう事で在っ
たのかと驚いた次第です。

4) この日の夜と思いますが、LBJが夫人の膝枕で涙声にて語るシーンがありまし
た。「自分の子供の頃から、なりたいと思ってきた米大統領職だが、こんなこと
でなるとは・・・・。」と涙し、むせんだのです。 夫人は優しく包容しました。

映画ではLBJが米大統領就任後、大車輪で取り組んだのはケネディ路線の継承でし
た。取り分け、公民権の実質化や人種差別の撤廃に焦点が当たっていました。

これには、象徴的な逸話が物語に入っています。 LBJの実家があるテキサスで起
きたことでした。 其処では黒人の女性メイドが働いていました。 ある夜、彼
女は外出していて、トイレに行きたくなり、捜しますが、見付からず、とうとう
屋外で用を足す羽目になったのです。空いていたものの、人種差別により、白人
用のトイレに黒人の彼女は入れなかったのです。LBJは、彼女から直にこの体験を
聴き、「こんなことは許せない。何とかしなければならん。」と決意します。
そして、伝統を重んじる反対派の重鎮と対決します。

別の日の或る深夜、LBJが首都ワシントンのリンカーン記念堂の前で自動車を
止め、本当に呟くところがあります。 リンカーンの像に向かって、「貴方の残
したことを私は片付ける」と、・・・。 実際、リンカーン大統領は奴隷解放宣
言をし、黒人奴隷を制度上廃止し、自由にしましたが、実質的な差別は広範に
残ったのです。

5)  LBJは、この決意の下、公民権問題などの解消に全力を挙げて取り組み、改革
を成し遂げていきます。 その議会対策の経験やノウハウは大いに生かされたの
です。 公民権問題などに代表されるLBJの政策は、総じて「偉大なる社会」の政
策と呼ばれます。英文では 「Great Society Policy」です。

それは、1965年1に、LBJがが打出した国内政策の構想として体系化されています。
種々の改革により経済,社会,文化,科学などの諸分野で偉大な社会をつくり
上げようとするもので,貧困対策,経済的繁栄の維持,人種差別の廃止,衛生
施設や輸送機関の整備,都市計画ならびに生活環境の改善などをおもな内容とし
ていました。

ただ、この映画では、「偉大なる社会」の政策と言う名称や英文の 「Great
Society Policy」は一切出てきませんでした。 それは、特定の政権の宣伝臭を
帯びるとみて、避けたのでしょうか。

でも、この政策について、上下両院合同会議と思われる議場で、LBJが見事な演説
を行うシーンは、秀逸でした。LBJは、「Let it begin!」と述べ、ケネディを
意識したのか、次いで「Let it continue!」と締めくくったのです。

さりながら、LBJを苦しめたベトナム戦争などについて、この映画が触れることは
在りませんでした。 一本の作品にまとめるため、焦点の拡散を嫌ったからでし
ょうか。その意義が分かりにくく、評判の悪いによる戦争による戦費やの犠牲の
増大は、米社会に深刻な影響を与え、偉大なる社会の諸政策の
拡充を困難にし、これらの政策構想の多くは挫折を余儀なくされたとされてい
ます。 近年のマクナマラ報告に見られる如く、ベトナム戦争とは将に今なお深
刻な反省材料でしょう。


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