ウクライナ戦争を考える②経済安全保障
ロシアによるウクライナ侵攻は、経済による安全保障という考え方に根本的な見直しを迫ることになりました。貿易、投資、金融の世界で各国が相互依存を深めれば、戦争による互いの経済的損失が大きくなり、戦争を起こすメリットはなくなる。こうした「経済による安全保障」の根幹を「プーチンの戦争」は、あっけなく崩してしまったからです。
◆「黄金のM型アーチ理論」の破綻
その象徴がロシア国内のマクドナルド店の休業です。冷戦が終わった直後の1990年、モスクワに第1号店を開いた米マクドナルドは豪列ができる大人気の店となり、その後ロシア国内で850余の店舗を展開するほどの活況を呈していましたが、ロシアのウクライナ侵攻に抗議してロシア国内の店を閉じました。
米ニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、トーマス・フリードマンは『レクサスとオリーブの木』(2000年)のなかで、マクドナルドを展開できるような国は中間層が育っているので、国民はもはや戦争を好まない、という「黄金のM型アーチ理論」を提唱しました。冷戦が終わり、世界がひとつの市場なると、経済の発展によって世界も平和になる、というわけです。フリードマンは「グローバリゼーションの旗手」と呼ばれました。
グローバリゼーションは確かにロシアや中国の経済を発展させ、中間層もふやしました。しかし、その結果は強固な専制国家を出現させただけで、中間層が自由に声を上げられる民主主義社会にはなりませんでした。中国は香港の民主化を抑圧したり、ウイグル地域での人権を侵害したりしています。そしてロシアは主権国家であるウクライナを侵略し、まさに戦争を引き起こしまた。黄金のアーチ理論の破綻です。
◆レピュテーションリスク(reputation risk)
企業が追求するのは言うまでもなく利益ですが、マクドナルドにかぎらず多くの世界企業がロシアでの営業を止めたり、投資から撤退したりして、ロシアへの抗議への姿勢を示しています。英国では石油大手のシェルがロシアでの事業から撤退を表明、米国ではコカ・コーラやスターバックスがロシアでの営業を停止、ドイツのフォルクスワーゲンはロシアでの生産とロシア向けの輸出をやめ、日本のトヨタなどもロシアでの生産を休止しました。
企業が利益よりも倫理を優先させたわけで、こうした動きがこれだけの規模で広がったのは過去に例がないと思います。その背景にあるのは、レピュテーションリスクだといわれます。企業の行動が評判(レピュテーション)を落とすと、その企業のブランド価値も下がり、大きな損失につながるというのです。
今回のウクライナ戦争でも、ユニクロをロシアでも展開するファーストリテイリングの柳井正会長は当初、アパレルは生活必需品だとして事業の継続を表明しましたが、内外から批判が殺到、株価も急落したのを受けて、ロシアでの事業の一時停止を決めました。まさにレピュテーションリスクを恐れて、損を覚悟で泣く泣く事業の止めたということでしょう。
◆経済制裁で「新興国」から転落するロシア
ロシアへの対抗措置としてG7が主導しているのが経済制裁で、金融面では銀行間の国際取引システム(SWIFT)からのロシア系銀行の排除、貿易面では半導体など戦略製品の輸出禁止やロシアに対する最恵国待遇の撤回などによって、ロシア経済に大きな打撃を与えようとしています。
こうした経済制裁や世界企業の撤退や事業停止は、ロシア経済にどのくらいの影響を与えるのでしょうか。ロシアは石油、天然ガス、石炭、パラジウムなど鉱物資源に依存するモノカルチャー(単一の産品や産業に依存する経済)だといわれます。石油を含む鉱物資源の輸出で得た外貨で、工場を動かす機械から電気製品やアパレル製品など家庭用品まで輸入しています。
今回のウクライナ危機で、鉱物資源の価格が高騰したことはロシア経済にとってプラスですが、ルーブルの大幅な下落で輸入物価が高騰し、インフレが高進することでロシア全体の購買力は低下、経済は縮小します。みずほリサーチ&テクノロジーズはことしのロシアの経済成長率を15%から25%程度のマイナス成長とみています。
