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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B)

2021.03.19 Fri

・ついに、グレートゲームの盤面は極東に置かれる

絵はロシアの田舎風四輪馬車、タランタス
(出典:Lanier, Lucien『地理学の読み物選集:要約,分析,歴史的略述,注釈と参考文献を添えて』 アジア第1巻)

 

 

・英国公使、パークスの不安

 

 

 箱館戦争で榎本らが敗戦し、1869年5月18日に五稜郭を開城します。その後、在日英国公使パークスは、1869年9月18日付、妻あての手紙に樺太と蝦夷とロシアの危機を書きました。

 

『「・・・これは日本政府が慎重に処理しないと、ロシヤと決裂になるかもしれない。そしたら日本政府は窮地に陥るだろう。ロシヤは樺太の南端に1200名を集結しているという報道がある。その目的は、日本がきっかけを与えたら、蝦夷を取ろうとしているのだと思う。蝦夷がとられたら日本にとって大損害となり、ロシヤにとっては大利益となるだろう。私は日本政府に対し、蝦夷に兵力を投入すること、樺太に対する権利は実に怪しいものだから、樺太のことで口論しない方がよい、と忠告した・・・」

 ロシア外交政策の到達点が蝦夷であったことはまちがいない。しかしロシヤはまだ達成していない。だから日本政府が英国公使の忠告を容れたことは、適宜の処置であった。』

(フレデリック・ヴィクター・ディキンズ著、高橋健吉訳『パークス伝』平凡社、1989)

 

 

 パークスは妻の手前、忠告したと手紙に書きましたが、パークスの忠告は日本政府内で関係者を大声で怒鳴り、震え上がらせたと言っても過言ではないようです。こういう、日英の認識の中で樺太半分を単に諦めますから、どうか蝦夷への侵攻はお止めくださいという姿勢とは反対に、樺太の半分である我が国の領土を譲る以上は、国民が納得するだけの代物を提示して欲しいといい、千島列島全体を手に入れたことで榎本は胸を張って帰国できるはずです。

 

 

・日本の恐露病 ・・・ 発症する!

 

 

 ところが、榎本は明治10年1月(日付不明)の妻宛ての手紙に以下のように書いています。

 

『一体日本人はロシアを大いに畏れいまにも蝦夷を襲ふならん抔(など)といふはハシニモ棒ニモ掛らん又当推量(あてずいりょう)にて中々左様の訳ニは無之とハ知れど、今手前身分はこの上もなきよき折から「ロシヤ」之領地を旅行して日本人の臆病を覚し且は将来の為めを思ひて実地を経て一部の書をあらわし候心組ニ御座候。日本政府もひたすら此事を望ミ居候。山縣陸軍卿も頗(すこぶ)るここに注意いたし居り候は、尤(もっとも)の事を被存候(ぞんじられそうろう)。』

 

 日本政府、特に陸軍卿がシベリアの現況報告に注目しています。樺太全島がロシアの領土になったため、日本の国境とロシアの国境とは、宗谷海峡を挟んで、わずか50キロ足らずに狭まりました。ロシアの陸軍が北海道へ侵攻する危険が高まったという批判があって当然です。

 

 この手紙では、全権公使は現地視察をするには非常に良い立場なので、この立場を利用して、次の二点が実地調査の目的です。そして、政府、特に陸軍が実地調査の報告に注目しています。

 

  1. 日本人のロシア帝国への恐怖心を取り除く
  2. 日本の将来の為である

 

 日本の「将来の為」という言葉に以下の意味が取れます。

 

  1. ロシアの資源や農業などの状況が将来の北海道での産業の発展に参考にする
  2. ロシアへ日本からの輸出機会を調べる(茶など)
  3. 今回、仮想敵国であるロシア帝国のシベリアでの現状を把握できれば、今後に備え、さらなる調査、諜報活動を準備できる

 

