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東地中海、クルーズの旅

2016.06.28 Tue
文化

これはギリシアを中心とし、アドリア海やエーゲ海を家内ともども旅した、楽しい旅行記です。内外とも多事多端の折りですし、心配事は尽きないのですが、生在る以上、人生は享受すべきものと思い、健康である内に、初めてのクルーズに思い切って出掛けることとしました。行き先は東地中海ですが、幸い6月の地中海性気候の最中で、連日好天に恵まれて良き旅となりました。狙い目は主に古代ギリシアですが、それは彼の地が昔日、素晴らしい文化・文明を生み出しながら、どうしてその後衰え、以降、歴史にほとんど登場すること無く、現代に及び、今日では近代ヨーロッパの中でも、その後塵を拝するに至っているのか、その分けを訪ねて見ようとの問題意識から来るものでした。もとより素人の私どもに、その答えが見つかった分けではありません。でもヒントらしきものが少し得られれた感じが在り、其処をそれなりに探りました。その結果を順に記して参りたいと思います。先ずは、初めにその古代史を簡潔に描写して参りましょう。

なお、この旅では、旅行ガイドブック始め、地図帳、歴史図表など、いろんな資料に当たりましたが、文献としては難解ながら、主に「インドロ・モンタネッリ」の「物語ギリシャ人の歴史」(原語 イタリア語 訳者 谷口伊兵衛 2011年刊)、「アカデメイカの学堂」(茂木和征著)、光文社文庫の「古代 エーゲ・ギリシアの謎」などを参照した事を記しておきます。最近のものでは、幾つかのPHP新書にも当たりました。
1 都市国家(ポリス)以前の歴史と文明

現在のギリシアの地で最初に人類の文化が芽生えたのは、エーゲ海に浮かぶ「クレタ島」で、約九千年前に新石器時代が到来した由です。そして、その地に文明と言えるものが生まれたのが紀元前約二千年の頃、それは「クレタ文明」と呼ばれ、別名「ミノア文明」とも言う由です。その文明は、対岸のアフリカの地から、エジプトの古代文明が伝わって来て生まれたと見られています。その最中、紀元前千五百年も昔の頃には、クレタ島北方のサントリーニ島辺りで、巨大な火山爆発が起きています。その大噴火は、後年、「アトランティス」と言う大陸が海中に没したという伝説と結びついた由ですが、諸説あり、本当の所はまだ良く分かっていない由です。

そして、やがてエーゲ海のクレタ文明は衰退、ヨーロッパ大陸の方から「アカイア人」が鉄器とともにやって来ます。また、もともと、その辺りに棲んでいた「ベラスコイ人」も興隆したと見られています。かくてエーゲ海の民「ミノア人」は滅び、ギリシアの地は大陸系の人々で占められました。

この結果起きた、鉄を持つ文明は「ミケナイ文明」と呼ばれる由、この文明を担っていた人々が、小アジアの地の国と起こした争いが「トロイヤ戦争」と呼ばれるもので、紀元前1260年頃の事と言います。それは、吟遊詩人ホメロス(紀元前八世紀? ただ、この人の事はほとんど不明という。)が唱い語る物語で、長い間全くの神話と考えられていましたが、近代に至り、ドイツ人 「ハインリッヒ・シュリーマン」が「本当は実在したはず。」との信念で、全人生を懸けて発見・発掘に取組み、成功、世界中を驚かせました。斯くて、創始者のシュリーマンと後続の研究者は、有名な「トロイの木馬」始め、諸々の逸話が真実で在った事を、トロイヤとミケナイのそれぞれについて実証し、全世界に知らしめましたのです。ただ、このトロイヤの文明を担っていた人々の事を始めとして、分からない事も未だいっぱい在るようです。

