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聖書学者、田川建三さんの死を悼む

2025.12.16 Tue

2025年8月、聖書学者の田川建三さんの訃報が新聞に掲載されました。朝日新聞の訃報は、次の通りです。

 

田川建三さん(たがわ・けんぞう=新約聖書学者)2月19日、気管支肺炎で死去、89歳。葬儀は近親者で行った。東京大大学院を修了後、仏ストラスブール大で博士号を取得、大阪女子大(現・大阪公立大)教授などを務めた。護教的な立場を排して、新約聖書を解釈した『新約聖書 訳と註(ちゅう)』全7巻で、毎日出版文化賞企画部門を受賞した。ほかの著書に『イエスという男』など(朝日新聞2025年8月14日)

亡くなってから半年後の訃報でした。田川さんの聖書学者としての研究や業績、さらに思想家としての発言などを考えれば、もっと長い記事や評伝、識者の追悼文などが続報として掲載されるだろうと思っていましたが、それは、ほとんどありませんでした。私が確認できたのは、「週刊読書人」(9月12日)に掲載された橋爪大三郎さんの「追悼・田川建三」と「日本の古本屋」のメールマガジンに9月から11月まで3回に渡って連載された樽見博さんの「田川建三氏と1960年~70年代の雑誌文化」くらいでした。

 

考えてみれば、田川さんは、キリスト教という宗教団体や組織から離れた視点から聖書を研究し、護教的な見方からの聖書解釈を徹底的に批判してきたので、キリスト教に染まった聖書学者たちが田川さんの学問的な業績を評価しようとしないのは当たり前かもしれません。だとすれば、「専門家」の話をまとめて、新聞に「評伝」を書く記者がいないも当然かもしれません。

 

そこで、というわけでもないのですが、生前の田川さんとささやかな交流があったこともあり、半年遅れの追悼文を書くことにします。

 

9.11と黙示録

 

私が田川さんに会ったのは2002年12月、その前年に米国で起きた「9.11同時多発テロ」と「黙示録」について、田川さんの意見を伺いたいと取材した時でした。どうやって取材を申し込んだのか覚えていないのですが、快く引き受けていただき、場所もはっきりしないのですが、田川さんが毎月、京阪神で開かれていた講座の前後ということで、三宮あたりではないかと思う駅のレストランか喫茶店で、インタビューしました。

 

ワシントン駐在の記者として9.11に遭遇、翌年に帰国して論説委員をしていた時期で、「黙示録」というキーワードで田川さんの話が伺えるのではないかと、考えたのです。そのときのインタビュー記事は、朝日新聞のデジタル版に連載していた「ニュースdrag」というコラムに、2002年12月30日付けで、「9.11と『黙示録』―田川建三さんに聞く」と題して、掲載されました。

https://docs.google.com/document/d/1nFxgb2jqdn5xgT_vfCvPs2FAJ5pbhBBO/edit

 

あらためてその記事を読むと、導入部分で、社会学者の見田宗介さん(2022年4月に84歳で死去)が『論座』の2003年1月号で、9.11について「黙示録」の世界を思い浮かべた、というくだりがありました。となると、田川さんにお会いしたのは、月刊誌の1月号が発売される前年の12月だとわかった次第です。

 

9.11直後から、米国のメディアには、バビロンの都が崩壊する「黙示録」のイメージとの重なりを指摘する記事や解説がありました。そこで私も、9.11と「黙示録」について何か書きたいと考え、それなら田川さんだと思いついたのでしょう。田川さんとのアポが取れて、いよいよお会いできることになったところで、見田さんの論文を読んで、大学時代に見田ゼミの学生だったこともあり、取材の後押しをされる気持ちになったと思います。

 

始めてお会いする田川さんは、聖書に無知な私にも優しく接し、質問にも丁寧に答えていただきました。「黙示録」に精通している田川さんから見た9.11をどう見るかについて、田川さんはインタビュー記事では、次のように語っています。

 