 パークス公使は、ロシアの東アジア外交の終着点は北海道の占領と見做しているので、日本政府は北海道をめぐる戦いがあると考え、予防策を講じる必要が求められます。その代表例が、北海道での開拓と移民の推進、屯田兵の配置など防衛強化策です。

 

 

・榎本のユーラシア大陸横断旅行

 

 

 榎本のユーラシア大陸横断旅行の中で、シベリア横断は、シベリアを「陸行」し、ウラジオストクまでの間を「形情探知」、「探偵」することを目的として、三条実美太政大臣から許可されています。極東における日本とロシアのグレートゲームは、榎本によってキックオフされました。

 

 明治6年1月に中根淑*1が日本最初の『兵要日本地理小誌』を出版しました。筆者の中根淑は、榎本の脱走隊に参加し、榎本艦隊の美嘉保に伊庭八郎(江戸、心形刀流宗家)と共に乗り、北へ向けて出帆したところ、美嘉保が銚子沖で座礁してしまいます。上陸して官軍の追手から逃れます。

 

 その後、中根は伊庭八郎と別れ、潜伏後、友人、乙骨太郎乙*2の従者として静岡藩に入り、沼津兵学校で教鞭を執りますが、沼津兵学校は政府の兵学校に吸収され、中根も兵学校に移り、兵学校での教育用に、地理書を編纂し、『兵要日本地理小誌』を発行しました。この本では、東軍、西軍などの表現を用いたため、上層部と論争になりましたが、中根は論を曲げず、自分の表現を通しました。

*1なかねきよし、1839‐1913、徳川藩士、漢学者、徳川藩陸軍軍人、伊庭八郎の親友、沼津兵学校や明治政府兵学校で指導
  (小笠原長生『同方会9 中根香亭先生の人物』、澤鑑之丞『海軍七十年史談』昭和17年を参照)

*2おつこつたろうおつ、1842‐1922、洋学者、外国奉行等、沼津兵学校や静岡学問所で教授、明治政府で翻訳の業務、榎本が帰国した明治11年から海軍御用掛。明治二年の国家君が代選定にかかわったと伝えられている。明治9年に海軍楽長が旋律改定の提案をしていた。明治13年2月に榎本は海軍卿兼任になると、7月に楽譜改定委員が任命され、委員らにより現在の君が代の旋律が作成された。委員の海軍楽長から楽譜完成の報告を受けた榎本海軍卿は、11月2日付で大山巌陸軍卿へ翌日の天長節では改定された楽譜の使用配慮を依頼し、12月にかけて9省に同様の通知をした。尚、陸軍は、その年の天長節で楽譜改定された君が代を演奏しなかった。

(以上は、澤鑑之丞『海軍七十年史談』文政同志社、昭和17年などを参照)

 

 

 『日本兵要地理小誌』に記載される項目は、地形(分類は多数)、行政区分、気候、人情、風俗、歴史、政治、物産、戸口です。榎本の『シベリア日記』ではこういった項目が形情を構成します。そして、探偵とは軍事情報の収集と分析です。ロシア軍の各地の現況把握やシベリアでのロシア軍の将来の軍事行動を推測することです。

 

 

・榎本の旅行許可は特段の計らいでは無かった

 

 ロシアの当局が、榎本にこの旅行の許可を与え、各地へ連絡をしたことは、榎本に格別の待遇を与えたように見えますが、以下の事例からすると、ロシア政府はこのような旅行を拒まなかったようです。

 

 英国近衛騎兵連隊フレデリック・ギュスター・バーナビー大尉(身長、2メートル)は、1875年11月30日に英国からサンクトペテルブルクに向かいました。彼は、個人的にロシアの陸相に直接、外国人に立ち入り禁止されているロシア領アジアへの立ち入り許可を申請することにしていました。サンクトペテルブルクに到着すると、サンクトペテルブルク滞在中の友人たちから、「英軍将校の君が自前で旅行するなんてロシア人が信じると思うか?君がヒヴァ人の謀反を扇動するためにイギリスから派遣されたと思うだろう」と言われました。

