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私ども、在昔は奥羽の土民なり(連載12)

2025.05.08 Thu

新春の都大路を駆け抜ける京都女子駅伝は、とてもユニークな駅伝大会だ。都道府県ごとにチームを組み、9区間42.195キロでたすきをつなぐのだが、社会人や大学生のトップランナーだけでなく、中学生や高校生が走る区間がいくつもある。

伸び盛りの選手に刺激を与え、その背中を押してあげたい、との思いが感じられる。2023年の大会では、岡山チームの中学3年生、ドルーリー朱瑛里(しぇり)が17人抜きの快走で区間新記録をマークし、「陸上界のニューヒロイン候補」と話題をさらった。

京都女子駅伝は西京極の陸上競技場からスタートし、西大路通を北上して衣笠校前でたすきをつなぐ。第2区のランナーは左手奥に金閣寺がある地点を過ぎると、右折して北大路通に入り、ほどなく千本通との交差点にさしかかる。この交差点の周辺が、かつて「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれた地域である。

「蓮台」とはハスの花をかたどった仏像の台座のことだ。極楽浄土に往生する者が身を託すもので、転じて葬送を意味する。平安の昔から、蓮台野は東の鳥辺野(とりべの)、西の化野(あだしの)とともに北の葬送地として知られていた。化野は庶民、鳥辺野は裕福な人たちが葬られたところ、そして蓮台野は皇族の葬送地であった。後冷泉天皇や近衛天皇の火葬塚が残っており、今も宮内庁書陵部の陵墓資料に記されている。

この地で蓮台野の人たちは代々、御所の庭園の手入れや清掃に加え、皇族の葬送の仕事を担ってきた。その西側に紙屋川が流れていることから、皮なめしを業とする人たちも暮らしていた。なめし作業には流れる水が欠かせないからだ。蓮台野村は同じ京都の天部(あまべ)村や六条村、大阪の渡辺村などとともに、畿内でよく知られた被差別部落の一つだった。

   ◇        ◇

長い間さげすまれ、虐げられてきた人々にとって、明治維新は「新しい夜明け」を感じさせる出来事であり、新政府に寄せる期待には並々ならぬものがあった。とりわけ、五箇条の誓文に盛り込まれた「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」という言葉に目を見張った。差別から抜け出す道が開かれた、と受けとめたのである。

明治3年(1870年)、蓮台野村の年寄(取りまとめ役)、元右衛門(がんえもん)は新政府にあてて、賤称の廃止を求める嘆願書を出した。京都の被差別部落の人たちの総意を踏まえた嘆願と見ていいだろう。嘆願書は次のような文章で始まる。

  乍恐奉歎願候口上書
  一昨辰年八月 元右衛門より供奉願書奉差上候節
  由緒有増奉申上候通り
  私共類村義 在昔は奥羽之土民に御座候 尤其辺総而被為称東夷
  王化に不奉復者も有之 遂に日本武尊 御征伐被為在之
  其御凱陣之砌 御連帰り扈従候處 伊勢神宮に被為留置
  夫より当時之帝 御鳳闕左右に被為近候事 日本書紀とも御座候

漢文調の難解な文章である。この調子で最後まで続く(末尾に全文を添付)。3年前の秋、東京の国立国会図書館を訪ね、この嘆願書が採録されている本を閲覧して複写したが、漢文の素養のない私のような者には到底、読みこなせなかった。その後、京都の蓮台野を訪ね、地元の歴史に詳しい方々に教えを請うた。並行して日本書紀や古事記、関連する文献に目を通して、ようやく内容を理解できるようになった。冒頭部分の現代語訳は次の通りである。

  恐れながら嘆願奉り候口上書
  一昨年の辰年(慶応四年)八月に元右衛門より行幸にお供させて
  いただきたいとの願書を差し上げました際、私どもの由緒につき
  ましてあらまし申し上げました通り、私どもの村々の者は、昔は
  奥羽の土民でありました。もっとも、その辺りでは総じて東夷と
  称され、天皇に従わない者もありましたが、日本武尊(やまと
  たけるのみこと)が征伐なされ、凱旋の際に連れて帰られ、
  これに付き従いましたところ、伊勢神宮に留め置かれました。
  その後、当時の帝が宮城の門の左右に配置なされた、と日本
  書紀に記されています。

衝撃的な内容だった。「私たちの先祖は古代の東北で蝦夷(えみし)と呼ばれた土民です。日本武尊に征伐され、西に連れてこられた者たちです」と記しているのだ。日本書紀の巻7「景行天皇 40年の条」には、確かに日本武尊が陸奥に遠征し、捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上した、と書いてある。

もちろん、研究者の多くが「日本書紀に記された初期の天皇についての事績は神話もしくは伝説であり、史実と受けとめるわけにはいかない」と解釈していることは承知している。では、何代目の天皇から実在したと考えるのか。これは難問のようで、①第10代の崇神天皇(約2000年前)以降、②第15代の応神天皇(3世紀)以降、③第26代の継体天皇(6世紀)以降、と見解が分かれ、いまだに決着がついていない。日本武尊についても、ほとんどの専門家は「何人かの事績を重ね合わせて創作した伝説上の人物」と見ている。

