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榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(3)

2023.03.11 Sat

図1 榎本武揚が買収を構想した南洋群島と北ボルネオ

 

 

榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(3)

 

 

島人根性の旧弊

 

 

 明治9年、榎本駐露公使のマリアナ諸島*をスペインから買収する建議は、入江寅次『明治南進史稿』(井田書店、昭和18年)によると、日本国内は、佐賀の乱(明治7年2月)、熊本神風連の乱(明治9年10月)、秋月の乱(明治9年10月)と一揆だけでなく士族の反乱が続き、西南戦争(明治10年1月-9月)を予感させる不安定な世情であり、明治9年10月にようやく小笠原諸島を日本の領土であると諸外国に宣言した状況なので、マリアナ諸島買収の結論は先送りになったと推定しています。

 

 国内での反乱鎮圧のため、消費するだけの戦闘に費やす資金と失われる人命、そして政治を停滞させる時間を考慮すると、開国したのだから、不平、不満から自棄になり、食い詰めそうなサムライ達を買収した南洋諸島へ移住させ、島を開発させれば、国内外における大きな経済効果と内地での生活困窮者が生計を立てることに貢献できると、榎本は考えていました。榎本は、明治32年の殖民協会報告第67号では、内地引きこもり根性を『所謂島民思想(島人根性)の旧弊』と言いました。

 

 政府が榎本のマリアナ諸島買収建議をペンディングにしたことを知り、南洋へ向け行動を起こした代表的人物は横尾東作でした。

 

* 1521年マジェランが世界周航の途次に発見し、ロス・ラドローネスLos Ladrones(ラドローネ諸島)と命名した。1565年スペインがグアム島の領有を宣言。1668年ジェスイット会がグアム島に本部を置いて布教を開始、同年マリアナ諸島全島をスペイン領とし、国王カルロス2世の母マリアナ女王の名をとってラス・マリアナスLas Marianas(マリアナ諸島)と改名した。(大島襄二・コトバンクから引用) 当時、榎本はラドローン群島と呼んでいた。

 

 

【横尾東作の南洋事業】

 

 

 仙台藩士だった横尾東作(1839-1903、宮城県加美町出身)は、漢学に限らず早くから英学に堪能で、榎本の南洋方面の門下生の中で代表的な人物です。以下は、木村紀夫『東洋のコロンブス横尾東作 : 南洋移住と貿易にかけた新時代の先駆者--(郷土の偉人 ; 1)』*¹からの引用です。

 

『幕末から明治にかけて、宮城県は南方に目を向ける偉人を輩出してきた。中でも林子平*²は「三国通覧図説」により小笠原諸島が、横尾東作は硫黄島が日本領土となるきっかけを作った。生涯石垣島で八重山の民俗や自然文化を研究し、広く紹介した岩崎卓爾[たくじ、1869-1937]もいる。
ことに南洋開発の夢を抱いた横尾は自らマリアナ諸島の探検に赴き、日本の南洋貿易と南洋移住の端緒を開いた。』

 

横尾東作の偉業に関しては、前出の仙台の雑誌「りりらく」2020.6月号に掲載された木村紀夫論文や松永秀夫『太平洋人物誌 横尾東作―硫黄島を日本領土に―(1839 ~1903)』(太平洋学会誌第23巻1/2号、2000、4)でまとめられ、論じられている。

はやししへい、1738-1793、幕臣の次子。兄が仙台藩に仕官するので仙台に越す。江戸後期の経世家。「富国論」、他。海国日本にふさわしい国防体制、武備を説き、外圧に対する先駆的著述、『三国通覧図説』、『海国兵談』がある。(引用:塚谷晃弘・コトバンク)

 

 

『横尾東作翁傳』(大正6年)、『横尾東作と南方先覚志士』(昭和18年)、『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』(2011)、から榎本武揚と横尾東作の関わりを紹介します。

 

