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榎本武揚と国利民福 Ⅱ.産業技術立国(後編)

2020.05.08 Fri
政治

Ⅱ.榎本武揚と産業技術立国(後編)

 

・榎本農商務大臣

 

 榎本は、1894(明治27)年から1897(明治30)年まで、農商務大臣を務めます。

 殆どの仕事を次官の金子堅太郎(1853(嘉永6)年-1942(昭和17)年、旧福岡藩士、修猷館で学ぶ)に任せきりにして、鋼鐵を生産する製鐵所建設予算の獲得に向けて指揮をしました。そして、1895(明治28)年12月開催の第九回帝国議会で『製鐵所設立費』予算が承認(協賛)されます。榎本としては自身が農商務大臣に就任する目的を達成し、一段落した気分だったでしょう。その後、3月29日に『製鐵所官制』が交付されるまでの間、ドイツから来た記者のインタビューを受けます。

 

 明治29年3月7日付け「フランクフルト新聞」の『1月28日東京通信』欄に『榎本農商務大臣へのインタビュー』という記事が掲載されました。(尚友クラブ調査室『尚友ブックレット第1号』社団法人尚友クラブ、1994)

 

 記者は農商務省の入り口に立ちます。守衛からいろいろ言われても沈黙したままだったため、守衛は英語を解する秘書官、早川鐵冶(てつや)に会わせました。秘書官は記者を応接室に案内しました。そこで記者は大臣との面会を希望します。アポイントは無いため、農商務省側は追い返そうとして慇懃無礼に対応しますが、記者の強い意志に負け、とうとう榎本大臣が登場します。

 

早川鐵冶(1863(文久3)年-1941(昭和16)年)は備前岡山の出身で、札幌農学校を卒業し、米国やドイツに留学しました。帰国して外務省へ入省し、榎本農商務大臣の時代に農商務省秘書官になります。札幌農学校の人脈で農商務省へ異動したのかも知れませんが、はっきりは分かりません。この方は、官報で早川鐵冶と書かれ、書状でも鐵冶と書いているのに、国会図書館や早稲田大学蔵書目録、渋沢社史データーベースなどに早川鐵治(てつじ?)と書かれています。早川は大男で涙もろく、長唄など得意で芸達者だったようです。そういうところは榎本と馬が合ったのでしょう。後に、早川秘書官の災難が鈴木光次郎『現代百家名流奇談』明治36年9月に取り上げられました。

『榎本が根葉も無き言語闘(えのもとがねはもなきことばたたかい)

早川が堰断て流す水掛論(はやかわがせたってながすみずかけろん)

農商務大臣時代に同い年の北垣国道(北辰社の共同経営者)らを呼んで飲んでいたら(榎本は負けず嫌いだから)北垣国道を相手に論戦を開始し、いつものように組み打ちを始めてしまい、家中大騒ぎとなった。そこでいつものように体格がおおきい秘書官早川鐵冶が間にはいって三人でまたばたばたして、早川がみみずばれを作りながらやっとの思いで二人を引き分けた。すると、榎本と北垣はなにもなかったように歓談しながら飲み始めた。そして、早川はいつもみみずばれの作り損だとこぼしていた。』類は友を呼ぶ、でしょうか。

 

 本題に戻ります。

 榎本大臣に会った記者は榎本のシャツの胸に燦然と輝く三葉葵が彫られたボタンを見て驚愕します。この人は今でも幕末を生きている人なのか、それとも、今も幕府と明治政府との調和に苦しんでいるのかと、困惑します。そして、榎本武揚は日本革命(明治維新)への反抗の頑固なること他人の及ぶ所に非ず、徳川末路史の代表者だと、記者は書き記します。

 

 榎本の風貌は、体は小柄、頭髪髭髯(とうはつしぜん、髪の毛とくちひげ)共に灰色を帯び、顔面は黄青で遍く(あまねく)皺(しわ)を生じ、目は小にして眦尾鉤懸(まなしりかぎかかり、目尻はかぎのように下がる)と、記者の目には映ったようです。

