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ドイツ・ウーラント紀行④

2023.06.23 Fri

ウーラントがちょうど200年前につくった「渡し」という詩の舞台となったシュトゥットガルト郊外のネッカー川を眺めた翌日、松田、中村、釜澤の3人は、ウーラントゆかりの場所を求めてシュトゥットガルトを散策、この「本隊」とは別に、松田さんの長女、板谷美木子さんと私たち夫婦の3人は、シュトゥットガルト市内にあるポルシェ博物館と市の郊外ヴァイセンホフの住宅群を見学しました。「別動隊」のプランは板谷さんが提案したもので、私がそちらに同行したのは、ウーラントと現代とのつながりを考えるうえで、ウーラントの時代から時計の針をもう1世紀、現代の方向にずらしたドイツを知っておきたいと思ったからです。

 

◆ポルシェ博物館

 

シュトゥットガルト中央駅から電車で10分のところにポルシェ博物館はありました。駅を降りた瞬間、目の前にある博物館の奇抜な建物に圧倒されました。巨大なロボットが動き出そうとしているような姿です(タイトルの写真)。ポルシェ社が2009年に本社と工場のあるシュトゥットガルト・ツッフェンハウゼンに完成させた施設で、初期から最新のモデルまで約100台のポルシェが展示されています。(下の写真はポルシェ博物館の内部)

スポーツカーの帝王といわれるポルシェの設計者であり創立者は、フェルドナンド・ポルシェ(1875~1951)です。エンジニアとしてダイムラー社などエンジンを開発したものの、より速い車を作ろうとするポルシェ博士と経営陣とは対立することも多かったようで、1931年には独立して、シュトゥットガルトにポルシェ事務所をつくりました。そこで、いろいろな車メーカーからの自動車設計を受注しました。ヒトラーがつくった国民組織「歓喜力行団」(Kraft durch Freude、KdF)からの依頼で設計したのが「国民車」(Volkswagen)で、この車はKdFワーゲンとして1938年から発売されました。

 

しかし、民生車よりも軍用車の生産が優先されたため、フォルクスワーゲンの本格的な量産がはじまったのは第2次大戦後で、カブト虫の愛称で世界的に親しまれるようになりました。フォルクスワーゲン・タイプ1と呼ばれるこの車は、1972年に生産台数が1500万台を超え、T型フォードの同一車種の生産記録を抜きました。最終的に生産が終了したのは2003年で、総生産台数は2153万台でした。モデルチェンジを重ねなければセールスが成り立たないのが現代の量産車ですから、この記録が破られることはないでしょう。(下の写真はフォルクスワーゲン・タイプ1、©Rudolf Stricker)

ポルシェ博物館で、フォルクスワーゲンの話ばかりをすると、ポルシェ911がお尻から火を噴いて怒り出しそうですが、フォルクスワーゲンは1950年にタイプ2と呼ばれる商用車を発売、これも人気を博しました。当初は商用車だったのですが、ミニバスやキャンピングカーなどのバージョンも生まれ、レジャー用の車としても評価され、2013年に生産が終了されるまでに200万台超が生産されたそうです。板谷さんも愛車もこのタイプ2で、シュトゥットガルトに行くなら、ポルシェ博士の業績を見たいとこの博物館を訪れることになりました。(下の写真はフォルクスワーゲン・タイプ2、©Seven Storbeck)

私がこの博物館で着目したのは、「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ」ではなく、ポルシェの原点ともいえる「タイプ64」でした。1939年、ベルリン‐ローマ間1500キロのロードレースのためにポルシェ博士がKdFワーゲンを土台に開発したものです。戦争の勃発でレースは中止になりましたが、数台が世の中に出たようです。博物館に展示されていたのは、この実物ではなく、コンセプトでしたが、美しい流線形の姿は、戦後1948年から生産されるポルシェの原型であり、フォルクスワーゲンともよく似ていることがわかりました。(下の写真は、ポルシェ64のコンセプトカー)

速度を求めれば、流動力学的には流線形になるのだと思います。それにしても、このポルシェは時代を先取りしているように見えました。アルミ製で銀色に輝くこの車体を見ながら、ヘーゲルの有名な言葉を思い浮かべました。

 

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。

Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig.

What is reasonable becomes real, and the real becomes reasonable.

 

日本語訳は『ヘーゲルとその時代』などに書かれているいわば定訳。英訳は原文をgoogle の翻訳ソフトによるものです。『ヘーゲルとその時代』によると、この言葉は「哲学は彼岸的なものの提示ではなく、現にある現実的なものの把握」という意味だそうです。googleの英訳のように、合理的なものは現実化するのだと読めば、速度を追及する車のスタイルは流線形になる、という解釈もできそうです。そうであるなら、ポルシェ博士に、ポルシェのスタイルはどうやって思いつかれたのですか、と問えば、博士はヘーゲルのあの言葉を口にするのではないか、と夢想しましました。

 

◆ヴァイセンホフの住宅群

 

第1次大戦の敗戦国となったドイツは戦後、巨額な賠償金の支払いをかかえるなかで、深刻な住宅不足に対応するために、大量の住宅を供給しなければならない状態にありました。ヴァイセンホフ住宅群(Weißenhofsiedlung)は、そんな時代背景のある1927年にドイツ工作連盟が著名な建築を招いて、シュトゥットガルト郊外のヴァイセンホフで主催した住宅展覧会と実験住宅群で、いまも多くの住宅が現役として残っています。