【文献紹介】

河東田経清(かとうだつねきよ)編集『横尾東作翁傳』河東田経清、大正6年

竹下源之助『横尾東作と南方先覚志士』南洋資料第258号、南洋経済研究所、昭和18年

長谷川亮一『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』吉川弘文館、2011

 

 

 戊辰戦争の戦火が東北諸藩に迫ると、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、薩長軍の侵攻に対抗しました。横尾は横浜の外国人居留地のスネル宅に潜み、11カ国に向け、奥羽越列藩同盟を結成した理由と薩長軍に与せず、中立を求める檄文を送りました。さらに、徳川海軍司令官の榎本に、薩長軍の新潟港上陸阻止のため、徳川艦隊の出動を要請しました。横尾は、一時、薩長軍に懸賞金をかけられるお尋ね者でした。

 

 横尾は、維新後、明治4年(1871)に友人らと早稲田に北門社*¹を設立し英学を教え、翌年、仙台で英学を教え、次に神奈川県庁に出仕し、明治9年から19年まで警視庁に奉職しました。

*北門社は無償教育だった。学生が増えすぎ、学校の共同管理者に出牢したばかりの松本良順が招聘された。開校後、三年目に閉校した。後に大隈重信は『不幸にも其学校〔北門社新塾〕は目的を達することが出来ず、荒野となつて居たのを、私が別荘に買取つたけれど、未だ常住を致さなかつたのである。』と伝えている。北門社と東京専門学校とは無関係である。(出典:『早稲田大学百年史第一巻第二編九章二 早稲田の杜』https://chronicle100.waseda.jp/index.php?top)

 

 
 横尾は警視庁に奉職中、先ず榎本と図り、榎本の盟友、赤松則良や荒井郁之助と同志的聯繋(れんけい)を結び、さらに友人らを加え、数次会合し、マリアナを始め南方の無主の島嶼を経略*¹する計画を立てながら、関係者から情報を収集し、探討船*²を出す準備を整えました。さらに政府上層部へ理解を求める活動をしました。特に赤松は、明治18年に横尾に送った書簡で、南方島嶼の情報や探討船の準備について専門的助言を与えました。(前掲、竹下、p.5)

けいりゃく 綱紀を作り、国家を統治すること。国をおさめ、四方の敵地を攻めとること。(コトバンクから引用)
たんとう 事柄をさぐりたずねること。しらべきわめること。探求。(コトバンクから引用)

 

 明治18年12月、横尾は「南洋公会設立大意」の草案を作成し、翌年、広く配布し、同志を集めようとしました。「大意」では、『「南洋公会」という組織を設立し、「南洋」の島々のうち、領有権のすでに定まっている島については交易を、そして、未だ定まっていない島についてはその殖民関係を呼びかける』(前掲、長谷川)という方針を打ち出しました。『南洋公会設立大意の後編に『先ヅ探討船2隻ヲ出シパラワン島スールー島ミンダナオ島ニ航シ、直チニ其土地ノ景況ヲ熟察シ、酋長ト和睦ヲ結ビ、島民ト慇懃[いんぎん]ヲ通ジテ・・・』と書かれています。

「パラワン島スールー島ミンダナオ島」とは、スールー海を形成する島々で、当時のスールー王国(Sultanate of Sulu)の主要な領地です。さらに、カロリン群島、マーシャル諸島、マリアナ諸島なども殖民の可能性を求めて現地調査の必要性を述べています。しかし、問題箇所があります。『小笠原諸島ノ東南ニマゼンラン群島アンソンズ群島アリテ碁布星列[きふせいれつ]シ直チニ布哇群島ニ毘連ス此群島ノ現ニ布哇政府ニ属スル者ハ僅々[きんきん]十三島アルノミ其余ハ尽ク無主ノ島嶼ナリ・・・』(前掲、竹下源之助、p.10)と記しています。

「小笠原諸島とハワイ諸島の間には、夜空に星がちりばめられたように、洋上に多数の島々があり、現在13島のみハワイ政府に属しているだけで、無主地[むしゅち]の島が多数残されているから、領有しよう」という主旨が書かれていました。現代では、マゼラン群島やアンソンズ群島は聞いたことも、地図上でも見たことがありません。

