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榎本3-安全保障-後編-3-2-2-B

2021.05.01 Sat

榎本春之助写本、榎本武揚『シベリア日記』海軍有終会、昭10から引用したウラジオ港の写真

 

 

図1 イルクーツク以東での榎本の移動先と関連地

 

 

・グレートゲームと世界の幸福 ・・・ 利用厚生

 

 

・シベリアの電信線事情

 

 

 1878年(明治11年)8月29日、榎本のイルクーツクの宿へ現地の電信局長が訪れて次のような話をしました。

 

『今日電信所長が来て言うには、ネルチンスクから北京までのキャラバン路ははなはだ良い。また、ネルチンスクからブラゴヴェーシチェンスクまで満洲領を通って電線を架設するときは直線的にし、水害がないようにしたいと要求しても、支那政府はこれを拒否して承知しない由。』

 

 9月10日、ネルチンスクで榎本は、ロシアの南侵について初めて日記に書きました。

 

『考えるに、黒竜江畔には陸路がないこととネルチンスクより行路の屈曲がはなはだしいことのために、将来支那とロシアのあいだに事あるときは、ロシアはツルハイトゥイ(スタロチュルハイトゥイ)より璦琿(あいぐん)あたりまでを領土に入れようと謀っていることは歴然としている。』

 

 9月15日、榎本一行が乗った汽船は、アムール川(黒竜江)の上流、シルカ川からアムール川に入りました。アルバジン駅の手前でのことでした。榎本が、汽船から右岸、すなわち清国側の様子を眺めていると三、四人が岸に沿って歩いており、当初は満州人であると思っていましたが、双眼鏡でよく見るとロシア人だと分かったのです。清国側へロシアの農民が行き、畑を作って耕作し、また小さな作業小屋を建てることもあると教えられました。

 榎本はこの光景を見て、清国に呆れてしまい、以下の感想を残しました。

ロシアは、マンガゼヤでの交易の衰退もあり、毛皮や金を求めてシベリアをさらに東進し、1651年にアムール川流域のアルバジンにコサックが木柵の砦を築いた。清朝はロシアのアムール川流域へのロシアの侵攻を阻止するため、1659年にアルバジン砦を攻撃し破壊した。その後、紛争が繰り返された結果、1689年にロシアと清朝はネルチンスク条約を結び、アムール川周辺の国境を定めた。交渉時、清国側からイエズス会士が参加して条約文を作成した。この条約文は、ラテン文、ロシア文、満洲文で書かれたが、国内向けの漢文テキストには、ロシアが朝貢関係の体制にはめ込まれた形に改ざんされていた。(板野正高『近代政治外交史』を参照した)
榎本は日記中、アルバジンは戦争があった地と書き、またイエズス会が内陸に深く侵入していることについても触れていた。

 

 

『黒竜江のような良い川を棄て、ロシアに取られても気にもせず、その上この国境を支那の役人が見回ることなどは絶えてない由。さもありなん、である。わたしが思うに、国境の地図さえも有るか無いか知らないにちがいない。気の毒なものである。』

 

 9月15日はその後、汽船はアムール川沿いのアルバジン駅で停泊したので、榎本は、電信局長に依頼して局舎を見学させてもらいました。榎本が局長に電信線の所在を質問すると、局長の回答は次のようなものでした。

 

『電信局は約五〇尺の高所にあり、アルバジン駅は船の停泊所から三露里はなれた場所にあると言う。

 わたしが電信局長に電信線の所在を訊いてみると、アムールの左岸より一〇露里から一五露里はなれた場所にあると言う。しかしながら、何年も続いて水害があって、秋八月および雪解けの出水の時は七、八サージェンから一〇サージェンにまで水嵩が増して、沢はいずこも見渡すかぎり水びたしになると言う。』

1露里は1.067km、1サージェンは2.133m。

 

 

 榎本がペテルブルクにいた時、シベリアを通過する電信線路は、雪解けの水害や地盤悪化から電柱が倒れ、電線が切れることが年に度々あり、そのため、ときどき送信不能になることを知っていました。1876年5月8日付、榎本から寺嶋外務卿宛ての御用状で最近の連絡状況が不調な原因がシベリア電信線の水害であることを報告しています。

 