 

 インタビュー中、榎本は日本の経済動向を語りました。

『・・・政府は自由貿易主義にも偏せず、保護貿易主義にも倚(よ)らず、唯々(ただ)ある少し許り(すこしばかり)の保護税に依り原料の輸入を容易ならしめ、贅沢品の輸入を難からしむるあらんのみ。而して農業家の反対を見るは無論にして、政府の覚悟する所なり。日本は現に独逸(どいつ)国が已(すで)に経歴したる所と同一の発達を為し、農業国より工業国に移るならん。その島国たる位置は輸出入に便なるべく、其の石炭に富めるは蒸気力の使用を廉価ならしむべく、其の水力に富めるは電気力の使用を低価ならしむべし。此等は一として日本工業の将来を卜(ぼく、うらなうの意)すべき要件に非ざるは為し。加ふるに、労銀は米国職工一人の労銀の六分の一、若しくわ七分の一に過ぎず。現に豪州(オーストラリア)商人の如きは、我が国の低価なる労銀を利用するの新工夫を考案し、原料、例へば綿花を豪州より持ち来り綿布を製造して復(ま)た豪州に輸送せんと企図せり。而して日本製品第一の顧客は、早晩豪州と米国とに帰せん。・・・』

 

 一方、日清戦争後の経済は独仏戦争後のドイツの経済状況の轍を踏まないようよう、省内の官庁に指示をだしてある、一大製鐵所の設置を企図し、国会(第九回帝国議会のこと)から予算を獲得してあり、ドイツからの技術移転の準備を始めた、などと語りました。(独仏戦争は1870年7月19日開戦、1871年5月10日終戦)

 

 ここから、職工問題(労働者保護)について注目します。ドイツの経済発展史への認識を示した後、「政府はこの問題に関しドイツや諸外国の前例を研究している。私が確信する所では、我日本でも、その工業発達の結果に因って職工を保護する法律の必要を見るの時期に遭遇すべし」と語ります。

 

 英国では1833年、1844年工場法により児童労働にたいし規制措置がとられ、プロイセンでは1839年の工場内少年労働者の就業に関する条例およびその一部修正に関する1853年5月16日の法律が成立し、少年らの工場内での労働の保護と、義務教育の実現のため、就学年齢の児童労働が禁止されました。主な対象の産業は綿工業でした。(對島達夫『プロイセン初期工場法の成立とブルジョアジーの民衆教育観の変容』教育学研究45巻8号、日本教育出版、1978)

 

 榎本は日本の工業が発達するにつれ、英国やプロイセンと同じような社会問題を解決するために、日本も工場法を成立し、義務教育により児童の教育を確保し、社会の下層民、貧困層である労働者や児童を保護すべきときが来ているという認識を持っていました。

 

・職工問題と義務教育

 

 ところで、江戸が東京に変わっていく中、侍や庶民の生活はどんなだったのでしょうか。

 

 1868(明治元)年8月、勝海舟にたくした手紙「檄文」に添えられた「徳川家臣大挙告文」に江戸の新政府の役人の様子を、榎本は次のように書いています。

『新政府の役人を市井無頼の徒の類いと非難し、・・・、朝から酒色の巷に、英雄色を好むとして遊び廻っていた(酒色放縦傍若無人・・・)』(加茂儀一『榎本武揚』中央文庫、p252、1988)

そして、榎本は8月19日に徳川艦隊を引き連れて仙台へ向けて脱走します。

 

 渋沢栄一(1840(天保11)-1931(昭和6))は自身の28歳の頃に見た、江戸から東京へ変わり行く時期の庶民の様子を次のように語りました。

『幕府瓦解の余波は江戸市中を非常な混乱に陥れ、働く職無く、食うに糧なき窮民が一時に激増し、飢えて途に横たわる者(行き倒れを指す)が数知れぬという有様であって、その惨状は実に名状す可からざるものがあった』

