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小樽で見た榎本武揚と渋沢栄一の夢

2019.04.29 Mon

小樽の旅情をかき立てる運河沿いの遊歩道を歩くと、向かい側に並ぶ倉庫群の一角に、「渋沢倉庫」と書かれた建物が見えてきます(写真)。渋沢栄一(1840~1931)が1897年に興した渋沢倉庫の傘下にある北海渋沢物流が所有する鉄筋コンクリートの建物です。現在は結婚式場や駐車場として使われていますが、未利用の空間もあり、小樽の町おこしになるような使い方はないかというので、模索がはじまっています。この渋沢倉庫に誘われて小樽を旅してきました。

 

実は、小樽で渋沢倉庫として有名なのは、上記の倉庫ではなく、同じ運河沿いを北に1キロほど歩いたところにある「旧渋沢倉庫」(写真)です。1892年ごろに建てられた木骨石造りのこの建物は小樽市の歴史的建造物第20号の指定をうけています。現在は所有者も変わり、カフェなどとして利用され、観光名所のひとつになっています。私が訪ねた渋沢倉庫は、昭和初期に建てられたもので、ツタで壁を覆われた建物はレトロな雰囲気を漂わせています。

 

この倉庫をどう活用するか、渋沢倉庫から相談されて知恵をしぼっているのが北斗市在住の塩屋忍さん(78歳)です。塩屋さんは、五稜郭の戦いで旧幕府軍を率いた榎本武揚(1836~1908)に詳しい“語り部”で、歴史に詳しい人なら文化的な活用法も浮かんでくるだろうというわけです。この倉庫再利用プロジェクトには、札幌市在住で電気設備業を営む宗像重親さん(74)、建築業を営む久田勝也さん(76)らも加わっていて、ここを借りて町おこしにつながる事業を始めたいと考えています。

 

渋沢倉庫(写真)の内部を、北海渋沢物流の営業部長、進藤直樹さんの案内で見学しました。1階の駐車場部分(写真)は、コンクリートの柱がしっかりと建物を支えていて、耐震性はありそうですが、柱が多いので駐車場としてちょっと窮屈な印象を持ちました。駐車場の裏には、運河に面した部屋があり、以前は喫茶店として使われていたそうです。倉庫の屋上にあがると、運河を見下ろす風景が広がり、夏場はビアホールの一等地になりそうです。屋上には、広い部屋(写真)も併設されていて、ここも使い道がありそうです。塩屋さんたちの間では、外国人旅行者向けの簡易宿泊所とか、運河の見える喫茶店などで収益を稼ぎ、観光客や市民が交流できるコミュニティーサロンを設けて、小樽と渋沢や榎本とのかかわりを展示したり、語ったりする場にする、などのプランが出ているそうです。

 

ところで、渋沢と榎本と小樽は、どう結びつくのでしょうか。「ふたりは小樽で会っているのですよ」と、宗像さんも久田さんも口をそろえます。あらためて、加茂儀一著『榎本武揚』(1988年、中公文庫)を読み直すと、榎本は明治26年(1893)の夏、自分の所有地を視察するため訪れた小樽市で、たまたま炭鉱の用務で当地に来ていた実業家の渋沢栄一と出会い、「珍しい処で出会ったというわけで、ある酒楼にあがって大いに飲んだ」と書かれています。

 

小樽にある榎本の所有地というのは、明治6年(1873)に、開拓使だった榎本が同じ開拓使でのちに北海道庁長官になる北垣国道(1836~1916)とともに小樽周辺の国有地20万坪を10円で払い下げてもらい獲得した土地のことです。払い下げと聞くと、うまいことをやったように思えますが、前掲の『榎本武揚』によると、「当時はそんな土地を払下げてもらっても何の役にも立たず、費用倒れにもなるので、榎本と北垣は頭が狂ったのではないか、という評判もあった」とあります。

 

当時の榎本は、戊辰戦争の終結後、3年間の投獄を経て前年の1972年に出獄、開拓使になったばかりですから資金もなかったようで、前掲書によれば、榎本の出資分5円は借金で、のちにその返済に苦労したと書かれています。榎本が小樽に目を付けたのは、北海道を調査して、産業の発展に欠かせない石炭を産む有望な炭田があちこちにあることを自分の目で確かめたうえで、小樽が石炭の積出港になると踏んだからでしょう。

 