 

 しかし、驚いたことに、翌日、ロシアの陸相から書簡が届き、旅行の便宜を与えるよう、行く先々の司令官(当局)に指示しておいたと書いてありました。但し、「帝国政府は旅行中、旅行先をロシア領外へ延長することを黙認しない。越境者の身の安全を保障できないからである」と書き加えられていました。陸相が何故許可を出したのか明確な理由は分かりませんが、英国領内のロシア人の旅行を英国政府が禁止することを恐れたのかもしれないと考えられています。

 

 バーナビー大尉は滞在先で将校たちや知事に歓待され、また、必要な場合にはコサック兵の護衛まで付けられました。とは言え、バーナビー大尉はそれとなく行き先の規制を受けるので、その規制をかいくぐる工夫が必要でした。彼は目的地である、ヒヴァになんとか着くと、引き揚げたことになっているロシア軍がいつでもヒヴァを攻撃できる位置に要塞を築き、4千の兵を駐屯させていることを知り、又もロシアは嘘をついていたことが分かりました。

(ピーター・ホップカーク著、京谷公雄訳『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』中央公論社、1992)

 

 

・榎本、ヴォルガ川を下り、いよいよタランタスで陸路を疾走する

 

 

 榎本のユーラシア大陸横断も同様でした。榎本は外交官としてロシア国内旅行を申請しましたから、当然、あちこちで歓待され、元々禁止された地域を旅行するつもりはないので、現地で余計な規制は入りません。但し、各地の司令官に駐屯している兵力を質問して、詳しいことを聞こうとしてたまには嫌がられることもあったようでした。だんだん、この手の質問するときは、相手に気を遣うようになっていきました。

 

 7月30日、ニジニ・ノブゴロド(日記では「ニージニノブゴロド」と表記)で、榎本達は足を船に変え、ヴォルガ川を下り始めます。ニジニ・ノブゴロドはヴォルガ川とオカ川が合流する地点にある商工業都市です。1221年に構築された要塞を起源とする都市です。商業が発展し、ストロガノフ家はここに拠点を置きました。しかし、榎本の観察では、『百姓の貧しいことはロシア全国に共通しており』、ニジニ・ノブゴロドまでの列車から見える農家の様子も同様でした。

 

『ヴォルガ川は右岸が常に高くて左岸が低いことは、通常の川岸が交互に高くなったり低くなったりするのとはちがっている。あるロシアの博士の新説によると、北半球の川は通常右岸が高くて左岸が低く、南半球はこれと反対である。これは地球の回転方向によって当然なことだという。この説には不同意の向きが多いとはいえ、これはまた一つの面白い説ではある。』とヴォルガ川の地形について榎本は書いています。榎本は宅状に書かなかったものの、サンクトペテルブルクでいろいろな知識に触れていました。

 

 このように、地理学的、地質学的に面白いことが書かれており、各地で観察したいろいろな人々についても面白いことが書かれています。そういう内容を紹介することは、本論の目的では無いので紹介しませんが、非常に面白いので、ぜひ、『[現代語訳] 榎本武揚 シベリヤ日記』平凡社ライブラリーの一読をお勧めします。

 

 7月31日にカザンに到着します。カザンではタタール人について記録しています。カザンは現在のロシア連邦タタールスタン共和国の首都です。タタール人の街です。タタール人の男女の美貌ぶりとか、文字はペルシャと同じとか、その他いろいろ記録しましたが、単語を採取しても良かったのではと思います。

 

 翌日の8月1日、榎本の日記で特徴的な記述があります。榎本は前日の日記にヴォルガ川とカマ川との地理的記述をしましたが、この日の夕食時にロシアの金鉱山のことや硬貨や紙幣のことを詳しく教えてもらい、書き取ります。この後、盛んに砂金のことが日記では記述されます。

 

