榎本武揚を中山昇一さんと語る ⑤南方殖民の理想と現実
日本の近代化を推進したプロモーターのひとりとして榎本武揚(1836~1908)をみるときに、ほかの推進役と比べて特異だと思われるのが「殖民」へのこだわりです。
榎本が戊辰戦争で北海道に樹立した「蝦夷共和国」(1867~69)は旧幕臣による北海道での「入植」を目的に掲げていました。1874年から4年間、初代ロシア公使としてサンクトぺテルブルクに赴任していた時期には、南洋諸島に囚人などを「移住」させコーヒーやキナなどの栽培することを建議しています。帰国した翌年の1879年には地学協会を設立、副会長としてボルネオ島やニューギニア島の一部を買収して、日本人を「移住」させることを提案します。さらに、外務大臣(1891~92)に就任すると、メキシコなどへの移民計画を国策として進め、外相を辞めると1893年に殖民協会を立ち上げてメキシコ殖民の調査に着手します。1897年には「榎本殖民団」と呼ばれる36人の日本人をメキシコ・チアバス州に送り出します。
榎本にとって「殖民」とは何だったのか、榎本武揚の研究家である中山昇一さんと考えてみたいと思います。
◆海洋国家をめざす
――榎本の生涯を見ると、多方面で活躍、業績をあげていて、まさに「近代日本の万能人」なのですが、「殖民」へのこだわりは、生涯を貫く一本の縦糸になっているように思えます。これは、どこからきているのでしょうか。
中山 海洋国家という榎本の考えた日本の国家像から来ていると思います。その原点は、幕末のオランダ留学(1862~1867)です。そのときに、オランダや英国のように国土面積の小さな国が発展したのは、海洋国家として貿易や植民地経営で国富をふやしてきたからだということを実感したからでしょう。
榎本はオランダでは、日本人留学生の教育係だったJ.W.フレデリックス(1828~1896)から国際法などを学びます。そのときの教科書がフランスの法学者テオドール・オルトラン(1808~1874)の「国際法と海上外交術」で、フレデリックスがこれをオランダ語に抄訳したものを使いました。榎本がこれを現地で製本したものが『海律全書』として現在、宮内庁に保存されています。
フレデリックスは、この本の冒頭にある榎本への献辞のなかで、海上における国際法規の知識を得ることで、日本は雄大な海軍力を持つ国となる運命にある、という趣旨のことを書いています。フレデリックスの薫陶を受けた榎本にとって、理想とする国家像は海洋国家であり、「殖民」は、そこから派生した方策だと考えています。(写真は、宮内庁が所蔵する『海律全書』の内表紙)
――「海律全書」は、榎本が箱館(函館)戦争で降伏する直前に、日本にとって貴重な本だとして新政府軍に献上し、これが新政府軍における榎本評価につながります。また、福沢諭吉(1835~1901)は、フレデリックスの「海律全書」を翻訳しようとしたが、あまりに難しく榎本しか翻訳できないと、榎本の希少性を政府に訴える作戦をとり、榎本の赦免を助けます。つまり、この本は榎本の命を助けたのですが、それだけではなく、海洋国家日本という榎本の国家像のバックボーンにもなったということですね。
中山 榎本の発想は海洋国家であり、軍事的には海軍の視線です。榎本が明治新政府に対抗して「蝦夷共和国」(箱館新政府)を樹立した狙いは、旧幕府の武士たちの失業対策とロシアの脅威を防ぐことでした。蝦夷共和国は北の守りのための内地殖民です。榎本が明治になって提案した国際商品のコーヒーや煙草、砂糖などの育成をめざした日本の南方、太平洋に展開する殖民事業とは性格を異にします。
◆榎本の釜山領有論
――榎本は、南方殖民を目指した「南進論」で、朝鮮半島から中国大陸への進出を目指した「北進論」とは異なる方向性をもっていたとされています。しかし、その一方で、江華島事件(1875)をきっかけに日朝修好条約(1876)が結ばれ朝鮮が開国した時期に榎本は、サンクトペテルブルクから釜山港領有論を日本政府に提案しています。北進論の原点ともいえる征韓論に榎本も与したのでしょうか。
中山 榎本の提案は、朝鮮半島を支配するという意味での征韓論ではありません。朝鮮半島の占領ではなく、日本海の防衛を考えた釜山港の領有で、それも占領や略奪ではなく租借を考えていたと思います。榎本の目的は、あくまでもロシア海軍のけん制と監視です。