『「マゼラン諸島」(Magellan Archipelago または Magellanes Arch.) や 「アンソン諸島」(Anson Arch.)という地名は、現代の地図にはまず載っていない。しかし、二〇世紀初頭ごろまでの地図には、この名が記載されたものが存在する。たとえば、一九二二年にイギリスで発行された 『タイムズ世界測量地図帳』には、日本列島の南方に「マゼラン諸島」、その東側に「アンソン諸島」という島々が描かれている。・・・海図上には記載されているものの、実在の確認されていない島のことを、海図用語では「疑存島」という。』(前掲、長谷川、p.14-15、23)

 探検者からみると「疑存島」は「幻の島」です。太平洋上の島々を調べ尽くすためには、横尾たちの時代からさらに年数を必要としていました。しかし、横尾たちが目指した島々は実在する南洋諸島でした。

 

【新しい日本、新しい日本人、そして・・・】

 

 横尾が、明治19年5月(明治20年とも)に探討のため購入した風帆船は故障し、航行不能になりました。榎本逓信大臣(明治18年12月-明治22年3月)のはからいで、翌20年11月1日、逓信省灯台局所属の「明治丸」に乗船し、小笠原諸島から硫黄島、鳥島など南洋の島々へ探検の旅に出ました。一行は横尾の外、官民多数と新聞記者が乗船しました。榎本と関わりがある人物は、戊辰戦争当時、榎本艦隊が仙台に寄港したときの協力者だった細谷直英(後述)、榎本の指名人として榎本が駐露公使時代の通訳だった市川文吉、さらに東京府知事高崎五六*や後にアホウドリの乱獲で知られる玉置半右衛門らが鳥島開拓のための調査のため、そして、榎本の知遇を得て乗船した人々たちで、総勢、40余名でした。

*たかさきごろく、1836-1896。薩摩藩士、明治政府官僚。当初は薩摩の尊攘派として活動したが、後に慶応3(1867)年土佐藩の大政奉還論に同調し,武力討幕方針の藩政府主流から隔たり,ために維新後の官歴は必ずしも華やかではなかった。(井上勲・コトバンクから引用)

 

 横尾は同年11月17日に横浜港へ帰港すると、「朝野新聞」の記者に探検航海の目的を次のように話しました。(以下、朝野新聞11月23日の記事『南洋探検の横尾東作帰る』から引用)

『元来右探検の一事は、同氏が多年来の宿志[しゅくし]に有之、近年本邦の人口は漸々[だんだんに]増加して、貧民は益々その数を多くし、この儘[まま]にて捨て置かば必ず他日に於て畏るべき惨状を呈[あら]わすならんと、同氏は夙に[つとに]こゝに着目し、先ず南洋群島の中に於て土地を開墾し、人民の移住を図るこそ今日の急務ならんと思い居たりしも、・・・』

 横尾は榎本のコピーと言えるような殖民の目的を語りました。何故、南洋群島なのかについては、「かなり以前、当初は所有がはっきりしないフィリピンやニューギニアという大きな島をターゲットにしていたが、昨年、一昨年、両島ともドイツやスペインに占領されてしまったからだ」と説明しました。つまり、大物を逃したので、散在する無主の島々を狙っているという意味でした。1529年のサラゴサ条約でスペインはフィリピンをスペイン領とし、1565年からスペインはフィリピンの実効支配を開始しました。1884(明治17)年、ドイツはニューギニア北部を保護領にしました。

 高村聡史『榎本武揚の植民構想と南洋群島買収建議』の「おわりに」の項で、榎本および榎本のグループが唱えた「新しい日本」と「新しい日本人」という概念を紹介しています。「新日本」とは殖民による「新領土」、「新日本人」とは、榎本達が『将来海外において作り出そうとしている人物』像のことで、『海外に雄飛して積極的に独立経営を行う人物』だとしています。言い換えると「新日本人」とは冒険的事業に取り組むエンタープライズの気象(気性)をもつ人物が、海外へ進出し、企業に乗り出し(adventure on an enterprise)、殖民地を獲得し、そこを新たに日本の領土に加え、日本の領土を増やすことが榎本の殖民政策ということになります。新しい日本人による新しい日本の領土です。

