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榎本武揚を中山昇一さんと語る ①なぜ、いま、榎本武揚なのか

2024.05.21 Tue

「情報屋台」で、榎本武揚研究家の中山昇一さん(71)が2019年11月から連載してきた「榎本武揚と国利民福」がことし4月で終わりました。戊辰戦争(1868~69)で「蝦夷共和国」を建てて明治政府の抵抗したのち、明治政府の初代逓信大臣や外務大臣、農商務大臣を歴任した榎本武揚とは、どんな人物だったのか、そして彼は日本にどんな影響を与えたのか、中山さんの広い視点に立った論稿は、榎本武揚研究の金字塔になりました。そこで、あらためて連載を振り返りながら、いま、なぜ榎本武揚なのか、中山さんの話をうかがおうと思います。(写真は、横浜市内の自宅で語る中山昇一さん=筆者写す)

――中山さんは、古河電気工業のエンジニアでしたが、どんな経緯で榎本武揚を研究することになったのですか。

 

中山 私が早稲田大学高等学院から大学に進学する際、父に連れられて早稲田大学理工学部の高木純一教授(1908~1993)の自宅を訪ねました。そこで自分はドイツの社会学者、マックス・ヴェーバー(1864~1920)や米国の経済学者ケネス・E・ボールディング(1910~1993)の研究に興味を持っているという話をしたら、高木先生が「それなら自分の所属する理工学部電気工学科で、電気技術史を学んだらよい」と言われ、電気工学科へ進学しました。

 

社会学や経済学と電気工学は結び付かないように思えますが、戦後まもなく、「動物と機械における通信と制御」を考えるサイバネティックスの理論が欧米から伝えられました。そこで、社会や経済のシステムを電気工学で考えようという研究が日本でも始まり、高木先生もこの分野の研究を私にやらせてみようという気持ちになったのだと思います。

 

高木先生は父の恩師で、父は海軍技術研究所で、特攻魚雷回天のステレオソ                          

ナーの研究開発をしていました。先生は戦時中、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎(1906~1979)と共同でマグネトロン(マイクロ波を発生させる真空管)の研究開発をしていたこともあります。

 

高木先生からは何度も大学に残るように言われたのですが、私は実業を経験してみたいと先生にお願いし、古河電工でエンジニアの道を選びました。その後1987年に、交際中だった今の妻と高木先生宅を訪問しましたら、電気学会の初代会長だった榎本武揚の業績を調べて明らかにしてほしいと言われました。何度も、恩師に指示に従わなかったので、この宿題には答えなければならないと思い、それからポツポツと榎本を調べ始めました。

 

――会社員が榎本武揚の研究というのは、違和感はなかったのですか。

 

中山 会社では、CATV基盤技術研究所に出向してCATVを利用したインターネット・アクセス網の研究をしたり、知的財産部で会社の知的財産の戦略検討や社内教育をしたりしていました。古河電工は、1875年に創業された古河鉱業の電気関連の部門を統合して1920年に独立した企業です。古い歴史のある会社ですから、初代逓信大臣でありまた初代電気学会会長であった榎本の研究を通じて、明治の殖産興業の歴史を学ぶことは、会社の歴史と重なるところも多く、違和感はありませんでした。

 

しかし、体調を崩したこともあり、2005年に早期退職をして、高木先生の宿題を最優先することにしました。52歳のときでした。先生は、人類がすべて平和で幸せな生活をする世界を作りたいと言っていましたから、榎本の思想と生きざまに共鳴できるものがあると思っていたのでしょう。

 

――私が中山さんにお会いしたのは、藤原書店で2007年ごろから何度か開かれた榎本武揚研究会の場でした。私は、榎本武揚の曾孫にあたる榎本隆充さんと知り合ったことで、武揚に興味を持ち、研究会に参画しました。中山さんは、東京農業大学を拠点にした榎本武揚・横井時敬の研究会のメンバーだったのですね。

 

中山 2006年ごろ、賀茂儀一『榎本武揚』(1960年、中央公論社、1988年に中公文庫)に書かれていた榎本が関わった民間団体について、わからないことがでてきました。そこで、『榎本武揚未公開書簡集』(2003年)を編集された榎本隆充さんに、この本を刊行した新人物往来社を通して、質問の手紙を送ったところ、榎本さんから面談の機会をいただきました。その席で、質問にも答えていただき、これまでの榎本武揚の調査の概要や今後の課題を話したところ、東京農大の創設者である榎本と横井の研究会に誘われました。この研究会には、榎本武揚の研究をされていたいろいろな方々がいらっしゃったので、ずいぶん勉強になりました。また、当時の東京農大の松田藤四郎理事長(1931~2015)から、今後、榎本研究の求められる分野についてもお話を伺うことができ、非常に参考になりました。

 

――藤原書店での研究会の成果は、2008年に藤原書店から刊行された『近代日本の万能人・榎本武揚』(榎本隆充・高成田享編著)にまとめられました。中山さんは、この本のなかで、「今、なぜ榎本武揚か」という座談会と「世界レベルの仕事をしたエンジニア」という論文で、エンジニアとしての榎本に着目した榎本論を展開されています。その後も榎本研究を続けられたのは、まだまだ書き足りないことがあると思ったからですね。

