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榎本武揚と国利民福 Ⅱ.産業技術立国(中編)

2020.04.05 Sun

Ⅱ.榎本武揚と産業技術立国(中編)

 

 

・起業家(企業家)精神と殖産興業

 

 

 榎本は長崎海軍伝習所時代(1856-1859)、オランダ留学時代(1862-1867)、駐露特命全権公使時代(1874-1878)に様々な領域を学び、現地情報を収集しました。榎本は世界のどこにいても、常に、国利と民福を増進することを念頭に調査、分析、実験、装置の輸入、技術移転を考え、提案し、推進しようとしました。日本国内では幅広い産業分野で助言やリーダーシップを発揮しました。その例を列挙することが本文の目的ではありません。私たちの身近にあって意外と思える、榎本が影響した事例を二例紹介します。

 

 

 アホウドリの絶滅の危機を招いた経緯を調べていくと、榎本が登場します。

『1887年、南洋開拓の必要性から小笠原諸島南方の火山列島探検が実施される。このときの逓信省大臣は、移民・殖産事業に情熱を燃やす榎本武揚。この一行に玉置半右衛門ら13人が同乗し、鳥島へ向かった』(平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015)

羽毛がヨーロッパで高い値段で取引されていると、榎本が話したことが始まりと言われています。榎本はよもやそのようなことになるとは思わなかったでしょう。当時の日本は貧しかったので、とにかく金(外貨)になる仕事に片っ端から手をつける、そんな時代でした。

 

 

 また、南雲清二、伊澤一男『キナの国内栽培に関する史的研究(第3報)榎本武揚によるキナ導入の建議書について』薬学雑誌45(2)によりますと、キニーネも日本での使用の歴史を調べると榎本が登場します。1875(明治8)年6月の榎本の建議書ではコーヒー、タバコ、に加えキニーネ(建議書ではキナ)の事業化の必要性と具体策を提案しています。キニーネの樹を移植した国々では、人命を助け国産を増殖させた功績が大きいのでポンペの助言により、オランダ領ジャワからキニーネの苗を日本に取り寄せることを提案しています。さらに、苗を取り寄せる前に、現地に派遣した日本人が栽培技術を習得した後に、国内の適した地で試験栽培し、その結果、(国利のため)外国からの輸入を止めたいと書いています。

()は筆者挿入

ポンペ(1829-1908、オランダ海軍軍医)は榎本の長崎海軍伝習所時代、オランダ留学時代の師の一人で、ロシア駐在特命全権公使就任にあたり、オランダから顧問としてペテルブルクへ同行し、現地で幅広くアドバイスや協力をした。

 

 

 次に起業家(企業家)精神を紹介します。

 

 

 榎本は駐露特命全権公使としてペテルブルクに在住中、いろいろな技術に興味をもちました。その中に「鶏卵機械」がありました。手に入れた鶏卵機械でいろいろ試してみるとうまくいくようになりました。そこで、1876(明治9)年6月5日に榎本がペテルブルクから妻、多津(たつ、1852(嘉永5)-1893(明治26)、一緒にオランダ留学した医師の林研海の妹)へ送った手紙の中で、箱根の温泉地で孵卵燃料を用いず、わずかなコストで(多数の雛を得、雛が親鳥になれば親鳥から)何千万もの卵を得、また、孵卵に用いたお湯を用いて冬季に野菜や草花を自由に育成できる、温泉開発事業の企画を説明し、箱根へひとをやって自分が指示する条件に合う温泉地を調査して欲しい、これは自身の金策のためでなく、日本の温泉を用いて「人民の益をおこさん」のためですと、企画の目的を説明しています。

()内は筆者が挿入。

 

 

 北海道の開拓使の事業について、国に頼っているから事業が進まない、自らとりくむべきだという考えを持っていていました。実際に、榎本は開拓使払い下げの土地を購入し、そこで、効率よく開拓するための技術を実験し、記録しています。そして開拓した地が小樽市です。北垣国道(1836-1916、開拓使、京都府知事、北海道長官など)と共同経営した北辰社が開拓地経営をしました。さらに、北辰社は東京飯田橋で牧場を経営し、牛乳の製造販売をしていました。