 

 そして、1868(明治元)年から1869(明治2)年の間、東京日誌(東京府の記録)に百万都市、江戸の人口が半減したことが記録されています。

富民(家持)          19万6670人
貧民(賃貸)             20万1760人
極貧民(窮民救助米給付)       10万3470人
極々貧民(救育所に入所希望)       1800人
合計              50万3700人

 

 1869(明治2)年、明治政府は東京奠都(てんと、京都に加え東京を新たな都に定めた)を目前に、百万都市大江戸の人口が半減し、貧困者の救済に必死でした。三田にあった東京養育院(当初、三田救育所。後に東京救育所に改名)に加え、麹町、高輪にも養育所が設置されました。更に深川三十三間堂の広場に窮民収容所を設置し、貧困者や浮浪者を収容しました。1869(明治2)年に各養育院の収容人数はピークを迎えます。

 

 一方、市中では、1871(明治4)年の解放令で職を失った貧困者が街でたむろし、更に、1871(明治5)年の市中風俗取締で大道芸人、見世物小屋、香具師(やし=参道、境内などに出店する商人)は大打撃を受け生活の糧を失い、1871(明治5)年の芸娼妓解放令では遊女の大群が街をさまよう状況でした。明治政府には実効的な救済策がありません。救済する意思があったかどうかも分かりません。

 

 その後、帝都の鮫ヶ橋、万年町、新網町、新宿南町に四大スラムが形成されました。また、浪人(旗本、御家人、江戸で雇われた各藩の中元、小者など)の乞食は毎日、数千人が市政裁判所(江戸時代の町奉行)に押し寄せ、下谷竹町(台東三丁目の藤堂家屋敷、榎本の生家付近)に作られた浪人保育所に収容されました。入所すると、健康管理を受け、再就職が斡旋されました。

 

(以上、塩見鮮一郎『貧民の帝都』文藝春秋、2008.9.20からの著者による抜粋、要約、加筆です)

 

 話は前後しますが、幕末の江戸城下での激しい物価騰貴の防止や江戸町民の暴動の予防のため、日稼ぎ貧困者の救恤(きゅうじゅつ、貧困者、被災者など困窮者への救援)に、また、上野戦争(1868年7月4日、江戸上野での彰義隊と新政府軍との戦い)で焼け出された人々や死亡者への救済措置にも町会所の七分積金(しちぶつみきん)の金や米が大量に支出されました。

 

 七分積金とは、寛政改革時、老中の松平定信(1759(宝暦8)-1829(文政12))が五年間(1785(天明5)-1789(寛政1))の江戸市中の町費(町入用)を調査し、節約できる町費額を決め、このうち7割を積立てた金です。七分積金は江戸町民の窮民救済(米、銭の交付)と低利資金貸付けに当てられました。七分積金などの事務管理のため江戸町会所(えどまちかいしょ、浅草向柳原に設置)を設立し、幕府から2万両を与えられ、毎年約1500町が約2万両を積み立てることとし、運用を開始しました。

 

 維新後は、『特に東京市中の衰微はおびただしく、武家地は草生い茂り武家屋敷は荒れるに任せ、市民の離散甚だしく、市中さびれ果てて昔日の面影は全くなく、「無職の窮民巷に満つる」の有様』でした。明治元年の江戸町会所の資産はおおよそ、玄米300石、白米200石、籾43万石、金二万両、貸付滞納金20万両、別段貸付金二万両、付属敷地数カ所でした。

 

 窮民の救済に新政府に引き継がれた七分積金が、活用されましたが、明治政府も財政的に困窮者だったので、七分積金に手をつけました。そのため、七分積金が地主や町人が救恤のために積み上げた金であるという観念が薄れ、官物同様の扱いとなり、汚点をつけるような事件も起きたようです。幕府が手をつけなかった住民が困窮したときのために積み立てた金を、東京府(新政府は1868(明治元)年7月に江戸を東京府と改めた)は市中関門屯所の諸隊(軍隊)の様々な経費に一時期流用しました。

