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榎本武揚と国利民福 Ⅱ. 産業技術立国(前編)

2019.12.30 Mon

Ⅱ.榎本武揚と産業技術立国

 

 

1.榎本と技術との出会い

 

 

 榎本は昌平坂学問所を後にして、長崎海軍伝習所へ向かい、員外聴講生として一期生とともに機関学の勉強と実習を始めました。産業革命を推し進めた技術革新は二つあり、その一つが蒸気機関です。技術史では蒸気機関の誕生を動力革命と呼んでいます。榎本がなぜ蒸気機関を選択したかは不明です。本人が選んだとすれば、素晴らしい感性です。

 

 

 次に、時の徳川幕府はオランダに軍艦開陽丸の建艦(1862-1867)を発注します。それに伴い、海軍技術、社会システム、医学を学ぶ留学生を派遣することになりました。榎本は機関および海軍諸技術担当で派遣されます。榎本はハーグの下宿にモールス電信機とケーブルを設置し、インストラクターを呼んで電信の指導を受けました。第二の技術革新は電信の活用による通信革命です。こうして、榎本は産業革命を推進する二つの革新的な技術を学びました。

 

 

 その後、ロシアのペテルブルクへ駐露全権公使(1874-1878)として派遣された期間、ロシア軍の軍事技術やヨーロッパの民生用装置に触れる機会がありました。孵卵器に夢中になったり、電話機を日本へ送ったり、家庭菜園に親しんだのはこの時期です。日本人として初めて、シベリア横断(調査旅行)をして帰国しました。

 

 

 1885年(明治18)に初代逓信大臣に就任すると、グラスゴー大学に留学し、ケルビン卿から高い評価を得た後、日本の電気技術の指導者となった志田林三郎(1856-1892)逓信省電信局部長に水中無線の研究を命じました。榎本の立ち会いの下、志田は隅田川やお台場で実験を繰り返し、志田の実験結果に基づく論文は電気学会雑誌に掲載されました。残念ながら、イタリアの物理学者、実業家のマルコーニ(1874-1937)の無線通信の実験の動静が分かるころ、志田林三郎の実験や論文は学会誌に登場しなくなります。マルコーニは1895年(明治28)に無線実験に成功します。

 

 

2.気象学会と電気学会の榎本の演説に見る「技術立国」

 

 

気象学会

 

 

 日本気象学会の定期刊行物は当初、「気象学集誌」と言いました。1894年(明治27)4月7日発行の気象学集誌に収録された榎本会頭の演説によると、榎本は『・・・研究の材料積みて山を為す此時に方り会員諸君一層奮励して学理の蘊奥(うんのう)を究め之を応用の方法を孜々(しし)怠るなくんば其国利民福を増進すること期して竣つべし是れ余が本会の為め只管(ひたすら)会員諸君に望む所・・・』と言っています。

榎本は、「学理の奥義を究め、その応用を怠らなければ国利民福は増進します、これをひたすら会員に望みます」と訴えます。

 

 

 クリミア戦争(1853-1856)でフランス海軍の艦船数隻は1854年に停泊中、嵐の中に沈んでいきました。戦闘前の出来事でした。その結果、天気予報のための天気図の作成が始まり、気象学の研究が盛んになりました。気象学は軍事行動のためにあるとも言えます。気象学で数々の功績がある中央気象台台長の藤原咲平(1884-1950)が戦後、GHQから公職追放されたことからも、世界的に気象学は軍事行動と密接な関係であると認識されていたことが分かります。

 

 

 箱館戦争中、1868年(慶応4)、江差沖に停泊中の軍艦開陽丸は暴風に遭遇し、沈没したことで、榎本たちの徳川脱走海陸軍-蝦夷政権は敗戦濃厚になりました。榎本も軍事上、気象学が重要であることを認識していますが、農業や漁業、海運にも気象学が重要であることにも着目していました。そのために、気象学を研究段階で留まらせず、国民の生活に役立てることを研究者に求めました。