『・・・数日中には「シベリヤ」線も直り可申候(「シルカ」より「ハヾロフカ」迄の黒龍江河筋處々洪水にて電線を害せし由)』

 

 イルクーツクの電信局長が水害による被害の無い満洲側で直線的に電信線を通したいと清国当局に要求する事情を、アルバジン駅の電信局長から現場の話として直接聞くことが出来ました。社会における電信の効用と公共性の観点からロシアの電信事業関係者が電信線を自然災害に影響されない清国側に通過させてほしいという要望は理解でき、それに対し、災害に影響されない自国領土の地域に他国の電信線を通過させれば世界のために役立つのに、それを頑なに拒否する清国は理解できないと、榎本は考えました。

 

 

・ロシアの南侵を確信する理由

 

 

 そこで榎本は、必ずロシアが北満州へ南侵することを確信し、以下のように日記で論じました。

 

(現代語訳版)

『黒竜江のような良い川を棄て、ロシアに取られても気にもせず、その上この国境を支那の役人が見回ることなどは絶えてない由。さもありなん、である。わたしが思うに、国境の地図さえも有るか無いか知らないにちがいない。気の毒なものである。

 

しかしながら、黒竜江が ロシアの所有となったことで、われわれと文明開化されたすべての国々*1は電信と汽船の便を得、予定を立てて通過することができるようになったのである。

 

もし依然として支那領であったならば、いわゆる天物暴殄*2[自然資源の無駄づかい]であり、世界全体の*1幸福の用をなさなかったであろうことは言うまでもない。

 

支那の古典が説いているいわゆる楚材晋用*3 [他国の材を利用すること。中国の古典の左伝による]とはこのことである。

 

このことから推察すれば、別帳*4にも述べたようにネルチンスク領のツルハイトゥイからブラゴヴェーシチェンスクまでの東方一直線の地も、遠からずしてロシア領となるであろうことはほとんど疑いない。

 

そのときは、わが日本とロシアとの電信の便が増して、インジレクト[間接的]に貿易上の利益までもたらすことになろう。

 

古代支那の聖人孔夫子は、二五〇〇年前に「朽木は彫る(ほ)べからず」*5[論語より]と言い置いている。孔子自ら自国の将来を言い当てたことは、地下にて不本意なことであろう。』

(参考に、文末に現代文字版も紹介しました)

 

*1原文では「文明開化されたすべての国々」は「開化世界一般」、「世界全体の」は「世界一般」。

*2てんぶつぼうちん 天から授かった物、自然界に存する物を、乱暴に扱い滅ぼすこと。

*3そざいしんよう 自国の優れた人材が他国へ移ってしまう、または自分と関係の無い人材や物を活用すること。出典は『春秋左氏伝』「成公九年」。

*4別帳とはフィールドノートのことを指す。9月10日のネルチンスクでのロシアの南侵についての記述と考えられる。

*5朽木は彫る(ほ)べからず=朽木は雕(え)るべからず(きゅうぼくはえるべからず)、出典は論語―公冶長(こうやちょう)。ある弟子が昼寝をしているところを見た孔子が言ったとされている。腐った木には彫刻を彫れないことから、やる気がない者は、いくら教育してもだめであるという例え。

 

 

 書経に「利用厚生」という教えがあります。物を役立たせ、人民の生活を豊かにすることです。榎本は、「利用厚生」を教えてくれた国が、「朽木糞牆(きゅうぼくふんしょう)」の国となり、「天物暴殄」を行い、「楚材晋用」になっていると痛烈に清国を批判しています。清国が黒竜江を清国を含め世界の人々の幸福のために役立たせず放ってあったことは、清国に黒竜江を所有する資格が無い、と榎本が批判する根拠がまさに「利用厚生」なのです。

 

きゅうぼくふんしょう 怠け者のたとえ。手の施しようのないものや、役に立たない無用なもののたとえ。また、腐った木には彫刻できないし、腐りくずれた土塀は上塗りができないように、怠け者は教育しがたいことのたとえ。「朽木」は腐った木。「糞牆」は腐ってぼろぼろになった土塀の意。出典、三省堂『新明解四字熟語事典』

 

 

・極東のグレートゲームは日本に経済的利益をもたらすという期待

 

 