1860年に清朝からウラジオヴォストークを手に入れたロシアは、1871年に海軍の拠点をニコラエフスクからウラジヴォストークに移転、不凍港を確保しました。榎本は、ロシア海軍が日本海以南で活発に活動するようになると予測したのです。
榎本の「釜山領有」論は採用されませんでしたが、1899年にロシアが釜山港に近い馬山港に軍艦で入港し沿岸の測量を開始し、馬山(現・昌原市馬山会原区)の割譲を大韓帝国(1897年に朝鮮から大韓帝国に国名を変更)に求めると日本海軍は考え、日本海軍は馬山の土地を買収して、ロシアに対抗します。この結果、馬山港は自由港となり、ロシアの計画は頓挫します。日露戦争(1904~05)の日本海海戦で、日本の連合艦隊が出撃拠点に使った鎮海湾が釜山と馬山の間の鎮海だったことを考えると、榎本の釜山領有論の先見性が見えてきます。
――加茂儀一の『榎本武揚』を読むと、ロシアの馬山租借計画以前にも、ロシアは1875年に元山港を租借し、ロシアの軍港にしようと計画しました。このことを察知したのは駐露公使だった榎本で、榎本は書記官に休暇を取らせて帰国させ、その情報を日本政府に報告させました。政府は榎本の報告に従い、朝鮮政府へ外交官を派遣して交渉させ、元山港を自由港にさせた、と書いたうえ、次のような評価をしています。
「もし榎本のこの応急措置がなかったならば、明治三十七、八年の日露戦争にはあるいはより多くの困難を見るに至ったかもしれない。このことも榎本が有能な外交官であったことのひとつの証拠でもあろう」
中山 これは日本政府がまだ組織的諜報活動に取り組んでいない時代に、榎本が諜報活動で挙げた一大成果で、榎本の武勇伝の一つと言えます。ロシアはウラジヴォストーク港へ極東海軍(太平洋艦隊)の拠点を移動しましたが、不凍港としては不十分で、冬が訪れると、ロシア太平洋艦隊と将兵は暖を求めて長崎港へ移動しました。おかげで稲佐山の麓のロシア村や佐賀などの温泉街は繁栄しました。ロシアはウラジヴォストーク港のより南にある元山を軍港にしたい思いは切実でした。
ウラジヴォストークだけでなく元山までロシアの軍港になれば、日本海での日本の優勢は脅かされ、海上の防衛拠点であり地政学上のチョークポイントでもある対馬までロシアの脅威は広がります。もし、日露海戦(対馬沖海戦)で日本の連合艦隊がロシアの太平洋艦隊、バルチック艦隊に敗北していれば、日本海の名称は奪われ、ロシア極東海という名称になっていたかもしれません。
榎本は、日本の近隣で強大な軍事力をもつ国家=ロシア帝国の監視を続け、三十年近い将来に起こりうる国家的危機に対し、事前に手を打っていたことになります。榎本がいかに優秀な外交官であるかが分かります。希有の人材です。榎本は、後に駐清国特命全権公使として派遣されると、私費で現地の人間を雇って諜報活動を行い、公使館付武官で陸軍大尉だった福島安正(1852〜1919)とも連携して活動しました。(下の地図は、中山昇一氏作成の関係図)
◆榎本のロシア観
――幕末からの征韓論は、中国大陸進出の北進論となり、明治から昭和にかけての日本を突き動かしますが、榎本が日本の本流ともいえる北進論に乗らず、南進論を採ったのはなぜでしょうか。
中山 ロシア駐在で得た対ロシア観でしょう。ロシアと中国大陸や朝鮮半島で争っても日本の繁栄にはつながらないし、むしろ大陸での共存共栄は可能だと考えていたからだと思います。
榎本は1894年には、露国公使や水産業界代表や尾崎三良(1842〜1918)、曲木如長(1858〜1913)ら60名余の発起人によって1894年に設立された日露実業協会を立ち上げ、1902年には、玄洋社(福岡)配下の黒龍会会長、内田良平(1874〜1937)が伊藤博文(1841~1909)に相談して立ち上げた日露協会でも会頭となり、日露の民間交流、相互事業促進や情報交換をめざしました。
実業協会の発起人会で、榎本はシベリア鉄道の落成は世界に未曾有の大変動(経済効果)を起こすと演説し、日本の経済的メリットを主張しました。大陸を北進して、鉄道や通信などの利権を奪うのではなく、そのインフラを日本の貿易に活用するというアイデアでした。