長期的な影響のほうが大きいかもしれません。ウクライナとの和平ができても、ロシアの国際法違反の事実は消えず、経済制裁が継続される可能性は高いと思います。また、経済規模が縮小するロシア市場でビジネスを続けるメリットは小さくなるうえ、レピュテーションリスクもありますから、ロシアから撤退する企業がふえるとともに、新規の投資は大幅に減るとみられます。
ルーブルの下落でドル換算での経済規模が小さくなるのは明らかです。2020年のGDP(ドル換算)で比較すると、ロシアは世界11位で、10位の韓国より小さい規模でした。仮にロシアのGDPが経済の鈍化で20%減り、さらにドル換算で50%減価すると計算すれば、順位はさらに下がり、23位のポーランドあたりになってしまいます。1人当たりのGDPも2020年は64位で、62位の中国よりも下ですが、上記のような大幅な減価で計算すれば、112位のサモアを下回ることになります。
今世紀の初め、BRICSと呼ばれ、ブラジル、インド、中国、南アフリカなどと並ぶ「新興経済国」ともてはやされましたが、ロシアが「新興経済国」から脱落し、発展なき「発展途上国」になるでしょう。
◆経済安保の逆襲
米国のバイデン大統領は、ロシアがウクライナを侵攻すれば、ウクライナはNATO加盟国ではないので直接的な軍事行動はできないが、厳しい経済制裁を科すと、ロシアに警告してきました。しかし、プーチン大統領は、ウクライナを攻撃してもNATOは反撃しないというメッセージだけを受け取ったようで、経済制裁の影響については、ウクライナの反撃と同じように軽視していたように思えます。
これから長期にわたってロシアは、ウクライナ侵攻は大損だったと悔やむことになると思います。経済安保をないがしろにすれば、経済で国は滅ぶ、ということをロシアは身にしみてわかることになると思います。経済安保の逆襲です。
とはいえ、経済の相互依存を深めれば戦争は起きないという理論は、どんな場合でも通用する理論ではなく、経済合理性を理解する指導者がいる国においては、という条件が付くことになりました。経済合理性を理解しない指導者のもとでは通用しないということです。
もっとも、核抑止もそうですが、軍事的な安保の根本である抑止も、自分が攻撃すれば相手からも同じ以上の攻撃を受けるから戦争はやめようという考え方ですから、これも合理的な思考を指導者が持っていないと通用しない理論でしょう。
経済制裁は、プーチン大統領が考えていた以上の影響をロシアにもたらすと思いますが、そうなると、「窮鼠猫を噛む」ということも考えなければなりません。とことん追い詰めれば、自暴自棄の行動に出るおそれもあるからです。
日本が対米戦争を始めたのは、日本が満州だけでなく中国に侵略したのに対して米国が1939年から経済制裁を強化したのがきっかけになったといわれています。航空用のガソリン装置の輸出禁止にはじまって、石油製品や鉄などの輸出規制、日本の在米資産凍結、石油の禁輸などと強化したため、日本は石油を求めて東南アジアへの侵略を考え、最終的には米英を相手にした勝ち目のない戦争に突入しました。今回のロシア制裁でも、ロシアを追い詰めない「賢い調整」(生かさず殺さず)が必要という意見もすでに出ています。
◆中国をどうするのか
中国は「ウクライナ」という踏み絵を踏むのかどうか、欧米諸国から迫られています。中国がロシアに加担すれば、経済制裁を受けることになる、という踏み絵です。戦後、毛沢東率いる中華人民共和国は、蒋介石率いる中華民国を台湾に追い出し、同じ社会主義国としてソ連と同盟関係にありましたが、社会主義の路線や領土問題でソ連と対立しました。それに乗じた米国のニクソン大統領は1972年に中国を訪問、1979年には国交正常化を果たします。米国にとっては敵(ソ連)の敵(中国)は味方、という戦略を取ったことになります。