 

 七分積金は、江戸が近代国家、日本の首都になり、近代化を進める際の重要な資金となったと言えます。が、それは、江戸っ子や江戸の商人が80年間に亘り、様々な苦労をしながら節約したお金を積み上げたからこそです。新政府に七分積金に感謝する思いがあれば、新政府の役人たちは、榎本が糾弾するような、酒色放縦傍若無人と言った行為にでなかったはずです。どのような政権も崩壊するときが来ます。徳川幕府は日本を近代化するときに崩壊したではないかと卑下せずに、明治新政府と徳川幕府との比較論がより盛んになっても良いのではないでしょうか。

 

 その後、1871(明治4)年に町会所が廃止され、七分積金と大蔵省からの借金の返済金を含め全額が府民に下付されることになります。1871(明治4)年7月に東京府知事に就任した由利公正(1892(文政12)-1909(明治42)、ゆりきみまさ)は、この金は真に民衆の積み立てた金であるから、市民の監理のもと、資金を集約し、銀行のようなもの(東京銀行、性格は興業銀行)を設立し、その経営により利潤を生み出し、種々の事業に活用することを計画しました。

 

 ところが、同年12月に東京銀行設立を東京府に出願してみると、大蔵省の井上馨大蔵大輔(おおくらたいふ、明治政府の太政官制での大蔵省の次官に相当)と渋沢栄一に強く反対され、設立案は葬られます。この背景には、設立案出願前に井上と渋沢はこの金を銀座煉瓦街の建設費に利用しようとして由利の反対にあい、互いに七分積金の用途で対立していたと考えられています。

(いのうえかおる、1836(天保6)-1915(大正4)、旧長州藩)

 

 七分積金を金融資産にするか、近代都市、東京を建設するための公共事業の資金にするか、両者の方針は対立します。

 

 渋沢栄一は1871(明治4)年に起きた井上の尾去沢銅山事件に関わり、1873(明治6)年に被害者から裁判所に訴えられ、渋沢は井上に連座します。同年5月、予算の問題で井上が辞表を出したので、部下の渋沢も辞表を提出し、退職します。井上大蔵大輔と渋沢大蔵少輔事務取扱(三等出仕)は、大蔵省の業務で深く関わっています。そこで、七分積金を巡る一連の動きの背後にも渋沢がいたと考えられています。

 

渋沢は1875(明治8)年に無罪になります。事件は、幕末の南部藩の借金が始まりといわれています。藩の面子のため、商人からの借金の証文に藩が商人に貸したと書くしきたりでした。その証文を盾に取り、井上大蔵大輔は商人に返済を求めます。商人が返済不能なので、大蔵省は尾去沢銅山を差し押さえ、商人は破産し、尾去沢銅山は競売にかけられ、井上の代理人に払い下げられます。1871(明治6)年に大蔵省を退職した井上は、代理人と共同で尾去沢銅山などの鉱山事業の会社を設立します。司馬遼太郎は江藤新平を描いた小説『翔ぶがごとく』でこの事件を取り上げています。

 

 1872(明治5)年の5月15日に由利東京府知事は大久保利通の外遊に随行することになりました。府知事不在を問題とし、25日に大久保一翁(1818(文化14)-1888(明治21)、旧幕臣)が、あらたに府知事に就任します。このとき、東京府知事は二人になります。そして、大久保一翁府知事は、5月29日に町会所を廃止し、七分積金の資金と大蔵省の返済金は、府民の共有という趣旨に基づき、一旦、東京府に新制の六大区の共有として東京府に引き渡され、東京府常務掛りが保管することになります。

 

