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スターリンの葬送狂騒曲と言う映画

2018.08.11 Sat
政治

スターリンの葬送狂騒曲と言う映画

平成30年8月
仲津 真治

最近、評判の「スターリンの葬送狂騒曲」と言う映画を市中上映で鑑賞しました。
非常に入りが良く、スターリンが死んだ1953年(昭和28年)を中心に扱っているの
に、特に若い人が多く見に来ていたのには驚きました。

この作品を見て、スターリンの死後の顛末が、あらましが掴めたことと、血生臭
い事件や騒擾が背景に多発していることがよく見て取れるのに、ユーモアタッチ
の描き方が変わらないことに感心しました。

以下、私自身が気付いたポイントを幾つか記します。

1)  題材は旧ソ連で起きたことですが、映画自体は英国作品です。
出演者も英米人が主で、当然使用言語は殆ど英語なため、何か、
英語圏の物語を見ているような感じがありました。

2)  実は原作はフランス語で書かれている由、それが英語に訳され、「
THE DEATH OF STALIN」という英題の下、昨年映画化されたようです。
そして、日本を始めとする世界各国で公開されていますが、旧ソ連を承継する
現ロシア連邦では、同政府によって輸入・上映が禁止されている由です。

3)   その理由とするところは、先ず「事実に反するところが多い」と言うことと、
「芸術性が無い」という事の様です。 最初の点については何がそうなのか具体
的な指摘が無い由です。二点目は「こんなドキュメンタリータッチの作品に芸術
性云々と言う事自体どうかしていると思われます。

裏を返せば、旧ソ連ではスターリンの死後七十年程の中、なお諸々の関係者が
居る広がりと、実に多種多様な記憶や事象が関係して来ることが考えられます。
もし仮にロシア国内で、この映画が上映されたとした場合、人々の間で広く
話題となり、波紋が広がり、御し難くなるのかも知れませんね。

現に此の映画に盛んに登場するベリヤは、当時旧ソ連国家保安本部(NKVD 後年
KGBに改組)のトップでしたし、現プーチン大統領はモスクワ大学法学部卒業後、
このKGB)に採用されていますし、このベリアのことは未だロシアの人名百科事典
の類から消されたままと言います。

要は、現ロシア連邦では上映を許容することは出来ない作品なのでしょう。

対して、旧東欧、バルト三国、旧ソ連(CIS)諸国などではどうなのか、事情が
分かればと思いますね。

4) スターリンが1953年3月5日死去しますが、その直前に、脳血管性の病気で
倒れます。 映画はその場面をリアルに描いていますが、その緊急対処や治療の
ため、医師や専門家が呼ばれることは在りませんでした。

何故か。 一つは、スターリン自身の治療に当たっていた医師が、毒殺や暗殺を
疑うスターリンによって、遠ざけられ、投獄され、医師によっては処刑されてい
たからです。 病的な猜疑心にとらわれたスターリンには、呼ぼうにもまともな
医師が周りに居れなくなっていたのです。

もう一つは、往時のソ連では、最高権力者の緊急事態に対処するには、自身が招
集する共産党の幹部会議を開く必要がありますが、当人自身が倒れているのです
から、それは行い得ません。 でも少人数の者が駆けつけてきました。

右往左往と言い争いが始まります。 何と、倒れているスターリンをそのままに
して、ベリア、フルシチョフ、そしてマレンコフの三人が議論を始めたのです。
医療の緊急対処を棚上げにしての議論、その下で横たわるスターリン、象徴的な
問題シーンですが、映画はそこを大写しします。

其処には何とはなしに、この大ボスがこのまま帰らぬ人となってくれたらと思っ
ている、そんな空間が漂っている感がありました。

5)  代わりに連れて来られた老いぼれた医師たち

やがて、時間がたつうち、無能であったり、引退していた医師が
何人も集められます。 彼らは、良く分からないまま、診断を迫られ、
辛うじて判断し、署名します。

6) やがて情報が伝わり、急を聞きつけた関係者がクレムリンの一角に集まっ
てきます。

その中に、スターリンの娘、スベトラーナが居ました。
ここで、スベトラーナは、亡き父の遺骸をみて、意外な言葉を発します。
「えっ。こんなに小さい」と。

これには、二つの意味が潜んでいるように思われます。

スターリンは、小男で大変背が低かったが、人々の前では大きい、上げ底の靴を
履いて高く見せ、それを撮させていたこと。

このことを、スターリンの家族である娘が知らなかったこと。

この不知は信じられない事ですが、共産国旧ソ連に於ける、独裁者スターリンの
一断面のようです。

ちなみに、後年アメリカに亡命した「スベトラーナ」は父スターリンの死を自然
死と証言していて、これが今では定説となっている由です。 此の映画も此の立
場に立っています。

7) 公式には、ラジオ放送で、同志「スターリン」の死が発表されました。

これは1953年3月6日早朝の事でした。
しかし、この映画では、内なるドタバタを主体に描いているからか、この公式発
表の事は触れていませんでした。

葬式の場面では、棺を担いだ幹部が、棺を肩にしながら,あれこれ口頭で遣り取
りを続けている様子が描かれていました。

8)主導権の確保

形の上では、3月7日に首相に就任したマレンコフが、式次第などを進めていく感
じでした。

だが、実態は、ベリアが事態を掌握、あれこれと手を打っていく様子でした。
一旦配置についた赤軍の部隊を引かせ、KGB側の各部隊を展開するなど
典型的ですね。

ただ、これまでスターリンの近くに居て、秘密警察などを牛耳り、人々を震え上
がらせてきたベリアに対しては、根深い反発があり、それらが一気に表面化、ト
ラブルが起き、逮捕に至ります。もっとも、映画では、ここのところを、ベリア
の身柄の確保、射殺という描き方をしています。

対抗して、力を発揮し、状況を掴んでいったのは、フルシチョフでした。9月には
ソ連共産党中央委員会第一書記に就任します。

これに加えて、再び赤軍が動きます。 その指揮をとったのは、最高司令官のジ
ューコフ元帥でした。 勲章一杯の軍服姿が格好良く描かれていました。映画は
ここも取り上げています。 この後はエンドロールの世界へと変わり、余韻を持
たせてくれます。

其処を簡単に付記しますと、1955年1月マレンコフの解任がソ連党中央委で提案さ
れ、翌ブルガーニンが首相に就任します。

9)   この中で万事事態を掌握し、実権を握ったフルシチョフは、1956年2月、ス
ターリン批判の非公開演説をぶちます。 ただ、此の秘密演説のことは、公式の
党発表がないままの由と聞きます。 その現代史への影響は大きいものの、結局
闇から闇に葬られた感がありますね。

そして、1991年12月、ソ連は崩壊、各共和国は独立し、現在に及びます。

今は無い国で起きた大激変をユーモラスに描いた作品でした。
事実として知られる大筋はおいても、見所が沢山ある映画です。


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