 

 

 榎本会頭が4月に演説した後、12月25日に俟賀善三郎著『明治二十八年分 国利民福 四時豫言鑑』という本が出版されます。著者は序文で長年の実験の成果を用いて日本各地の一年間の天候の予測を記しました。災害予防や農業、船舶のために利用してもらうことで、国利民福を実現します、と書いています。これこそがまさに榎本の気象学を国民の生活や事業に役立たせようとした実践事例です。

 

 

 ところで、もう一人、国利民福を唱えた人物がいました。日本の細菌学の父として有名な北里柴三郎(1853-1931)です。

『諸君、総テ学問ノ研究ハ学者ノ単一ナル道楽デハアリマセン。研究ノ結果ヲ成ルベク適切ニ実施ニ応用シ以テ国利民福ヲ増進スルノガ学問ノ目的デアリマセウ』(東大病院だよりNo.60、平成20年1月30日刊)  

 

 熊本県小国町の北里柴三郎記念館にこの一文の出典を電話で尋ねました。この一文を北里柴三郎の実学精神と呼んでいるとのことで、詳しいことは北里柴三郎記念室に問い合わせてください、という回答でした。記念室からは、1918年(大正7)6月に沖縄県結核予防協会発会式において「微生物ノ研究及応用」と題し医学研究に対する理念とその方向性について北里柴三郎が述べた講演原稿の一文ですという回答をいただきました。 

 

 自由民権活動家だけが国利民福を主張したのでは無かったのです。気象学に携わる人も、医学に携わる人も国利民福を訴えます。カルピス創業者、僧侶出身の実業家、三島海雲(1878―1974)も国利民福を訴えます。「国利民福」は日本の様々な分野で合い言葉のように使われていたのではないでしょうか。「富国強兵」は明治政府のスローガンですが、国民のスローガンは「国利民福」だったのでしょう。

 

 

電気学会

 

 榎本武揚は1888年(明治21)に初代電気学会会長に就任し、以後、逝去する1908年(明治41)まで、会長を続けました。1907年(明治40年)1月の電気学会雑誌に掲載された会長演説によると『然れども国運の進歩は空前の巨艦を邦人の手に完成せるのこんにちに際して電気の諸機械は尚ほ海外の供給を仰くもの少なからざるは予の深く憾(うら)みとする処にして一に諸君の研鑽に竢(ま)たざるべからずは独り予が望蜀の言にあらざるべし 且つそれ欧米各国に比して我邦電気施設の方途は間接の国利に資する交通通信の設備に偏して直接の民福を図る諸般製造の応用に薄きの傾向あるは是亦予の憾みとする処にして諸君の奮励竿頭更に一歩を進むべきもの実に茲(ここ)に存するを信ず』と会員に訴えます。

 

 

 そして、1908年(明治41)1月13日の電気学会での演説で『・・・然れども翻って考えるに我電気事業は如此隆盛をいたせるに不拘多くは是れ欧米各国の精を抜き華を取り之を我国に施設したるに過ぎず未だに本邦に於いてオリヂナリチーと称し得可きもの鮮(あきら)かに少ないは予の深く憾みとするところにして今後益々諸君の研鑽と発明とに依り事業の発展に伴いこれが改良進歩を図らざる可からざるなり・・・』と会員に語りました。

この年の11月に榎本は逝去します。

 

 

 明治時代になり、瞬く間に日本中に鉄道網、電信網が構築されました。そして、軍艦を自らの手で完成させることもできるようになりました。しかし、相変わらず電気設備は海外からの輸入に頼っています。民福に直接関わる電気製品への学理の応用が薄いから、皆がもっと頑張ろう、と榎本は言います。

 

 