 由利府知事不在の結果、井上大蔵大補の独り舞台となり、井上は営繕会議所の設立を東京府に内諭(ないゆ、表沙汰にせず内々でさとす)します。そして、資金の利用方針を決める東京府と営繕会議所がこの年の8月に新設されます。会議所の運営、資産管理を商人から選定し、任せることになりました。

 

 そして、東京府管轄だった銀座煉瓦街建設は、由利府知事不在となったため、大蔵省管轄となり井上を中心に官営で建設されることになりました。尾去沢銅山事件で、井上の代理人として競売で落札した、井上と同郷の岡田平蔵は、尾去沢事件で井上が辞職した後、1873(明治6)年に「東京鉱山会社」、「岡田組」(貿易会社)を井上、益田孝(三井物産を設立)らと共同で設立します。が、後に岡田は銀座煉瓦街で死体となって発見されます。そこで、井上は鉱山事業を分離し、「先収会社」を設立します。先収会社は三井物産へと発展していきます。

  • WEB『谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 岡田平蔵』http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/okadaHeizo.htm

 

 

 庶民や貧困者の味方である渋沢栄一がどのような考えで井上と仕事を共にし、井上と関わりが深い三井と関わったのでしょうか。恐らく、榎本の性格からすると、榎本は井上とは合わないだろうと考えられます。そして、榎本と渋沢の人間関係はどうだったのでしょうか。

 

 さて、営繕会議所は広く東京市民の生活に役立たせるために、資金の事務処理と営繕は東京府が行い、その施行の可否、新たな計画を検討する市民の会議として東京会議所が同年10月に設立されます。東京会議所の議員は民選議員と官選議員の併存でした。その後、会議所の規則は改善を続け、さながら東京府の議会の様相を呈しました。東京会議所は資金が底をつき、1877(明治10)年2月に解散します。解散後の養育院は渋沢が先頭にたって経営を維持し、社会貢献をしました。

 

渋沢栄一財団の渋沢栄一詳細年譜に記載された営繕会議所の記事を紹介します。

* https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1874.html

 

『明治五年五月、江戸町会所廃止せられしが、蓄積金の猶存するに依り同年八月、大蔵大輔井上馨・東京府知事大久保一翁、府内の豪商に托して東京営繕会議所を設立し、橋梁修繕・溝渠浚方・道路水道修繕・窮民救済の事を行はしむ。同年東京会議所と改称し、会議規則を草定して会議を興すと共に修路・養育院・墓地・瓦斯灯等の経営を行ふ。是月(明治七年11月)栄一、会議所共有金取締に推され、八年四月委員となる。』

 

『是より先、明治五年十月十四日、東京府庁はロシア皇子の来朝に備へ、府下の乞丐(かたい)を駆集め、その処置を東京営繕会議所に諮る。蓋(けだ)し東京営繕会議所は旧幕時代に於ける市民共有金の管理に当り、旧町会所の担当せる市街の営繕と市民の賑恤救済事業等を継承せるに由る。仍(かえ)つて東京営繕会議所は翌十五日、右窮民を本郷加州邸内に仮収容し、更に同月十九日浅草溜に移す。なほ東京営繕会議所は同月、東京会議所と改称せしも、引続き此収容所を主管し、明治六年二月四日、浅草溜より上野護国院に収容者を移し、爾来(じらい)養育院と称す。
是月(明治七年11月)栄一、東京会議所共有金取締に嘱託され、同時に当院事務を掌理す。』

 

『是月(明治七年11月)栄一、東京会議所共有金取締に推薦され、尋(つ)いで八年十二月二十七日会頭並に行務科頭取に選ばる。是より先、同会議所は東京市内の瓦斯灯建設に従事す。栄一之に与る。』

 