 

 

 また、逓信大臣時代(1885-1889)の1888(明治21)年に函館海底電線の工事を逓信省工務局(志田林三郎局長)は、函館海峡が危険な海域なのでデンマークの大北電信(The Great Northern Telegraph Company)に外注しようとしていました。その工事代金は大変高額です。榎本は外注する理由を担当者から説明を受けた後に、『何故自分たちで試みないのか、一、二回失敗しても自分たちで出来るようになれば国家に大利益をもたらす』と若きエンジニアたちに言いました。すると、エンジニアたちは憤激してチャレンジします。そして、1889(明治23)年、彼らは実験を経て成功します。以後、日本中の海底電線工事はすべて日本人の手によるものとなりました。

 

 

 榎本のそういった起業家精神は、明治26年2月の殖民協会報告に収録された会長演説で明確に語られています。

 

 

 『本会に於いて殖民事業に於ける精密の調査を遂げ、官民一致を以て此の国家百年の計たる一大問題の成功を期し、以て所謂(いわゆる)国利民福を図るは実に我々会員諸君に向(むかい)て求むるにあらずして、将(は)た誰に向て求むる可(べし)や、然(しかり)りと雖(いえど)も我々は単に政府の補助を待(まっ)て、而後(じご)始めて運動する者ではありませぬ、必らずや、雖無文王猶興(文王無しと雖も猶興る、孟子)の精神を以て自ら計画する所が無くてはならぬ』

()内は筆者が挿入。「始めて」は「初めて」ですが、当時は音に合わせた漢字を用いて文書を書いたので、書き間違いではありません。

 

 

 この演説では、単なる調査でなく、精密の調査を求めています。では、榎本自身の調査はどうだったのでしょうか。殖民協会設立趣意書に、人口の増加の割合は年あたり40万から50万人なので、約70年後には現在の二倍、約8千万人になっていると書かれています。これは榎本の計算だと思います。年あたりの計算(等差数列)では、いわゆるエイヤーで計算しちゃえ(等差数列)ののりで、50万人/年x約70年+4000万人=約7500万人、大づかみにみて一声8千万人で考えておこうとなります。一方、当時の人口増加率を切り上げて1%(公比)として、元本を4000万人(初項)、複利周期を1年とすると、70年後(項数)の人口(等比数列)は8024万人です。どちらも同じような結果です。

(エイヤーで計算とは、例えば、桁が合っていればいいやくらいの気持ちでする、数字の精度そのものには強くこだわらない試算)

 

 総務省統計局の日本統計年鑑によれば、明治26年の人口は40,86万人、昭和23年に人口が8千万人になり、70年後の昭和38年の人口は96,156万人になります。9600万人は8千万人の1.2倍です。明治26年頃、日本の将来に対する榎本の問題提起としての人口予想は、見通しが良かったと言えるでしょう。

 

 

 榎本の起業家(企業家)精神とは、1,精密なる調査に基づく計画(企画)、2,国利民福を増すことが計画の目的、3,自ら発憤して実行する、の三点で構成されています。

 

 

 いつ頃からそのような精神、信念をもったのかは、確とはしませんが、次のような証言があります。

 

 

 第二次オランダ海軍分遣隊司令官(1857-1858)であったカッテンダイケ(1816-1866)の日記(水田信利訳、東洋文庫26『長崎海軍伝習所の日々』平凡社)で、『・・・、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも純真にして、快活なる青年を一見すればすぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯五十九度(カムチャッカ半島)の地点まで北の旅行をした時に実証した』と榎本を評しています。

()内は著者挿入。

 

 

 榎本が箱館奉行堀織部正利煕(ほりおりべのしょうとしひろ)の北蝦夷の巡検に付き従ったのは19歳のときです。それ以前にどこでどう影響を受けたのかを知ることは出来ません。伊能忠敬の弟子として大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)を完成させた父親、圓兵衛の感化なのか、子供の頃から手習いの教育の成果なのか、武術教育の賜なのか、確認できません。分かることは、青年時代にすでに企画的な資質をもって行動していたことです。