 

なかでも、スイスで生まれフランスで活躍したル・コルビュジェ(1887~1965)が設計した住宅が2棟あり、2016年には、東京・上野の国立西洋美術館などとともにコルビュジェの作品群として世界遺産に登録されました。コルベジュは、米国人のフランク・ロイド・ライト(1867~1959)、ドイツから米国に亡命したルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)らとともに「近代建築の巨匠」と呼ばれている建築家です。(下の写真はル・コルビュジェ)

最初に訪れたのはコルビュジェとピエール・ジャンヌレ(1896~1967)が設計した2世帯の集合住宅で、現在はヴァイセンホフ美術館として一般に公開されています。1階部分に部屋を置かず、住宅を支える柱だけの構造をピロティと呼ぶそうで、コルビュジェが主張した「近代建築の5原則」のひとつになっています。そういわれてみると、西洋美術館の建物もピロティが生かされていました。(下上段の写真はヴァイセンホフ美術館の建物、下段は東京の国立西洋美術館)

美術館の中に入ると、可動式の部屋の仕切りなどで空間を自由に使えるようになっていたり、壁がない連続した窓で部屋が明るく開放的になっていたり、屋上が庭園になっていたり、住居者の便利さがとことん追求されているように思いました。

 

この住宅展覧会では、21週間という短期間に17人の建築家が設計した21戸の住宅が建てられました。現在は11戸の住宅が残っています。美術館を出て、このあたりを歩くと、オランダのJ.J.P.アウト(1890~1963)が設計したタウンハウス(下の上段写真)、ドイツのハンス・シャロウン(1893~1972)の戸建て住宅(下の下段写真)などを見ることができました。いずれも96年前に建てられたものとは思えないモダンな建築物で、まさにポルシェ64の住宅版だと思いました。

◆前川國男のこと

 

ウーラントからポルシェ博物館、ヴァイセンホフ住宅群へと寄り道したついでに、2008年から10年間、宮城県に居住した者としては、宮城県立美術館を設計した前川國男(1905~1986)について触れたくなりました。前川は1928年、東大工学部建築学科を卒業するとすぐに渡仏し、コルビュジェの事務所で2年間、働いていたからです。(下の写真は、前川國男、福岡大禅ビルオフィシャルHPから)

伊達政宗の騎馬像がある青葉山公園の近くにある県立美術館の中庭は、ピロティの列柱に囲まれた広場になっていて、建物の1階部分は吹き抜けのかなり大きな空間が広がっています。1階はピロティを原則としたコルビュジェの影響を受けたのでしょう。(下の写真は宮城県立美術館の中庭と1階部分、いすれも「仙台話題の現場」のウェブページ)

県立美術館の開館は1981年ですから、1959年に開館した国立西洋美術館などに比べれば新しい建築物ですが、宮城県は2019年に老朽化などを理由にして、仙台駅近くに新たに建設する県民会館のそばに移転させる計画を発表しました。しかし、その直後から、美術館は前川國男が残した貴重な文化財だとして地元の市民団体や芸術団体から反対の声が沸き上がりました。その結果、県は1年後に移転計画を撤回し、改築して存続させることにしました。

 

前川は、東京・上野の東京文化会館(1960年)や東京都美術館(1975年)、国立西洋美術館新館(1979年)など私たちが知っている建物を設計しましたが、日本住宅公団が1957年に東京都中央区晴海に造成した「晴海団地」の計画にも関与したそうです。15棟のうち14棟は中層の5階建てでしたが、15号館は高層の10階建てで、前川の設計でした。この高層住宅は、コルビュジェが提案した高層ビルによる都市構想「輝く都市」を強く意識したものといわれています。晴海団地は老朽化したため1997年に解体されました。

 

私は、宮城県立美術館の存続運動で、前川の名前を知ったのですが、國男の6歳年下の弟は、日本銀行の国際派として1979年に第24代の総裁になった前川春雄(1911~1989)でした。この人が総裁だった時期、私は金融担当の記者として総裁ウォッチャーのひとりだったので、兄の國男も近い存在のように思えてきました。

 

というわけで、ヴァイセンホフ住宅群の見学は、コルビュジェ―前川國男とつながって、興味深いものになりました。

 

次回は、寄り道から本道に戻って、ウーラントの故郷、テュービンゲンの話を書こうと思います。

◆追伸

冒頭で、わが旅行団の「本隊」はウーラントのゆかりの地を求めてシュトゥットガルトを散策と書きましたが、釜澤さんからそのときの報告が届きました。それによると、シュトゥットガルト中心部の東にある高台が「ウーラントの丘」と名付けられ、そこに行ったとのこと。ウーラントの死後、間もなく公園として整備された場所で、ウーラントの胸像もあるそうです。また、市内のアレクサンダー通りにはウーラントの胸像を壁にはめ込んだビルがあり、このビルはウーラントの死後、7年後の1862年に建設されました。このあたりにはウーラント通りもあり、ウーラントが市民に敬愛された人物だったことがわかります。「本隊」頼みのウーラント紀行です。(下の写真はいずれも釜澤克彦さん撮影)


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