 そして、横尾は最後に重大な発言をしました。

『今後本邦より最近の群島に先ず手を下すべきものは、彼のウオルガ島*¹なりとの見込みを立て、此の島に割拠して政治上全く内地よりの干渉を絶ち、此地を本陣として[周囲へ拡張し]・・・』

 横尾は榎本と繰り返し、南洋への進出政策について議論し、企画作成には、榎本の弟分にして盟友、赤松則良らが協力しました。横尾は、榎本の代弁者と見なせます。即ち、横尾のこの発言は榎本の本心です。「 [南洋諸島に]割拠して政治上全く内地[明治新政府]よりの干渉を絶ち、此地を本陣として」新たに内地から支配されない政治体制の日本を建国するという意味です。明治新政府による日本の「新しい領土」という意味では無く、殖民たちが新たに獲得した領土に新しい日本の政権を樹立するという意味です。

 明治元年10月25日、榎本ら脱走軍が箱館の占領を終えると、同11月26日(1869年1月8日)の「横浜新報もしほ草」*²は、『榎本函館を攻略−日本に政府が二つ出来た−』という題の記事を出しました。

『・・・当地(箱館)にて外国人、朝廷を日本の政府なりと承知せし後、間もなく又はこだてには各国のコンシュル[consul、領事]たち、榎本を同地の政府なりとせうちせり、つまり外国人は、どちらがどふでも日本人同士たゝかひをなさんより、太平にてむつまじく和することをこのむなり。』

 箱館に居留する外国人たちは、榎本達の箱館での行動が西洋的*だったので、自分たちは自由貿易を続けられるなら、このまま日本が一国二政府、The United States of Japanでも良いと考えました。蝦夷嶋政府は、国際的には受け容れられる状況でした。これは、失敗に終わりましたが、榎本らの新しい日本を建設しようとした最初の事例でした。

*『なほ徳川家の血統を蝦夷に戴くまでの仮政府として、次の陣容[省略]が決定された。組織方法としては、米国の選挙法を倣つたものだと伝へられる。』田中惣五郎『幕末海軍の創始者勝海舟・榎本武揚伝』日本海軍図書、昭和19、p.297-297
木村毅『第15章 北海道共和国:日本歴史新書 文明開化』(至文堂、昭和29年、pp.223-237)において、箱館新政権の「選挙」について触れている文献を紹介し、徳川公国の徳川家由来の主人が決まるまでの仮の政権(臨時政府)の人事を選挙で決めたのか、もともと選挙で政権の人事を決めるつもりであったのかを議論している。紹介した文献は、椒山野史(しょうざん・やし)『近世史略』(明治5年)と小杉雅之進『雨窓紀聞』(明治6年)であり、両者とも主人が決まるまでの仮の政権の人事を選挙で決めたと説明している。しかし、この文献に対し、『沢太郎左衛門の手記』(出典不明)では、徳川公国を明治新政府は当然のごとく拒否してきたので『箱館屯集所に於いては、同盟の役々を、士官以上の者、入札[投票]して左[省略]の如く定む。これ日本に於いて、役々を投票して定むる始めなり』と記していることを紹介し、話しの筋の足並みが揃わないことを指摘している。また、234頁では、『共和国』について、英国駐日代理公使のアダムス著『日本史』(History of Japan, Francis Ottiwell Adams. London, 1874)の下巻17章に榎本等の箱館占領に関する記事の中に、『次の仕事は蝦夷に於ける一共和国設立の宣言であった。(The next step was to proclaim a republic in Yezo.)』と書かれていることを指摘している。235-236頁では、ランマン著『日本の指導者』(Leading Men of Japan, by Charles Lanman. Boston 1883)は、文明開化時代絶頂期の日本の著名人59人の小伝を集めた本で、その中に榎本武揚の章があり、『箱館に共和国を設立し(established a repabulic in Hakodate)プレジデントには榎本、・・・』という文章が含まれていることも指摘している。