 榎本は極東のグレートゲームでロシアが清国へ南侵することは避けられないが、その結果、日本には経済利益が生まれる、と考えました。但し、日本への侵攻に対し、富国強兵、外交、戦略的対応の用意があってこそです。

 

 しかし、ロシアの南侵領域は、東西一直線に横切るという1878年の榎本の予測に対し、1900年の実際は、西端はチタ周辺なので良いのですが、東端が500㎞近く南東へ下がり、征服領域の東端はウラジヴォストーク直近になりました。

 

図2 榎本が確信したロシアの南侵範囲と実際の南侵範囲

 

 

 東清鉄道本線の完成により、日本からウラジヴォストーク経由で輸出した商品が、より早くロシアやヨーロッパへ送られるメリットが生まれるものの、それと同時に、1900年の義和団の乱に便乗したロシアの満洲全域の占領をさらに後押しし、ロシアからの日本への圧力がより増すことになりました。

 

 

・世界一般の利用厚生と国利民福

 

 

 利用厚生の考え方により工学(科学技術、Engineering)に取り組むことは大切なことです。三好信浩は『日本工学教育成立史の研究』(風間書房、1979)で黒田清隆と利用厚生についても紹介しています。

 

『利用厚生とは、その語源を『書経』に発し、人民の自立や繁栄を想望する発想である。中村正直は『西国立志編』の序文でこの語を使用した際には、利用厚生を国民の福祉の理念と結びつけた。官僚の側からも、例えば黒田清隆はしばしばこの語を使用した。』

 

なかむらまさなお1832-1891、旧幕臣、啓蒙思想家、官僚、教育者(静岡学問所、東京女子師範学校校長、東京大学文学部教授、女子高等師範学校校長)。興亜会会員。

 

 

 利用厚生は国利民福の民福に該当する言葉です。それ故、北里柴三郎は研究成果を応用し人々に役立たせ人々を幸福にすること、すなわち、国利民福を増進することが実学の精神であると訴えていたのです。渋沢栄一も利用厚生を重視していました。明治人にとって「利用厚生」は重要なモチベーションだったようです。

 

ここで言う明治人は、江戸時代の教育を受けた人々を指す。

 

 

 ここで、もう一つ注目すべき榎本の考え方があります。榎本はシベリア日記で「世界一般」という言葉を用いました。ペテルブルクで会ったペルシャの王様や首相にアジアという概念で列強国の侵略に対し連帯を求めたと考えられますが、その背景には「世界一般」という概念があったことは、日記から明らかです。榎本は「世界一般幸福の用をなす」という理念の持ち主でした。

 

 

 

・清国の電信事情

 

 

・璦琿城(あいぐんじょう)には国境の地図も無ければ電信局も無い

 

 

 9月18日の午後、榎本は璦琿城で楽しい時間を過ごしました。そして、予想通り城には地図がないことを知った榎本は、さらに鎮台にここから北京まで郵便が届く日数を尋ねました。1878年の清国には国内に電信網は無かったからです。

 

 当時は、総税務司*1のハート(Robert Hart)がロンドンに開設した事務所への連絡に、電報を上海またはロシア側のキャフタから発信していました。清国政府はこの連絡体制を利用して海外に派遣した出使大臣*2と連絡を取りました。最初の事例は、1877年でした。

 

*1総税務司 1858年の天津条約付属協定で、外国人が清国の税関行政を掌握することになり、北京に総税務司、各地域の税務官に税務司が任命された。歴代の総税務司には、英国人が就任した。ロバート・ハート(1835-1911)は1863年から総税務司に就任し、その後40年間滞在した。

*2出使大臣 外国へ派遣される公使(大清欽差出使大臣)を言う

 

 

 榎本はペテルブルクにいたので清国の通信事情を知っていてました。ペテルブルクと北京間との電信の伝達には約十日間かかりました。榎本は密かに清国を呆れていたかもしれません。日本よりはるか先に列強と関わりを持ち、理不尽なアヘン戦争(1839-1841)を強いられたにもかかわらず、いまだに(1878年当時) 国内の要所を結ぶ電信網はなかったのです。清国内には、電信技術が起こした社会変革を学ぼうとする好奇心は生まれず、問題意識も起きなかったのです。

 

 