 8月3日にペルミに着き、ここで、タランタスの二人乗り用、1輌、小ぶり1輌を調達します。バネを止め、耐久性を高めたシベリアの自然道(オフロード)を疾走するために改造された馬車です。ここペルミには大砲の製作所があると教えられ、見学に行きます。石炭も鉄鉱石も近辺から採取されます。鋼鉄の製造法はジーメンス社の技術、大砲の製造法はクルップ社の技術であることが分かりました。

 

 8月4日には、いろいろ地質学的記録をしながら、実は、すでにウラル山脈を越え、ヨーロッパからアジアに入っていましたが、そのことを翌日知ります。この頃、タランタスは昼夜走り続けるので、車中で夜を過ごしています。

 

 

・砂金

 

 

 8月5日、ウラル地方の中心都市、エカテリンブルグに到着します。

 ここはウラル山脈の東側に位置する都市だと知らされ、榎本は知らないうちに、欧州との境界と考えられるウラル山脈を越え、アジアに入ったことに気づきます。この日の宿の主人はユダヤ人でした。この主人は『ユダヤ人のようで挙動に不快を覚える』と記録しました。

 

 公文書や検閲を受けるに違い無い家族や友人あての手紙に書かなかったユダヤ人のことを日記には書いています。理由は詳しく分かりませんが、榎本はユダヤ人に好感を持っていなかったようです。ユダヤ人については、さらに後に記述されています。

 

 ここでも行政、軍事、経済事情などを取材します。そして、翌日の8月6日、砂金場の見学をします。榎本はウラジオストクに着くまで、度々、砂金場を訪れます。『ロシアの東方進出は18世紀に再開され、ピョートル大帝が砂金採取目的に送った探検隊や威力偵察隊は、ヒヴァ・ハーン国などの抵抗にあって挫折しました。そこでロシアはウラルから天山、シベリアからトルキスタンの沙漠におよぶ広大なカザフ草原の北縁に沿って要塞を築いた・・・』(『世界の歴史 20 近代イスラームの挑戦』から引用、編集)

 

 ロシアは資源国です。サンクトペテルブルクの鉱物学博物館には約1200種の鉱石が陳列されていることは有名です。榎本は見ているはずです。ピョートル大帝が砂金採取にこだわったことを榎本は知っていたのでしょう。また、大々的な戦争を繰り返しする資金をヨーロッパから提供されているにしても、それなりの資金源が必要です。その代表的なものが金だと考えたのでしょう。そこで、あちこち砂金採取場を見学しました。

 

 ドイツの地理学者、リヒトホーフェン*1が幕末と明治初めの二度、日本を旅行します。彼は、『近代地理学の両学祖フンボルトとカール・リッターの衣鉢を継ぐドイツ科学界の王侯とも呼ばれた巨匠』*2でした。彼は、ベルリン地理学協会会長を務め、ベルリン国際地理学協会やベルリン海洋学会などを創設します。

 

 リヒトホーフェンの日記*3によると、明治3年12月17日、鹿児島の川内川の一支流にある芹ケ野金山に案内され、金鉱山に出会えたことを非常に喜びます。榎本がどこで地理学、地質学を学んだのかは定かではありませんが、榎本も金にこだわっていました。また、ベルリン地理学協会会長の『日本滞在記』と榎本の『シベリア日記』を比較すると、『シベリア日記』には何の遜色もなく、いずれも同じように読んでいて興味深い内容です。

 

*1リヒトホーフェン(1833‐1905、ドイツ、「シルクロード」の命名者、名前の表記はRichthofen、Ferdinand von Wilhelmなど) 