――この時期の日本は、日清戦争(1894~1895)で獲得した遼東半島を露・独・仏の三国干渉で放棄を強いられ、世論は「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアとの戦争を求める主戦論が強まります。榎本は冷静だったのですね。
中山 当時の世界は、覇権国家である英国と、ユーラシア大陸で膨張政策をとるロシアとの「グレートゲーム」が展開されていました。榎本は、ユーラシア大陸の利権を維持しようとする英国にとって、ロシアは脅威かもしれないが、日本にとっては直接の脅威ではなく、むしろ経済的メリットを共有すべき相手と考えていました。
アヘン戦争(1839~1842)は、英国がインド・中国との三角貿易を維持するためでした。一方、アジアにおけるロシアの南下は、インドから中国へのアヘンの輸出、中国から英国への茶や絹の輸出という三角貿易の二辺の利権を奪おうとするものだと、榎本は見ていました。榎本のシベリア紀行(1878)も、ロシアが今にも北海道を強襲するといった日本人の臆病風を覚醒させるのが目的のひとつでした。
――英国は、グレートゲームの一環で1902年に日英同盟を結び、日本はそれを頼りに日露戦争を始めます。戦争の直前に日露実業協会や日露協会を立ち上げていた榎本からすれば、日本が英国の代理戦争をさせられたと、みていたかもしれませんね。
中山 日本は英国の代理戦争をさせられたといえますが、日本も代理戦争を希望しました。日清戦争後、ロシアがしかけた三国干渉の結果、国内ではロシアに対する報復戦に燃える人々が生まれ、英国では日清戦争に勝利した日本を極東のグレートゲームでの戦力となるとの見方が強まりました。
日清戦争後、中国大陸では、列強による分割統治が進行しました。義和団の乱につけこみ、ロシアは満州へ侵攻、占拠し、朝鮮の利権支配を強化しようとしました。その領域は、榎本がシベリア横断時に想定したロシアの南進範囲を大きく超えていました。しかし、英国はアフリカでの殖民地争奪戦に熱意を注いでいたため、極東のグレートゲームは、日本による代理戦争に期待したのです。(下の地図は、中山昇一氏が作成した関係図)
日本国内では、ロシアのシベリア鉄道が1897年に、イルクーツクーハバロスク間を除く区間が完成するとともに、ロシアの脅威を喧伝する論調が高まり、日露開戦を求める世論が喚起されました。
米国も日露戦争の終結に際しては、講和(和解)を仲介しますが、日露戦争に期待する思惑もありました。というのは、1898年にハワイを準州とし、フィリピンを植民地にして、北太平洋を勢力下においた米国は、ロシアが太平洋に進出するのをおそれる一方で、日本がフィリピンなどに触手を動かすことを恐れていました。したがって、日本とロシアが朝鮮半島や満州で互いに消耗戦をすることは、米国の国益にかなっていたからです。
日露戦争のさなか、海軍大臣だった山本権兵衛(1852~1932)は、英国から香港を拠点とする東洋艦隊を削減すると通知され、それではフィリピンの米海軍のプレゼンスが高まるとの懸念を伝えると、英国は、「米国は暗黙の同盟国」と答えました。日本にとって英国は同盟国でしたが、米国は暗黙の同盟国ではなくライバルだったのです。日露戦争で日本は外債の発行で英国と米国から戦費を調達しました。英国にとっては、グレートゲームも代理戦争へのコストであり、米国にとっては、日本とロシアが消耗し合う利益を得るためのコストでもあったのです。
榎本の南方経営、殖民政策は、こうした列強の思惑は排除して、日本の百年の計を考えていたことになります。
◆榎本の殖民論
――ということで、榎本の南進論に話を進めようと思います。日本の海外移民を振り返ると、幕末に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれると、まず、ハワイ王国(1898年から米国の準州)や米国への移民が始まりますが、榎本の殖民は、こうした流れに沿ったものでしょうか。
中山 榎本の「殖民」は、ハワイなどへの「移民」とは異なります。1868年に始まったハワイへの移民は、サトウキビ農園や製糖工場で働く労働者で、出稼ぎが目的でした。実際には、労働の契約期間が終わっても定住する人たちが多く、ハワイの日系社会を形成していきました。