さて、その後ですが、シュリーマンが発見・発掘した小アジア側のトロイヤ文明が滅び、ギリシア側のミケナイ文明も衰退期に入ります。すると、新たにドーリア人と言う人々がこの地に入って来ました。紀元前千二百年前の頃からと言われ、その後アカイア人、ベラスコイ人などと混じり合って行きます。かくて、民族や言葉の融合が進み、共通の言葉(ギリシア語の元)が醸成されて行ったようです。他方、その間文明の形成という点では、さして見るべき所が無く、この頃から紀元前八百年前頃までが暗黒期と呼ばれる由です。
2 各地でポリスが形成され、植民し、交易して、それらをもとにギリシア文字も発達

ところが、紀元前八百年頃になると、ギリシアの各地に都市国家(ポリス)が登場して来ました。これには、ギリシア特有の地理・地形、気候、農耕などが寄与したようで、それらを基礎として、神殿を持つアクロポリスという丘を中心に、集落や町が出来、余り大きくならない範囲の居住や交流の輪が生じて行ったと言います。それは、せいぜい数千人の規模で、数百人程度のポリスも結構在った由、斯くてポリスの数はギリシアは全土で約千五百に及んだと見られています。ただ、人口数千や数百と言っても、それは市民である成人男子の数で、女、子供、外国人、奴隷なども他に居る分けです。つまり市民より、他の住民の方が遙かに多かったようです。

こうした中で、アテナイ、スパルタ、テーバイ、コリントス、エリスなどという大きなポリスも出現、取り分け、アテナイは最大の時で、市民二~三万、在留外国人一万、奴隷が二十万に達したと推定されている由です。

また、各ポリスは外地へも発展、地中海各地などに植民都市を建設しています。有名なところを拾うと、モナコ、マルセイユ、ナポリ、レッジョ、ベンガジ、小アジア(アナトリア)や黒海沿岸の各地などなどです。

そして、ギリシア人はフェニキア人を始め、地中海沿岸各地で、海洋諸民族と交易し交流し、時に戦いました。そうした交易・交流などを通じて、言葉や文字も伝わります。その中で特に優れていたのがフェニキア文字と見られ、それを基本に、ギリシア語のアルファベットが形成されて行ったと見られています。これは文明史上、画期的な事と考えられ、これがベースとなって古代ギリシア文明が誕生したと言えるようです。

この文化の形成・文明の誕生の最大の果実は、ギリシア都市国家群を生み出した事ですが、政治・政体の上でも変化を生じています。紀元前八世紀頃のポリスの誕生とともに、王政を彼方に追いやり、貴族政へと変容、やがて富裕な市民層の形成とともに、紀元前五百年頃には、遂に民主政治を誕生させているのです。しかも、それは市民自身が政治に参加する直接民主制でした。
3 ペルシアの進攻と、古代ギリシアの民主政治や科学・哲学・文化の意義

この頃、ほぼ軌を一にして、ギリシア東方に位置するアジアの大地には、巨大なペルシァ帝国(往時の王朝:アケメネス朝 現代の国名はイラン)が勃興しつつあり、ヨーロッパの一隅に育ちつつある都市国家文明と民主政治を圧倒、征服しようとして来ました。歴史とは皮肉なもの、これから将に繁栄を極めんとするギリシア、しかも史上初めて民主政治を実践しつつある国に、それを凌ぐ強力な大帝国が出現、機会ある毎に諸々の口実を設けて、一気に押しつぶさんと襲いかかってきたのです。

偶然の一致にしては出来過ぎた話に思われますが、イタリア人歴史家「モンタネッリ」は、其処にこそ、古代に於ける民主政と帝国王政の対決を見い出していますし、また、今日の科学技術や近代文明に通じる、ヨーロッパと言う場の揺籃の意義がここに在るとも認識しています。もし、このペルシアとの大戦争でギリシアが敗れておれば、ヨーロッパという歴史的な地域や流れは結局育つ事無く、消え去り、単にアジアの一部として推移し、ユーラシア全体や世界の歴史はその後大きく変わっていたに違いないと言う分けです。つまり、その場合は「ヨーロッパが生まれなかった。」という捉え方でしょう。

懸かる世界観・歴史観には「ヨーロッパこそ優れていて、世界を開化させたと言う西洋人の自惚れ」が見えて、嫌な感じが致しますが、一面の真理は突いていると言えるでしょう。

