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カザフで生き抜いた日本人抑留者の映画~『阿彦哲郎物語』『ちっちゃいサムライ』

2023.12.19 Tue

終戦後、サハリン(樺太)に取り残されたふたりの少年の数奇な物語がそれぞれ映画化され、12月22日から、UPLINK吉祥寺で同時に公開されます。『阿彦哲郎物語 戦争の囚われ人』と『ちっちゃいサムライ 三浦正雄の少年時代』です。阿彦哲郎さんも三浦正雄さんも終戦後まもない時期に、サハリンでソ連当局に逮捕されたのち、カザフスタンに送られ、人生の大半をそこで過ごしました。

 

「民間人抑留者」と一括りにされるこうした人々の人生は、あまり知られていません。戦争の捕虜ではなかったために、政府もメディアも国民も、注目してこなかったからでしょう。しかし、このふたつの映画を見れば、「サハリン棄民」として私たちが語り継いでいかなければならない「戦争の記憶」であることがわかります。

 

◆阿彦哲郎さんの物語

 

『阿彦哲郎物語』の主人公、阿彦哲郎さんは1930年に樺太で生まれました。1945年にソ連軍の侵攻で抑留状態となり造船所で働いていたところ、1948年にいわれのないスパイ罪で逮捕され、10年の懲役刑になります。18歳のときです。

 

ウラジオストクやハバロスクなどの収容所を転々としたのち1950年に、カザフスタンのジェズカズガンの収容所に送られます。そこの銅鉱山で過酷な労働を強いられ、「骨と皮だけ」の状態になり、カラガンダのスパスク療養収容所に移されます。そこで回復した阿彦さんは、スターリン(1922~1953)の死去に伴う恩赦で1954年に、釈放されます。しかし、軍歴のある戦争捕虜ではなかったために帰還できる抑留者とは認められず、一般の政治犯と同じように、カラガンダのアクタス村に流刑となり、KGBの監視下に置かれたままになります。

 

カザフスタン文化省が企画・制作したこの映画が主に描いているのは、流刑されるまでの阿彦さんの半生です。ジェズカズガン収容所の監督官や看守たちが過大なノルマを課したり、理不尽な虐待をしたりする様子が執拗に描かれています。カザフスタンはソ連邦の崩壊で1991年に共和国として独立しますから、ソ連時代の圧政を強調する意図もあるのでしょう。映画のなかで、収容所で阿彦さんを守ったり、支えたりする同房の囚人は、ロシア人ではなくカザフスタン人の政治犯です。(下の写真は『阿彦哲郎物語』の収容所の場面

©︎МИНИСТЕРСТВО КУЛЬТУРЫ И СПОРТА РЕСПУБЛИКИ КАЗАХСТАН)

映画で阿彦さんを演じたのは、小笠原瑛作さん(28歳)という現役のキックボクサーです。格闘家らしい鋭い眼光で、過酷な状況に耐えながら、生き抜いて日本に帰るという強い意志をリングではなくスクリーンで表現しています。映画の制作時に存命だった阿彦さんには、カザフスタンで会ったそうで、日本記者クラブの試写会後の記者会見では、「日本から来た私に、寒くないですかと気遣ってくれる優しい人でした」と、語っていました。(下の写真は日本記者クラブで12月4日に行われた試写会のあと記者会見する小笠原瑛作さん、筆者写す

映画のなかで面白いなと思ったのは、「ノルマ」という言葉が頻繁にでてくることでした。阿彦さんたちが銅鉱の生産量をあげて、ノルマを果たそうとすると、監督官はさらに厳しいノルマを課してくるのです。ノルマという言葉を調べたら、ソ連時代の労働者の「標準作業量」を示すロシア語でした。それが自民党の資金パーティーでも使われる日本語になったのは、戦後、シベリア抑留から帰国した人たちが日本の職場でも使うようになったからだそうです。労働者の「標準作業量」が労働者への過酷な目標になるのは、どこの国でもあることなのですね。

 

阿彦さんはアクタス村で職を得て1956年に結婚、ふたりの子ども生まれますが、1983年に妻を労災で失くします。KGBの監視下になるため、日本への連絡はかなわず、カザフスタンの独立で1993年にカザフスタンに日本大使館が設置されたことで、やっと大使館と連絡をとることができました。