一方、榎本の目指した殖民は、平和的手段で手に入れた南方の土地を自営で開墾して定住するのが目的です。榎本は、ハワイ移民のような出稼ぎ型を「定期移民」と名付け、榎本が進めるのは、海外で日本民族の子孫を育てる「定住移民」だとして、区別していました。
榎本の殖民論理は、1893年に殖民協会を立ち上げる際に示した「設立趣意書」に明確に書かれています。①増加する国内の人口問題の解決、②平和的手段による日本領土の拡大、③海外移民と日本との通商拡大による海運業の発展とそれを保護する海軍力の拡張、④長年の鎖国と封建制度による島人根性となった日本精神の打破、などです。
――日本民族の子孫を育てる、ということは、日本の飛び地を海外に設けるということですね。そうなると、欧州列強が略奪してつくってきた植民地ではないか、ということになりそうですが…。
中山 榎本は、殖民の地を平和的手段で獲得するとしていましたから、西欧の略奪型の植民地とは違います。また、西欧の植民地は、現地の人々を使役することで利益を得ていましたが、榎本の殖民は、日本人が自営農民として開墾することを考えていましたから、ここも大きく違います。
◆南方殖民の模索
――榎本がメキシコへの移民事業を手掛ける前に、榎本はいろいろな地域での殖民を提案していますね。1876年に、スペイン領の南洋群島を購入するよう、駐在先のロシアから献策したのに続き、1878年には、駐オーストリア=ハンガリー公使の青木周蔵(1844~1914)とともに、オーストリアの貴族から北ボルネオの租借権を買い取ることを提案しています。
中山 榎本の殖民論は、単なるアイデアではなく、殖民場所を獲得するための具体策を示しています。スペイン領の南方諸島の件では、英国の公使だった上野景範(1845~1888)に依頼して、スペインの外相に諸島を譲渡する意思があるかどうかを打診し、日本が希望すれば相談に応じるという言質を取っています。北ボルネオについても、華族達が出資した企業が地下資源を採掘する計画があり、外務卿だった井上馨(1836~1915)や岩倉具視(1825〜1883)に買収計画を説明しました。しかし、井上は一人で決められないので、内務卿だった伊藤博文との協議が必要だと回答しました。最終的に、これに反対したのは伊藤でした。
北ボルネオは、石油などの地下資源が豊富で、日本が海洋国家として生きるには有望な場所でしたから、「大魚を逃した」と思います。伊藤が反対したのは、幕末の英駐日公使だったラザフォード・オールコック(1809~1897)への忖度があったのではないかと、私は思っています。
というのも、駐日公使のあと清国駐在公使を勤め引退したオールコックは、1881年に英国政府から北ボルネオ会社の特許状を手に入れ、ボルネオ開発に乗り出そうとしていたからです。伊藤との関係は、尊王攘夷を掲げる長州藩と英・仏・蘭・米の連合軍との下関戦争が起きたときに、英国の留学先から急遽、帰国した伊藤の停戦交渉の相手がオールコックで、それ以来、年齢は違いますが親しい間柄になったのです。
面白いのは、オールコックと榎本が同じ時期に、北ボルネオに目を付けたことです。偶然ではないと思います。オールコックは1876年に英国の王立地学協会の会長に就任し、北ボルネオの重要性を知ったと思いますし、榎本も王立地学協会をモデルに東京地学協会を1879年に立ち上げ、同じように北ボルネオの価値を見出していたのだと思います。日英の国際人がそれぞれの地学協会を足場に、地政学の視点から東アジアを見たときに、北ボルネオは磨けば宝石になるところに見えたに違いありません。(下の地図は、中山昇一氏が作成した榎本武揚の殖民構想の関係図)
◆横尾東作の挑戦
――伊藤の反対で、北ボルネオの買収計画は頓挫しますが、それであきらめる榎本では、ありませんよね。
中山 その通りです。榎本の南方殖民の建議が伊藤らに反対されたことを知った有志たちが行動を起こします。そのひとりが、のちに「東洋のコロンブス」と評される横尾東作(1839~1903)です。(写真は、晩年の横尾東作=ウィキペディア)