冷戦が終わったあとの中ロ関係は、ロシアや中国、カザフスタンなど8か国が参加する上海協力機構などを通じて、「戦略協力パートナーシップ」の関係を築き、さらにロシアはチェチェン、中国は新疆ウイグルの独立の動きに対して、対テロ戦争の名目で弾圧を強めるのを相互に支持し、欧米との対立姿勢が明確になりました。
2014年にロシアがウクライナのクリミア半島を併合すると、日本を含む西側諸国はロシアへの経済制裁を発動、「冷戦の復活」と言われました。その後、通商問題で米中が対立するようになると、中ロの結びつきはさらに強まりました。
今回のロシアのウクライナ侵攻に対して、中国は経済制裁には加わらない一方、ロシアへの軍事的な支援には消極的な姿勢を見せています。ロシアとのパートナーシップは維持しつつも、軍事協力などで西側諸国から経済制裁を受けるリスクは避けようという思惑が見えます。
しかし、西側諸国はロシアへの経済制裁をさらに強めていて、ロシアを経済的に封じ込める抜け穴となる中ロの通商にも監視と規制を強めることが予想されます。米国内には、通商問題や人権問題をめぐる中国との対立を21世紀の覇権争いととらえ、中国との経済依存関係を切り離そうという「デカップリング」論が出ていました。今回のウクライナ戦争で、この動きはさらに強まるものとみられます。欧州は、中国との経済的な結び付きを重視して、米国のデカップリングには消極的でしたが、今後、ウクライナ問題での中国の対応によっては、デカップリング論が欧州でも強まるかもしれません。
冷戦時代は、自由主義経済圏と社会主義経済圏とが互いに閉じた経済圏を維持していましたが、ロシアや中国のデカップリングが進めば、冷戦時代に逆戻りということになります。
核抑止しかなかった冷戦時代の安全保障に対して、冷戦終結後は、経済の相互依存による経済安全保障が地に着いたのではと思われたのに、ふたつの経済圏に分かれることになれば、経済の相互依存が戦争を起こさないという経済安保の役割は果たすことができず、世界は軍事力による抑止で平和にありつくという危うい均衡に頼るしかありません。
◆ポスト冷戦からポスト・ポスト冷戦へ
ふたつの経済圏が対立する「冷戦」から「冷戦後(ポスト冷戦)」になり、世界はひとつの市場というグローバリゼーションの時代となりましたが、米中対立やウクライナ戦争を経て、経済安全保障という観点からは「ポスト・ポスト冷戦」を考えなければならなくなりました。
この新しい試練の時代、カギを握るのは投資だと思います。中国が21世紀になって急速に発展したのは、安い労働力を武器に世界から投資を受け入れ、「世界の工場」となる原動力しました。
世界の投資が中国に向かったのは、大きな利益が期待できたからです。しかし、地球環境問題をきっかけに、機関投資家の投資先は利益だけではなく、環境(environment)、社会(social)、ガバナンス(governance)を考えるESG投資が求められるようになりました。この考えを推し進めれば、人権を抑圧したり、言論の自由を奪ったりする国への投資は、たとえ利益が見込まれても、資本市場の支持を得られないことになります。
逆に言えば、世界から投資を呼び込み、経済を発展させようとする国は、ESGを重視する国になる必要がでてきます。自由な市場の実現に傾注してきたWTO(世界貿易機関)のシステムは、専制国家が生まれる余地を残しました。今後、ESGのような投資の志向が強まれば、これから発展しようとする国は、自由と民主主義を重んじることが必要になります。
中国への海外からの投資が鈍り、経済が停滞するようになれば、中国が民主化をしぶしぶ進める可能性もあります。遠回りのようですが、ポスト・ポスト冷戦の時代が専制国家をのさばらせないようにするには、投資に志向性を持たせることがひとつの手立てになるかもしれません。
(冒頭の写真は3月24日、ブリュッセルで開かれたウクライナ支援のG7首脳会議の首脳たち。米政府の公式ツイッターから転載)
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