他方、強盛にして広大なペルシア大帝国からすれば、ギリシア都市国家などとのもめ事は、周辺に生じた諸紛争の内の幾つかに過ぎず、結果からするとギリシア側の反抗の制圧に失敗したに止まったものと見ていた様です。
4 ギリシア・ペルシア戦争の概観

さて、アケメネス朝ペルシアの来襲により、戦いの火ぶたは、紀元前492年に切って落とされ、紀元前479年まで十三年程の長きに渡って断続的に続きます。その後も大部経ってから、戦火が交えられたこともありますが、主たる大戦争はこの十三年と見て良いでしょう。この間、数波に亘るペルシアの大攻勢はギリシアの諸都市を圧倒します。これに対し、ギリシア側が一致団結して、この一大強敵に当たったのであろうかと言うと、必ずしもそうではありませんでした。

先ず最初の大決戦は紀元前490年、マラトンで行われ、密集隊形を組んだアテナイの軍勢が果敢且つ運良くダレイオス一世の大軍を打ち破ることで始まります。この時、勝利を味方に知らせる走者が、長い距離を走り切り、その事を伝えて絶命したと言う話(真偽の程は疑わしい。)は殊に有名で、1896年に復活した近代オリンピックで、その距離42.195kmを走るレースを、地名に因み、「マラソン」と呼ぶようになったと言われています。(敷衍しますと、古代オリンピック競技は、既に紀元前776年から、諸ポリスの対抗試合として始まっており、その後もローマ時代までの実に千二百年間の長きに亘って続いたのです。これは他に類例を見ないもので、ギリシアのまとまりと伝統を示すものでしょう。)

この後、紀元前485年にダレイオス一世が死去し、クセルクセス大王が後を嗣ぎます。その司令の下、紀元前480年、雲霞の如きペルシャの大軍がギリシアに再び押し寄せて来ました。これに対しては何と、レオニダス指揮下のスパルタが、僅か三百の手勢で果敢に抗戦したと伝わります。歴史に名高い「ティルモピレーの戦い」ですが、地形を利用し巧みに戦うも奮戦虚しく全員戦死します。(ただ、そのとき、各ポリスは四年に一度のオリンピック競技に参加していたと言いますから、外戦を理由に休止して、外敵ペルシアに総力を挙げて立ち向かわなかったとは、ギリシアの危機意識には良く分からないところがあります。) とは申せ、このスパルタの奮戦はギリシア諸都市の士気を大いに鼓舞しました。

これを受けてギリシァ側は、兵力で圧倒的に勝るペルシアに対し、真っ正面からの地上戦は不利と見て、連合軍を組み、時間を稼いで海上からの戦いを挑むこととしました。これが同年の、有名な「サラミスの海戦」ですが、ギリシア側はこれに見事勝利を納めます。

そして、翌紀元前479年には、なお諦めないペルシアに対し、プラタイアの戦い、次いで、同年のミュカレの海戦と、ギリシア側は連勝し、遂にペルシアの大攻勢を凌いだのでした。

それはギリシアにとって本当に奇跡と言うべきものでした。この歴史はヘロドトスの書に詳しい由です。これをもって、古代ギリシアに、遂に長続きする平和な時代が到来したのです。
5 平和の下、古代ギリシア文化・文明の爛漫の時代

斯くてやってきた平穏な時代は、その後、紀元前431年頃までの約半世紀続きます。その年は、古代ギリシアの内戦とも言うべき「ペロポネソス戦争」が勃発した年ですが、それまでの概ね五十年の間は将に平和でした。この「短くも長い半世紀」を指して、主導せる最大都市「アテナイ」のトップの地位を長く占めた人物の名を取り、「ペリクレスの時代」と呼ぶ見方があるようです。将に、「この時代こそ、黄金の古代ギリシア」と言える時代なのです。文学、詩歌、哲学、史学、科学・技術、医学、数学、幾何、美術、音楽など多種多様な文化や学問が花開き、次へと繋がって行きました。
6 各都市は独立し、栄え、しかもギリシア全体として、統合性があった