*2西川治『序文 リヒトホーフェンをめぐる学縁』、リヒトホーフェン著、上村直己訳『リヒトホーフェン 日本滞在記』九州大学出版会、2014より引用。

*3リヒトホーフェンは日本人の電信機や化学の知識が素晴らしいことについても記述しています。リヒトホーフェンは万延元年12月3日に市川斎宮(いつき)と出会い、市川が電信機のすべての理論と実際を知り、写真の現像用暗室での知るはずがない化学薬品やその効果の知識を示し、さらには外国語に関する能力と努力を知り、どうして単に書物からそのような完全な知識を獲得できたのか驚いてしまったことを日記に書きました。

 

 

・農民が用いる粗末なタランタスの乗り心地は非常に良く、榎本は驚く

 

 

 8月7日、タランタスに分乗した榎本達は、すでにエカテリンブルグを過ぎ、ペルミ領の東端付近に達しました。途中、数十台ひと塊にしてキャフタから支那茶を摘んだ一隊と何度もすれ違います。通年、お茶は輸送されると教えられました。また囚人たちを乗せたタランタスも見かけ、罪人用の宿泊所も見ました。

 

*お茶の輸送 玉井喜作(1866-1906、山口県出身、札幌農学校でドイツ語教師をした後、シベリア経由でドイツへ渡る)がシベリア横断中、明治26年の厳寒期にお茶の輸送隊に同行をする。この時の体験をドイツ語で書いた『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN(西比利亜征槎紀行)』を出版し、昭和38年に邦訳され『シベリア隊商紀行』として出版された。

 

 

 榎本はためしに農民が用いる粗末なタランタスに乗って走らせてみると、自分が使っている大型タランタスに比べ「動揺」が少なく乗り心地が非常に良いことに驚きます。これについて榎本は、一言書きました。『高貴な人々が不都合な大タランタスに頼り切ってこれを利用しているのは、新しいものを好む気質のない一時しのぎの性格とみるべきだろう。』

 

 珍しく、榎本はロシアの歴史と政治について本音を書きました。検閲を受ける手紙には書けませんが、いつも懐にいれている日記だから書いたのでしょう。ロシアの貴族や支配層は、あちこち問題だらけの大ロシアの社会システムにしがみつき、進取や改革の精神も無く、根本的解決を図る気力、意欲が無く、対処療法しかしないと、榎本の鋭いアナロジーと切れ味がする一言でした。

 

 タランタスに乗ることは拷問なので、次の街、チュメニ(日記では「チュメーニ」と表記)で船に乗り換えようとしますが、次の船は一週間後なので、諦めてタランタスで行くことにしました。馭者(ぎょしゃ)らみんなが、ここから先の道路事情は非常に悪くタランタスが転覆する危険性があるので夜間のタランタス走行を止めた方が良いと言います。この駅逓(えきてい)で一泊することになりました。ここでは、サンクトペテルブルクの公使館にいる西徳次郎から電信を受け取った、荷物についての問い合わせだった、とのみ記録されています。

 

 

・チュメニで英領印度へ向けて出兵した軍の情報を収集する ・・・ 榎本は悩む

 

 

 8月8日、夜明けとともに出発した榎本らのタランタスは、途中、シベリアとヨーロッパの境を示す標石を確認しながら進み、夕方、チュメニに到着しました。用意されていた宿泊所は大商人の家でした。商家の門の前に役人と見物人が群れていました。榎本は、夕食が始まり、相手は商人でしたが、ロシア軍の動向を質問します。

 

 露土戦争で、1877年12月10日、ロシア軍は、プレヴェン要塞(プレヴナ要塞)包囲戦でこの戦争中、最大の激戦を制し、その後、ロシア軍の進撃は続き、1月17日、ルーマニアのプロヴディフの戦いに勝利すると、コンスタンティノープル(イスタンブル)近郊の都市、エディルネ(イスタンブルまで240km)に到達します。

 

 そして、ロシア軍は、コンスタンティノープル(イスタンブール)の門の前に立つと、ダーダネルス海峡に停泊している英国地中海艦隊が目に入りました。そこから一歩でもコンスタンティノープルに入ったら攻撃すると英国はロシアに重大警告を発します。英露は戦争寸前になりました。

