戊辰戦争を再考する
「死にたいくらいに憧れた東京のバカヤローが」と、長渕剛は「とんぼ」で歌いました。しかし、東北には、鹿児島出身の長渕のように、あけっぴろげに東京を憧憬し、そして罵倒できない思いがあるように思います。その根源を大和朝以来の「官」軍と戦った蝦夷まで遡れるかもしれませんが、なんといっても今の東北の立ち位置を決定づけたのは、戊辰戦争でしょう。
いま戊辰戦争を語るとき、「旧幕府軍と新政府軍が戦った」と言います。しかし、その政府軍に攻め滅ぼされた会津藩や長岡藩にしても、屈服した仙台藩にしても、大政奉還した徳川幕府に従って新政府に恭順の意を表したり、中立だったりしていたのに、無理難題の言いがかりをつけられて、「賊軍」に仕立て上げられた、という怨念がいまも残っていると思います。それは、奥羽越列藩同盟に加わったすべての地域に共通する思いではないでしょうか。
- 負け組のわだかまり
宮城県石巻市在住の歴史家、阿部和夫さんの近著『戊辰戦争と仙台藩~その時、石巻では~』(三陸河北新報社、以下『石巻』)を読むと、「負け戦」を味わった地域の「勝ち組」に対するわだかまりが浮かび上がってきます。
慶応3年(1867年)10月の大政奉還(西暦では1867年11月)、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いを経て、奥羽鎮撫総督の九条通孝が松島湾の東名浜(現東松島市)に上陸したのは同年3月でした。彼らが最初に取った行動は、東名浜に停泊していた商船に積んでいた砂糖や陶器などの積み荷の強奪でした。指揮したのは下参謀の大山格之助(綱良、薩摩藩、1825~1877)で、商品を売って軍資金にしました。大山はその後、鹿児島県令となり、明治10年(1877年)の西南戦争で西郷隆盛に味方をした罪で斬首されます。
仙台藩に乗り込んで、もうひとり悪名を残した人物がいます。大山と同じ下参謀の世良修蔵(長州藩、1835~1868)です。世良は、会津討伐の命に従うよう仙台藩に圧力をかけるときに、藩主や重臣を人前でも愚弄したと言われています。世良は、慶応4年閏4月、福島城下で仙台藩士らに斬殺され、奥羽越列藩同盟が新政府軍と戦うきっかけになりました。
新政府軍の上層部がこんな態度ですから、薩長兵の狼藉ぶりは目に余るもので、『石巻』には、「街では商人を脅し、山野では婦女を強姦」とあります。仙台藩が最終的に新政府軍に降伏したのは、明治と名前を変えた明治元年(1868年)9月、このとき新政府軍に従わなかった仙台藩士も多くいました。そのなかには、星恂太郎(1840~1876)率いる額兵隊にように、石巻に係留中だった榎本武揚(1836~1908)の艦隊に合流し、函館に渡った侍もいましたが、石巻に残ったり、残されたりした侍たちは敗残兵となり、石巻では150人くらいの侍が処刑され、見せしめとしてさらし首にされました。
阿部さんは、『石巻』のなかで、こうした新政府軍の蛮行を描く一方で、仙台藩の降伏に納得せず抵抗した藩士らの横暴ぶりも記述しています。彼らは藩主の命令に背いたとして「脱走」とされたうえ、新政府軍からは追われる身ですから、自暴自棄となり、石巻周辺の各地で「再起のための軍資金集めという名目で強盗まがいの行動にでました」とあります。戦乱に巻き込まれて、ひどい目に遭うのは、庶民だったのです。
『石巻』は、地元紙の「石巻かほく」に連載したものを本にまとめたもので、エピソード中心に戊辰戦争が描かれているので読みやすく、私のように石巻に暮らしたことのある人間にとっては、なつかしい地名が出て来るので、面白く読むことができました。阿部さんは、この物語を執筆した動機を次のように書いています。
戦いの歴史は、勝者の立場で書かれたものが残り、それが真実であるかのように伝わりがちです。戊辰戦争でも、その事を強く感じます。そこで、私は、敗者の側に立って、侍だけでなく、石巻地域の庶民にも目を向けて執筆してみました。
戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わり、明治政府が出発したことで、近代日本の発展がはじまります。だから、戊辰戦争を敗者の立場から見ることは、明治以降の近代日本を否定することにつながるようにも思えます。しかし、勝者となった薩長土肥の人たちが政治でも、軍隊でも、閥を作り、上層階級をなしたことは、近代日本の負の部分にもなっています。「勝てば官軍」という言葉が根づき、今も使われるのは、官軍の横暴ぶりが実際に多かったからでしょう。
- 細谷十太夫と開拓精神
「負け組」のわだかまり、ということに関連して、仙台藩の細谷十兵衛(1840~1907)と坂英力(1833~1869)にまつわる話をしたいと思います。
細谷は、戊辰戦争では、「衝撃隊」(通称からす組)を率いて、ゲリラ戦で新政府軍を悩ませ、勇名をはせました。仙台藩の降伏後は、離反した星恂太郎を追って、小野(現東松島市)で会談し、帰順を促す細谷に、星が拒んだ逸話が『石巻』に出てきます。星は箱館戦争で戦死、細谷も、星らの榎本艦隊への合流に便宜をはかったとして、新政府軍に逮捕され、殺されかけますが、死を免れ、明治に入ってからは、石巻の大街道開拓に尽くしたと、『石巻』に書かれています。
戊辰戦争を研究する仙台在住の歴史家、木村紀夫さんの『仙台藩の戊辰戦争 先人たちの戦いと維新の人物録』によると、細谷は戦後、開拓使として北海道に渡ったのち、西南戦争が始まると陸軍少尉として参戦、その後、警視庁小隊長となります。故郷に戻ると、石巻の大街道開拓に取りかかり、それが成功すると、再び北海道に入植、日清戦争が始まると従軍、最後は仙台の住職となり、戊辰戦争で戦死した招聘の霊を弔った、とあります。
波乱万丈の生涯ですが、陸軍や警視庁にとどまれなかったのは、「賊軍」の過去があったからではないでしょうか。また、北海道や石巻の開拓も、新天地を求めるという意味では、この過去が関係しているように思います。細谷は、明治20年(1887年)、元仙台藩士の横尾東作(1839~1903)が灯台巡視船の明治丸を政府から借り受けて行った南方探検に同行しています。このとき小笠原諸島の南端にある火山3島を硫黄島と名付けたことが、日本の領土となるのに役立ちました。横尾は南方進出論を主張した人物ですが、細谷にも南方開拓の夢があったのかもしれません。
というのも、細谷の長男、細谷十太郎が明治から昭和にかけてニューギニアに渡り、綿の栽培などの事業を興したからです。細谷の三男で、小杉家に養子になった小杉辰三は、海軍兵学校から海軍に入り、呉工廠の製鋼事業に携わったのち、民間の製鋼所(小林製鋼所)を立ち上げます。この計画は失敗し、鈴木商店が資本参加して神戸製鋼所となり、小杉は初代技師長として、引き続き製鋼業にかかわります。細谷の子どもたちの起業家精神は、十太夫の戦術家や冒険家の血を受け継いだのかもしれません。
- 坂英力の系譜
坂英力は、仙台藩の剣術師範で、戊辰戦争では仙台藩軍事奉行として、東北では最大の激戦となった白河城をめぐる戦いを指揮、戦後、その責任を問われ処刑されます。木村さんが『仙臺郷土研究』(2019年12月)に寄稿した「坂琢治・坂英毅著『奥羽戊辰事変ノ眞相ヲ闡明セル坂英力傳』を読んで」によると、坂家は家名を断絶され、遺児は医師か僧侶か処刑という達しがあり、次男の琢治(1860~1924)は医師の道を選び、軍医となって日清戦争などに従軍しました。在職中にも「謀反人の子」とののしられたこともあり、軍医を辞して仙台市で開業するとともに、戊辰戦争の研究に没頭します。
しかし、本として刊行する途上で病にたおれ、長男の英毅(1896~1945)に後を託しました。陸軍幼年学校、士官学校から職業軍人になった英毅は、昭和10年(1935年)、親子2代の手による『坂英力傳』を脱稿したものの、昭和20年(1945年)、陸軍中佐、大隊長として出征したルソン島で戦死しました。