諸都市の中で文化が最も栄えたのはアテナイと見られますが、各ポリスも各々相当なものをもっていたようです。それはギリシア本土を離れた地方植民都市にもありました。アナトリア(現代のトルコの領域)の西南部の「イオニア」などはその典型で、神話から脱却したギリシア哲学を生み、今日の西洋哲学の源流となったと言われます。植民都市といえども栄え、本土から独立していたのです。

つまり、各都市は独立・自立する一方、既述の如くギリシア全体としてのまとまりが在ったと言われ、それを貫く民族精神の象徴が古代オリンピックに代表される競技会であり、また、アポロンに代表される神託であったと聞きます。

ここで、懸かるギリシア文化の担い手(文化加担者)とも言うべき人々の名前を思いつくままに挙げれば、概ね、この約半世紀との認識の下で、アイスキュロス、ソフォクレス、ヘラクレイトス、ツキジデス、ヒポクラティス、ヘロドトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどなどとなります。加えて言えば、ホメロスは実在したとして紀元前八世紀、ピタゴラスは前六世紀、また、ユークリッドはBC四世紀から三世紀、アルキメデスはBC三世紀となります。

この間ですが、都市国家アテナイの象徴とも言うべきパルテノン神殿がそのアクロポリスの丘に建立されています。紀元前447年から同432年の事でした。私どもは、その遺跡を見学して、本当に感動を覚えました。同時に、その建設のため、アテナイがデロス同盟の基金を流用した事など、それを彩る多事多端の歴史に複雑な思いを馳せたものでした。
7 古代ギリシアの悲劇:ペロポネソス戦争はギリシア文明・文化の自殺と言うべきもの

さて、古代ギリシアの諸都市は豊穣の文化・文明を謳歌し、故に安定して友好を保っていたのかと言うと、そういう分けではありませんでした。各都市の競争、主導権争いは絶えず在り、合従連衡やいざこざが絶えなかったと言って良いようです。斯くて、紀元前479年のペルシアの敗退に続いた以降の半世紀は、よくぞ納まっていたとも言えます。

そして、遂に大規模な内戦と言うべき、「ペロポネソス戦争」が紀元前431年に起きます。
それは端的に言うと、鎖国型で陸軍を中心に強力な軍事力を誇ったスパルタが、開放的で文化が栄え、海軍力を中心に対ペルシア戦争で大いに活躍し、ギリシア都市国家群の盟主たる地位を占め、そうした風を吹かせたアテナイに対して、強い反感と嫉妬を抱いたことが主因と見られると申します。斯くスパルタが同調都市と結んだ同盟はペロポネソス同盟と言い、対するアテナイを中心とする連合は、調印地の名を取りデロス同盟と呼ばれました。その総指揮官は前出のペリクレスです。

ギリシア全土を二分する両陣営の戦いは、前述の如く、アテナイによる基金の流用事件を契機に起きたと言われ、二度の十年戦争を始め、紛争がほぼ間断なく生起するような状況を呈し、紀元前404年にアテナイが最終的に降伏するまで続きました。斯くて間歇的であれ、三十年近く続いた、この大戦争は、古代ギリシアの持てる文化、文明を大きく破壊、その経済、社会を深刻に痛めつけました。これ以降、ギリシア自体が政治的にも、文化・文明史的に見ても、地域や世界をリードすることは、もはや無かったのです。ペロポネソス戦争とは、将に「古代ギリシアの自殺」となりました。

この、終焉するまで二十七年を要した大戦争を、公正な立場から冷静且つ客観的に記述したのが、かの有名な、元アテナイの将軍で歴史家の「ツキジデス」です。
8 アレクサンドロス大王の登場、東征そしてヘレニズム

古代ギリシアが、うち続く内戦とその後の内紛などのため、深刻な低迷期に陥ったとき、その北方のマケドニアに蠢動が見られるようになりました。紀元前四世紀の中頃、フィリッポス二世は紀元前348にマケドニア王となり、地域のまとまりを生み出す様になります。更に領域を広げ大国化せんとする中、暗殺されますが、その遺志は息子「アレクサンドロス」に引き継がれます。紀元前336年の事でした。