 

 これに対し、タシュケントのロシアのトルキスタン総督府のカウフマン総督は、英国との戦争の可能性を予見し、戦争が勃発した瞬間、カーブル経由で三万の兵をもって英領印度に進行する手筈を整えていました。そのため、カウフマン総督は少将の一人をカーブルに送り込み、アフガニスタンとロシアとの軍事同盟の交渉をさせていました。ロシアとアフガニスタンの連合軍で英領印度に侵攻し、インドの大衆を蜂起させ、インドを解放しようという提案でした。この提案には、賛同できない場合のアフガンの王への脅しも含まれていました。こちらも英露一触即発でした。

 

商人の話では、チュメニ、トポリスクから1,2大隊がタシュケントへ向かった
黒線は榎本の旅行経路

 

 

 しかし、「コンスタンティノープルまであと二日の地点(エデルネ)にロシア軍が達しながら、1878年3月、ロシアはトルコと休戦協定(サンステファノ条約)を結びました。ブルガリアはトルコから独立し、東部アナトリアでもロシアは広い領土を獲得しました。ロシアの狙いはブルガリアとアルバニアを結ぶ衛星国を作り、地中海に進出することだった」のです。

参照
ピーター・ホップカーク著、京谷公雄訳『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』中央公論社、1992
Hopkirk, Peter. The Great Game: On Secret Service in High Asia (p.412). John Murray Press. Kindle 版

 

 

 英国はサンステファノ条約でロシアがバルカン経由で南下できることに危機感を抱き、ドイツと協力して、ベルリンでサンステファノ条約の見直すいわゆるベルリン会議を設定しました。6月から協議を開始し、7月13日にはサンステファノ条約でのロシアの権益を大幅に減らしたベルリン条約を締結し、ついにロシアはバルカン半島を経由して南下することができなくなりました。

*ドイツ宰相のビスマルクが主宰した国際会議。期間は1878年6月13日‐7月13日。出席国は、英、仏、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア、ロシア、オスマン(トルコ)。

 

 

 榎本はサンクトペテルブルクで読んだ新聞の噂話記事から、チュメニからタシュケントへの兵の移動があったかに関心がありました。タシュケントのトルキスタン総督府へ出兵する本体の集結場所を把握していなくとも、タシュケントの北方に位置するチュメニ(タシュケントから北方、約2千キロの地点)で聞けばなにか分かると踏んでいました。

 

 榎本は、各国書記官が着用する大礼服を来た商人に出兵の件について質問しました。『昨年の戦争に当府(チュメニ府)から出征したか否かを質問すると、出征しないという。ただ1,2大隊(1大隊は数百名)に当府および(ここから北東へ245キロ離れ、タシュケントから約2500キロの地点の)トポーリスク府(トポリスク)にタシュケントへ出兵すべしと命令がくだり(これは英国のインド領を攪乱するためと聞いた)出征したが、その兵はこの度のベルリン条約が結ばれたため、現在は帰途にあると聞いている、云々』と答えました。

 

 そこで、榎本は商人にさらに質問します。

 

『わたしはこういった。近頃インドへ侵入しようとした軍隊は、ゲネラル・カウフマン将軍の命令で三万よりブハラ国に進駐する予定であるとの噂を新聞記事で読んだ。それなのに当府の兵が帰ってくるというのはわたしが聞くところと異なっている。別にブハラの件を聞き込んだことはあるかと尋ねると、知らないと答えた。これは商業に関することではないので、商人に聞くのは当を得ないと思いやめた。』

 

 榎本がサンクトペテルブルクを出発する7月26日は、既にベルリン条約が締結(7月13日)されていた後です。但し、締結と同時に報道されたかどうかは、榎本は語っていませんが、チュメニ府の商人が知っていたのですから、榎本が知っていておかしくありません。

 

