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有事の政治家に求められるのは誠実さ

2020.03.28 Sat

政治家に過度な倫理性を求めることは、いまの時代では「ないものねだり」になってしまいそうです。しかし、有事の際などに、国民に不自由を押し付ける場合には、それなりの倫理性が求められると思います。

 

安倍首相は、夫人が芸能人らと花見の宴に参加したと報じられたことについて、国会で追及されると、「レストランに行ってはいけないのか」と、色をなして反論しました。もちろん、法律違反ではありませんが、首相夫人として好ましい行動とは思えません。マスクを転売していた静岡の県議が「違法ではない」と、強弁していた姿を思い出しました。

 

新型コロナウイルスについての特措法が成立した3月14日の記者会見で、首相は「国民の皆様に大変なご苦労とご不便をお願いしながら、政府と自治体が一体となって懸命に感染拡大防止策を講じております」と、国民に語りました。また、同じ会見では、密閉、密集、密接の3条件が重なる場所を避けるようにとも呼び掛けています。レストランで十数人の人たちとの会合は、上記の条件にあてはまらないのでしょうか。

 

「隗より始めよ」という言葉があります。まず身近なところから範を示さなければ、特権階級は別で、国民だけが苦労や不便を受ける、という気持ちに国民はなってしまうでしょう。

 

昨年の花見事件に比べれば、ささいな花見事件かもしれませんが、首相の振る舞いで、もうひとつ気になることがあります。国会で、痛いところを突かれたときのいらだちです。有事の際に、危機管理のトップに求められるのは冷静さですが、この程度の口撃で、カッとくるようでは、本当の攻撃が迫ったときに、誤った判断をするのではないか、という不安です。

 

有事ほど政治家の資質が問われるときはありません。3月25日にG7の外相が開いた電話会議では、ポンペオ米国務長官が「武漢ウイルス」と呼ぶことにこだわったため、共同声明が出せなかったと報じられています。トランプ大統領も、草稿には「コロナウイルス」と書かれているのに、わざわざ「中国ウイルス」と書き直して声明を発表している場面がニュースで流れていました。

 

WHOの3月27日付レポートによると、米国の感染者数は6.83万人で、8.2万人の中国、8.0万人のイタリアに次ぐ規模になっていますが、米紙によると、米国の感染者はすでに8.5万人になっていると報じています。楽観論を語っていたトランプ政権としては、「悪いのは中国だ」と言いたいのでしょうが、ウイルスに中国や武漢の名前を付けたところで、米国の感染者が減るわけではありません。

 

「change org」という署名集めのサイトでは、WHO(世界保健機関)のテドロス・アダノム事務局長の辞任を求める署名が50万件を超えています。緊急事態宣言を発するのが1週間遅れたことなどが「罪状」としてあげられています。国会で、その感想を求められた麻生財務相は「WHO(世界保健機関)ではなく、CHO(中国保健機関)ではないかという声がわんわん出た」と解説しました。これも国際的な儀礼に反したコメントだと思います。

 

たしかに、WHOが1月30日に出した緊急事態宣言のタイミングは遅かったように思えますし、テドロス事務局長の言動が中国寄りだという印象はぬぐえません。しかし、日本の財務相がWHOはCHOだと揶揄するのなら、そんな組織に1億5500万ドル(約160億円)もの寄付を表明したのは、税金の無駄遣いにならないのでしょうか。まさか、「オリンピックの延期や中止の判断はWHOの勧告に従う」という3月12日のバッハIOC会長の発言を受けて、あわててWHOの“口封じ”を考えたわけではないでしょうね。

 

国際機関のトップは、国際的な政治ゲームで決まるといわれています。日本は、2006年にWHOの第6代事務局長の急死を受けた選挙で、当時WHOの西太平洋地域事務局長だった尾身茂氏(現、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長)を擁立しましたが、中国政府の擁立したマーガレット・チャン氏(香港)に敗れたことがありました。そのときは第1次安倍政権でした。

 

「引かれ者の小唄」という言葉があります。負け惜しみという意味合いですが、WHOをCHOと揶揄するくらいなら、JHOにする政治ゲームをしてきたのか、と言いたくなります。