アレクサンドロスは、父王の配慮により、大学者で、万学の祖と言われたアリストテレスを家庭教師とした教育を受けます。それ故か、また既にギリシアの地を統一した父王の思いを受け継いだからか、王位に就き、内部の体制を固め終えると、紀元前334年に東方への大遠征を開始し、宿敵ペルシアの打倒へと向かいます。そして、紀元前330年に至ると、ペルシアの都「ペルセポリス」を攻撃、徹底的に破壊するとともに、ダレイオス三世を討ち取り、アケメネス朝ペルシアを滅ぼしてしまったのです。爾来、ペルセポリスは約二千三百年の長きに亘って復興せず、今日に至るも破滅した遺跡のままに留まっていると申します。其処には、古代ギリシアの積年の難敵を倒した、凄まじい怨恨と執念を感じますね。それは、師のギリシア人「アリストテレス」の教え賜いし所でしょうか。

さて、アレクサンドロスの遠征は、遠くインダス川まで達したのですが、部下の反対などに出遭ってそれ以上の前進を止め引き返します。そして帰途、熱病に懸かって死去します(紀元前323 バビロニア)。この間、大遠征開始後十年余で、単に広大な版図を獲得したに留まらず、アレクサンドリアなどという街や図書館等を、何と七十箇所の建設するなど、各地そして後世に大いなる影響を残しました。実に凄い事です。

その広大な領域は死後幾つにも分裂しますが、その各所には、ギリシア文化の影響が強く残り、其処にオリエントの文化の色彩が加わった文化様式が形成されます。そうした様相や姿を称して、「ヘレニズム」と言うと学校で教わりました。
(ここに、その元となる「ヘレン」の語は英語のHellenで、ギリシャ神話に登場するギリシア民族の父祖ヘッレーン (古代ギリシア語 Hellen)に由来すると言われます。他方、
「ギリシア」は英語のGreeceに当たる由、元はラテン語と申します。 ともに、ギリシアの意味のようです。)

これに対し、ペルシアとは、もともとギリシア語の由、幾多の王朝などの変遷、盛衰あるも、概ね今日のイランの領域に成立してきた国でして、現代でもその位置は余り変わっていません。ユーラシア、中東の中に重要な場を占めつつ、諸民族の移動・流動を体験してきた、その情況と存在、歴史と文化には実に重いものがあります。
9 東方におけるギリシアの学問の再興と研究の進展・・・特にバグダード

此処に、古代ギリシアとの関連で、その後勃興したイスラム世界の学問の事に触れておきたいと思います。

紀元七世紀の初期にアラビアの地に起きたイスラム教は、ウマイヤ朝、続くアッバース朝と呼ばれる王朝(私どもはサラセン帝国と習いましたが、その後呼び方が変わった由です)を起こし、やがて、その首都となったバグダードは大いに栄え、その学問や文化の中心として、各地から多くの学者・文化人が集まる所となりました。そこには、唐から国外不出とされた紙の製法が伝わり、その紙の普及によって政治・行政の円滑化がもたらされ、翻訳事業が甚だ盛んになったと申します。

更に、唐からは養蚕の技術や羅針盤も伝来し、インドからは「零 0」の数字をもつ数学が伝わって来て、インド数字をもとにアラビア数字が作られました。斯くてバグダードには宮廷文化が大いに栄え、将にアラビアンナイトの世界が現出したのです。

其処では、数多くのギリシア語文献が収集され、アラビア語に翻訳されました。特に九世紀前半には、バグダードに建設された「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」で、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究されたのです。以後、バグダードは、東方におけるギリシア学術研究の中心となりました。ギリシアの学術に興味をもったマアムーンは、バグダードに天文台さへ建設したと言います。斯くてアッバース朝の下、バグダードは、ギリシア・ペルシア・インドなどの哲学・数学・自然科学・医学などの科学・文化が融合して高度なイスラム文化・文明が発達したのです。例えば、代数のアルジェブラ、アルゴリズム、アルコール、ガーゼ、マスクなど皆アラビア語に由来する言葉の由です。