横尾はもともと仙台藩士で、福沢諭吉の塾などで英語を学び、戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の密命を帯びて、横浜で欧米諸国の領事に列藩同盟の正当性を訴えるとともに、中立を促す文書を届ける役目を果たしました。品川沖に停泊していた榎本艦隊を訪問し、榎本に越後高田への攻撃を進言します。
維新後は、仙台で英語教師をしたり、警視庁の外事係をしたりしながら、1885年には『南洋公会設立大意』を著し、殖民による南進論を提唱、警視庁を辞めると1887年には、逓信大臣だった榎本に、小笠原諸島以南を探検するため灯台巡視船「明治丸」の借用を求めました。
当時、小笠原諸島とハワイ諸島の間の洋上に多数の島々があり、その多くは無主地(むしゅち)で、島を手に入れるのは早い者勝ちだとみられていました。そうした情報を榎本から得ていた横尾は、南洋探検の機会をうかがっていましたが、榎本の逓信相就任で、官(榎本)・民(横尾)の体制が整ったとみたのでしょう。
1887年10月、東京府知事の高橋五六(1836~1896)らを乗せた明治丸は、三宅島、八丈島、小笠原諸島を経て、11月に三つの火山島を「発見」、上陸して島を検分して横浜港に帰港しました。当時の新聞に次のような言葉を残しています。
「近年、日本の人口は漸増し、貧民は益々増えている。このまま放置すれば、いずれ畏るべき惨状になる。南洋群島を開発し、人民の移住を図ることは急務である」
――横尾の言動をみると、榎本の分身という感じですね。
中山 まさに榎本の代弁者です。硫黄島の探検から帰港したときには、硫黄島を拠点にして南洋諸島を発展させるとして、「政治上全く内地よりの干渉を絶ち」などと語っています。「内地からの干渉を絶つ」というのは、まるで蝦夷共和国の再現で、榎本の意を汲んでいるとすれば、榎本は蝦夷共和国の夢を南方殖民で果たそうとしていたのかもしれません。
――当時の新聞は、硫黄島の「発見」をたたえて横尾を「東洋のコロンブス」と称えたそうですが、歴史的には、16世紀半ばにスペイン船が発見していますね。ともあれ、硫黄島の「発見」は、南洋ブームを引き起こしたようで、1889年には、父島の住民、田中栄二郎らが硫黄の採掘のため入植します。政府も重い腰をあげて1891年には、「硫黄島」「北硫黄島」「南硫黄島」3島の領土宣言をします。
中山 横尾も1890年に、榎本の個人的な援助を得て、南洋貿易を目的とする株式会社恒信社を設立、帆船を購入して、サイパン、グアム、パラオ、トラック、ポナペなどを巡航して、コプラ(椰子実)、真珠貝、べっ甲などの産品を日本に輸出する事業を展開しました。
しかし、経営的には成功せず、横尾も榎本も多額の借金を負いました。榎本が殖民協会の設立趣意書で掲げたように、南方殖民を「国策」として、政府がかかわっていれば、日本の南方経営や貿易が日本の経済発展に貢献し、榎本が主張してきた「国利民福」につながったと思います。
――政府が南洋植民に力を入れるのは、第1次大戦(1914~1918)がきっかけで、日本軍はドイツが植民地にしていたミクロネシア諸島に進駐し、全島を占領します。大戦後、日本は領土権を主張しますが、米国などが反対したため、ベルサイユ条約(1920)で、国際連盟の信託統治領となり、日本はこれらの「南洋群島」を委任統治します。
第2次大戦(1939~1945)で、南洋群島が戦場になるまでの約20年間は、日本政府が南洋群島を経営することになります。サトウキビの栽培と砂糖の生産、カツオ漁業と鰹節の生産などで、経済成長は著しかったようです。日本からの移住者も出稼ぎを入れると1930年には7万人に達し、総人口の6割近くになった(溝口敏行「日本統治下における『南洋群島』の経済」、1980年、一橋大学経済研究所『経済研究』所収)とあります。榎本が描いた南方殖民のイメージに近いかもしれませんね。
