大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
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「足し算の集合知」と「引き算の集合愚」---総表現社会の光と影

2016.06.07 Tue
1997年に商用提供を開始したコミュニティサービス「アットクラブ」

◇インターネットで世界平和が実現する?!--新メディアの影響の楽観論と悲観論

長岡さんの「インターネット=包丁」論を共感をもって読みました。インターネットやスマートフォンに限らず、新しいメディアが登場すると、無邪気な楽観的肯定論と、悲観的な否定論という両極の論が台頭するように思います。道具の特性をよく知って、うまく効果的に使いたいものです。

日本でインターネットが商用提供されるおよそ15年前、前者(楽観論)の極端な例を見ました。インターネットのようなマルチメディア通信が広まると世界平和が実現するという説です。実際、ある大企業の幹部候補生の若手選抜チームが1980年頃に作成したレポートには、アメリカや(旧)ソ連、日本などの市民が直接ネットを介してコミュニケーションをするようになり、その結果世界平和が実現すると大まじめに書いてありました。

◇日本人はキーボードアレルギー?!

後者(否定論)については、たとえばワープロ専用機が登場した頃、日本人にはキーボードアレルギーがあるのでワープロは普及しないという論がかなり有力でした。仮名漢字変換の機能を持ったワープロ専用機として日本ではじめて登場したのは東芝のJW10でした。1978年のことです。当時私は野村総研に在籍していたのですが、1台600万円もするJW10を会社が購入して、研究員が共同で利用できるようにしてくれました。さっそく興味津々でさわってみると、仮名の配列が、学生の頃、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』に影響されて買ったひらがなタイプライターの配列と同じだったので、すぐさまブラインドタッチで打つことができました。

◇小説家もワープロを使うようになる!

共同利用と言っても、めんどうなものをわざわざ使おうという人はろくにおらず、私はほぼ独占して使っていました。その頃、私は有識者向けアンケート調査の設計をしていたのですが、アンケート設計というのは質問文や選択肢の文を、書いては消し、書いては消しという試行錯誤を繰り返して作成します。鉛筆と消しゴムでそのような繰り返しをするのはなかなか骨が折れますが、ワープロという機械はそれにまさにぴったりの道具だったのです。これは必ず一般個人にまで普及するに違いない、小説家だって使うようになるだろうと、私は当時確信しました。しかし、周囲では、ワープロの用途は総務部のような定型文書を扱う部門に限られるだろうというような論の方が優勢で、小説家が使うなどというのは、突拍子もない空論であるかのように言われました。しかし、今やワープロ専用機こそ消えましたが、パソコンのワープロソフトで文章を打つ人は珍しくもなんともなく、小説家も大多数がキーボードから打ち込むようになっています。

◇faxも高速光回線も否定論が台頭

電電公社の回線開放でFAXが出始めた頃も、私は一般家庭にまで普及すると主張しましたが、法務省の前科照会のように、氏名や地名のような当用漢字だけでは用が足りないような業務をするケースに限られるだろうというような論に象徴されるように、否定する人が目立ちました。

光ファイバーによる高速広帯域通信についても、いったいそんなものを必要とするようなコンテンツがあるのかと、ある技術評論家に言われました。私は90年代の終わり頃、「日経ネット会議」というのに参加していて、その中で、プロが作ったコンテンツを多数に分配する映像のようなコンテンツばかりでなく、子供や孫のビデオ映像を祖父母に見せるような、つまり送る相手はごく少数ながら、膨大な数の人々がそういう何気ないコンテンツを気軽かつ頻繁にネットに乗せるようになる、言い換えれば「すべったころんだコンテンツ」とでも呼べるようなコンテンツが光ファイバーの恩恵で飛び交うようになるだろうと予見したのです。

19世紀に電話が発明された当初、その有力な用途としては、有線ラジオ的な娯楽メディアとしてイメージされたようですから、新しい技術で新しいメディアが登場したときというのはなかなか有力な用途が見通せないというのも無理からぬことではあります。

◇関係性を変えるメディアがもたらす総表現社会

さて、道具は使いようで、役にも立ち、害も及ぼす、というのは包丁もインターネットも同じですが、道具の性格として異なる点もあります。包丁は料理に使う限り、料理を作る人と食材という、包丁を媒介にした関係は単純です。しかし、インターネットの場合、インターネットを介した人と人の関係は従来のメディアと比べて大きな違いがあります。しかも、その関係性は一様ではなく、さまざまな形があります。

「総表現社会」というのは私が1995年に出した本の中で使った言葉ですが、インターネットによる代表的な(社会的)関係性の変化です。

◇総表現社会の正負の側面---集合知と集合愚

マスメディアの情報を一方的に受け取っていた時代と異なり、誰もが手軽に情報やメッセージを発信できるという関係性の変化が起きるのが総表現社会です。ツイッターやブログなどのインターネット上のツールを使って、個人的な“すべったころんだ”レベルのことから社会的なテーマに関する意見表明まで、有名無名を問わない個人の誰もが表現・発表の機会を得ることになりました。

それは、第四権力と呼ばれることもあるマスメディアに対抗する言論のパワーを持ち始め、マスメディアの行き過ぎを牽制する力を持ち、またマスメディアがカバーしきれないテーマや、提示しきれない多様な視点を人々の前に提示することができるようになりました。

一方、芸能人の失敗をとらえて、過度なバッシングが行われたり、ある意見に対して否定的な決めつけを集中豪雨のようにあびせたりというような、「めくじら社会」とでも言いたくなる現象がしばしば起きるようになりました。これらは総表現社会の負の側面です。

つまり、インターネットを活用した総表現社会のありようには二通りあり、ひとつは多数の人の視点の「足し算」ないし「かけ算」によるアイデアやビジョンなどの集合知が生まれる社会。もうひとつは、多数の人の否定の言葉にたじろいで、どんどん無難で平凡な態度や後ろ向きの姿勢に縮こまってしまう「引き算」の効果をもたらす社会です。どちらがいいかは明らかではないでしょうか。近未来の日本社会をどのようにつくっていったらいいか、多様な視点をお互いに交差し合うことによって、足し算やかけ算のビジョンを何としても生み出していきたいものです。

ただし、現状は、さまざまな考えや意見が、飛び地のようにあまねく散在しているような状態であり、引き算ではないとしても、足し算にもなってないという状態です。足し算の場をどうつくっていくかという課題は大きく残されています。発信者と読者の間で編集者が新たな役割を担うとか、ビッグデータ分析など新しい技術を活用することなどを視野に、さらに考察を進めたいものです。

注:「総表現社会」という言葉は、梅田望夫さんが有名な『ウェブ進化論』(2006年)で使ったために、梅田さんの造語と言う人もいますが、少なくとも私が考えて使ったのはその10年くらい前だったのです。(校條諭編『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年刊)の252ページ参照)

注:冒頭の写真のチラシは、筆者が起業してNTTと共同で開発・提供したネット上のコミュニティサービス「アットクラブ」(1997年)。いまで言うSNSの先駆けとなりました。


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