まさに黙示録の世界と同じ構図だと思います。ただローマ帝国の支配者は、現在の米国よりも、自分たちが何をどう支配し、どれだけ殺しているかを自覚していたと思います。その意味では、現在の米国のほうが重傷だともいえます。星条旗を担いで、おめでたく自分たちが正義だと言っている連中をみると、ローマ帝国で皇帝崇拝を押しつけてまわっていた連中のほうがまだましに見えます(「ニュースDrag」2002年12月30日)

 

黙示録が書かれた当時(1世紀末)のローマ帝国の支配は、現在の米国の世界支配と同じ構図だが、支配のあり方は、ローマ支配のほうが現在の米国支配よりも、まだましと言うのですから、なかなか手厳しい目を米国に向けていることがわかります。

 

9.11当時を振り返ると、冷戦が終わった1990年以降の世界は、米国の「一極支配」の時代と言われ、米国の掲げる「民主主義と市場経済」が社会主義圏だった国々にも広がり、米国及び自由主義を標榜する国家の繁栄がずっと続くように思えた時期でした。イデオロギーの対立がなくなったわけで、フランシス・フクヤマの著書『歴史の終わり』(1992年)が話題になりました。

 

だから、9.11は、米国の一極支配に対する怨嗟が「イスラム過激派」を通じてテロという形で噴出したことへの衝撃とともに、民主主義と市場経済が世界をフラットにして歴史が終わるというビジョンが幻影だったことを示しました。

 

米国は「テロとの戦い」と名付けて、2001年10月から「イスラム過激派」のタリバンが支配するアフガニスタンへの報復攻撃を始めました。その後、米ブッシュ政権は、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、テロ組織を支援し大量破壊兵器を保有しているとして批判を強め、2003年3月には、イラク戦争に入りました。田川さんへのインタビューは、アフガニスタン戦争とイラク戦争の狭間の時期ということになります。

 

根底にある経済支配

 

田川さんの見方は、1世紀のローマ帝国でも、21世紀初頭の米国の一極支配でも、その根幹にあるのは経済支配だということでした。田川さんは、「黙示録」18章にある、火に焼かれたバビロンを見て嘆き悲しむ商人たちが取り扱っていた商品が羅列されている箇所を、ローマ帝国の経済支配の具体例だと、話しました。「黙示録」からの引用は、インタビュー記事では、次のようになっています。

 

その商品とは、金、銀、宝石、真珠、ぜいたくな麻布、紫布、絹布、緋布、あらゆる香木、あらゆる象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石でできたあらゆる器、シナモン、カルダモン、お香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、麦、家畜、羊、馬、車、奴隷、生きた人間である(「黙示録」18章12-13)

 

私は、テープ起こしをもとに記事の素案をつくり、田川さんの発言部分について、修正や補足を求めました。「黙示録」のこの部分について、私の手元にある新共同訳の聖書を使ったところ、こんなひどい訳をもとに語るわけにはいかないので、と言って引用部分を全文、田川訳に直しました。ほかの部分について、修正や補正があったのかどうか覚えていないのですが、この田川訳には、聖書に対する田川さんの執念というか気迫を感じました。

 

だから、田川さんが新約聖書の全訳に取り組み、2008年から『新約聖書 訳と註』(以下、『訳と註』)の刊行を始めたのは、自然なことだと思いました。とはいえ、新約聖書の全訳というのは、とてつもない大仕事で、よくぞ決意されたなと感動、感服しました。

 

第1巻の「マルコ福音書/マタイ福音書」から始まった『訳と註』の最後となったのが2017年に配本された第7巻の「ヨハネの黙示録」でした。あらためて、インタビューで引用された上記の部分を『訳と註』で読むと、「訳」は、次のようになっています。

 

金の、銀の、高価な石の、真珠の、ビュッソス布の、紫布の、絹布の、緋布文字の積荷を、そして、さまざまなテュイア材(の什器)を、さまざまな象牙の器を、またひどく高価な木製ないし銅や鉄また大理石の器を。またシナモン、アモーモン、香、香油、乳香を。そして葡萄酒、オリーブ油、セミダル小麦粉、穀物、家畜、羊を。そして馬の、レダ四輪車の、人体の(積荷)。そして人間の生命を(『訳と註』第7巻「ヨハネの黙示録」の「訳」18章12-13)