 

「論座」にメルケル独首相の国民向けの演説(3月18日)の内容が紹介されていました(3月21日、藤田直央・朝日新聞編集委員)。演説の核心は「連帯」という言葉だと思います。

 

メルケル首相は、コロナ感染症が1990年の東西ドイツ再統合以来、いや、第2次世界大戦以来、ドイツにとって、「連帯の精神をもって行動することがこれほど重要な挑戦はありません」としたうえで、国民に次のように呼びかけています。

 

「感染病がもたらす深いメッセージ。それは、いかに私たちは脆弱で、いかに心ある他の人たちの振る舞いを頼り、そして突き詰めれば、一体となって行動することで、いかに私たち自身を守り、励まし、支え合えるかということです」

 

首相は、民主主義の国なのに国民に不自由な生活を強いなければならない必要性を語り、「これは私たちの問題だ」と呼びかけ、この挑戦をすることこそが「デモクラシー」だと宣言しています。それと同時に、医療の最前線で働く医師や看護師やスタッフへの感謝の言葉を述べ、さらには、食料の供給を支えているスーパーでレジを打ったり、棚に商品を並べたりしている人々にも謝意を述べていました。

 

政治家を言葉だけで判断することはできませんが、自分たちが感染症に対して脆弱であることを素直に認め、国民の行動に制限をかけることに「こうした制限は絶対的な緊急時にしか正当化されない」と、自分を戒める言葉には、有事に際しても冷静な指導者であることを裏付けているように思えました。

 

「水際ではとどまらない新型肺炎の影響」(2020年2月2日)でも紹介した仏作家、アルベール・カミュ(1913~1960)の『ペスト』(新潮文庫)のなかに、印象に残る場面がありました。

 

物語の舞台は、1940年代のフランスの植民地だったアルジェリアのオランという都市です。ここで突然、ペストが発生し、町が封鎖されるなかで、主人公の医師、リウーは治療に奮闘し、町を脱出しようとしていた新聞記者のランベールもやがてリルーを手伝うようになります。そのリウーとランベール会話です。

 

「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

「どういうことです、誠実さというのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。

「一般にはどういうことか知りませんがね。僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」

 

ペストと同じようにコロナとの戦いのなかで、人々を、そして政治家を見分けるのは「誠実さ」だと思います。

 

(冒頭の写真は、コロナ問題で国民向けの演説をするドイツのメルケル首相。ドイツ政府英語版のホームページより)


この記事のコメント

  1. 古川宜洋 より:

    筆者自身が、正義の味方か悪の権化かを決めつけた上で、良いとこ探しと、あら捜しを延々と羅列する論評には、いつも辟易している。(こんなコメントでは、問答無用の廃棄処分でしょうね。)

  2. 杉田望 より:

    政治指導者のあるべき姿。無駄のない心打つ文章です。私の知る限り多くの医師は、パニック寸前の環境の中でも職務に忠実で誠実です。問題が多いのは医師免除をもつ厚労技官です。なぜ検査を妨害するのか、その理由づけは官邸官僚の思考とよく似ています。彼らがやっているのは社会的実験でははないかと、上昌広医師は疑っています。私は片肺の呼吸器疾患ですから怖いです。

  3. 松岡茂雄 より:

    さすが朝日新聞出身者。この時期にまたぞろアッキ-批判に呆れる。襟を正すべきはこの人のようなトンチンカンなリベラル。批判するなら、高田の馬場で酒盛り、縄跳び、合唱したバカタ学生を。

  4. 高成田 享 より:

    私のような少数異見に目を通していただき、ありがとうございます。

  5. KGK より:

    傲慢な指導者は国民全般の信頼を得られていないから,有事の際にまったく役に立たないと思います.そんな指導者でも一部の信奉者には神の声も同じで,指導者の言に論理的に異を唱える者には,論理で対抗できずに問答無用の汚い言葉を吐き散らすのでしょう.実に醜い.そんな醜い態度はどうやら「美しい日本」の本質のようです.有事や非常時にこそ,人の愚かさ・心の醜さが一層際立つのでしょう.

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