中山 まさにその通りです。榎本の南洋殖民の提案は1877年(明治10年)頃です。この時期から、日本が国費を投入して、南方殖民を実行していれば、国利民福の増大は甚だしく大きかったでしょう。中国大陸は、列強が利権を争うところになっていましたから、そこに割って入ろうというのは得るものよりも反発が大きいわけで、国家戦略としては間違いでした。朝鮮半島や大陸に向かう国家資金や企業投資を南洋群島買収と殖民に投資し、固有の国土として国防の対象にしておけば、後に米国がハワイを占領したとしても、北太平洋の西半分は興亜主義の日本が陣取っていることになり、東南アジアの歴史も変わっていたかもしれません。
榎本の南洋殖民の提案が政府に採用されず、実行されなかったことはかえすがえす残念に思います。
◆メキシコ移民
――鬼が島の鬼を退治して財宝を持ち帰る桃太郎主義の日本ですね。一方、榎本が実際に進めた殖民事業はメキシコでした。しかし、これは「失敗」だったと評価されていますね。1897年に日本を出発した「榎本殖民団」は36人で、途中病死者がいたため、実際に入植したのは監督を含め35人でした。メキシコ政府から榎本が購入したメキシコ南部チアバス州の入植地で、土地の所有者となった「自由移民」は6人で、それ以外は、購入資金のない入植者のために榎本が設立した日墨拓殖株式会社が所有する入植地で働く「契約移民」でした。
植民団がメキシコ政府の用意した土地に行くと、そこは広大なジャングルで、目的としたコーヒーの栽培には適さない土地とわかりました。マラリアなどに罹患する人も多く、2か月も経たないうちに10人が逃亡する状態で、すぐに殖民団は崩壊状態になりました。
中山 榎本の殖民事業やその失敗の原因究明に触れた、多数の出版物や研究論文があります。研究者たちが共通してあげる原因は、①事業の資金難、②土地調達の不手際、③移民監督の草鹿砥寅二(1866~1902)の指導力不足、などです。
榎本がメキシコ殖民と同時期に企画した官営八幡製鉄所建設では、まず現地にテストのためパイロット事業から始めています。メキシコ殖民でも、パイロットファームを用意し、小規模な栽培から始めることで、経験と知識を蓄積させ、それから本格的なコーヒー園を経営する事業計画を作成するべきでした。
土地を購入する移民希望者が集まるのを待たず、榎本らが購入した土地で働く契約移民が多いまま、見切り発車したのも、失敗の原因ですね。その結果、資金不足のままの事業開始となったうえ、草鹿砥は出身地の三河(愛知)で契約移民を強引に集めたため、契約移民は出稼ぎの意識が強く、給与が滞ると、すぐに逃げ出しました。草鹿砥は、混乱と自責の念から、日本へ帰国してしまいました。
――メキシコ政府が用意した土地も、とてもコーヒーの適地とはいえない場所だったようですね。
中山 上野久著『メキシコ榎本殖民』(1994年、中公新書)によると、メキシコ公使館弁理公使の室田義文(1847~1938)がメキシコ政府に勧められて購入した土地は、コーヒー栽培などに不適でした。榎本のメキシコ殖民事業は、国際的には後発だったため、売れ残りとも言えるグアテマラ国境の土地があてがわれたのです。
また、殖民団が現地に着いたのは5月で、コーヒーの苗の植え付け時期は過ぎていて、苗もありませんでした。草鹿砥がなんとか手に入れた苗は、アラビカ種と呼ばれるもので、高地には適しているものの、入植地のような低地では役に立ちませんでした。
――さんざんな結果ですね。上野さんの『メキシコ榎本殖民』は、失敗の最大の原因は、資金不足だとして、次のように記しています。
「そもそもこの殖民計画は始めから資金不足の見切り発車である。榎本を取り巻く連中が目先の利益に目がくらんだために事を急ぎすぎ、資金を早く回収し利益を得ようとばかり焦ったのである」
中山 殖民協会が設立され、殖民団を送り出した時期(1893~1896)は、横尾の南洋群島での事業が危機に陥っていたときで、横尾の恒信社の解散などで、横尾は榎本と連名で8000円の負債を負うことになりました。
メキシコ殖民を実施する墨国移住組合は、移住する組合員が全員1000円ずつ引き受けることになっていましたが、応募者が少なかったため榎本は1万円を引き受けました。
榎本は北海道開拓使だった1873年に、榎本のお目付け役だった開拓使の北垣国道(1836~1916)とともに小樽の土地10万坪を開拓使庁から払い下げで購入しました。小樽が鉄道による石炭の集散地と船舶による積出港として発展するにしたがって、榎本らの土地も市街地となり、ふたりは1878年に土地管理の北辰社を設立します。1881年の新聞記事によると、榎本の地代収入は「1か月千円内外」と書かれています。榎本の懐も潤っていたはずですが、南洋やメキシコの殖民事業の赤字を個人で補填するには限界があったと思います。