木村さんの論文は、刊行されないまま坂家に眠っていた2600ページの大著を木村さんが目を通した成果です。私も興味があったので、大著の結論の部分だけ木村さんからコピーを送っていただきました。この本がまとまったのは、満州事変(1931年)から太平洋戦争(1940~45)までの15年戦争の間ですから、軍人の英毅にとって、出版するゆとりがなかったのでしょう。
しかし、英毅の思いのたけが書かれた結論を読むと、当時の政治に対する激しい批判が書かれているので、このまま出版すれば、弾圧される危険もあったのだと思います。坂家では「門外不出」として保存してきた、というもわかるような気がします。ほんのさわりの部分を現代文に直してみると、つぎのようになります。
現代の世相を通観するに、議会政治の無能腐廃はそれ極に達し、あるいは大臣、次官、議員なるものが涜職をなし、あるいは財閥と結託して私利私欲を営み、あるいは国是国策を忘れて党利党略を主とするものあり。
これがため、政治家に対する国民の信頼薄らぎし上に、国民の経済力は変調となり、農山漁村は極度に疲弊し、国民思想は一つ聖の信念を失いて、あるいは天皇機関説と云い、あるいは外国思想を無批判に賞讃する学者あり。国内的にこの人心不安を清算し得ざるなかに、国外的には満州国の建設、軍縮問題など、わが日本の負うべき責任はますます重くなれり。この重大使命を貫徹するため、わが日本は根本的に改めて明治天皇の御意図を深く考慮し、その聖慮を実現するため一大改革を必要とするにあらざるか。
現代の内憂はすべて端を戊辰の役に発し、薩長野心家のため、ついに真の明治維新は今もって完成せず、これを完成するは昭和の日本人の責務なりと感ずるは著者のみにあらず。
議会政治が無能で、政治家や官僚が財閥と結託して私利私欲を貪り、国是国策を忘れていると嘆き、天皇の聖慮を実現するための一大改革が必要だとする心情は、英毅よりも少し若く、2.26事件(1936年)を起こした青年将校の心情と同じようなものだと思いますが、「現代の内憂はすべて戊辰の役に端を発し」という認識は、英毅というよりも、旧幕府軍の系譜に流れる思いかもしれません。
「情報屋台」の「戊辰戦争150年~白河・会津若松の旅~(中)」(2018年9月20日)で紹介したのですが、会津藩の藩校だった日新館を訪ねた折に、館長の宗像精氏は、薩長の「欺瞞」「歪曲」「隠匿」といった体質が太平洋戦争の敗北につながったと語っていました。外憂も戊辰戦争に端を発するということでしょうか。
悪いことはみな薩長のせいだというのは言い過ぎだと思いますが、東北からみれば、明治以降の日本の成功物語を薩長が独り占めにしてきたという思いもあります。日本の内閣制度は、1885年12月に伊藤博文が総理大臣に就いたときからはじまりますが、1945年8月の終戦時の鈴木貫太郎まで、首相になったのは29人で、このうち、山口県出身は5人、鹿児島県出身は3人で、いわゆる薩長閥が8人にもなります。政治家でも官僚でも軍人でも、薩長閥が歯ぶりを利かしていた時代に、虐げられてきた東北人にとって、戊辰戦争から第2次大戦の終戦に至る流れは、薩長による政治と帰結だと感ずるのは当然かもしれません。
戊辰戦争から現在に至る歴史をみる視点は、東北人にとってだけではなく、すべての日本人にとって、大事なことだと思います。
この記事のコメント
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時間を作ってもっと深読みをします
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薩長が私利私欲を貪りクニを危うくする,というのは,現下の政治状況からすれば,とてつもなく説得力をもって聞こえてしまいます.「虚言を言うな」「卑怯な振舞をするな」「弱い者をいじめるな」「ならぬことはならぬもの」という教えが新政府はじめ国民に根付いていれば,文書改竄や主権者への不誠実な態度など,起きたとしても国民は決して容認しなかったかも知れません.とはいえ,国民の「民度」を超える政府など望むべくもないですが.