 渋沢栄一について『都史紀要七 七分積金』では以下のように記しています。

『・・・この金の運用を引つがれた維新政府は財政困難なため、あらゆる方面にこの金の助けを求めた。五年八月設立を見た営繕会議所が十月東京会議所となって、教育費十万円上納、銀座道路修築費五万円献納等の政府、東京府への直納金をはじめ道路、橋梁、水道の補修に大半の金を支出してしまい、会議所附属土地の売却を行う状態であって、・・・、維新混乱の際の東京市民に対して大きな貢献をしたのは、渋沢栄一を中心とする先覚者の多大の努力によるものであった。その指導者であった渋沢栄一は(松平)定信の考えを明治以降の東京の上に立派に護り育てたというべきであろう。』

*https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0604t_kiyo07.html

 

()内は筆者挿入。

 

 80年前の徳川幕府の資金、江戸の町民が積立て始めた貯金が、江戸が東京になるときに生じた貧困者、困窮者を救済し、近代都市、日本の首都、東京の誕生を支えることになるとは、江戸の町民は夢にも思わなかったでしょう。

 

 ところで、この間、榎本はなにをしていたのでしょうか。

 榎本は明治元年8月に徳川艦隊を率いて品川から脱走し、箱館に政権を打ち立てます。失業者が生活できるように蝦夷島を開発するため、調査を開始します。翌年官軍との戦いに負け、東京の牢に入ります。そして、明治5年1月に牢を出で、榎本は活動を開始します。明治7年から11年までは、駐露特命全権公使としてペテルブルクにて、樺太の領有権の交渉をしていました。

 

 東京会議所は解散しました。しかし、都市部の貧困者は増え続けます。明治政府による農業改革や松方デフレ(1881(明治14)年以降)で貧農家が増え、農村で生活できない、二男三男などの青年男女が毎年、都市部へ押し出され、貧困層を形成していました。もし、二男三男が農村へ戻ると、長男の使用人になりました。また、貧農家の長男は農閑期に都会へ出稼ぎに行きました。都会で貧困層になった農村出身者も貧農家からの出稼ぎ者も、労働者として酷使される対象でした。

 

 1879(明治12)年、内務省から農商務省が分離されると、同省内工務局に調査課が設置され、労働者保護立法のための活動がさらに活発化します。各県で職工と工場の状況について調査が行われ、調査課に報告されました。集約した資料から1883年に労役法・師弟契約法及び工場規則の立案をし、意見を東京商法会議所(渋沢栄一会長、現在の東京商工会議所)に求めました。

 

 その結果、工場の労働者を保護するための取り締まりが必要と考え、早急に法律制定を希望するという肯定的な意見が返ってきました。しかし、その後、あらためて法案を各地の商法会議所に諮問すると、堺以外から反対意見が戻ってきました。そして、いろいろな事情で法律制定が実現しません。

 

 労働争議が起きました。1872(明治5)年,1878(明治11)年,1887(明治20)年に高島炭鉱事件、1886(明治19)年に山梨県甲府雨宮生糸工場の争議、1894(明治27)年に大阪府天満紡績会社の争議といった労働酷使と低賃金に対する争議です。各県で工場取締規則や鉱業条例(1890(明治23)年)が制定されましたが、鉱業と工場の労働者保護の実現には至りません。

 

 明治時代の産業は、西欧から装置を輸入し、その装置を稼働させ、生産するノウハウを海外から招いた技術者たちから習得するという技術移転の段階から始まりました。代表的な産業は紡績です。紡績工場での中心的な労働者は女性と子供でした。独身女性だけで無く、子連れの女性も工場に住みました。子供は背が低いので、装置が稼働中に落ちた綿くずを拾い集める仕事をします。装置産業に吸収されない男性は、人力車の車夫や雑役などの仕事をしました。

 

 工場の仕事に夜勤もあります。そのため、深夜作業からあがってきた義務教育年齢の子供に経営者や監督者は学校へ登校しなさいと言いますが、子供は疲れて眠いのですから現実的には無理です。当時の義務教育は尋常小学校四年制で、10歳まででした。そのため、教育を受ける時間がないので、工場で働く子供たちの識字率は低い値でした。そして、大人の識字率も低かったのです。