 

インタビュー記事での田川訳とは異なっていますが、より厳密に、正確に訳すと、こうなるのでしょう。「註」では、ここに列記された商品のひとつひとつについて、当時の流通状態などが解説され、とくに、「ビュッソス布」、「テュイア材」、「アモーモン」、「セミダル小麦粉」、「レダ四輪車」などなじみのないものについては、より詳しく説明されています。ここだけをみても、田川さんの「訳」と「註」が膨大な作業だったことがわかります。

 

そして、「註」を読むと、上記の部分を含む18章11-13について、「一見つまらぬ貿易商品一覧表であるが、ある意味では、この部分が黙示録全体の白眉であると言ってもよい」と、書かれています。その理由を次のように書いています。

 

この著者は、帝国支配の基本構造は経済構造であるということをよく知っていたのだ。(中略)ローマの町が崩壊すれば、彼ら大商人の繁栄も一夜にして潰える。そしてそれは、世界の圧倒的多数の人間たちの貧困の上に一にぎりの成金金持どもが贅沢をほしいままにした経済支配の体制そのものの崩壊である。それがこの著者の幻想的願望であったのだ。それが言いたくて、この著者はこの本を書き上げた。(中略)そのことが見えていれば、著者が黙示録全体の頂点である18章の中に、いわばその白眉とも言うべき個所に、地中海商人の経済活動の一覧表的描写を置いたのも、おのずと理解できよう(『訳と註』第7巻「ヨハネの黙示録」の「註」18章11-13《ローマ支配下における地中海商業の繁栄とその滅亡》)

 

まるで黙示録の著者の思いが乗り移ったかのように、一握りの「成金金持」が贅沢をほしいままにするローマ帝国の経済構造を語る田川さんは、21世紀の世界経済がほんの一握りの「成金金持」に牛耳られていることを意識していたのだと思います。だとすれば、9.11にも思いを馳せていたでしょう。もちろんアルカイダとされるテロを「神の裁き」とは思わなかったでしょうが、一握りの人たちが多くの人々の労働で作り出したものを収奪したり、搾取したりする「経済構造」がある限り、テロのような行動はなくならない、と考えていたと思います。

 

インタビューのなかで、田川さんはザイール(現:コンゴ民主共和国)の大学で教えていたときを振り返りながら、「いつ殺されてもしかたがないと思っていた」と語っています。「支配」と「被支配」が鮮烈なザイールのような社会状況のなかでは「中立」はありえず、大学教授は「支配」の側に入るという自覚が「殺されても仕方ない」という思いになったのでしょう。私には到底できない覚悟です。

 

9.11を受けて米国は、テロの温床と考えたアフガニスタンやイラクを攻撃しましたが、これらの戦争は勝利とはとても言えないままに終わり、むしろテロを世界に拡散させたように思えます。米国の「一極支配」も、中国などの台頭で色あせてきました。アフガニスタンやイラクでの軍事行動が米国を衰えさせ、それが世界との関りから米国が退く「米国第一主義」を掲げるトランプ政権を生んだともいえます。

 

「黙示録」で提起した新学説

 

田川さんが『訳と註』の第7巻「黙示録」で提示した「黙示録」は、聖書学者としての田川さんの業績のなかでも特別といえるものだと思います。というのも、「黙示録」には、原著者と、それに編集を加えた編集者がいたとして、このふたりのギリシャ語の水準や思想などの違いから、「黙示録」の全文を原著者の部分と編集者による改ざんや追加の部分とに区分けしたのです。田川さんは、『訳と註』第7巻の「解説とあとがき」で、「黙示録」にふたりの書き手がいたとしたことについて、次のように書いています。

 