とはいえ、畿内の朝廷勢力が東北の蝦夷と「38年戦争」と呼ばれる長い戦争を繰り広げ、帰順した者や捕虜を多数、西に移送したことについては歴史家の間で異論がない(連載①参照)。自分たちのルーツについてしたためた嘆願書の冒頭部分は、日本武尊という固有名詞を除けば、史実を伝えている可能性がある。嘆願書の内容を以下、現代語訳で紹介していく。第2段落は次のように続く。

  応神天皇が国境を定められた時、播磨国神崎郡瓦村崗のあたりで
  川上から青菜が流れ下ってきたので、伊許自別命(いこじ
  わけのみこと)に調べさせたところ、(川上に住む者たちは)
  「日本武尊に帰順した者たちです」との報告がありました。
  天皇は日本武尊の功績を思われて、伊許自別命に佐伯の姓を
  下賜し、その地を治めるよう命じられた、と新撰姓氏録(しょう
  じろく)などにあります。
  その時から(私どもは)佐伯部になったということです。

「新撰姓氏録」とは平安時代の初期、嵯峨天皇の時代に編纂された古代の氏族名鑑である。畿内に住む1,182氏を皇別、神別、諸蕃に分類し、その祖先について叙述している。伊許自別命はその中に登場し、応神天皇に報告した内容についても詳しく書いてある。川上に住む者たちは「我らは日本武尊が東夷を平定した時に捕虜になった蝦夷の後裔です。針間(播磨)、阿芸(安芸)、阿波、讃岐、伊予などに散り散りに移され、今ここにいます」と答えたのだという。「佐伯部になった」とは、「佐伯の姓をたまわった伊許自別命の配下になった」ということだろう。

元右衛門の嘆願書の中で私がもっとも瞠目したのは、次の第3段落だ。安康天皇と次の雄略天皇の時代(5世紀)に皇位継承をめぐって血みどろの争いが繰り広げられた。嘆願書は、蓮台野の人たちの祖先がその争いに巻き込まれて「忠死した」と書いている。

  仁徳天皇の時代に天皇の憎しみを被り、五カ国に散り
  散りになりました。その後、安康天皇の時代に私たちの
  祖先は(市辺押磐)皇子の警護役である佐伯部仲子(なか
  ちこ)に仕え、近江国来田綿(くたわた)の蚊屋野(かや
  の)に付き従い、忠死した者もおります。仁賢天皇の時には、
  国郡に散らばった佐伯部を捜し求められたことも日本書紀に
  記されています。

この内容を読み解くために、私は日本書紀の関連部分を熟読した。「なんとすさまじい権力闘争であることか」と、うなってしまった。日本書紀に基づいて要約すれば、権力闘争は次のようなものだった。

安康天皇は大草香皇子の妹を大泊瀬皇子(おおはつせのみこ=のちの雄略天皇)に嫁がせようとし、大草香皇子はこれを承諾した。ところが、使いの者は大草香皇子が返礼として献上した宝物をわがものにしたうえで、「妹を差し出すことはできないと固辞した」とウソの報告をした。安康天皇は激怒し、大草香皇子を殺害してその妹を大泊瀬皇子に嫁がせた。しかも、寡婦となった大草香皇子の妻を宮中に入れて妃(きさき)にした。

妃には眉輪王(まよわのおおきみ)という連れ子(大草香皇子の実子)がいた。幼い眉輪王は自分の父親が罪なくして殺されたことを知り、酔って寝ている安康天皇を刺し殺してしまった。これを知った大泊瀬皇子は「自分の兄弟たちが背後にいるのではないか」と疑い、皇位継承でライバルになる可能性のある兄弟を眉輪王ともども次々に攻め殺した。

大泊瀬皇子はさらに、いとこで有力な後継候補だった市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を狩りに誘い出し、近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野という所で射殺してしまう。その際に、警護役を務めていた佐伯部仲子(なかちこ)と従者たちも皆殺しにした。嘆願書に「忠死」とあるのは、「殺された従者たちの中に私たちの祖先もいた」と言っているのである。

ライバルを一掃して、大泊瀬皇子は即位して雄略天皇になる。次いでその皇子が清寧天皇になるが、清寧天皇には子がなく、謀殺された市辺押磐皇子の息子が皇位を継いで顕宗(けんぞう)天皇となった。天皇は「雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい」と復讐に燃えるが、兄にいさめられて思いとどまる。その兄が次の仁賢天皇になり、各地に散らばって隠れていた佐伯部の人たちを捜し求めてねぎらった――壮絶な物語である。

嘆願書のこの段落には、もう一つ注目すべきことがある。蓮台野の祖先が「皇子の警護役に付き従い、忠死した」と記している点である。冒頭で書いたように、蓮台野の人たちは「御所の庭園の手入れや清掃」をしていたが、これは「平時の仕事」だろう。いったん事あれば、彼らは皇族を警護する舎人(とねり)の私兵として、武器を持って戦ったと考えるのが自然だ。「忠死」はそのことを意味しているのではないか。