 次に、今、日本では電気事業が隆盛だけれど、それは欧米が生み出した成果を日本へ持ってきた(設備を輸入、技術移転)だけで、我が国のオリジナリティーによる成果が少なく、非常に残念でならない、今後、益々、みんなは学問の研鑽と発明に励んで欲しい、日本人のオリジナリティーによる事業の発展を図りましょうと言います。

 

 

 また、1898年(明治31)3月に工業化学会が創立され、選挙により榎本は会長に就任します。その工業化学会が発行する「工業化学雑誌」、第二編(1899年(明治32))に「北米合衆国に於ける独りにて百以上の特許を有するもの」という記事があります。1871年から1895年までの25年間に一人で100件以上の発明特許を得た人の一覧表があり、25人が載っています。25人の取得特許数の合計は4894件、当然ですが、一位はトーマス・エジソン(1847-1931)の711件だと報告しています。二位の特許数は394件でした。

 

 

 エジソンの発明は人々の生活に役立ちました。その数々の発明は役立つだけでなく、電話、蓄音機、映画などにあるように人々を楽しませてくれます。エジソンの発明で生まれた技術は、人々の生活に利便性を与えるだけでなく、楽しませ、疲れた心を癒やし、くつろがせてくれます。技術による民福です。榎本はこれを電気学会の研究者、技術者に求めました。

 

 

 会長演説の終盤に登場する「諸君の奮励竿頭更に一歩を進むべきもの実に茲(ここ)に存するを信ず」や「今後益々諸君の研鑽と発明とに依り事業の発展に伴いこれが改良進歩を図らざる可からざるなり」は演説の決まり文句のように思えますが、ひょっとしたらエジソンが1902年頃よく口にしたといわれる言葉、” Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.”(天才は1%のひらめきと99%の汗)を意識した発言かも知れません。

 

 

 榎本はオランダ留学時代に英国のシェフィールドまででかけて行きました。シェフィールドは英国の産業革命以降の中心的都市で、鉄鋼業で発展しました。榎本はドイツの鉄鋼業界のリーディングカンパニー、クルップ社の本社も訪れており、鉄鋼業界に強い関心がありました。英国のシェフィールドを訪れるのも当然です。英国には世界最古の工学会-societyがあります。知識欲旺盛な榎本がこの学会を見落とすことはないでしょう。

 

 

 その工学会は土木技術者協会(the Society of Civil Engineers)と称しました。1771年3月15日に世界最初の工学会である土木技術者協会の初会合がありました。この協会は英国人で初めて土木技術者(civil engineer)と自称したジョン・スミートン(1724-92)が設立しました。スミートンは港湾建設、難工事の灯台の建設、水路建設や機械工学の幅広い分野で貢献しました。スミートンが創立した工学会の理念は”success to waterworks, public or private that contribute to the comfort or the happiness of mankind”(人類の快適さと幸福に貢献する、公共または民間の水道事業の成功)という乾杯の言葉に表れています。

(W.H.G. Armytage, A Social History of Engineering, London, 1961-1970)

 

 

 榎本は、技術は国民に利便性を与えるだけで無く、国民を楽しませ、疲れを癒やし、くつろがせてくれ、その結果、民福を増すべき、と考えました。技術の発明が盛んになり、製品化され、その製品が人々の手に行き渡り、また、海外にも輸出する日本を目指しました。当時の日本では実現困難な目標でしたが、榎本には道は遠くともそこへ向かうという使命感がありました。

 

 

(続く)


この記事のコメント

  1. 高成田享 より:

    「国利民福」という言葉、国民の間では、広く使われていた可能性もあるのですね。いまは、「富国強兵」という言葉しか残っていませんが、「官」の動きを重視する歴史観や教科書の弊害かもしれません。榎本の技術への関心とともに、勉強になりました。

  2. 中山 昇一 より:

    高成田様、ありがとうございます。国利民福という言葉を榎本の演説の記録の中い初めて見つけたとき、キョトンとしてしまいました。知らない言葉だったからです。普及している歴史観は何かを欠落させているのではとときどき思います。

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