これは私の新しい学説である。それも、今回この「訳と註」の綿密かつ大量の作業を続けた結果としておのずとたどりついた結論である。これまで、ここまで踏み込んで黙示録を分析した新訳学者はいない。(中略)19世紀から20世紀初め頃までのヨーロッパの批判的な学者の研究がすでに九割ぐらいは到達していた研究成果の上に立って、その先に必然的に出てくる結論を正直に申し上げただけのことである『訳と註』第7巻「ヨハネの黙示録」の「解説とあとがき」)

 

これまでの聖書研究で、聖書を聖典としてではなく、研究対象のテクストとして批判的に見る学者のなかでは、黙示録に複数の書き手がいることは想定されていたのかもしれませんが、原著者と編集者とに完全に区分けすることはできなかったのでしょう。田川さんは、それをやってのけたのですから、大変な力業と言うしかありません。

 

私は、この7巻が刊行されたときに、「情報屋台」で、「『黙示録』の著者はふたりいた」と題して、『訳と註』第7巻を紹介し、次のように書きました。

 

日本の聖書研究者に期待したいのは、黙示録に原著者と編集者がいたという田川さんの仮説をめぐって論議や論争が起こることです。そして、この議論が世界に広がることも期待します。日本発の聖書論争が世界に広がる、ということを想像しただけでも楽しくなります」(「情報屋台)2017年8月27日、「『黙示録』の著者はふたりいた」

 

https://johoyatai.com/1273

 

その後、「黙示録」についての田川さんの学説は、聖書学会では黙殺されたようですが、『訳と註』が完成した2017年に、田川さんが毎日新聞出版文化賞の企画部門を受賞したことは、その労苦の一端が報いられたのだと思います。

 

ヘンデルのメサイア

 

『訳と註』を完成させた田川さんは、2019年4月に大阪コレギウム・ムジクム合奏団と大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団が演奏したヘンデルの「メサイア」(全曲)に向けて、「歌詞対訳」とともに「解説と訳註」という冊子を著しています。

田川さんから歌詞と冊子を送っていただいたときに、メサイアの解説は聖書学者の「余技」のようにも思えたのですが、中身を読むと、『訳と註』と同じというか、田川流が貫徹していることに気づきました。会場で配布された「歌詞対訳」は8頁なのに対して「解説と訳註」は約200頁もあります。「訳」よりも「註」が圧倒的に多い『訳と註』と同じです。

 

なぜ「対訳」をつくったのか、田川さんは「これまで日本語ではメサイアの『対訳』はなかった」からだと言います。メサイアの台本は、1611年に刊行された欽定訳の聖書と16世紀半ばにつくられた英国国教会の祈祷書に所収された聖書の言葉がほとんどで、その後、新たな写本の発見などで聖書の正文批判が進んだため、現代の聖書とは内容がずいぶん異なっています。それなのに、これまでのメサイアの「対訳」は、現代の日本語訳の聖書を使っているのがほとんどなので、欽定訳や祈祷書の言葉と内容がずれているところが多いというのです。

 

これでは「対訳」には値しないので、田川さん自ら「訳」をつくったというわけですが、この動機も、それまでの日本語訳の聖書の訳がひどすぎるので、『訳と註』に取り組んだのと同じ姿勢だと思えます。

 

また、「メサイア」と題した「メシア」(救世主=イエス・キリスト)のオラトリオ(劇音楽、聖譚曲)の台本を書いたのは、チャールス・ジェネンズ(1700~1773)なのですが、田川さんは、作曲者のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)が手を加えた部分を「発見」して、「註」で解説をしています。この構図も、『訳と註』の「黙示録」で、原著者と編集者とを割り出していくのと同じように思えます。

 

たとえば、田川さんの「註」によると、「メサイア」の最初の歌唱(テノール)である「慰めよ、慰めよ、我が民を」の部分(イザヤ書40章1-2)は、ジェネンズの書いた「荒野に呼ばれる者の声」の部分(イザヤ書40章3)に満足せず、ヘンデルが加えたものだと田川さんは言います。

 