・リヴァディア条約での清国の大失態

 

 

 1878年11月にロシアが中央アジアの清国領イリ地方を占領したため、同年、清国はロシアとイリ問題の交渉を開始しました。清国の外交代表団は、条約交渉に総税務司ハートの電信による連絡体制を利用し、本国政府の意思を確認しながら交渉を進め、1879年に交渉内容は妥結し、10月にクリミア半島に近いリヴァディア城で条約締結を行いました。

 

 ところが、条約内容を伝える電報を受け取った清国政府は条約の内容がロシアに一方的に有利な内容であったため、代表団に締結しないようにと電報を送りました。しかし、清国内に電信網が無かった分、代表団への伝達に日数がかかり、清国の外交代表団に電報が届いたときは、時すでに遅く条約は締結され、代表団は帰国の途についていました。当然、清国内では大問題になりました。

 

 この深刻な失敗は清国に通信と制御について十分過ぎる理解を与えました。ようやく1880年8月12日に李鴻章が対露防衛体制の構築に不可欠として天津―上海間の電信建設を皇帝に提案しました。以下は李鴻章から皇帝への提案書の一部です。清朝政府はヨーロッパをナポレオンから解放し、また列強と何度も戦ったロシアすらも列強に比べ低くみていました。ロシアは朝貢国扱いだったからです。日本は尚更です。

 

『・・・近年、ロシアや日本も各国[列強を指す]に倣ってこれを行う(=電信を用いる)ようになったことで、諸外国より上海へはいずれも電信が設けられ、瞬く間に相互に通信を交わすことが可能となりました。独り中国はなお駅伝に頼って文書を伝達し、・・・』

駅伝制度 馬で一日、約170kmから約340kmの速さで伝達された。その結果、各地から皇帝への情報伝達に数日から数十日かかった。北京―上海間は約1200km、北京―キャフタ間は約1700km。

 

 

 ようやく清国国内に電信網を敷設することが決まり、まず1881年に、天津―上海間(約1100km)の電信線路が完成しました。これを皮切りに国内の電信網の構築が進みました。世界一周視察旅行の途中、1886年に璦琿城を訪れた黒田清隆は、璦琿城からチチハルへの新道を作り、同年中に璦琿城から盛京(現、瀋陽)までの電信線路の敷設工事が終わると聞かされました。

 

 日本では、1869年(明治2年)から国内電信線網の構築に取り組み、1872年1月1日に国内から海外への電信サービスが始まりました。日本が開国(条約による開港)をしてから14年後のことでした。

 

 清国はこの体たらくでしたから、イルクーツクやアルバジンの電信局長からの現場の話は、電信の社会的価値を理解しようとしない清国からロシアが電信に必要としている土地を必ず奪いとる、と榎本が確信した背景の一つでもあります。

 

 東洋の盟主として君臨し続けてきた中国は、列強が東洋に侵略を始めたとき、東洋諸国のために列強に立ちはだかることもせず、ましてや自国への侵略にさえも為す術がなかったのです。しかも、それならば西洋の列強に学び、新しい知識や設備を導入しさらには自らを高めよう、という気概すらもなかったのです。

 

 それでは、日清韓の三国合従(連携)はどうなるのでしょうか。ここで榎本にはすでに清国とはこんな国だという結論が出ましたから、残るは朝鮮王朝との関わりです。榎本が帰国して調査し、検討する対象は朝鮮になることが、ここで分かるのです。

 

(清国の電信事情については、千葉正史『清末における電奏・電奇論旨制度の成立―清朝政治體制への電氣通信導入をめぐって』東洋史研究(2006),64(4):711-740)を参照、引用した)

 

 

・ウラジヴォストークへ

 

 

・息子へ帰国を知らせる電報を打つ

 

 

 榎本たちは、9月11日朝、ネルチンスクで宿泊した旅館から借りたシベリアスタイルの馬車、タランタスでアムール川(黒竜江)の支流、シルカ川の乗船場目指して出発しました。その日の夕方、シルカ川の乗船場があるスレーチェンスク村(現、スレテンスク)に到着しました。そこまでの間、度々電信でウラジヴォストーク発、日本行きの汽船の最終便に間に合うか、ウラジヴォストークの貿易管理官、脇瀬氏に問い合わせていました。