 

その結果、1994年に一時国を果たし、「戦時死亡」となっていた戸籍を復活、2012年には1986年に再婚した妻と日本に永住帰国します。しかし、妻が日本での生活になじめなかったため、2014年にカザフスタンに戻り、2020年に現地で家族に見守られ、89歳で亡くなります。まさに戦争に翻弄され波乱に満ちた人生でした。

 

◆三浦正雄さんの物語

 

『ちっちゃいサムライ』の主人公、三浦正雄さんは1932年に樺太で生まれ、1945年のソ連軍の侵攻で、父たちと別れて北海道に避難します。しかし、家族に会うため1946年に樺太に小舟で密航したところで、国境警備隊に逮捕され、1年半の刑を受けます。13歳のときです。

 

刑期を終えて出獄したものの、「矯正労働」という名の強制労働で、カザフスタンのアルマ・アタ(現アルマトイ)にあるコルホーズ(集団農場)に送られます。3年間の約束でしたが、その後も帰国は許されず、漁師の助手として覚えた漁業や狩猟で、生活をすることになり、1965年には結婚します。カザフスタンの独立で日本大使館と連絡が取れ、1995年に一時帰国したのち、2002年に夫人のニーナさんの心臓手術のため日本に永住帰国しました。札幌で2022年に亡くなります。90歳でした。

 

映画は、コルホーズに送られ、漁師の助手として漁業を覚える少年時代の三浦さんが描かれています。70年前の時代であることを象徴するように画面はモノクロです。コルホーズの風景や農村に回ってくる旅芸人の姿はノスタルジックに、三浦さんの生活基盤となるイリ川からバルハシ湖の風景は美しく、それぞれ映されています。

 

映画で三浦さん役を好演している佐野史将さんは現在、中学生ですが、三浦さんが亡くなる前に三浦さんと会っているそうです。撮影では、「三浦さんならどう行動するかを常に自分自身で考え、それに従った」と、映画の資料(フライヤー)には書かれています。

 

映画の最後には、2022年10月に撮影された札幌に住むニーナ夫人が正雄さんとの思い出を語るシーンがカラーで流れます。正雄さんとの56年間を振り返り、「貧しい時も豊かな時もあったけれど、満ち足りた生活でした」という言葉が印象に残りました。ニーナさんは2023年10月に亡くなります。1948年生まれと資料にはありますから、75歳だったでしょうか。

 

◆監督は、在カザフスタン大使館員だった

 

このふたつ映画を監督した佐野伸寿氏は、1994年から97年まで所属する自衛隊からカザフスタン大使館に書記官として赴任していました。そのときに、阿彦さんや三浦さんと出会い、ふたりの一時帰国を支援します。当時、カザフスタンには阿彦さんや三浦さんを含め「未帰還邦人」の6家族がいたそうで、大使館員だった佐野さんは、この人たちの帰国に尽力します。(下の写真は日本記者クラブでの試写会後に会見する佐野伸寿監督、筆者撮影)

日本側では、1989年に「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」(小川瑛一会長)ができ、1992年には「日本サハリン同胞交流協会」に改組され、日本側での受け入れ体制を整えました。この会は、2013年には「日本サハリン協会」(斎藤弘美会長)になっています。

 

大使館員だった佐野さんがこのふたつの映画を監督したというのは、驚きでした。佐野さんは子役としてテレビや映画に出演した経験があり、映画づくりにも興味があったのでしょう。大使館勤務の傍ら、1996年に制作した映画『ラストホリデー』が東京国際映画祭で評価され、その後も映画の製作を続けている人でした。

 

『阿彦哲郎物語』は、2022年がカザフスタンと日本との国交樹立から30年に当たることで、カザフスタン政府が阿彦さんの物語の映画化を企画し、佐野さんに協力を依頼しました。『ちっちゃいサムライ』は、阿彦さんや三浦さんの物語が「歴史の闇に忘れ去られてはいけない」という思いで、佐野さんがプロデュースして、日本・カザフスタン・キルギスの合作として完成させました。

 

◆NHKアーカイブス

 

