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新聞は言論の広場になりうるか?

2018.02.26 Mon

◇アトランティック誌がコメント欄を廃止

最近、ジャーナリズムに関して、たいへん印象に残ったニュースです。「米国の老舗誌「アトランティック」のウェブ版は最近コメント欄を廃止、読者からの投書を紹介する昔ながらのスタイルに戻した。「脊髄(せきずい)反射的なコメントより熟慮された投書の方が有意義」と判断したという。 」(武田徹さんのコラム「メディアの風景」から、毎日新聞2018年2月15日)

※アトランティック誌による読者への呼びかけと読者の反応

http://ow.ly/Pxj030iBlKI

http://ow.ly/GIVg30iBlNr

◇コメント付きニュース  

このAtlanticの動きから連想したのは、日本のニュースメディアのYahoo!ニュースやNewsPicksです。個々の記事にコメント欄が付いています。これらのメディアはAtlanticと違って、主たる記事は新聞社など他社からの配信であり、基本性格はキュレーションメディアです。つまり、他社が作った記事に、自由にコメントをさせています。(最近は独自取材による自社オリジナルの記事も一部ありますが。)

https://www.yahoo.co.jp/

https://newspicks.com/

ただし、Yahoo!とNewsPicksを比較すると少々違いがあります。NewsPicksの場合、ニュース記事の見出しとそれについてのコメントが同時に目に入るので、記事を開かずに(つまり読まずに)コメントを見ることができます。それに対してYahoo!ニュースの場合は見出しをクリックして記事を開かないとコメントを見ることができません。しかも、コメントは記事ページの下の方までスクロールしてはじめて目に入ります。Yahoo!の方が記事自体を読ませようとしていると言えます。

NewsPicksの場合、識者や専門家のコメンテーターが上位に表示されるようにしているので、低次元な、あるいは稚拙なコメントが目に入ることは少ないと言えます。しかし、NewsPicksを利用していて感じるのは、もとの記事は読まないで済ませることもできてしまうという点です。コメントを読めば記事の内容が推定できるというようなこともあります。

◇新聞デジタル版にコメント欄をつけたら

そこでふと気付くのは、朝日新聞デジタルやデジタル毎日、日経電子版といった既存の新聞社のデジタル版の記事にはどうしてコメント欄がないのだろうという疑問です。日経はもともと読者の声を載せることには消極的なのでまだ理解できますが、紙面では大きなスペースで投書欄を設けている朝日や毎日はどうしてなのでしょう?

デジタル版の有料読者に限ってコメントを許すのであれば、さほど問題はないような気もします。とはいえ、実際には躊躇してしまうというのもわかります。有料読者数がまだ少ないですし、少数の同じ顔ぶればかりが発言をするかもしれません。また、有料読者とはいえ、Atlanticが経験したように、コメント欄が荒れて雰囲気が悪くなる可能性もあるでしょう。

◇記者同士の議論は

ここでもうひとつふと思うのが、では記者同士の議論ならあってもいいではないかということです。新聞記者は報道に加えて自分の意見をしばしば書きますが、記者同士で意見を交換している様子はあまり見えてきません。かつて毎日新聞の名物欄「記者の目」で、「めくじら立てるなマリファナ」という意見をある記者が書いたのに対して、別の記者がそれに反論する意見を書いた「マリファナ論争」というのがありました。最近でも、社論と異なる意見を編集委員がコラムに書くなど、他紙に比べてゆるい組織文化の毎日新聞ですが、マリファナ論争以後、紙面での記者同士の目立った議論は目にしません。

近年、朝日・毎日と読売・産経は、主要な政治的テーマではことごとく対立していますが、それぞれの社内では異論はまったくないのでしょうか?まさかないわけはないですよね。

実は、NewsPicksのコメンテーターの中には毎日の記者もいます。そうであるなら、自分のところでそれをやろうよと言いたくなります。すなわち、デジタル版(電子版)の社説や論説、解説に、自社の記者が自由にコメントできるようにしたらどうでしょうか。

