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『黙示録』の著者はふたりいた

2017.08.27 Sun
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聖書学者である田川建三さんの『新約聖書訳と註』の第7巻にあたる『ヨハネの黙示録』が8月に作品社から刊行されました。2007年の『パウロ書簡その一』からはじまった新約聖書の全訳がとうとう完成したことになります。日本の聖書研究のエポックを画するものだと思います。

 

一語一句、なぜ、この訳になったのか、いくつもの写本や研究書にあたり、また、これまでの英語訳や日本語訳も引き合いに出しながらの緻密な作業で、その舞台裏が註に書かれているのですから、聖書を教典ではなくテキストとして読もうという人には、興味が尽きません。たとえば第1巻のマルコ福音書/マタイ福音書は、訳の部分が120ページなのに対して、註の部分が700ページを超えています。厳密な研究とはこういうものだという研究者のありようを見せつけたといえるでしょう。これから新約聖書について、何かを語ろうとするには、この『訳と註』にあたらないと、誤訳のうえにひとりよがりな解釈を重ねることになるかもしれません。

 

私は、パウロのローマ人への手紙の一説である「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」という言葉が好きなのです。ところが、田川訳は「艱難をも我々は誇っている。艱難が忍耐を作り出す、と知っているからである。また忍耐が保証を、保証が希望を」となっています。「練達」という言葉が「保証」になるだけで、拍子抜けみたいな気になりました。

 

田川さんの註を読むと、「せっかく文語訳の名訳以来の伝統で『錬達』と訳すことになっているのに、野暮な訳語で申し訳ないが、これが直訳。『練達』なんぞという意味はない」とバサリでした。「保証」というのは、終末において救われる「証文」みたいなものという田川解説を読むと、自分が救われる存在かどうかの保証が大切だという話は、大学時代に、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で勉強しましたと納得できたのですが、パウロの言葉として「練達」という単語を言いづらくなりました。私のようなシロウトでも田川訳が気になるのですから、研究者ともなれば、必読でしょう。

 

というわけで、田川さんの全訳の完成は、エポックメイキングと書きましたが、『ヨハネの黙示録』の巻は、お楽しみは最後にというわけでもないでしょうが、大きなサプライズが書かれていました。それは、黙示録の著者はふたりで、その文章が混在しているというのです。「元来の著者の作品と、そこに大量に自分の文を書き込んだ編集者の文」であると、この巻の「解説」に書かれています。

 

訳の本文のほうも、元々の著者の部分と編集者による部分との区別がつくように、編集されているので、これまでの『黙示録』とはまったく異なるものになっています。この大胆ともいえる結論にたどりついたのは、ふたつの理由があったからだと解説しています。ひとつは、ギリシャ語の水準が原著者は「まずまずの水準」なのに対して、付け加えた編集者の水準は「ただただ恥ずかしい、といった程度の語学力」だそうで、ギリシャ語の水準で両者の仕分けができた、ということ。もうひとつは、編集者は「極端に偏狭なユダヤ主義者」であり、原著者は「ユダヤ人優越意識は露ほども見られない」ということです。ギリシャ語の水準と書き手の立ち位置という別々の視点から黙示録を仕分けすると、その結果がぴたりと一致するのだから、ふたりの作者がいるというのは確実だということになります。

 

『黙示録』は、難解な文章で、それがさまざまな解釈の余地を広げてきたのでしょう、多くの芸術に影響を与えてきました。イングマール・ベルイマン監督の映画『第七の封印』(1957)や五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』(1967)、フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(1979)などがすぐに思いつきます。作者をふたりだとして仕分けすると、難解さの一部が緩和されたり、無理やりのこじつけ解釈の必要がなくなったり、という効果があるかもしれません。

 

黙示録は過去の文書ですが、今日的な意味合いがないわけではありません。2001年の9.11テロのあとで、社会学者の見田宗介さんは、黙示録のバビロンの滅亡を描いた部分を思い起こしたと、朝日新聞に書いていました。田川さんの解説に書かれた以下の文章を読むと、黙示録の現代的な意味がよくわかります。

 

「原著者がこの文書を書いた基本の目的は、ローマ帝国支配の批判、それも上っ面の現象の批判ではなく、その世界支配の基本的構造、すなわちローマの町を中心として地中海地域全体を支配する資本主義的経済支配の批判である」

 

聖書を教典ではなく思想書として批判的に読むということを教えてくれたのは、吉本隆明の『マチウ書試論』(1954)で、学生時代に読んだときの驚きと新鮮さは、今も忘れられません。田川さんも『訳と註』だけでなく、原始キリスト教や新約聖書の研究のなかで、繰り返し、聖書の護教的な読み方を批判してきました。新約の全訳が完成したところで、あらためて田川さんの新約聖書解説を読みたいところですが、田川さんの公式HPの「執筆予定」を読むと、次の仕事は「新約聖書概論」(仮題)と書いてありました。

http://www.tagawa-kenzo.server-shared.com/#shuppan-joukyou

 

1935年生まれですから82歳でしょうか。ぜひとも護教的でない新約聖書の全体像を読みたいところです。そして、それだけでなく若いころに田川さんの『批判的主体の形成』(1971)や『立ちつくす思想』(1972)を読んだ経験からは、現在の情況についても、歯に衣着せぬ田川節をうかがいたいところです。その片鱗は、『訳と註』のあちこちにちりばめられているのですが、黙示録の註にも、こんな箇所があります。

「大多数の大衆の中にも、今や、本当の『経済的』価値は『交換価値』である、と思い込まされてしまっている人が非常に多い。だから彼らは、ついたぶらかされて、株価の上昇以外はのことは何の興味も示さないアベ某の経済政策をうっかり喜んで支持してしまったのである」

最後に、日本の聖書研究者に期待したいのは、黙示録に原著者と編集者がいたという田川さんの仮説をめぐって論議や論争が起こることです。そして、この議論が世界に広がることも期待します。日本発の聖書論争が世界に広がる、ということを想像しただけでも楽しくなります。


この記事のコメント

  1. 中北 宏八 より:

    クリスチャンだったのですか?
    大変な学識に感心しました。
    大学時代の友人の牧師さんが、聖書の日本語訳の新しい改訂版づくりをしていると言っていましたが、田川さんもそのメンバーなのでしょうか。

  2. 高成田 享 より:

    田川さんは、日本の聖書学のなかでは異端視されているようで、おそらく入っていないと思います。多くの聖書は、教典としての読みやすさを重視するため、意訳が入っているようですが、田川訳は、写本のギリシャ語に反映された著者(マルコとかマタイとか)の母語ともえいるアラム語ヘブライ語まで遡って、正確に訳そうというレベルですから、共同作業にはなじまないと思います。
    聖書についての学識はまったくありませんが、イエスという人間の物語がキリスト教になっていく過程の「原始キリスト教」への興味を大学時代にもって以来、田川さんの『原始キリスト教史の一断面』(1968)、『イエスという男』(1980)、『書物としての新約聖書』(1997)などを愛読してきました。吉本隆明の『マチウ書試論』影響でしょうか。

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