◆政府は南方殖民に介入せず
――政府の事業として南洋殖民やメキシコ殖民を手がけるべきだった、ということになりますか。
中山 そうです。英国の「北ボルネオ会社」は国営ではありませんでしたが、国王の特許状を取っていました。東インド会社が解散させられた後に、この扱いは格別というべきでした。オールコックスの成果です。国家事業だというお墨付きがあれば、民間の資金ももっと集まったのではないかと思います。農業を成功させるには、ある程度の時間が必要ですから、政府の事業として行われれば、資金面や時間の焦りもなく、現地にさらに人材投入ができ、成功していたことは間違いないと言えます。
農省務大臣だった榎本は1896年に農商工高等会議を開催し、商工業の発展施策を検討します。この会議では、移民政策についても議論がなされますが、国策として移民の奨励策は取らないという決定を1899年にします。榎本が1897年に足尾鉱毒事件の責任を取る形で辞任したうえ、もともと移民政策に消極的だった伊藤博文が1885年から1901年にかけて4次にわたり内閣を率いていたことが影響していると思います。伊藤は明治初期の征韓論をめぐる新政府内の対立では、内治優先を掲げる大久保利通を支持しますが、日露戦争後の1905年には、初代の韓国統監府の初代の統監になります。大陸に目を向けていたわけで、海洋国家をめざした榎本とは、あるべき国家像が違ったのでしょう。
――1899年の商工高等会議の第3回会議の資料を読むと、移民問題について諮問を受けた調査委員会委員長で、東京府知事や初代帝国大学総長を務めた渡邊洪基(1848~1901)は①出稼ぎ型の契約移民は抑制、②資本を伴う植民は自然に任せる、③すでに移民となった邦人は保護する、という内容の答申を高等会議委員長の渋沢栄一(1840~1931)に提出することを決めます。
②の資本を伴う移民が榎本らの進めてきた殖民にあたると思いますが、答申は「帝国今日の気運は未だ此域に達せず」として退けています。「自然にまかせるというのは、勧めはしないけれど、やりたければどうぞ、という姿勢ですね。
この会議の議事録を読むと、渡邊の示した答申案に、真っ向から反対して、殖民協会の意見を聞くべきだと主張したのは、農学者の玉利喜造(1856~1931)だけで、南洋貿易の会社を経営したこともある田口卯吉(1855~1905)、米国への移民経験のある井上角五郎(1860~1938)、ペールでの銀山開発にかかわった高橋是清(1854~1936)らの委員は、殖民や移民で脛に傷持っていたためか、答申案に同調しています。移民問題を話し合う会議に殖民協会を呼んでいないというのは、殖民を進めない、という政府の方向が事前に決まっていたのでしょう。
中山 1924年に米国でいわゆる「排日移民法」が成立し、アメリカへの移民が禁止されました。その振替先にブラジルは移民送出先として注目されることになりました。さらに、米国の動向を見越していたのか、1923年にブラジル移民に対する渡航費補助が開始され、移民数は年々増加しました。榎本が白人の支配を避けた地域への移民を企画していたことは、榎本の国際感覚の確かさを示しています。
軍部は中国大陸の満州や朝鮮半島を支配し、そこへ国民を移民させようとしましたが、榎本の殖民政策は、中国大陸や朝鮮半島への移民を企図していないことも大きな特徴です。農商工高等会議が開かれた時期に、出稼ぎ型から殖民型への転換を国策として実現させていれば、満州への侵略型の殖民は抑えられたのではないかと思います。
――第2次大戦後、満州などからの引揚者が600万人にものぼったことから、政府は、ブラジルなど南米への移民を推奨しました。「人口増で国民が食えなくなる」という論理が明治から戦後まで続く移民・殖民の理由になりました。しかし、高度成長期の日本は、国民の購買欲が経済を押し上げる力になったわけで、人口増で食えなくなるのではなく、逆に食えるようになったといえます。