このうち社説については、連日、社説を書くために論説委員同士が議論しているはずですから、その議論のプロセスのエッセンスを掲載することはどうでしょうか?激論になることもあるなどと自慢げに?論説室のことを新聞社の人が紹介しているのをこれまでに何度か見てきていますが、だったら、その中身を教えてよとやはり言いたくなります。

◇識者のサロン

最近の朝日新聞の「論壇委員会から」という欄に、「有楽町に社屋があったころは、夕刻を過ぎると様々な識者たちが学芸部(文化部)職場の一角にふらりと現れ、自由に議論を始める姿が見られたそうです。」とありました。それを「サロンのようでうらやましいと感じました。」と筆者の編集委員塩倉裕さんは書いています。(2018年1月25日付け)ところが、そのあと、論壇委員の集まる月々の合評会のことを紹介して「「異分野の人々から率直な意見を聞ける貴重な場だ」という評価を委員さんからいただくこともあります。」とあります。合評会はサロンとは異なる性格のものという認識ということになります。

うらやましいなんて言ってないで、談論風発のサロンを作ったらいいじゃないですか。外部の識者待ちもいいけど、自分たちが集まって議論するサロンをどうして作らないのでしょう。そこを適宜開放して外部の人も寄れるようにするとか・・・。

思うに、従来の新聞記者ないしマスメディアの人は、対話型の人よりも演説型の人の方が多かったと思います。しかし、これからは、対話ができ、議論ができて、その相手とのやりとりの中から整理軸を見いだしたり、新しい考えを生み出していけるような記者が求められるのではないでしょうか。

議論といっても、国会の質疑応答というスタイルの議論ではない方がいいでしょう。いったいあれは議論でしょうか。攻撃、非難による闘いではあっても、何かを生み出す議論だと思えません。もっとお互いに編集的に、あるいは協同的に新しい価値を生み出す議論をしてほしいのです。ディベートでなく、ディスカッションです。

◇落ち着いた対話の広場となるデジタル版とは

舘岡康雄さん(静岡大教授)の言葉を借りれば、リザルトパラダイムかプロセスパラダイムかといういことです。結果か過程か。リザルトパラダイムで作られてきた新聞がデジタル版をつくるにあたって、いいね!やシェアのボタンを用意してはいるものの、基本的にはプロセスパラダイムには則っていないと言えましょう。プロセスパラダイムの発想に立てば、もっといろいろな工夫ができて、お金も取りやすくなるかもしれません。新聞のデジタル化は、対話のスタイルを取り入れる文化革命であってほしいと期待しています。

ちょうどそんなことを考えていたところに、冒頭に紹介したAtlantic誌がコメント欄を廃止して投書欄に模様替えするということを武田徹さんのコラムで知ったというわけです。確かに、記者といえども、反射的に思いつくままコメントをさせるならば、一定の質の保持ができるのだろうかという疑問が生じます。

そこで、武田さんのコラムの発言に戻ると、「コメント欄の議論ではその内容が話題になる。しかし内容の是非は価値観次第で水掛け論に陥る。むしろ必要なのは形式の議論ではないか。 」と述べているところがあります。内容以前に、コメント欄という形式のあり方自体を問うべきだという主張と理解しました。私はおおいに共感します。

コメントやディスカッション(の議事録)ではないスタイルはあるでしょうか。現在の新聞にあるもので近い例を探すと、「論点」といったタイトルで、同じテーマについて2~3人の外部識者に書かせている欄があります。(本稿冒頭の写真参照) ただし、各人が異なる切り口で独自に語っているだけでお互いにかみ合ってないことが多い印象です。いくつかの共通軸で各人の論を位置づけるような整理をしたあと、各人相互に議論してもらうというような工夫がありうるように思います。

落ち着いた対話の広場となる新聞デジタル版とはいったいどのような形・スタイルがよいのか、AIやVRなどの新技術も活用した斬新なスタイルの可能性が開かれている予感があります。


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