これは往時の中世ヨーロッパと、恐ろしく対照的です。聞くところによれば、当時学問を学びに東方・オリエント、具体的にはバグダードに行く事をオリエント行きと称し、英語のオリエンテーションの語源になったと申します。

こうした事もあって、諸説ありますが、バグダードに集まり、栄えた科学や文化は、その後ラテン語に翻訳されて、ルネッサンスなどの元となり、近世ヨーロッパの文芸復興に大きな影響を与えたと申します。この見方からすると、古代ギリシアは、中世にイスラム世界のバグダードにスライスして、またヨーロッパに戻ったとも言えるようです。
10   ギリシアの昔日の姿、其処に無く、いまギリシアという自由の共和国あり

ギリシアという国は、ヘレニズムの時代以降、何と約二千年に亘って存在しておりませんでした。その代わりに在った国や地域と言えば、プトレマイオス朝のエジプト王国、共和政ローマ、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンチン帝国 その下でヴェネツィア共和国が支配していたこともあり、ベネツィアだけの時も。)、オスマン帝国(トルコ)といった国々でした。

こうした事は、昔から国が存在し続け、時代の変遷のみが起き続けた日本などではまるで考えにくいことですが、大昔繁栄した文化や伝統を持つギリシアは、そういう運命を辿ってきたのです。

そして1821年に至り、オスマン帝国とロシアの間で戦争が勃発、ギリシアの地で独立戦争が起きます。そして遂に1830年、英国始め列強の干渉を受けながらも、ギリシア王国として独立、両世界大戦を経て1973年、ギリシア共和国となり、民主国であり、NATOに加盟する西側の国となりました。また、1981年EC(現EU)に加盟、2004年には近代オリンピックをアテネで開催、そして2010年深刻な経済危機が起き、大きな動揺が生じています。わたしどもは其の国を訪ねたのです。
11 今回の旅は、JTBが企画する十日間ほどのクルーズに参加することで実現しました。エール・フランスで、成田発パリ乗換え「ベネツィア」着という、機内泊の総計13時間程の航空便で、まずヨーロッパに移動、同地に一泊して、翌日から幾つかのポイントに船で寄っていくという旅行パターンです。

すると、道中の宿泊は基本的にクルーズ船内ですから、泊地を換える度に、大きな荷物の所謂「デパッキング」をする必要がありません。 これはかなり労力と面倒の節約になりますので、クルーズの人気高騰の理由となっているようです。実際、私どもの参加したツアー始め、多くの旅程が沢山の船で組まれていました。私どもが利用する船会社は、MSCと言うナポリ本社の企業で、クルーズ船は我らのオーケストラ号始め十二隻に達する由、同社は貨物船などを入れると四百隻近くになるとのことです。

イメージし易いように申し上げると、私どもの乗船したオーケストラ号は約十万トンの巨船で、全長約三百m、全幅約三十m、客室デッキ数が実に十二層在り、揺れは僅かでゆったりと浮き、巡航速度約23ノットと結構速く走ります。其処へ三千人程の乗客が各国各地から集まり乗船して、千百人弱の乗員が乗り込むというものでした。日本からも相当数の乗客の参加がありました。

航行の直前に全員ライフジャケットを覆った避難訓練が在り、私どもも参加したのですが、防災放送は英、伊、仏、西、独の五カ国語だけで行われました。相当数の日本人が居ても日本語による説明は在りませんでした。ただ、何人(なにびと)も少なくとも一回訓練に応じる義務がある由、加わって一度でも、その旨を記録しておかないと、通知が繰り返されて来るとのことです。

なお、他の放送や紹介、アピールでも、この五カ国語が同様に使用されていました。もっとも舞台での歌謡ショーについては、将に英語オンリーでした。ノン・クラシックの音楽世界は、国際的に見て英語に浸りきっているようです。