 榎本が話をした商人は、タシュケントに集められた兵の目的は『英国のインド領を攪乱するため』と語っています。この一言で答えがハッキリしていますが、さらに榎本は読んだ新聞記事を確認しようとしました。しかし、これ以上には、ブハラに三万の兵が集結していることについての関連情報は記録していません。榎本の頭の中で情報と状況が整理されず、混乱が起きていたいのでしょうか。

 

・コンスタンティノープルとカイバル峠での二正面作戦は実行されない

 

 コンスタンティノープルの直前までロシア軍が進軍すると、敗退したトルコに変わり英国艦隊がロシアと衝突しそうになります。このとき、ロシアはタシュケントから英領印度へ三万の兵を進行させる手筈を整えました。しかし、A案(バルカン半島で南下)が失敗したら、B案の英領印度へ進行し南下する、ではなかったのです。

 

 このカウフマン総督の作戦には、ロシア軍はコンスタンティノープルとカイバル峠(ハイバル峠)の二正面で戦端を開き、英軍を二分(分散)させ、コンスタンティノープルとカイバル峠で英軍の勢力をわずかでも弱める、またはカイバル峠に英軍を釘付けにし、英軍最大勢力をコンスタンティノープルへ殺到させないようにし、コンスタンティノープルでの戦闘を有利に導く狙いがありました。

 

 AとBの戦場で同時進行に戦闘が行われることで、両方の戦場の趨勢をロシアに傾けさせるという作戦ですから、Aが中止になればBも中止です。しかし、榎本は、バルカン半島での南下(A案)ができなかったため、B案単独で英領印度へ進行すると考えていたようです。

 

 何故、榎本がすんなりそういう判断に至らなかったのでしょうか。今までのグレートゲームで分かってきた、ロシアの典型的対応は次の3項で、4項目は実例です

 

  1. ロシア政府の公式コメントは常に平和的である
  2. ロシア(政府)から出てくる非公式コメントは相手国へ恫喝的である
  3. ロシア政府は、今回が最後の侵略だと発表しながら、さらに侵略を繰り返す
  4. 実例  1875年、英国陸軍のバーナビー大尉がヒヴァに到着すると、引き揚げたことになっているロシア軍がいつもヒヴァを攻撃できる位置に要塞を築き、4千の兵を駐屯させていることを知った。ロシア政府の軍を引き揚げたという発表は嘘だった。

 

 以上の知識と理解が榎本にはこの時点では不足していたようです。

 

 

・ロシア政府の検閲と情報操作に混乱する榎本

 

 

 ブハラに三万の兵が、カイバル峠へ向けた進軍のため待機中という軍事情報を、検閲が厳しいロシア政府が新聞記事として発行許可をするとは考えられません。しかし、もし、榎本が読んだ新聞記事が、ベルリン会議終了(7月13日)前の発行であったなら、ベルリンでの交渉をいくらかでも有利にするよう、ロシア政府がわざわざ記事を出させたことになります。非公式のコメントで相手国を脅していることになります。前記の2項に該当します。最終的に榎本がそう理解したか否かは分かりませんが、榎本のことなので了解したことでしょう。一方、ベルリン会議後の発行なら、ロシアの英国への嫌がらせです。

検閲は皇帝直属官房第三部の仕事。第三部は秘密政治警察の仕事をしている。

 

 実は、ベルリン会議中、英露戦争のリスクが下がった時点で、タシュケントに集められた三万の兵は解散になりましたが、次の英露の軍事衝突に備え、トルキスタン総督府からカーブルに送り込まれたロシアの交渉チームは、アフガンとの英領印度への共同侵攻の可能性を模索し続けていました。

 

 ベルリン会議が進行中に、英国側のアフガンの現地部族のスパイから、ロシアの交渉チームの情報が届きました。この件について英国政府から問い合わせを受けたロシア外務省は、「そのような訪問は考えられない」と主張し、その関連のすべての話題を否定しました。これは前記、1項に該当します。