 

 日独戦争で日本の勝利の結果、内地の政治が南洋諸島に及びました。その後、大陸やインドシナ半島(南方)へ展開した陸海軍の戦闘、進出が原因となって欧米列強と日本は緊張が高まり、ついに米国は日本を経済的に追い込み、日本は開戦を選択しました。陸軍の大陸での戦闘が、最後は、北太平洋上の米国のシーパワーを呼び込むことになり、南洋諸島と本土を悲惨な状況に追い込みました。かくして、太平洋戦争・大東亜戦争で300万人の同胞が亡くなり、600万人の同胞が海外から引き揚げることになりました。

 榎本は長くヨーロッパに留学し、西欧の文明の核は、17世紀のガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の研究成果(『二つの新しい科学』、『星界の報告』など)により、科学技術の基礎概念と手法が確立し、18世紀以降、技術革新や産業革命の連鎖が社会を変革させ、一国の社会に留まらず国際社会を動揺し続ける時代に入ったことを学びました。榎本は、日本の開国とは日本人がイノベーションに取り組み、太平洋に向かって経済的発展をする政策だと認識していました。

上掲、長谷川亮一『地図から消えた島々』のp.10「図1 北太平洋の島々」、および、p.18「図3 19世紀後半の水路誌に見られる日本近海の主な疑存島」で確認出来ない島名。同年10月21日付け高知日報の『南海の孤島』と題する記事で、横尾の南海探検航海の行き先が「ボルガノ無人島で、小笠原島から300里の正南にある三つの小島で、硫黄などに富む」としている。また、読売新聞の11月1日付けの『渡邊文京島巡り 無人島の探査』と題する記事で、横尾に同行する渡邊文京氏が向かう島は、『小笠原等を経てフォルカ島、・・・』を巡らすと書いている。横尾が『本邦より最近の群島』というので、朝野新聞の記事中の「ウオルガ島」は硫黄島を指すと考えられる。

明治初期、横浜で発行された小冊子型の新聞。1868年(慶応4)閏(うるう)4月11日アメリカ人バンリードEugene M. Van Reedが主宰し、初め岸田吟香(ぎんこう)、のちに栗田萬次郎(くりたまんじろう)が編集を助けた。正式名称は『横浜新報 もしほ草』。この新聞の意義は次の3点である。第一に横浜居留地で発行されていたため、明治新政府の取締りを受けず、官軍が江戸占領後、一時江戸の新聞がすべて発行を中止した間も発行を続け、当時の社会情勢を伝えた貴重な新聞であること。第二に発行者がアメリカ人であったため、幕府を支持するフランス、薩摩(さつま)・長州の両藩を後援するイギリスなど、内乱の虚に乗ぜんとする外国勢力の恐るべきことを繰り返し(漫画などで)警告していること。第三に内乱平定後は、政論よりも新知識の紹介、風俗の改良などに力を入れていることである。1870年(明治3)3月13日の第42編で発行を中止した。[春原昭彦]コトバンクより引用した。

参考書籍
小林茂子『砂糖と移民からみた「南洋群島」の教育史』風響社、2019
寺尾紗穂『南洋と私』中央公論社、2019
中島敦『南洋通信 中』中央公論社、2019

 

 

【南島商会と榎本文部大臣の更迭】

 

 

 明治20年、横尾東作が企画した小笠原島のその南の火山列島と呼ばれる硫黄島の探検に参加した東京府知事の高崎五六は、南洋諸島を舞台にした事業を推し進めようとしました。明治22年末に高崎は旧幕臣であった東京府会議員の田口卯吉らに南洋事業をもちかけましたが、田口らが難色を示したので、翌23年1月28日に南進教祖のごとき存在の榎本に、高橋は田口らを引き連れ榎本の向島の家で面談し、いろいろ教示を受けました。その結果、田口らは南洋方面の事業に乗り出すことになりました。しかし、高橋が南洋事業のために用意した資金が士族授産資金であったため、巷の注目を集めることになりました。