「メサイア」は、1742年4月の受難週に、アイルランドのダブリンで催された演奏会に向けて作曲されました。ジェネンズの台本は、メシア物語の始まりの定番である「荒野に呼ばれる者の声」からだったのに、ヘンデルは、会場に集まった多くの聴衆に対して呼びかけるという意図から、「慰めよ」を最初に加えた、というのです。

 

また、「メサイア」といえば、私のような素人にとっては「ハレルヤコーラス」なのですが、この「ハレルヤ」(hallelujah)という言葉は、欽定訳の「アレルヤ」(alleluia)とは異なっています。田川さんは、これもジェネンズではなくヘンデルが独自に加えた部分だとしています。ドイツ出身でのちに英国に帰化するヘンデルにとって、ルター訳の聖書以来、「ハレルヤ」のほうがなじみ深かっただけではなく、英国国教会が支配するイングランドではなく、改革派プロテスタントが多かったアイルランドでは、欽定訳の「アレルヤ」だけでなくドイツ風の「ハレルヤ」も浸透していたのを考えたのだろうと、田川さんは推測しています。

 

日本では、「ハレルヤ」になると、聴衆が起立するならわしになっています。1743年にロンドンで「メサイア」が初演されたときに、聴いていた国王ジョージ2世が起立したという逸話(ウィキペディアには史実ではないと記されています)がもとになっているようですが、「ハレルヤ」という言葉には、国教会(欽定訳)という権威に抗うヘンデルの思いが込められていたのかもしれません。ダブリンの聴衆はハレルヤを歓迎したでしょうが、ロンドンの聴衆は「アレルヤ」ではなく「ハレルヤ」と聴いて、立ち上がるほどびっくりしたのかもしれません。

 

イエスという男

 

田川さんは、キリスト教のドグマに対しては、聖書の研究者として批判的でしたが、イエスという人間については、研究者というよりも個人としてほれ込んでいたのだと思います。1980年に田川さんが著した『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』は、イエスを神と崇めるキリスト教は信仰しないが、イエスという人間は愛する、という「信仰告白」の書のように思えます。

田川さんがこの著書で浮かび上がらせたイエス像は、副題にある「逆説的反抗者」です。たとえば、「右の頬を打つ者に対しては、もうひとつの頬を向けてやれ」というマタイ福音書第5章39節の有名なイエスの言葉。とても真似できそうにありませんが、キリスト教の寛容の精神だと理解してきました。しかし、田川さんは、古代社会において、肉体的にいつもなぐられていたのは下層階級の人間であり、支配者に反抗してもっとひどい目に遇うよりも、おとなしくもうひとつなぐられたほうがましなのだ、と解釈します。田川さんが書いているイエスの肉声は下記のようになります。

 

権力者供がやって来て、なぐりやがったら、面(つら)のあっち側も向けてやれ。しょうがねえんだよな。借金取りがやって来て、着ている上着まではぎとりやがったら、ついでに下着までつけてくれてやれ。ほしけりゃ持っていきやがれ」(『イエスという男』第3章)

 

私はこの一説を読んだ時、目から鱗が落ちる、というか、そうだよな、それでこそ、民衆とともにいるイエスだと思いました。田川さんに導かれて、私も逆説的反抗者であるイエスを見直しました。

 

ところで、「目から鱗」は、新約聖書の使徒行伝第9章で、突然、失明したパウロにアナニスという主イエスの遣いが訪れて手を触れることによって、目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになったという逸話から取られたことわざだそうです。キリスト教徒にとっては、キリスト教を弾圧していたパウロがキリスト教に帰依するという重要な出来事ですが、田川さんは『訳と註』第2巻下の「註」で、次のように解説しています。

 

パウロが日射病でひっくり返って、ダマスコスの知人の家で眼も朦朧として寝ているところに、アナニスが現れ、あなたは悔改めてイエス・キリストを信じなさい、と説教されたものだから、それで決断がついてキリスト教に寝返った、という話(『訳と註』第2巻下「使徒行伝」の「註」9章12)

 

田川さんは、パウロにはえらくそっけないですね。

 