実際、1880年には札幌―小樽間の鉄道(官営幌内鉄道)が開通、小樽港も整備され、小樽は急速に発展、1877年には4000余りだった人口が、榎本と渋沢がこの地で酒をくみ交わした1893年には34,000人になっていました。このころには地価も榎本と北垣の所有する土地の価格も上がり、ふたりが土地を管理するために設立した北辰社も1897年には資本も強化され、小樽の市街地づくりに貢献しました。

 

一方、渋沢が小樽を訪ねた「炭鉱の用務」とは、何だったのでしょうか。渋沢栄一記念財団が整理した『渋沢栄一伝記資料』によると、渋沢は1889年に、北海道炭鉱鉄道の設立発起人となり、重役の「常議員」に就きました。この会社は、上記の官営幌内鉄道などの払い下げをもとに、道内の産炭地と小樽などとを結ぶ鉄道事業網を広げていましたが、渋沢は1893年にその職を辞しています。背景には、重役の人事問題があったようで、いろいろな企業に参画して多忙だった渋沢も小樽に用務ができたのでしょう。

 

渋沢が日本の資本主義の父と呼ばれるようになったきっかけは、1867年にパリで開かれた万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として派遣された慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として渡仏したことです。当時の最先端技術を展示する博覧会で西欧の技術を目の当たりにしたのち、昭武に従って、欧州各地を回り、見聞を深めます。そのときの経験が実業人としての渋沢の土台となったわけです。榎本も1862年にオランダ留学生として1866年まで欧州に滞在したときに得た知識があったため、開拓使を2年務めたあと1874年には、対露交渉のため特命全権大使としてペテルスブルグに着任する。その後も明治政府のテクノクラートとして、逓信、文部、外務、農省務の大臣を歴任しました。

 

ふたりとも幕臣であり、幕府の資金で欧州に派遣され、そこで得た知見を土台にして出世したという共通項があり、小樽の夜の宴は盛り上がったのではないでしょうか。加茂の前掲書によると、榎本は宴のあとで急に陽気になり、渋沢も同行したとは書かれていませんが、同地の遊郭にくり込んだとあります。

 

小樽の歴史を語るサロンができれば、榎本や渋沢にまつわる話を伝える「語り部」の出番も十分にありそうです。事業を起こすには資金が必要で、そのためには、この倉庫を魅力あるものに変えるさらなるアイデアが必要でしょう。小樽市街でもっともにぎやかな商店街は、アーケードになっている都通り商店街です。ここをそぞろ歩きしていたら、「榎本武揚の夢」と書かれた大きなが垂れ幕(写真)がかかっていました。榎本が所有していた稲穂町がこのあたりだったそうで、この商店街のシンボルが榎本だそうです。

 

渋沢倉庫を小樽の情報発信の拠点にしようという試みは、無謀と思われた小樽の土地を購入した榎本の「夢」を引き継ぐものになるかもしれません。夢がかなうように、榎本が建立した小樽市稲穂にある竜宮神社(写真)に参拝して、小樽を後にしました。

 

(写真はすべて筆者が撮影したものですが、旧渋沢倉庫の写真だけは、筆者が撮りそこねたので、小樽市のホームページから借用しました。また、渋沢の旧字表記は「澁澤」で、渋沢倉庫や北海渋沢物流の社名も「澁澤」となっていますが、渋沢栄一記念財団が「渋沢」と表記していることなどから、「渋沢」で統一しました)


この記事のコメント

  1. 小西克介 より:

    高成田さんの「情報屋台」に夢中になったのは、小樽の記憶もあったが、榎本武揚に詳しい方の情報を知りたかったからだ。
    じつはわが家の母方のルーツ探究過程で知ったのだが、榎本は嘉永7年(1854)、幕府の樺太探検に堀利熙の小姓として参加している。
    この時、手分けして対露国境調査した村垣淡路守配下にいた吉見健之丞は、大塩平八郎の洗心洞門下生で、乱の企みを奉行所に密告した吉見英太郎当人であり、二人は後に幕府の長崎海軍伝習所の2期生として同じ釜の飯を食った仲だ。
    この時の同期生に我が国蒸気機関の泰斗、伊豆出身の肥田浜五郎がおり、1期後輩の3期生に三宅雪嶺の義父、田辺太一がいる。
    田辺と榎本は幼馴染であり、田辺と肥田は維新後、岩倉使節団の1等書記官と理事官として派遣されている。
    大塩平八郎について一番詳しいであろう吉見は伝習所卒業後早世、築地軍艦操練所の教授方にも選ばれていない。長くなるので後に回すが、榎本の伝記や日記、書簡などに大塩の乱や「小川善太郎」の名は出てこないだろうか。

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