 明治23年5月3日の郵便報知新聞の紙上に田口らは、南洋事業に乗り出すことになった経緯を掲載しました。この表明の中で、まず、榎本は南洋事業の資金源の素性については知らなかったことに触れ、次に、榎本の発言が紹介されています。榎本は、「府県若し余金あらば余は須らく職工学校の設立を望むべし然れとも現今日本の人心皆餳*¹の壺の中に蟄息*²するが如し嘗て外洋の利を見るなし・・・」と言い、東京府の南洋事業に賛同したことを伝えました。

あめ、または、餲アイ。元の印字が若干潰れているため、確定できず。
ちっそく、世俗をのがれてひきこもること。(Oxford Languages)

 

 田口らが起業した「南島商会」設立当初、榎本の強い要請で横尾東作が事務総長として就任しました。暫くして横尾は南島商会を去ります。5月8日の郵便報知によると、職員の給与を月給にするか、利益による歩合にするかで横尾と南島商会の経営幹部との対立が激しくなり、月給制を主張した横尾が去って行ったとしています。さらに、「南島商会」は、南方へ出帆するまで紆余曲折があり共同経営者は去り、出帆時は田口のみが残りました。

 しかし、竹下源之助『横尾東作と南方先覚志士』(南洋経済研究所第258号、昭和18年)では、南島商会の事業で生じた利益を士族に分配するか南島商会の経営者が一時手元に置くかの激論の結果、利益を士族に分配することを主張した横尾の意見が認められなかったため、横尾は南島商会を去ったことになっており、当時の新聞記事と竹下の横尾伝とは一致しません。

 田口は5月に出帆し、横浜―小笠原―グアム・ヤップ・パラオ・ポナペを航海し、貿易と探検を実施しました。田口は11月に東京に戻ると、陸奥宗光農商務大臣から士族授産金の返還を求められ、田口は南島商会を精算し、東京府へ出資金を返済しました。その間の5月17日に榎本文部大臣(明治22年3月-明治23年5月)が、19日に高橋東京府知事が更迭されました。

 5月3日の郵便報知は、すでに内閣改造の動きがあり、二三の大臣が入れ替わるようだと報じていました。榎本はその「二三の大臣」の一人でした。5月18日の朝野新聞では、榎本の更迭の理由には教育上の主義進路によるものは無く、『山縣とソリが合わぬ爲』と報じられました。つまり、榎本の更迭は、高橋と田口の士族授産金を資金とする南島商会の事業とは関わりが無い更迭でした。高橋については、東京日日新聞は5月20日、『久しく其噂ありし東京府知事の更迭は愈々[いよいよ]昨日を以て行はれぬ。』と報じました。

 新聞紙上では榎本の更迭にはなんの背景も無いとされていましたが、実は山形には榎本更迭の動機がありました。同明治23年10月30日に教育勅語が発布されました。『[同年]2月の地方長官会議が内閣に対して徳育原則の確立を迫る建議を行ったのが[教育勅語]成立の直接の契機』でした。山形は、『榎本ハ理化学ニ興味ヲ有リセシガ徳教ノコトニハ熱心ナラズ其ノ後約二月ニシテ五月ニ芳川陸奥等欧州ノコトニ通暁セルモノ内閣ニ入ル』*¹と語りました。榎本は文部大臣在任中、二ヶ月以上、徳育教育の基礎を立てる作業(教育勅語の作成)に取り組まなかったことが更迭の理由[補足]でした。