イエスが逆説的反抗者であることを例証する田川さんは、「山上の垂訓」の「貧しいものは幸い」という言葉についても、逆説だと言います。これは、マタイ福音書第5章3節で、山上のイエスが群衆を前に話す言葉ですが、田川さんは、「貧しいものが幸いであるはずはない」と言い切ります。それなら、貧しい者のやせ我慢なのか、というと、そうではないと次のように説明します。

 

これはやせ我慢の矜持ではない。金持ちが幸福で、貧しい者が不孝だなどということが当然のこととして認められてよいはずはない。もしも此の世で誰かが「幸いである」と祝福されるとすれば、貧困にあえぐ者を除いて誰が祝福されてよいものか。もしも「神の国にはいる」なんぞと言えるとしたら、俺たち貧しさをかかえてすったもんだやっている者をおいて、どうして言えるのか。いや、「神の国にはいる」なんぞとは言うまい。神の国は貧乏人のものなのだ。きっとそうしてやる(『イエスという男』第1章)

 

田川節炸裂、という感じですね。マタイ福音書は、「幸い、霊にて貧しい者」と書かれているのですが、マタイの著者は「幸い、貧しい者」では、無理があるので、「霊にて」を補って、実際に貧しい者ではなく、魂が神に対しておごりたかぶっていない者にしたと、田川さんは解釈します。マタイに対してルカ福音書は、「貧しい者」、「飢える者」、「泣く者」は幸いと書いていることなどから、イエスは具体的現実的な意味で「貧しい者」と言ったことは疑いえない、と田川さんは書いています。

 

読みたかった『新約概論』

 

田川さんは、『訳と註』を仕上げたら、『新約聖書概論』に取り組むと言っていました。2019年12月にいただいたメールには、次のように書かれていました。私信ですが、「概論」に対する思いが書かれているので、田川さんのお許しもいただけると思います。

 

夏の終りから『新約概論』の執筆に集中していることになっているのですが、その頃はまだまだ『訳と註』+「メサイア」の疲れが抜けず、机の前に座っても頭がすっきりしないので(多少は高血圧のせいもあり)、日本語の文章がなかなかしゃきっと書けないのです。書くべき内容はしっかり自分の頭の中にあるのに。というわけで、あせってはいるのですが、なかなか進まず、どうなることやら、と思いはじめていたのですが、ようやく11月後半ごろから少しずつ以前の日本語の感覚がもどってきたみたいで、このところかなり満足のいく文章が書けるようになってきました。これなら、続けていけば、何とか最後まで仕上がるかな、といった感じです。こればっかりは、生きているうちにちゃんと仕上げないと、皆さんに叱られてしまう(2019年12月17日)

 

「概論」ができる前に力尽きたのは田川さんにとっても心残りだったと思いますが、「概論」を読みたいと切に願っていた私たち読者にとっても、かなわぬ夢となりました。

 

私が「田川建三」を知ったのは、学生時代に、「朝日ジャーナル」などとともに読んでいた『情況』という雑誌に、田川さんがたびたび書いていた論文からではないかと思います。国際基督教大学の「造反教官」として「クビ」になった田川さんは、全共闘運動に共鳴していた私たちには「こちら側の人」という意識があったのだと思います。私の本棚を見ると、『原始キリスト教史の一断面:福音書文学の成立』から始まって『訳と註』まで、田川さんの著作のほとんどが並んでいます。

 

田川さんのキリスト教組織や護教的な聖書学者への厳しい批判は、キリスト教徒でも聖書学者でもない私には、正否を判断する知識もないのですが、権力や権威への反抗という意味で心地よく、いつのまにか田川ファンになっていたのだと思います。

 

 

9・11と黙示録について田川さんにインタビューしたのは、9・11にかこつけて田川ファンとして田川さんに会いたかった、ということだったかもしれません。新聞記者として、いろいろな人に会ってきましたが、記者になって得をしたな、と思うのは何といっても田川さんに会ったことです。という「信仰告白」をして、田川さんの追悼文を締めたいと思います。


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