「民間人抑留者」の問題をメディアは真剣に取り上げてこなかったと書きました。しかし、NHKアーカイブスの「戦争証言」のなかには、阿彦さんと三浦さんの証言も録画映像として残っていました。2014年7月と8月にNHKが前編後編に分けて放送した「女たちのシベリア抑留」(BS1スペシャル)のため、同年6月に阿彦さんと三浦さんをインタビューしたものです。この放送番組は好評だったようで、プロデューサーの小柳ちひろさんがノンフィクションとして著した『女たちのシベリア抑留』(文芸春秋)は書籍になりました。小柳さんの綿密な取材と、記録としてアーカイブスに残したNHKに敬意を表したいと思います。

 

NHKのインタビューには、阿彦さんや三浦さんと同じようにカザフスタンに取り残された伊藤實さんも同席していました。この人の永住帰国にも、大使館員だった佐野さんや日本サハリン同胞交流協会が支援しています。(下の写真は、NHKアカイーブスの残る伊藤實さん(左)、阿彦哲郎さん(中)、三浦正雄さん(右)の映像をキャプチャーしたもの)

伊藤さんは1927年に山形県で生まれ、2歳の時に樺太に家族が移住、1942年に樺太鉄道に就職、3年後、機関士になったところで終戦となり、そのままソ連の占領下で、機関士の仕事を続けます。ところが1946年に運転中に居眠りしたことを咎められ、2年半の判決でシベリアに送られ、出獄後はカザフスタンに移住させられます。日本への帰国がかなわないなかで1952年に結婚して家族をつくります。

 

東西の冷戦が終わりかけた1989年に、モスクワ大使館に家族の消息を訪ねる手紙を出したことで、日本とのつながりができ1990年に一時帰国し、「戦時死亡」を取り消します。その後、住んでいたウズナガチの経済状況が悪くなり、1997年に永住帰国します。このとき、ドイツ系だった妻は子どもたちとドイツに移住したので、伊藤さんは単身での帰国となりました。伊藤さんは2019年に仙台で亡くなります。92歳だったでしょうか。

 

◆サハリン棄民

 

厚生労働省によると、1945年当時、樺太に居住していた邦人は約38万人で、ソ連の参戦を受けて、内地への緊急疎開を開始、ソ連軍によって中断されるまで約7万6000人が樺太から脱出、1946年から49年までは、米ソ協定によって集団引き揚げが実施されました。この段階で、なおサハリンに残っていた邦人は千数百人と推定され、1957年から59年にかけては、第2次の集団引き揚げが行われました。

 

サハリンに残された日本人の多くは「引き揚げ」ができたのに、炭坑の労働者などとして朝鮮半島から徴用された朝鮮半島の出身者の帰国は困難が伴いました。韓国籍の人たちは、ソ連と韓国との国交がなかったため、国交が樹立された1990年まで帰国を許されなかったからです。日本からも韓国からも見放されたこうした人々を「サハリン棄民」と名付けて、日本の戦争責任として取り組み、帰国を助けたのは東京大学教授だった大沼保昭さん(1946~2018)でした。(大沼保昭さんの著書『サハリン棄民 戦後責任の点景』)

阿彦さんたちも日本政府から見放されたという意味では、まさに「サハリン棄民」ということになります。それを象徴する場面が映画で描かれています。『阿彦哲郎物語』では、収容所に収容されていた元日本兵が帰国するときに、阿彦さんが日本兵としての記録がないという理由で取り残されるシーン。『ちっちゃい日本兵』では、カザフスタンから帰国する元日本兵を乗せた列車を三浦さんが遠くから敬礼して見送るシーンです。

 

日本サハリン同胞交流協会の小川瑛一さんの著書『置き去りにめげずカザフスタンで生き抜いた同胞たち』(2010)によると、阿彦さんは、恩赦で釈放されたあと働いていたセメント工場にいたときに、同じ工場で働いていた元日本兵たちが1956年に帰国する際、阿彦さんだけが兵士としての記録がないという理由で取り残されました。また、三浦さんもやはり1956年に、日本人の抑留兵士を帰国させる列車に同乗しようとしたときに、日本の兵士ではないという理由で日本兵から乗車を拒否されました。