 一方、5月18日の朝野新聞の榎本と山縣の問答を報じる記事では、二人の間で小学校制と市町村制に関する議論が行われ、話しの途中、榎本は『各地方師範学校長の俸給の如きは国庫より支弁して地方議員の干渉外に立たしめ度[たく]』と発言し、榎本の見積では約五万円の歳出で済むと説明しました。この記事の文末は、『本邦現今の開明の[程]度は、教育を以て成丈地方の自治に任せ置くべし抔[な]どの謬見なるを略言し*²[榎本は]去れり』と書かれています。榎本が、地方長官会議が要求した教育勅語作成をなかなか進めない点や地方の師範学校長の業務が地方で干渉されないようにする政策などが原因となって、地方から中央へ榎本文部大臣への更迭圧力がかかっていたのかも知れません。

 榎本文部大臣の更迭事件は、王政復古と国民皆兵による軍事国家建設と、開国と生活困窮者就労を伴う産業立国という国家の進路や将来像の対立が垣間見えた出来事でした。

大正15年11月26日付け『教育勅語発布に関する山縣有朋談話筆記』から引用。
 出典:海後宗臣『教育勅語成立史の研究 (明治教育史研究 ; 第1冊) 』厚徳社、1965、p.152
    国民精神文化研究所編『教育勅語渙発関係資料集-2』コンパニオン出版、1985.6(原著出版、昭和14年)、p.453-455
*²謬見=びゅうけん、間違った考えや見解。略言=りゃくげん、簡単に要点だけを言うこと。(いずれもコトバンクから引用)

【参考】三宅雪嶺「同時代史 第二巻」岩波書店、昭和25、p.398-400
概要:
山縣は組閣にあたり、駐米公使の陸奥宗光を入閣させるつもりで帰国させていたが、犯罪者を入閣させることへの反発があり、陸奥を入閣させるには尚時間が必要となり、なかなか実行できずにいた。山縣は、陸奥を自由党を操縦するという議会対策のために内閣に必要としていた。井上薫が農相を辞任するにあたり、井上が陸奥を後任に推薦し、併せて、『股肱*の芳川内務次官を入閣せしむるの可なるを認む。』として、芳川を入閣させることにし、誰かを更迭する必要が出て、勢力が最も弱い榎本の更迭が決まった。榎本は明治維新当時は最新の知識を有すると評されたが、この頃の榎本の知識は既に旧いと嘲るものが出て、さらに、大隈重信の条約改正案に賛成したので、長州勢が不快に思っていたことが更迭の背景にあった。榎本の文相更迭に連動し、帝国大学総長渡邊洪基は芳川文相の下になることを拒み、渡邊は駐オーストリア特命全権公使へ転任した。
*ここう 手足となって働く大切な家来。腹心。(コトバンクから引用)

【補足】
 明治10年代より、小学校など学制を定めるに当たり、教育方針について、儒教を基にした天皇を頂点とする忠君の徹底と欧米型の自立した国民の愛国精神の育成との論争があり、明治23年2月の地方長官会議での建議でこの議論のクライマックスとなった。
以下、国民精神文化研究所編『教育勅語渙発関係資料集-2』コンパニオン出版、1985.6より、榎本文部大臣の地方長官会議からの建議への取組に関し、引用した。