 

 

 カッテンダイケの日記の原文を確かめたことはありませんが、文中の「企画的人物」という言葉はひょっとして起業的、企業的とも想像されますし、冒険的かもしれません。

そう思わせるのは、榎本がオランダ語で書いた掛け軸があるからです。

 

2007年10月20日、駒込の吉祥寺(榎本武揚百回忌法要)にて筆者撮影

 

 

 北海道の甘利氏*に宛てたのではと考えられているオランダ語の掛け軸に次のように書かれています。

" Onderneming is de beste meesteres. Voor de Heer Amari, van zin vriend Enomotto Kamadiro"

東京農業大学稲花小学校では、このオランダ文を『冒険こそ最良の師である』という訳を採用し、「冒険心の育成」を教育理念にしています。

 

 

 Ondernemingの和訳は企業、事業、会社です。英訳ではenterprise, undertaking, ployです。これを書いた榎本の気持ちをenterpriseから冒険心と解釈して良いと思います。しかし、ここでは、国際市場で競争力のある技術を生み出し、事業を興して国家を経済発展させ、多くの雇用をうみだし、国民を幸福にすることを、榎本は願って活動していたことに焦点を合わせています。そこで、起業や企業と解釈します。大胆かつ困難な、または冒険心、野心のある事業を行おうとする起業家(企業家)精神を示していると考えます。

 

備考

 Onderneming is de beste meesteres.をGoogle翻訳に入力すると、「エンタープライズは最高の愛人です」という結果がでてきます。meestersと書こうとして meesteresと筆が滑ったのかも知れません。この二つの単語は発音が違います。案外、「企業は最高の愛人」なのかもしれません。

*甘利後知(静岡県貫属士族、1848~?)と考えられる。ブログ、坂城町町長(山村ひろし)『坂城の100人』(2022/3/6)によると、甘利後知の父親は甘利八重右衛門で、坂城(さかき、長野県)で「生きながら祀られた」と伝えられている。後知は八重右衛門の長男で甘利徳太郎と名乗り、日本に在留する外国公使らを警護する組織である、別手組に属した。三浦泰之『開拓使に雇われた「画工」に関する基礎研究』(北海道開拓記念館研究紀要(34)2006)によると、明治5年4月に開拓使仮学校の生徒取締役として雇用され、5月に「画学方」になり、明治6年5月から榎本の北海道の資源探査に随行した。「明治七年九月十四日、駿州、甘利後知識」と記した「エトロフ島のみを描いた墨書きケバ表現の図」がWEBサイト、「北方資料高精細画像電子展示 – Hokkaido University Library (hokudai.ac.jp)」に展示されている。また、「明治八季九月 甘利後知模図」『ウルップ島土室之図』など3点が北海道大学附属図書館北方資料室に所蔵されている。

著者:榎本の座右の銘の一つである、「学然後知不足」(学びて然(しか)る後に足らざるを知り、礼記 学記 学然後知不足、教然後知困) に影響され、甘利太郎は後知と名乗るようになったと考えらる。

(続く)


この記事のコメント

  1. 高成田享 より:

    榎本の起業家精神、どこから来ているのでしょうか。獄中で石鹸の製造法を伝えたり、ロシア公使時代には、ラッコと狐の毛皮を北海道に送って、貿易品にならないかと提案していますね。蘭語の掛け軸も、google訳の「企業は最高の愛人」が正しいのかも。

  2. 中山 昇一 より:

    本当にロシア公使時代はいろいろなことをしました。北海道の麻の事業も榎本の貢献が大きいと思います。公邸の庭でいろいろな種子を栽培して実験し、この種子が北海道の自然環境に適しているだろうと日本へ送り、北海道で事業が拡大しました。知識旺盛では説明がつかないくらい精力的に事業の種を探しまわっていました。

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