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映画『あちらにいる鬼』を観る

2022.10.30 Sun

井上荒野の同名の小説『あちらにいる鬼』を廣木隆一監督が映画化したのが本作品です。映画のポスター(冒頭の写真)を見ると、宣伝文句に「瀬戸内寂聴、井上光晴、そしてその妻—。実在した人物をモデルに、男女3人の特別な関係を井上夫妻の長女である作家・井上荒野が綴った傑作小説、待望の映画化」とありました。

 

井上光晴と瀬戸内寂聴がそんな関係にあったのかと、私は驚きましたが、「待望の映画化」とありますから、小説が発表されたときには、すでに話題になっていたのでしょう。日本記者クラブで行われた試写のあと、朝日文庫の収められたこの小説も読みました。村上春樹の短編小説をもとに再構成した『ドライブ・マイ・カー』などとは違って、ほぼ忠実に小説が映像化されていました。

 

小説家の長内みはる(寺島しのぶ)は、講演旅行で知り合った小説家、白木篤郎(豊川悦司)からの誘いで男女の関係になります。白木の妻、笙子(広末涼子)は、ふたりの関係に気づきながらも、子どもを育てる一方、白木の原稿を清書するなど仕事でも彼を支えます。篤郎とみはるの男女の関係は、みはるの出家によって7年間で終わりますが、その後も「友人」としてのふたりの関係は白木が死ぬまで続きます。

 

みはると篤郎、笙子が織りなす緊張関係が映画の本筋なのですが、篤郎は、みはるだけではなく、次々といろいろな女性に手を付けるので、それが支流のエピソードになって、三人の関係に微妙な影を投げています。白木が講師をする文学教室に通う女性が旅行用ケースを手に白木家に押し掛けてきて、篤郎が動揺する場面には、思わず笑ってしまいました。

 

放蕩三昧の篤郎との道ならぬ恋にのめり込むみはる、篤郎の数々の嘘(うそ)を飲み込みながら凛として振る舞う笙子、そして、どの女性に対しても優しく誠実であろうとする「女たらし」の篤郎。それぞれ役を芸達者な俳優が巧みに演じているのが、映画をドタバタ喜劇から複雑な人間心理を描いた文芸作品に昇華しています。なかでも、体をさらすことも剃髪もいとわない寺島しのぶの俳優魂には圧倒されました。

 

ところで、瀬戸内の作品は「美は乱調にあり」(1966)を読んだ記憶があるくらいで、私にとっては縁のない作家でしたが、井上の作品は、いくつも読んだ記憶があります。「反権力」に魅かれた私たちの世代にとっては、井上や高橋和巳、倉橋由美子などの作品は学生時代の必読書だったように思います。井上については、ストイックな求道者のようなイメージを持っていましたから、好色家だったことに驚きましたが、作家の道楽というよりも求道のひとつだったのかもしれません。

 

映画を観ながら、たしか、大江健三郎・江藤淳編集の「われらの文学」(講談社)シリーズの井上光晴の巻は、「アメノショポショポ」という春歌(注)が井上の揮毫として書かれていたと思いました。帰宅後に書棚からほこりだらけの『われらの文学 20 井上光晴』(講談社)を取り出したら、巻頭の井上の顔写真の裏ページに、まさしく、その歌詞が書かれていました(下の写真)。

わざわざ確認したくなったのは、映画のなかで、篤郎とみはるが「日本春歌考」(大島渚監督、1967年)という映画を観たあとで、ふたりが「アメガショポソポフルパンニ」と歌いながら歩く場面があったからです。原作には、ふたりが映画を観る場面はなく、篤郎が封切られたばかりの映画のチラシをみはるに見せる、という記述があるだけで、映画の具体名は出てきません。原作には、時代を現す出来事や風景があまり書かれていないので、井上光晴の思い入れのある歌として映画化の際に加えられたのでしょう。

 

「あちらにいる鬼」というのは、どういう意味なのでしょうか。小説は文芸誌に2016年から連載され、2019年に刊行されました。瀬戸内寂聴が亡くなったのは2021年で、小説の結末でも、篤郎と笙子は、あちらに行って、僧籍に入り寂光となったみはるは存命していますから、「あちらにいる鬼」というタイトルの「あちら」をあの世と考えると、「鬼」は篤郎and/or笙子なのでしょうか、あるいは、もうじき鬼籍に入るであろうみはるも含んでいるのかもしれません。鬼は恐ろしい怪物ですが、ひとはみな人間という面をかぶった鬼と考えれば、人間という制約のなくなったあちらの鬼たちはのびのびと楽しく暮らしているかもしれません。いま、篤郎、笙子、みはるの三人は鬼ごっこを楽しんでいる、そう思わせる映画でした。

 

注:「アメノショポショポ」という春歌(猥雑な歌)は、1932年に発売された「討匪行」という軍歌を朝鮮人の娼婦の歌のように歌詞を替えたもので、「満州小唄」と呼ばれていたそうです。映画『日本春歌考』では、女子高校生役の吉田日出子が米国のフォークソングに興じる若者へのアンチテーゼとして、これを歌いました。宴席で男が唄えば、朝鮮民族、娼婦、女性を蔑視する春歌ですが、女性が歌うと、そうしたものへの抗議を込めた恨歌にもなります。映画で吉田日出子が歌う歌詞は、次のようでした。

あめのしょぽしょぽふるぱん(晩)に
からす(ガラス)のまとからのそいてる
まてつ(満鉄)のきぽたん(金ボタン)のぱかやろう

さわるはこちせん(五十戦)みるはたた(只)
さんえんこちせんくれたなら
かしわのなくまてつきあうわ

あかるのかえるのとうしゅるの
はやくせいしんちめなしゃい
ちめたらけた(下駄)もてあかんなしゃい

おきゃくしゃんこのころかみたかい
ちょうぱ(帳場)のてまえもあるてしょう
こちせんしゅうき(祝儀)をはちみなしゃい

そしたらわたしはたいてねて
ふたちもみっちおまけして
かしわのなくまてぽぽしゅるわ

 

(映画は11月11日から、ハピネットファントム・スタジオの配給で、全国ロードショーされます。冒頭のポスター:©2022「あちらにいる鬼」製作委員会)


この記事のコメント

  1. 中北 宏八 より:

    映画、見たくなりますね。

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