朝廷勢力と長く戦い続けた古代東北の蝦夷は、戦闘力がきわめて高いことで知られた(連載③参照)。帰順した者や捕虜となった蝦夷の一部は、防人(さきもり)として大宰府や対馬などに配置されている。とするなら、畿内に移送された者の中にも、皇族や貴族の「私兵」として使われた者がいた、と考えるのが自然だ。蝦夷たちは権力を握る者たちにすがり、忠誠を誓って生き延びるしかなかったのだから。

   ◇        ◇

元右衛門の嘆願書は、自分たちのルーツについて叙述した後、祖先が御所でどのような役割を果たしてきたかを事細かく記している。そのうえで「今般の王政復古はありがたいことです」「私どもも神州の民となりました」「なにとぞ、穢多という名分をなくしてください」と結んでいる。

問題は、この嘆願書をどう見るかだ。史実を踏まえた信憑性の高い文書と考えるか。それとも、日本書紀や新撰姓氏録などの文献に造詣の深い者による「捏造文書」と捉えるのか。見方によって、この嘆願書の価値はまるで違ってくる。

戦前、戦後を通して、部落史の専門家の多くは「被差別部落は民衆を分断するため、近世になってから政治的に作られたもの」と唱え、この嘆願書の祖先に触れた部分に目を向けようとしなかった。嘆願書が史実に基づくものなら、彼らが唱えた「近世政治起源説」はたちまち瓦解してしまう。ゆえに、黙殺した。

部落の歴史や起源に関する本や資料をいくら読んでも元右衛門の嘆願書がなかなか出てこないのは当然のことで、この嘆願書にたどり着くまでずいぶん長くかかってしまった。

京都大学や立命館大学、大阪市立大学の教授たちが唱え、打ち固めていった近世政治起源説はその後、中世史や古代史の研究が進むにつれて揺らぎ、やがて破綻した。今では信じる者はほとんどいない(連載⑩参照)。被差別部落のルーツを古代東北の蝦夷と結びつけて考える説を「俗説」あるいは「妄説」として退けた彼らの説こそ「珍説」であり、検証に耐えられない代物だった。

これまでの学説に囚われず、曇りのない目でこの嘆願書を見つめ直せば、被差別部落のルーツについての新しい知見が得られるのではないか。次回以降、この嘆願書の持つ意味をさらに探っていきたい。

(長岡 昇:NPO「ブナの森」代表)

*初出 調査報道サイト「ハンター」 2025年5月8日
https://news-hunter.org/?p=26766

≪注≫元右衛門の嘆願書は、大和同志会の機関紙『明治之光』第2巻第7号(1913年7月15日発行)に採録、掲載された。新政府への提出の43年後である。『明治之光』の原本は散逸しており、1977年2月に兵庫部落問題研究所が『復刻・明治之光』(上中下3巻)を発行した。添付した原文はこの復刻版に基づく。現代語訳は『千本部落の歴史と解放への闘い』に掲載された現代語訳を参照しつつ、筆者が行った。

【元右衛門の嘆願書の原文】
【元右衛門の嘆願書の現代語訳】

◇「古代東北の蝦夷(えみし)と被差別部落」の連載一覧

連載① 東北の蝦夷(えみし)と被差別部落  菊池山哉が紡いだ細い糸

連載② 被差別部落のルーツ なぜ東北には部落がないのか

連載③ 追い詰められ、侮蔑され、東北の蝦夷は蜂起した

連載④ 東北の蝦夷が歩んだ道は現代と未来につながる

連載⑤ 蝦夷(えみし)はアイヌか和人か いまだに決着がつかない

連載⑥ 安倍晋三氏のルーツは朝廷と戦った東北の豪族

連載⑦ 黄金の国ジパング伝説 その起点は東北の砂金

連載⑧ 被差別部落の分布が示すもの

連載⑨ 皇国史観と唯物史観の結合/被差別部落の起源論争

連載⑩ 部落の誤った起源説は「お墨付き」を得て広まった

連載⑪ 近世起源説を射抜いた 素朴で鋭い子どもの質問

≪写真説明≫
◎五箇条の誓文=白山比咩(しらやまひめ)神社のサイトから
https://www.shirayama.or.jp/kouwa/k398.html

≪参考文献&サイト≫
◎『復刻・明治之光(上)』第2巻第7号(兵庫部落問題研究所、1977年)=国立国会図書館所蔵
◎『千本部落の歴史と解放への闘い』(部落解放同盟千本支部部落史研究会、1987年)=佛教大学図書館所蔵
◎2009年度部落史連続講座講演録(京都部落問題研究資料センター)
http://shiryo.suishinkyoukai.jp/kouza/k_pdf/2009.pdf
◎『死者たちの中世』(勝田至、吉川弘文館、2003年)
◎後冷泉天皇の火葬塚に関する資料(宮内庁書陵部のサイト)
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000418150000?index=69517&sort=Title&searchtype=Freeword
◎『日本書紀(一)~(五)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫、1994~1995年)
◎『日本書紀(上)(下)全現代語訳』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)


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