(文末に参考の図表)

 

 当時、貧民街や貧民の実態を広く紹介しようと、国民新聞や毎日新聞は貧民街への潜入ルポを紙上に連載し、その後、本を出版しました。

 

松原岩五郎『最暗黒の東京』、1893(明治26)出版(現在は岩波文庫、青109-1)

 徳富蘇峰主筆の国民新聞に入社。松原は貧民街に潜入し、実際に様々な職業につき、体験ルポを紙上に連載しました。その記事を再構成して出版された本です。

 

横山源之助『日本の下層社会』、1899(明治32)出版(現在は岩波文庫、青174-1)

 島田三郎社長の毎日新聞に入社。横山も貧民街に住み、貧民と寝食を共にしながら、労働した体験ルポを執筆しました。農商務省が全国で行った「職工事情」調査に参加しました。

 

 ジャーナリストの活躍で、貧民の生活事情が世間に広く知られるようになったと考えられます。

 1897(明治30) 年に労働組合期成会が設立します。前出の毎日新聞の島田社長も参加しています。

 

 貧民街では、軍の食堂の残飯を引き取り、貧民街へ戻り、販売します。貧民はその残飯を買って生活の糧にします。そんな事例もルポ紙上で紹介されました。また、貧民の存在は、明治政府による士農工商の廃止による職業選択の自由による自由競争、今までの支配者であった武士の代わりに資本家が支配者になっただけで、支配構造は変わらない、産業革命によって機械が誕生し、機械が労働者から仕事を奪っている、そのため、貧富の大きな差、富の配分の偏りが生じている、だからヨーロッパで共産主義への理解、支持が広がっている、という見解がでてきます。

 

 キリスト教徒の賀川豊彦は神戸の貧民街に住み、貧民とともに暮らしながら貧民を支えようとしました。そして、社会主義者、労働者のリーダーになっていきます。貧民を救済しようとする人々は、キリスト教徒、社会主義者が多く、現場で主体的に活動をしています。

 

 さて、榎本農商務省大臣は今まで実現しなかった製鐵所の建設予算案の国会承認を得しました。次は今まで実現しなかった職工を保護する法案の成立に向けて動きます。農商工高等会議開催を企画します。農商工高等会議開催の目的は、日清戦争後の国家経営、日清戦争の賠償金を社会にどう配分するかがテーマです。

 

 そして、1896(明治29)年9月に 農商務省が職工法案を公表し、同年10月24日に第一回農商工高等会議に「職エの取締及保護に関する件」が諮問されます。片山潜ら労働運動家も、工場法成立に向けて農商工高等会議に大いなる期待を持ちましました。この会議の冒頭、榎本は各国間の貿易の重要性と貿易を実現する条件は国際平和だと演説します。そして、諮問の結果、推進派は金子堅太郎次官、添田寿一、安藤太郎らで、反対派は渋沢栄一、大倉喜八郎,広瀬宰平らでした。

 

 渋沢栄一を先頭に商業会議所を中心にして、工場法成立に対し時期尚早として、資本家から「職エの取締及保護に関する件」は強烈な反対を受けました。東京営繕会議所や東京会議所での渋沢の社会福祉への活躍から、渋沢が工場法にたいし強く反対することは意外ではありますが、当時の経営サイドからすると、難しい判断があったのかも知れません。しかし、それでも、農商務省は農商工高等会議を契機に、職工保護のための工場法設立に向けて、あらためて動き出します。以下がその経緯です。

 

