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「部数拡張のためなら女も活用する」から始まった女性記者。

2023.12.29 Fri

 

(月刊「ニューリーダー」(はあと出版)2023年10月号所収の小論を許諾のもと転載します。)

◇化け込み女性記者は、開いていない門をこじあけたパイオニア

 『化け込み婦人記者奮闘記』(平山亜佐子著、2023年6月、左右社刊)という本が最近出て、いくつもの新聞書評で取り上げられた。明治以降の女性記者の歴史を書いた本は、以前からいくつかあったが、この本は、化け込み記者に焦点を当てて、その実像が具体的に描かれていて引き込まれる。化け込みとはなりすましのことで、読者ののぞき趣味を満たす企画である。

 その化け込み記者第1号の下山京子は、明治40(1907)年、大阪時事新報(東京の時事新報が2年前に進出)に「婦人行商日記 中京の家庭」を連載した。小間物を売り込む名目で貴族院議員邸、有名女子校校長邸、病院、弁護士事務所、遊郭、裁判所長邸など34軒にもぐり込み、連載は26回に及んだ。わずか9軒とはいえ、実際に小間物も売った。

 それにしても、このような化け込み記者は、当時の女性記者の中でも特異な存在だったのだろうか。実は、そもそも明治期においては、女性記者という存在そのものがほぼゼロに近かったのである。

 振り返ると、明治維新後日本にも近代的な日刊新聞が登場したが、当初は政府の広報をになう新聞と、自由民権運動を背景とする政論新聞が中心だった。当然、作り手も読み手も完全に男の世界だった。それに対して、明治10年代になると、街の出来事や芸能ネタ、スキャンダルなど市井の話題を中心に扱う大衆紙が発展するようになった。当時の記者は、街ネタを集めてくる探訪と、それをもとに記事を書く内勤の記者にわかれていた。記者、特に探訪の評判は悪く、中にはつかんだ情報をもとにゆすりたかりをする者までいた。明治時代、新聞記者の社会的地位はきわめて低かった。

 そんな新聞社に入ろうなどと思う女性は、当然ながらほとんどいなかったし、新聞社側も女性記者を求めてなどいなかった。この時代、農業人口が過半を占め、商家などを含めても、女性は基本的に家内労働が中心だった。産業化にともなって女工と呼ばれる職種の求人は増えていったものの、女子が教育を受ける機会はまだ不足していて、旧制中学相当の高等女学校がようやくできたのが明治32(1899)年。しかも、その教育の柱は「良妻賢母育成」だった。

 新聞界の変化をもたらした大きな要因となったのが、明治27(1894)年に起こった日清戦争と10年後の日露戦争だった。国民の関心は高く、発行部数はどんどん伸びた。記事の中身は、軍記物のような文体から、速報を中心とするリアルな戦場報道へと性格を変えた。激しい販売競争のもと、女性読者の獲得のため、ポツポツと女性記者が採用されるようになった。女性記者の活躍が目につきはじめた欧米を意識していたことも背景にある。

 もっとも、アメリカを見ても女性記者の比率はわずかで、1880年、全記者のうちわずか2%だった。しかも、政治や社会問題などではなく、社交界や流行や家政の記事を書くのが役割で、男性記者と同等の役割を担っていたわけではない。

 さて、せっかく職を得た少数の女性記者も、大半が男性問題でスキャンダルになるか、社内で結婚相手をみつけるかして、ごく短期間で退社している。女性記者はあくまでも添え物の扱いだった。そのような、狭き門どころか開いてない門をこじあけて、自らの存在を認めさせようとしたのが化け込み記者ではなかったか。それは、読者の支持をなんとしてもつかんで部数拡張を実現したい新聞にとっても割の合う選択だった。

◇“男の世界”の新聞社に風穴をあけた雇用機会均等法

 大正3(1914)年、大衆紙読売新聞は「よみうり婦人附録」というページを設けた。発足後まもなく、女性編集者も招聘した。とはいえ、外で働く女性を読者には想定せず、家庭の主婦を対象とした記事が当時の基本で、良妻賢母路線は揺らいでいない。

 戦後の昭和30年代、40年代の高度経済成長の時代、女性労働への需要は拡大したが、日本社会の家族観や女性観はあまり変わらなかった。最近見た、寅さんの映画の昭和53(1978)年の作品に印象的なシーンがあった。「私やっぱりダンスをやめられないの」という木の実ナナ演じるSKDダンサーの言葉である。恋人への別れの言葉だ。今は死語に近い「寿退社」があたりまえだった。

 夜討ち朝駆けが必須の“男の職場”新聞社においても例外ではなかった。たとえば1983(昭和58)年の数字を見ても、女性記者の編集部門社員の中での比率はわずか1%という驚くべき数字だった(日本新聞協会による新聞社、通信社についての調査)。

 1986(昭和61)年の「雇用機会均等法」の施行はひとつのエポックだった。法律ひとつで人びとの意識がすぐに変わるわけではないが、男女が分け隔てなく仕事につけるのが望ましいという社会的メッセージが発せられた意味は大きい。2001(平成13)年には、全記者に占める女性比率は11%、そして2022年には24%となった(日本新聞協会調べ)。新規採用では、およそ男女半々の社もある。

 欧米ではどうか。女性比率が50%以上行っているフィンランドを筆頭にヨーロッパは比較的進んでいる国が多いが、意外にもアメリカは2019年にようやく27%である。“ボーイズクラブ”的なメディアのあり方は、世界で共通して見られてきた問題であり一筋縄にはいかない。進んでいる国では、メディアにおけるジェンダーバランスの不均衡の是正に向けた積極的な措置が取られ、数値目標も掲げられてきた。

 結局、女性労働は“社会の都合で”求められてきた面があり、女性記者のあり方も基本的にその時代ごとの社会環境に大きく規定されてきた。そういう目で今後の女性記者をとりまく環境条件に着目すると、象徴的にはデジタル化とスマホ、AIに代表される新技術、そしてそれによるメディア変革の波だろう。

 ニュースパーク(日本新聞博物館)が、今年開催した企画展のタイトルは「多様性 メディアが変えたもの メディアを変えたもの」だった。関連のシンポジウムでのメディアの担い手の発言からは、伝統メディアも確実に変化しているということを実感した。ボーイズクラブの単一文化を脱して、男女などさまざまな属性のワクにとらわれず、多様性を生かした質のよい報道が実現する必要条件が整いつつある。

『化け込み婦人記者奮闘記』ネット書店のページ

「月刊ニューリーダー」


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