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映画『月』が突きつけるもの

2023.10.08 Sun

 日本記者クラブでの試写会以来、ずっと心に重くのしかかっている映画があります。13日から全国で公開される『月』(石井裕也監督)です。2016年7月に神奈川県相模原市にある県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件をもとにした辺見庸の同名の小説を映画化した作品です。

 試写会で観た映画をこのコラムで取り上げようと思ったときには、試写のあとで、制作会社のスタッフなどに映画のスティル写真を送ってもらうように依頼しています。しかし、この映画の試写では、これは自分には書けないなと思い、スティル写真を入手することもしませんでした。

とても書けないと思ったのには、ふたつの理由がありました。ひとつは、「この国の平和ために」障がい者を殺すという事件を描いた作品について、障がい者施設の実態もわからない私が何か語るのは難しいと判断したことです。

 もうひとつの理由は、映画で描かれている施設の運営が、障がい者を長期間ベッドに拘束したり、部屋を施錠したり、虐待と言うしかないものであり、ほかの障がい者施設などの事例を借用したのではないかと思ったことです。ドキュメンタリーではありませんから、小説の映画としてはかまわないと思いましたが、題材になったやまゆり園の運営者や利用者は、納得できないのではないかと思いました。

 後者の理由については、とても気になったので、調べてみると、2020年5月に「津久井やまゆり園利用者支援検証委員会」の「中間報告」のなかに、以下のような記述がありました。

 身体拘束を行う場合は、本人の状態像等に応じて必要とされる最も短い拘束時間を想定する必要があるが、24時間の居室施錠を長期間にわたり行っていた事例などが確認された。この事例から、一部の利用者を中心に、「虐待」の疑いが極めて強い行為が、長期間にわたって行われていたことが確認された。

  新聞報道などで、この事件をフォローしていたわけではないので、こういう事実があったことを知りませんでした。しかし、そういう事実があったとすると、映画では「さとくん」と呼ばれていた殺傷事件の実行者である植松聖死刑囚(2020年に死刑確定)が「意思疎通のできない人間を安楽死させる」という極端な考えを持つに至った背景には、障がい者を人として対応してこなかった施設の在り方も関係していると思いました。

 そこで、この映画や事件のことをもう少し考えてみよう、そして感想文を書いてみようという気になり、『開けられたパンドラの箱』(月刊『創』編集部編、2018年)と原作の『月』(2018年に単行本として出版され、2021年に角川文庫)を読みました。

 『パンドラ』を読むと、2017年10月に『創』編集長の篠田博之氏が植松被告(当時)と面会した際の問答として次のような会話がありました。

 ――津久井やまゆり園の労働条件や待遇に不満があったわけではない?

 植松 全くありません。むしろ障害者施設の中では働きやすいところだったと思います。例えば「見守り」という仕事があるのですが、本当に見ているだけですから。

 ――でも言うことを聞いてくれない障害者もいたわけでしょう。

 植松 もちろんいました。でも暴れた時は押さえつけるだけですから。

 ――じゃあ君はそういう仕事自体に疑問を感じたというわけではないわけね。

 植松 はい、そういうことは全くありません。ただ彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになったのです。それは現実を見ていればわかることだと思います。

 「生きている意味があるのか」と植松死刑囚が思った障がい者の「現実」が拘禁や拘束が日常化していた施設の「現実」であるとすれば、そうではない対応の「現実」があれば、「生きている意味があるのか」という問いの答えも違い、「死刑囚」にはならなかった可能性はあると思いました。

 原作の『月』は、文字通りの原作で、映画とは物語の展開がずいぶんと違っていて、ひたすらに「生きている意味」を問う物語という印象でした。

 植松死刑囚は、障がい者が「話せるかどうか」を、映画の「さとくん」は「こころがあるかどうか」を、それぞれ「生きる意味」の基準としたようです。この基準はあいまいですから、こうした判断を認めれば、たとえば生産性の有無を基準にして、障がい者は経済的な生産性が低い、ホモセクシャルは子ども産む生産性が低い、などの理由で社会的に排除されることになりかねません。「社会的排除」も財の有効活用という意味での生産性からみれば、植松死刑囚が口にしていた「安楽死」につながります。

 映画や原作が訴えているのは、あの事件は例外ではなく、むしろ生産性などを基準にした「社会的排除」のデストピアが迫っていることではないかと思いました。その意味では、私たちが「必見」の映画ではないか、と思います。

 最後に、商業的な成功が目に見える映画ではないのに、それぞれの役回りを熱演して、映画にリアリティーを与えた磯村勇斗、宮沢りえ、二階堂ふみ、オダギリジョーら出演者の決意と演技に敬意を表したいと思います。

 (写真は、映画『月』のオフィシャルサイトからキャプチャーした画像を使いました)


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