  • 1898(明治31) 農商務省は職工法案を改正し工場法案作成するも、再び財界が反対する。
  • 1899(明治32) 規定を緩和した法案を作成するも内閣総辞職となり議会に提出されず。
  • 1900(明治33) 1886(明治19)年勅令の小学校令を廃止し、新たな小学校令を勅令し、義務教育を確立する。
     ポイント
     57条1項 授業料無料
     35条 尋常小学校を修了しない学齢児童を雇用する者は就学を妨げることを禁止
  • 1901(明治34) 農商務省商工局工務課工場調査掛は全国の全工業部門の職工の状況を調査する
  • 1902(明治35) 議会から速やかに工場法を制定するべきとの建議を受け、政府法案を作成します。工場法の目的を商業界会議連合会で農商務省窪田工務課長は「工場法は労働者を改善する(健康や習学)ことを目的とし、そのために身体的保護と教育とを直接の目的」と説明します。
     そして、翌年1903に農商務省が全国の職工の状況の詳細な調査結果をまとめた『職工事情』も刊行されますが、日露戦争勃発のため法律は制定されません。
  • 1907(明治40) 文部省は小学校令義務教育を6年制へ延長します。これに合わせ、工場法も連動し、12歳以下の児童の雇用が禁止します。
  • 1909(明治42) 政府が議会に工場法案を提出します。
    これに対する産業界の反応は次の通りです。重工業は譲歩的(熟練工の時代)、繊維や中小工場は若年者や女子の夜間労働禁止に反対。そして、翌1910に政府は法案を撤回します。
  • 1911(明治44) 深夜業禁止を15年間免除する修正案を貴族院で可決(協賛)し、工場法はついに制定されます。
  • 1916(大正5).9.1 工場法施行

 

 工場では、大人の就労環境改善だけで無く、子供の健康保護と教育機会とを確保することが重要な課題でした。そのために、文部省は義務教育である尋常小学校を4年制(10歳)から6年制(12歳)へ延長し、農商務省の工場法では義務教育年齢の子供の就労を禁止するという、文部省と農商務省との共同作業が必要でした。明治の官僚はそれをやり遂げたのです。

 

 榎本農商務大臣が1896年に工場法を農商工高等会議に諮問して以来、農商務省官僚は文部省官僚と連携しながら実に20年かけて成立させます。そうは簡単には決着しないけれども、しかし、日本の将来のために必要だと考えれば、自らリーダーシップを発揮するという榎本らしい取り組みでした。

 

 榎本農商務大臣は、自ら課したテーマに専念し、自身のテーマ以外のことは金子次官に任せ切りにし、1895(明治28)年に製鐵所建設予算の成立後、農商務大臣職を前田正名(1850(嘉永3)年-1921(大正10)年、旧薩摩)に譲ろうと考えたのではないかと思われます。しかし、福沢諭吉が農商務省を時事新報の記事で激しく非難し、農商務省不要論をも持ち出します。その矛先は前田正名と考えられます。そのため、榎本は大臣職に留まることにしました。その間、1896(明治29)年の夏、三度に亘る渡良瀬川の氾濫に端を発した大洪水は広域化し、洪水の行くところへ鉱毒被害も拡大しました。暫く、静かだった足尾鉱毒による農民闘争は、再び激しく燃え上がります。そのため、榎本大臣は足尾鉱毒事件とも正面から向き合うことになります。これは榎本の想定外のことでした。また、貿易では輸出品の品質向上と維持といった課題や関税に関する条約の問題も有りました。この一連のできごとについては、章をあらためて紹介しようと思います。

(産業技術立国編、終わり)

文科省WEB『日本の成長と教育』昭和37年度、https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad196201/hpad196201_2_011.html#fb1.6

千本暁子『20世紀初頭の紡績業における母親女工とその就労継続策』同志社商学第50巻第5・6号、1999

 

谷敷正光『「工場法」制定と綿糸紡績工場女工の余暇』駒澤大学経済学論集第35巻第3号、2003年

((注)大日本綿糸紡績同業連合会「紡績職工事情調查概要報告書」(復刻版) 明治 31 年,124~127の第4表の上部半分)

 

 

花井信『明治33年小学校令小考 : 義務教育確立に関する史的考察 (I)』静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇. 24, p. 95- 107、1974

(以上)


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