その意味では、北進論も南進論も、長期的な人口増の処方箋としては、正解だったとは言えないように思います。南米などでは、現地化が進み、2世、3世の時代になると、日本語もおぼつかない人たちがふえています。移住した人たちが現地化するのは自然の流れですが、日本人の子孫を海外で活躍させるという榎本の殖民思想とは異なる結果になっていると思います。
中山 メキシコに入った榎本殖民団は、すぐに崩壊して、殖民団の多くは帰国したり、ほかの国や地域に移ったりしました。榎本も1900年に、墨国移住組合が所有していた土地を実業家の藤野辰次郎(1858~1909)へ無償で譲渡し、殖民事業から手を引きました。
しかし、メキシコの殖民地では、とどまった6人が1901年に「三奥組合」という組織をつくり、残った土地で農業を続けたり、雑貨店を経営したりして、共同事業を存続させました。組合は1911年に日墨協働会社へ改組、事業をさらに拡大させました。(写真は、1913年頃撮影に日墨協働会社が所有するアウロラ小学校農場で撮影した同社理事長の照井亮次郎=右端=と家族、海外移住資料館だより2017Autumnより)
日墨協働会社は、「日本とメキシコを二つの祖国として生きることの決意として、日本とメキシコの間に紛争あるときは平和的解決、不変中立を守ることを義務とし、違反者は会社に於ける一切の権利を失う」という定めをしました。また、「日墨協働会社は日本人社員とメキシコ婦人との間に生まれた2世児童に対し教育を行うことを会社の目的」に加えました。1910年に始まるメキシコ革命の荒波にもまれ、日墨協働会社は解散しますが、日墨協働会社の精神は今も引き継がれているようです。
こうした考えは、殖民後は「雑居」することを掲げた殖民協会の理念に合致するもので、榎本の殖民思想が伝わったといえます。1968年に、榎本殖民の最初の移住地であるアカコヤグアに「榎本殖民記念」の石碑が建てられたことは、榎本精神が生きている証しだと思います。(写真は2017年に開かれた「日本人メキシコ移住120周年記念」の記念写真。JICAのHPより)
――戦後の高度成長で先進国になった日本にとって、移民あるいは殖民問題は、歴史の一コマになり、いまや移民問題とは、労働力不足になりつつある日本がどうやって移民を受け入れるか、という問題になっています。しかし、明治以降の日本にとって、人口増の対応策として海外に日本人の移住先を見出すことは必須ともいえる課題で、そのひとつの方策となった満州国の悲劇は、日本の国家戦略の失敗を示すものです。南方殖民は、敗戦に至らない別の可能性を示すものだと思います。
とはいえ、略奪ではない平和的な方法で得る土地は、現地の人達が見向きもしない土地でもあり、そこに殖民した日本人の開拓や開墾の苦労は、想像を絶するものだったと思います。私は、北米や南米の日系社会の人たちと接する機会がありましたが、かれらの持つ連帯感、勤勉さ、律義さ、日本語が残る地域での日本語の美しさ、何ものにも屈しないという凛とした顔つきなどに感動した覚えがあります。現地での厳しい環境のなかで、身に付いたものもあるでしょうが、私は、風雪に耐えて生きてきた「原日本人」の姿を見たような気になりました。
榎本の殖民は、今に生きる歴史として、いろいろな問題を投げかけているように思います。中山さん、ありがとうございました。次回は、総括編を考えています。
《以下は、今回のテーマと関係する中山昇一氏の論考》
・『榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(4)』
https://www.johoyatai.com/5680
・『榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−海
外向け-下編-1』
https://www.johoyatai.com/6356
・『榎本武揚と国利民福 Ⅰ. 南方経営』
https://www.johoyatai.com/2495
(冒頭の写真は、国会図書館が公開している榎本武揚の肖像)
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