 

 榎本は、スレーチェンスク村に到着すると、開拓使の鈴木大助(正しくは大亮、北海道開拓使書記官)がウラジヴォストークに入港した箱館丸から発信した、『黒田は一昨日、日本へ出立した。箱館丸は君をのせて帰国するために来着を待つ』という電文を受取りました。榎本は喜び、黒田の好意に深く感謝しました。

 

 ウラジヴォストークから帰国するため、箱館丸が自分たちを待っていてくれることを知り、いよいよアムール川の航海が始まり、気分が高揚したのか、9月13日にシルカ川のウスチ・カラ駅の電信局、15日にアムール川のアルバジン駅の電信局から長男の金八宛(後の武憲、当時5歳)に電報を発信しました。2通は今日か一昨日の違い以外は同じ内容でした。

ウスチ・カラは現在のウスチ・カルスク、図1を参照。シルカ川、アムール川は図1または図3を参照。

 

 

 9月15日、東京の長男宛のアルバジン発線の電報

Enomoto Kinpati Gaimushio Tokio.

Before yesterday left for Vladiwostock.

Middle October will be home.

Thank Kuroda. All well.

Enomoto.

 

(東京 外務省 榎本金八宛 吾一昨日浦塩へ出発 十月中旬帰国予定 黒田によろしく すべて順調 榎本)

 

 20語に収まり、2ルーブルでした。一日置きに二度、息子宛に電報を出したのは、榎本も親ばかなのか、それともこの地域の電信の状況を確認しようとでもしたでしょうか。

 

 

・ハバロフスクに到着する

 

 

 スレーチェンスクを発って9日目、9月21日、夜8時頃ハバロフスクに着きました。ついにアムール川の航海は終わりました。アムール川はここハバロフスクから北東に向かい、約千キロを経てオホーツク海に流れ込みます。河口付近の中心都市にニコラエフスク・ナ・アムレ(下の地図ではニコラエフスクと表記)があり、日本語では尼港と表記されます。その夜、ハバロフスクからウラジヴォストークへ行くために、アムール川に注ぎ込む支流、ウスリー川の汽船に移りました。そこで改めて榎本はアムール川を総括し、称賛します。

1920年に尼港事件が起き、赤軍ロシアのパルチザンにより分かっているだけで日本人数百人が虐殺され街が焼かれた。

 

図3 アムール川(黒竜江)と支流
黄色のエリアはアムール川(黒竜江)の流域を示す
参照元 https://en.wikipedia.org/wiki/Amur#/media/File:Amurrivermap.png

 

 

『両岸は薪に富み水は清く、魚類にもまた富む。実にアジア中屈指の一大良河であって、欧州のダニューブ川、北米のミシシッピー川とただちに比肩し得るものである。ロシアが数百年前から注目して、遂にこれを掌握したのももっとも至極なことである。ましてシベリアが肥沃であり金土に富めることからなおさらである。また、満洲の内部に通じる松花江のような良河もまたアムールに流れ落ちるから一層その価値が高い。』

 

 「薪に富み」という言葉で始まったことは興味深く、アムール川(黒竜江)流域に住む人々が生活に用いる薪であり、アムール川を行き交う汽船の燃料でもあります。続いてロシアが狙ったものに対する執念深さを語り、再び、シベリアの地の豊かさ、水路による交通の便の良さを、アムール川の地理的価値として評価しています。

 

 9月22日に榎本は、網にかかった鮭を見て、石狩川で捕らえる鮭と全く同じだと書き、恐らくブラゴヴェシチェンスクまで遡ると地元の人から教わりました。さらに、榎本は、あちこちの鮭の値段を調べました。

 

 榎本のハバロフスクでの行動について、榎本のシベリア日記に基づいて、船山廣治『ハバロフスクにおける榎本武揚』一般財団法人北海道北方博物館交流協会会誌(26)、2014で論ぜられ、最後尾に『榎本の、ハバロフスクにおける足跡については不明確な処がありさらに調査のうえ正確を期したい。』と述べられています。

 

 

・ウラジヴォストークに到着

 

 

 9月29日午後5時半、ウラジヴォストーク港に到着しました。榎本の日記は、28日のハンカ湖に入ったところで終わっていますが、榎本の次男で日記を書き写した春之助は、旅費明細書から、この日時にウラジヴォストーク港に到着したと推測しました。