参照 ピーター・ホップカーク著、京谷公雄訳『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』中央公論社、1992
   Hopkirk, Peter. The Great Game: On Secret Service in High Asia (p.412). John Murray Press. Kindle 版

 

 

 夕食後に警察署長官と市長宅を訪ねますが、会えませんし、翌日、チュメニを出発するまでの間、軍関係者とも会っていません。スパイ小説風に考えますと、榎本と商人の会話にタシュケント出兵の話題がでて、榎本がこの話題に熱心らしいことをスパイが把握し、さっそく、その後の訪問予定先に情報を伝えたので、警察署長官と市長は隠れてしまったのかもしれません。

 

・ついに、The Great Gameの盤面は極東に置かれる

 

 ここまで来ると、勘の良い榎本は、ロシアは、コンスタンティノープルでの戦争を有利にするためにカイバル峠でも戦争を起こすのであって、コンスタンティノープルで戦争が起きなければ、カイバル峠でも戦争は起きない、さらには、カイバル峠で単独では戦争を起こさないことが分かりました。現状は、黒海やバルカン半島の南下ルートは閉ざされてしまっている、カイバル峠からの南下は単独には実行できない、その結果、ロシアに残された南下の舞台は極東しか残されていないことに榎本は気づいたに違いありません。いよいよグレートゲームの盤面は極東に置かれるのです。

(旅は続く)

補足

 

 榎本は、サンクトペテルブルクで各国の新聞記事を読んでいてもう一つの収穫を得ました。情報分析しているつもりでしたが、現地へ行くとまた違った重要な情報があることをチュメニで学びました。新聞記事などで公開された情報や請求すれば得られる情報などを集めて分析する手法をOSINTと言います。Open source intelligenceの略です。

 

 榎本は徳川幕臣の時代から諜報活動による情報収集・分析と予測、対応策検討の重要性を理解していました。そして、今回、OSINTとHUMINT(Human intelligence、人が持っている情報を収集して分析する)と言われる異なる情報収集手段を突き合わせることの重要性を現地であらためて実感することになりました。

9月11日のプレヴェン要塞(プレヴナ要塞)包囲戦での激戦が終わり、ロシアが勝利すると、観戦武官としてロシアの本営にいた山澤静吾中佐(1846‐1897、薩摩藩士、陸軍軍人)は、戦地で皇帝から勲章を与えられたと、ロシア政府から榎本公使に連絡が入った。『9月20日に、ロシア外務省大輔ヂエールから榎本武揚ロシア公使に「陸軍中佐山澤静吾氏は釼の形を装付せしサンブラヂミル四等賞牌を綬典相成り候」(外務省公電)と連絡があった。ロシアの惨憺たる戦いの後で、戦地にいたロシア皇帝から山澤が叙勲したというのである。・・・ロシア軍本営総崩れの一歩手前が目に浮かぶ。山澤は、白兵戦の中で軍刀を振るって応戦したのであろう。これは想像だが、一撃で頭蓋骨を切り裂く山澤の自顕流が露土双方の兵士の「衆目を驚かし」、トルコ兵を撃退するほどの威力を持ったのではないか。』

(出典:元駐ブルガリア大使 福井 宏一郎『ブルガリアの地を初めて踏んだ日本人-露土戦争の観戦武官・山澤静吾の武勲-』)


この記事のコメント

  1. 高成田享 より:

    榎本のシベリア横断をグレートゲームの文脈で考えると、単なる探検旅行でも、「狂露病」克服だけでもないことがわかりました。日露戦争は横断旅行から4半世紀後のことですが、榎本はどこまで見通していたのか、妙味は尽きません。

  2. 中山 昇一 より:

    高成田様
    ありがとうございました。いよいよ、榎本は核心の地域に入ります。政府主流派は日清戦争をするつもりでしたので、榎本も従うしかないと思っていたようですが、明治11年のシベリアで、日露戦争をどう考えていたのか、気になります。

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