 

◆政府の取り組み

 

政府は1953年に「未帰還者留守家族等援護法」を制定し、戦争中に行方不明になったり、戦後抑留されたりした軍人、軍属、民間人らの留守家族に留守家族手当の支給をはじめます。自己意志で残留した人の留守家族には支給されず、施行9年後からは、「過去7年以内に生存していたと認めるに足る資料がない」人の留守家族への支給は打ち切られます。

 

1959年には「未帰還者に関する特別措置法」が施行され、民法30条の失踪宣告の規定に沿って、不在者の生死が7年間明らかでない場合は、「戦時死亡宣告」が出されるようになり、宣告された人については、弔慰金が支払われました。民法の失踪宣言を請求できるのは「利害関係人」だけですが、未帰還者については、留守家族だけでなく、政府(厚生大臣)も請求できる規定が入りました。宣告で死亡となった人は約2万にのぼります。

 

未帰還者留守家族等援護法は、「国は、未帰還者の状況について調査するとともに、その帰還の促進に努めなければならない」と明記されているのですが、カザフスタンに残留した阿彦さんや三浦さんらに限らず、十分な調査が行われたとはいえなかったようです。ソ連のような相手国から情報が得られなかったうえ、生存していても連絡がない人は、現地で結婚して家族を持つなど自己の意志で残った「自己意志残留者」に違いない、という判断が働いのでしょう。

 

◆身捨つるほどの祖国ありや

 

阿彦さんも三浦さんも、懸命に働く様子が映画に描かれています。地元の人たちから三浦さんが「サムライ」と呼ばれ尊敬されたのは、忍耐強く勤勉で、それがサムライというイメージと重なったからでしょう。

 

阿彦さん、三浦さん、それに伊藤さんも、カザフスタンの全く別の場所に暮らしていたのに共通しているのは、三人ともドイツ系の女性と結婚していることです。勤勉を貴ぶドイツと日本の気質が共感し合ったのかもしれません。

 

日本人の勤勉さは、どこの小学校にも薪を背負いながら本を読む少年時代の二宮尊徳像があったように、勤勉を徳(人間の価値)の高順位に置く日本の学校及び家庭教育のなかで、阿彦さんらも育ったからでしょう。樺太に移住した人々はどんな職業でも開拓精神にあふれていたでしょうから、そうした家庭で育ったことも影響していると思います。さらに考えれば、流刑の民のなかで、日本人としての矜持があったのかもしれません。

 

異国の地で、日本から見放されながらもカザフスタンで生きてきた阿彦さんらは、肉親の消息を求め、日本との接触の道をさぐります。小川さん前掲書によると、伊藤さんはあるとき、日本人の音楽家(ダークダックス)が当時の首都だったアルマアタに来るというので、ひそかに幼い子どもたちを連れて出かけたそうです。そのときの様子を次のように書いています。

 

何十年かぶりで目にする同胞の姿に、彼は「ここに忘れられた日本人が生きています」と、今にも叫びそうになったという。だが警備している警察官の姿を見て、自分は日本人と話をする前に警察官に捕まるかもしれない。いやいや、もしかしたら日本に帰るきっかけができるかもしれない。しかし連れていくことができない子供たちはひどい目に遭わされるだろうと思い、迷い、自らの叫び声を必死にこらえていたのであった。

 

NHKアーカイブに残された阿彦さん、三浦さん、伊藤さんの映像を見ると、3人とも過酷な半生を過ごしたとは思えない穏やかな表情をしています。祖国で暮らしているという安心感が背景にあるのかもしれません。戦後の日本でぬくぬくと育った身としては、なにか救われたような気持ちになります。

 

ふたつの映画の中では、阿彦さんや三浦さんが家族を思い出す場面が何度も出てきます。家族への思いは、望郷の念とともに祖国への身を焦がれるような思いにつながっているのでしょう。家族から離れて約50年後、帰国が実現した彼らの目に祖国の風景はどう映ったのでしょうか。戦争を遠い過去のものにして平和に暮らす私たち姿と、自分たちの過酷な人生との落差をどう感じたのでしょうか。

 

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国ありや

 

寺山修司の短歌が浮かんできました。


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