12

1)さて、このクルーズは日本発二日目に始まります。現地航程のうちベネツィアで船に乗り諸手続などをして、その後、出港、三日目にはアドリア海の中間地の南イタリアのバーリに入港し、同近郊の世界遺産アル・ベロ・ベッロ(18世紀の特異な建物群で有名)を訪ねました。その指定は、同地の観光化を一気に促し、大変化と相応の豊かさを地域にもたらしたようです。

2) 四日目には時差を一時間進めてギリシアのオリンピアに移動、同国に初の足跡を印しました。それは、古代ギリシアの誇るオリンピア遺跡でして、博物館ともどもたっぷり堪能したものです。ただ、この日は良い照りの下、気温三十度にも上がって、湿度七十%に達したため、やたらと蒸し暑く、大いに草臥れたことも確かです。実は西ギリシアでは懸かることも良くあるとの事です。それに辺りは疎林ながら、蝉の一種が頻りと鳴いていました。早いですね。日本はまだ梅雨、蝉はこれからの感があるはずです。

3) 所で同日夕刻、其処を離れ、五日目に跨がって、エーゲ海屈指のサントリーニ島の絶景と周辺の海を味わいました。紺碧の空と東地中海の濃い青の海原に、息を呑む様な思いをしました。それにカルデラ海の形状が実に良く見てとれました。そこでの。イカ・蛸などの地中海料理は最高でした。また、その島の白と青の建物群が快晴の好天に見事冴えていました。(ツアーの初期には夜に雷雨も降った様ですが、・・・)。因みに、ここでは蝉が鳴いていませんでした。エーゲ海はオリンピアより相当、南に位置し、湿気が少なく、大陸部と気象条件や生物相が異なると思われます。

4) 次いで六日目は、ピレウスに入港、アテネに向けて内陸へ入り、パルテノン神殿を始めとするアクロポリスの遺跡などを見学しました。創建された頃から数えて二千五百年余に及ぶ、その石造建築物は遺跡化したとはいえ、高い丘に立ち、まさに古代ギリシアの象徴となっていました。最も大きな破壊は、16世紀のベネツィア支配下の時代に起きた火薬庫の爆発事故に因るものの由、ために天井が吹き飛んだと言います。ゆえに、現場は色彩豊かだった古代の姿に復元工事中と言い、随分大きな重機が入いっていて、レールも敷かれていました。遺跡は夥しい観光客でいっぱい、通路は恐ろしく混んでいました。大理石でつるつるの岩道で、歩きにくい事この上なく、雨天ならこける人が続出したことでしょう。幸い快晴で何とか凌ぎましたが、一方で日差しと暑さには参りました。

それにしても、近代建築の中に古代の遺跡の点在する姿は、ローマ以上のコントラストの在る印象を与えますね。ただ、街中は日本と違い、電線類の地中化が進んでおり、程々に緑の多い町でして、鳩や雀が飛び交っていました。他方、燕は見かけず、彼等の渡る世界では無いようです。

ひとつ感心した事があります。アテネ市街の土産物店で、塑像型の小型偉人像を売っていたので、幾つか名前を判読しようと試みたところ、ギリシア文字による「アレクサンドロス大王」が一応読めました。でも、ある一体のアテナイの有力人物が分からずにいたところ、店主とおぼしき人物が「それはペリクレス」と読み下したのには驚きました。斯くて、「土産店の主人ともなれば教養がある」との印象を持ったものです。それに祖国愛に満ちているのでしょう。因みに仄聞するところによれば、今日でもソクラテスやアリストテレスと同名の人は、あちこちに居る由です。
5) 七日目は、ギリシア北西の、これまた世界遺産のコルフ島へ上陸しました。かような各地・各遺産の見学は、いろんなツアーから大型バスへの混乗となるのです。将にそれは混成でして、その度に違う、各国人が顔合わせる所となり、英語コースの現地ガイドの解説を交えて、同語により、ともどもの会話も弾んだものです。観光でも得るところが在りました。