p.13「地方長官會議に於ける榎本文部大臣回答要旨・修身教育に關する文部省の方針」
『教育に關する勅語の端をなした明治二十三年二月開催の地方長官會議に於ける榎本文部大臣の徳育方針指示に關する記録である。この地方長官會議は二月十二日より開かれたが、二月十九日小學校令に關する諮問あり引き続いて國民教育の諸問題につき論議あり、小學校區域及び簡易學科普及の建議と徳育に關する建議が文部大臣に提出された。 二月二十六日文部省修文館に於いて榎本文部大臣が地方長官に對し小學校令及び徳育の方針に就いて回答したが、こゝにはそれに關する新聞記事をとつた。この回答によつて榎本文部大臣の徳育意見を窺ふことが出来ると共に、これが唯單なる建議に止まらず閣議に於いても論議せられ、徳育に關する箴言編纂とまでなったことは山縣有朋芳川顯正の記録に示されて居る如くである。前者は明治二十三年三月四日東京日々新聞より、後者は明治二十三年三月十一日郵便報知よりこれをとった。』
p.449「地方長官會議に於ける榎本文部大臣回答要旨」明治二十三年三月四日東京日々新聞より
  榎本文部大臣は、地方長官たちが憂慮するこの問題に理解を示し、しかし、憲法では信教の自由が保障されているので、教育に特定の宗教を持ち込むことができないと論じ、次のように見解を述べた。
『・・・余の思ふ所に據れば我が國建國以來頼り來りたる教は我が民の心裏に入り易きを以て所謂人倫*¹五常*²の道即ち孔孟の教は我が民の徳育に適すべし。故に此基礎に依り以て一部の好書を編纂せんことを企望せり。何れの國の宗教にせよ是非善悪の意味に於ては異なることなしと雖も自國傳来の教を避けて更に他に求むべきの要なければなり。』
p.458芳川芳川顯正『教育勅語御下賜事情』教育時論、明治45年7月25日
『・・・甲論乙駁、随分八釜敷い議論があつて、遂に、一體民心を統一する方針は、文部省で立つべきものであるから、文部大臣に意見を問ふといふ事になった、そこで地方長官が大挙して文部省に逼つたから、當時の文部大臣榎本氏も、随分當惑せられたとの事であったが、地方長官達は、・・・種々の八釜敷い議論があつたが、遂に何等定まつた決議も無かつた、けれ共唯一つ何等か道徳上の大本を立てゝ民心を統一せんことを急要とすといふ丈の事は、格別決議した譯ではなかつたが、各地方長官の一致して認むる所であった。そこで當時の閣議にも此の事が一問題となり、途に畏多くも叡慮を煩はし奉るに至り、間もな教育上の箴言を編むべしとの大命が余の前任者たる榎本子に下ったのである、然るに榎本子は不幸にも、斯かる榮譽至極の大命に奉答するの間合もなくして、途に事故に由り辭職するの已む無きに至ったのである。・・・』
 ここで、芳川が言う榎本の事故とは、南島商会の士族授産金流用疑惑を指すのかも知れないが、明確になっていない。山縣との相性の悪さを事故と言っていると解釈するほうが、周囲の情報から妥当と考える。
*¹「人倫」とは儒教による、『君臣・父子・兄弟・夫婦など上下尊卑の人間関係や秩序。また、そのような人間関係を保持する道徳・倫理。転じて、人としての道。人としての倫理。』コトバンクから引用した。
*²「五常」とは、『儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信をさし、これは「孟子」に見える仁義礼智の四徳に、五行説によって信を加え、五徳目としたもの。また別に、父、母、兄、弟、子の五者の守るべき道として、義、慈、友、恭、孝をいう。』コトバンクから引用した。

参考:
・『忠君愛国』コトバンク
・『二 明治憲法と教育勅語』文部科学省、二 明治憲法と教育勅語:文部科学省 (mext.go.jp)

 

(続く)

・キャッチキャッチアイ画像は、google mapsをベースに作成した。

 

【備考】

 5月25日にたまたまとは思えない『長州の三派 卍字巴』(朝野新聞)という記事が出た。この記事によると、『一、伊藤伯、井上伯の派、二、山縣相国[しょうこく]派*¹、三、烏帽子、三浦子の派』の三派が長州にあり、伊藤と井上とは性行が大いに違い、配下の人々の気風はさらに異なるが、合同して運動する時は、其の威勢愈々赫々[いよいよかっかく]*²としている。一方、山縣の派は、数多の同類が集まっているものの冷熱の推移急速なので時として、山縣一人孤立することもある。第三の派は、他派と軍務上の意見が異なり、一時山縣派を押すこともあるが常では無く、また伊藤らとも組むことも無いと解説している。

しょうこくとは、国政を相(たす)ける人の意で、中国で宰相のこと。太政大臣、左大臣、右大臣の唐名。
かっかくとは、光り輝くさま。(引用元:コトバンク)

 


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