 

 開拓使書記官の鈴木大亮と貿易管理官の瀬脇寿人が、榎本を待ち受けていました。ウラジヴォストークに三泊四日いましたが、そこでの行動は記録されていません。

 

 

・ロシアの南海航路

 

 

 ノルデンシェルドの北東航路探検の目的は、実際には、北欧と中国とを北極圏航路でつなぐことではなく、北極圏側からオビ川、エニセイ川、レナ川へ入り内陸へ貨物船を送り交易を活発化させることでした。この輸送は極東のためではなかったのです。スエズ運河開通後、1870年代は、極東のウラジヴォストークへの物資の輸送は相変わらず黒海のオデッサを起点にインド洋、南シナ海、東シナ海、日本経由でした。これを南海航路と呼びます。

 榎本がペテルブルクに駐在中の1878年4月11日、ロシア皇帝の裁可のもと義勇艦隊設立委員会が正式に発足しました。『義勇艦隊とは、有事に即応しうる商船隊で、「義勇」という言葉には船舶購入の財源に国民各層の義援金を当てるとの意味合いが』込められました。1878年4月から翌年5月までに義援金は、384万ルーブル集まりました。この資金で五隻発注されました。榎本はペテルブルクでこの商船隊設立に注目していたはずです。

  最初の三隻は、購入後、クルップ砲などを装備し巡洋艦に改造した後、軍艦名簿から除かれました。義勇艦隊の活動は当時の海運業界の動向から、ウラジヴォストークへの航路に限られました。榎本がウラジヴォストークで義勇艦隊の動向を探ろうとしたことは間違い無いでしょう。

 

(以上は、原暉之(はらてるゆき)『ウラジオストク物語』三省堂、1998を参照、引用した)

 

 

・榎本武揚のユーラシア大陸横断チームは帰国します

 

 

 榎本の極東でのグレート・ゲーム、ロシアの南侵についての考察をまとめると、次のようになります。

 

 ロシアは十数年後、極東への影響力を持ち、必ず北満州に南侵する。しかし、そこには日本への経済面でのメリットがある。日本はロシアからの南侵に備え、富国強兵だけでなく、朝鮮と威徳をもって交際し、有事に備え対馬-釜山を戦略的拠点として整備し、有事にはウラジヴォストークへのシーレーンを遮断することが必須である。

 

 これが、当時、日本の最高の知性-榎本が辿り着いた結論であり、日本の恐露病患者への答えでした。

 

 榎本は、明治11年(1878年)10月2日にウラジヴォストーク港を出て、小樽、函館を経由して21日夜、横浜港に到着しました。明治7年(1874年)3月に横浜港を出帆して以来、4年7ヶ月を経て、43歳で帰国しました。

 

 

 

【参考】 現代文字版  講談社編『榎本武揚 シベリア日記』講談社、2008より

 

黒龍江の如き良河を棄て、魯に取られしも歯に掛けず。かつこの国境を支那の役人見廻ることなどは絶えてなき由、さもあるべし。予思ふに境の図さへもあるかなきか知るべからず。気の毒なるものなり。

然れども黒龍江、魯の有となりたるにつき、我らおよび開化世界一般に電信並びに汽船の便を得、時日を刻して通過するを得るに至りしなり。

もし依然支那領たらしめばいはゆる天物を暴殄する(無駄にする)ものにて、世界一般幸福の用をなさざるべきこと言ふを待たず。支那いはゆる楚材晋用(他国のものを利用すること)とはこれ、これを謂ふなり。

これを以て推せば、別帳にも述べし如くネルチンスク領のツルハイツイよりプラゴウェスチンスクまで東方一直線の地も、程遠からずして魯領となるべきことほとんど疑ひなし。

然るときは我が日本と魯との電線の便よりしてインヂレクト(直接)に貿易の利までも起こすの便を与ふべし。

支那の古聖孔夫子は二千五百年前に朽木は彫すべからずと言ひ置きたり。夫子自ら自国の猶来を言ひ当てしこそ地下にて不本意たるべし。

 

別帳とは小型手帳のことで、日頃持ち歩くフィールドノートと考えられる。

 

 


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