中山 『近代日本の万能人』で、諸先輩からは、よくやった、高木先生も合格点を出してくれる、などとほめられました。しかし、榎本がずっと懸念していた日本の人口問題と、榎本の思想の中核である「国利民福」については、自分なりの決着がついていないと思い、研究を継続してきました。その報告が「情報屋台」での連載ということになります。

 

――日本の大陸進出の背景には、人口問題がありました。榎本のひとつの答えは南方殖民ですが、中山さんは、そういう文脈だけではなく、列強諸国が世界をどう支配しようとしていたかという「グレートゲーム」のなかで、榎本の外交戦略を考えています。また、「国利民福」というのは、榎本の国家像のなかに「国民国家」という意識が強かったからだと思います。明治政府のスローガンとして教科書に出てくる「富国強兵」の国家像は、国民国家というよりも、絶対主義国家ですね。

 

中山 富国強兵論は、もともとは中国の春秋戦国時代から語られてきた国家の政策で、日本では、18世紀後半から、ロシアなどの脅威への対抗策として議論されるようになりました。その一方で、強兵に走れば、国(当時は藩)が貧しくなるという「貧国強兵」論もあり、経済政策が直接領主の「利」にならなくても、民の「利」になれば、「御国益」になるという主旨の主張がされ、幕末にかけては、「富国安民」(または養民富国)という政治理念もでてきました。

 

――幕末にかけての富国強兵論は、列強の脅威から日本を守るという防衛論が主でしたが、明治になると、征韓論などが強まり、富国強兵は大陸進出へのスローガンにもなりました。榎本武揚の「国利民福」は、「富国強兵」とは一線を画していますね。

 

中山 榎本は、1862年から67年にかけて江戸幕府から派遣されてオランダに留学し、ライデン大学のシモン・フィッセリング教授やハーグ大学のフレデリックス教授から政治学や国際法を学びます。榎本よりも先にフィッセリング教授に学んだのが榎本と同じ船でオランダに留学した西周(1829~1897)と津田真道(1829~1903)で、彼らはその講義録を帰国後の1868年に邦訳して出版しています。そこには、国家の目標は、「国益民福の増加」であると書かれています。榎本もこの国家理念を学んだものと思われます。

 

 また、榎本がフレデリックス教授から国際法を学んだ際に、教授が用いたのがフランスの国際法学者オルトランの「海の国際法規と外交」で、教授は榎本のためにこの本をオランダ語に訳した手書きの草稿(のちに「海律全書」と呼ばれる)をつくり、榎本が帰国する際、教授はこの草稿を榎本に贈ります。そこに書かれた榎本への献辞には、次のような下りがあります。

 

「日本国民は偉大な海軍力を持つ運命にあります。国際公法の書籍よりも大砲を多く持つのが得策という考えもあります。しかし、『知識は力なり』という格言は普遍の真実です。あなたが知識を持って日本に帰ることで、あなたの美しく豊かな国、日本は必ずや国際連合の中に加わる存在になるでしょう。国家は栄枯盛衰から逃れることはできませんが、日本は次の時代に輝ける繁栄を手にすると信じています」

――日本からの留学生のために、フランスの本をオランダ語に訳した手書きの草稿をつくるなんて立派な先生ですね。中国から日本に留学した魯迅のノートに詳細な添削を加えた藤野厳九郎教授(1874~1945)を思い起こしました。また、日本は偉大な海軍力を持つ運命という言葉も、日本は海洋国家をめざせ、という意味で鋭い指摘ですね。

 

中山 榎本はのちに、大陸での欧米列強の利権争奪戦には加わらず、南洋殖民で国際商品であるコーヒーや砂糖の生産と輸出を考えます。フレデリックス教授の教えは、榎本の原点かもしれませんね。

 

――榎本が日本に持ち帰った「海律全書」は、箱館戦争の最後、榎本軍が降伏する前日、官軍の将だった黒田清隆(1840~1900)に、自分の身は滅びても、これだけは国のために大切だと言って、贈ったという逸話が有名です。国際法なかでも海洋法を熟知しているという榎本像が賊軍の将である榎本を生かし、初代ロシア公使としてロシアとの国境交渉に当たらせることにつながったのかもしれません。明治になってからの榎本の活躍の原点は、フレデリックス教授ともいえますね。

 

中山 明治維新で近代国家になった日本は、中国大陸への進出を深め、最終的には敗戦という大きな犠牲を国民に強いることになりました。榎本の「国利民福」や海洋国家の理念は、榎本は、敗戦に至らないための「もうひとつの道」を示していたと思います。

 

――ありがとうございます。次回は、榎本がなぜ、初代のロシア公使に選ばれたのか、その謎に迫りたいと思います。

 

(冒頭の榎本武揚の写真は北海道大学所蔵)


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