ところで、この地が世界遺産となった理由は、大勢の観光客が訪れる、ハプスブルク家のエリザベート皇后の元アヒリオン(ヘラクレスの意)宮殿があったからとの話を当初聞いていました。だが実はそうではなく、15世紀から16世紀にかけての時代に出来た、同地がベネツィア共和国の支配下にあった頃以降の、中世型の街並みが未だに残り、人々が其処で今なお生業を営んでいる事が本当の理由との事です。その地は、アドリア海を望む、バルカン半島の要害の地で、かつて英軍が駐屯した、今日のアルバニア国境沿いの地域でもあります。此処でも蝉が気忙しくリズムを刻んでいました。

6) さて八日目には、遂にギリシアを離れ、アドリア海を北へ戻り、モンテネグロ(旧ユーゴスラビア中の一国)の「コトル」に参る旅となりました。因みに、モンテは山、ネグロは黒です。この人口僅か七十万程の国は、正教徒が最も多く、次いでカソリック教徒、そしてイスラム教徒も居ると言う所です。現地ガイドの説明に因れば、分散居住しつつ或る程度混淆もしている感じでした。戦後結成された「ユーゴスラビア」は英雄チトーが居たからこそ成り立った連邦国家の由、その死後間もなく瓦解、今はモンテネグロ始め七ヶ国に分かれています。やはり、存続には無理があったのでしょう。

「コトル」はこの国で世界遺産となっている街です。しかも、ヨーロッパ最南端のフィヨルドが入江として入っていて、その湾内にクルーズの巨船が出入りし、コトルに停泊するのです。特異な自然と歴史が生んだ奇観ですね。また、この国は巨人の国で、例えば我らが英語のガイドは身の丈、実に195cmありました。そういう人がざらに居るようです。
7)  クルーズ最後の九日目は、アドリア海の北端ベニツィアに戻り、久々に船ではなく、町中に投宿しました。そして旧市街の現地ガイドを受けましたが、シンシアという金髪のイタリア人ながら達者な日本語を使いました。全般の世話になった大須さんという日本側添乗員に因れば、その人はベネツィアの東洋学院の日本語学科の卒業生の由、矢張り需要は供給を生むのですね。

同地では或る程度の時間が取れましたので、サン・マルコ寺院近くのホテルで、生まれて初めてゴンドラに乗りました。見たことはあっても乗ったのは初めて、家内のたっての希望でもありました。 ゴンドラの色は黒、結構滑らかに走り、往き交った逍遥の旅は約半時間となりました。水質は程々で臭うこと無く、魚影も見えました。前夜雨も降るなど、運が良かったのでしょう。本当に良き想い出ができました。それに、乗船せる舟の櫓漕ぎが或る程度の日本語を話すのには驚きました。日本人の客が多いと見えます。

なお、ベネツィアでは、「かねてから計画施行されていたアドリア海高潮対策のモーゼ・プラン」が数年前に竣功した由、効果が挙がることが期待されている」との情報に接しました。相応の消息に通じた人と、遣り取りが出来たからです。これは大変意義深かったと思います。「事業は一応出来たが、管理・運用に要する費用などが使い込まれたりして、このままでは不調で終わりそう。」と言う話も伝わっていただけに、斯く進展して来た事は評価出来るでしょう。

こうして、十一日ぶりに日本に,無事帰ってきました。そこは依然として梅雨、地中海とは対照的な緑濃き光景が広がっていました。


この記事のコメント

  1. 秋口守國 より:

    久しぶりに、仲津さんの軽妙な紀行記を読ませてもらいました。
    歴史と地理、そして人類学のバランスが良く、この地について私も少しお利口さんになったようです。次の紀行文を楽しみにしています。

  2. 浅野 宏 より:

    初めて、読ませていただきました。断片的になっていた歴史が整理されてつながりました。また、自分が訪問しているような気持になりました。

  3. 六波羅 昭 より:

    いつも仲津さんの文章力には感服しておりますが、今回、きわめて簡明なギリシャ史を読んでよい勉強になりました。たのしい旅でしたね。

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