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映画「顔のないヒトラーたち」鑑賞記

2015.10.08 Thu
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「TPP大筋合意成る」「連日、日本人科学者にノーベル賞授与」など大きなニュースが飛び込んで来ますが、そうした折り、邦題「顔のないヒトラーたち」と言う2014年のドイツ映画が、この10月3日から、「東京のヒューマントラストシネマ有楽町」にて単館上映されているとの事でしたので、関心があり、行って参りました。

館は大入りで、このテーマは日本でも、やはり相当の関心を呼んでいるようです。映画は二時間余の長編で迫力が在りました。

原題はドイツ語で、「Im Labyrinth des Schweigens」と言い、直訳ですが、「沈黙の迷宮」との意味になる由です。このタイトルにより、この映画の趣旨を原題と邦題の両方を併せて捉えますと、「ナチス統治の時代、人々は皆その下に在って、各自があたかもヒトラーの如く色んな事を行ったのに、今はその顔を見せず、ただ黙っている。」との意味になるようです。

物語は実話を下敷きとしており、官職名を「検事総長」と訳されているバウアーと、その「知人の記者」のグルニカは実在の人物であった由、一方主人公は、若き熱血漢で正義感に満ちた若手検事でヨハンと言いますが、それは何人か実際居た検察官の内、三人を集約して、その人物としているようです。この他にも、それらしい登場人物が居て、在独のイタリア人監督のリッチャレッリと、オーストリア人の脚本家バルテルが、ストーリー性を高めようと、そうしたフィクションを取り込んだ物語にしたと見えます。

以下、印象に残ったところを若干記しますが、物語について御関心在れば、やはり御覧になることをお薦めします。それは幾つかの映画賞に輝く作品で、なかなかの物と思います。

旧ナチスの蛮行に対し、現ドイツの司法機関が動く

バウアーは、記者のグルニカから、「元ナチ親衛隊員なのに、その事を隠して、教職に附いている男が居る。こうした事を放って置いて良いのか?」と聞かされます。当時、ニュールンベルグ国際軍事裁判(1945.11~1946.10)が結着して年月が経っていて、敗戦で解体したドイツ国家が東西に分割、各々再建され、旧ドイツを継承する唯一の合法国家とされるドイツ連邦共和国(西ドイツ)では「ナチスの事はもう触れない」「あとは臭い物に蓋」と言うのが、往時の支配的な世相になっていたと申します。つまり、往時の西ドイツは、「知らぬ、存ぜぬ」であれ、或いは「旧体制を密かに支持し、場合によっては新体制の者を敵対視する」のであれ、いずれにしても、そうした傾向が相応に根深く潜続していた様です。かくて、語る人があまり居ないゆえ、強制収容所などで起きていたことについては、知らない人が多いのが極く普通であったと言います。映画はそういうシーンを何度も見せます。

こうした中で、バウアーは、ユダヤ人の血を引くドイツ人で、ナチス時代は国外へ亡命していた法曹界の人でしたが、要請を受けて帰国し、懸かる状況や風潮を座視できないと考えていました。そして、ヘッセン州の検事となり、フランクフルト(アム・マイン)で検事総長に就任したバウアーは、遂に行動を起こします。具体的には、州の文部省に連絡し、「懸かる教員の任用は良くないので手を打て」と伝えるとともに、かつ、部下である若手検事のヨハンに、その若さと能力を買い、「旧ナチス親衛隊に対し、捜査を行う」よう、指示を出したのです。これは、ドイツ自身による問題への取組みの大きな始まりとなったと言える由です。

ただ、ここで良く分からなかったのは、バウアーが検事総長であるのに、なぜかフランクフルトに居て、そこの検察オフィスでヨハンなどと会い、しばしば会議を開くのかと言う事でした。遣り取りから間もなく判明してきたのは、彼がヘッセン州の検事総長だと言う事です。そう、西ドイツは連邦国家でして、各州に国家のような体制が組まれているのです。

けれども、更にもう一つの疑問が沸いてきました。「旧ナチス親衛隊に関する事ならば、所謂国家全体の事、つまり連邦に関わることであろう、とすれば、それは州ではなく、連邦の検察組織で取り組むべき事案ではないか」と思われることでした。これについては、この映画はこれと分かる場面を示しませんでしたが、連邦を構成する州の権限が大きく、州の検察でも、こうした事案も扱えるのかもしれませんし、ナチスの事案については事の重大性に鑑み、連邦にも州にも重ねて権限が在って所掌させているのかもしれません。

非公式情報では、実は、バウアー ヘッセン州検事総長は、連邦最高裁(カールス・ルーエに所在する。)の了解を取って、動いていたとの話もあるようです。

さて、若干三十歳のヨハンは、連日交通事案の処理ばかりで嫌気がさして居たところですから、旧ナチス親衛隊に懸かることを所掌することとなって、俄然元気が出て来ます。

アウシュビッツ強制収容所の体験者現る

ここに、シモンと言う、グニルカの友人で、アウシュビッツ強制収容所を経験していた者が現れます。彼は凄まじい体験をしていて、その思い出を語るうち、余りの過酷さを思い起こし、泣き崩れてしまい、グニルカに抱きかかえられます。ヨハンはそれを目の当たりにし、強烈なショックを受けます。更に、シモンは収容所で得た書類や物まで持ち帰っていたのでした。それらは、当該収容所が1945年1月ソ連軍によって開放された時に、手当たり次第持って来た物でした。それらは貴重な証拠になります。

そして、シモンには、腕にくっきりと囚人番号が焼き付けられていました。恐ろしい生身に残る記録です。斯くて、この人が貴重な証言者の最初の人となりました。

米軍のドキュメントセンター

この映画が扱う裁判は、1963年12月から1965年8月まで続いた、フランクフルト・
アウシュビッツ裁判と呼ばれるものでした。ドイツ自身が所謂ホロコーストを始めとするナチスの蛮行を初めて裁いたものなのです。

ヨハンは、起訴と審理に資するため、しばしば米軍のドキュメントセンターに足を運びます。1949年にドイツは再建成り、西にはドイツ連邦共和国が誕生し、法的には旧ドイツを継承していましたから、既に占領は終わっていたのですが、米軍のドキュメントセンターは残ります。

アメリカ国旗が翻る、その場所の地名は具体的には確認できませんでしたが、そこには連合国により犯罪組織そのものとされた、「旧ナチス親衛隊」に懸かる膨大な資料が保管されていました。その数、ざっと六十万点、その内、アウシュビッツにかかる物は約八千点もありました。ヨハンなどはそれを根気よく選別、論点を書き出し、起訴資料として行ったのです。

これらの場面ではいつも、ある米軍将校がヨハンに対応しているのが印象的でした。その将校は、何故か主にドイツ語を話し、ところどころ英語が混じっていました。その英語は、米国人にしては滑らかでなかったですね。

アウシュビッツ オシフィエンチムを訪ねて

アウシュビッツがテーマに関わる重要な場所となるからには、其処が映画でも出て来る場面があろうと見ていると、果たして、ヨハンがグニルカと元収容所を訪ねるところが上映されました。良く見ると道路際に小さな標識が立っており、其処には、ポーランド語でオシフィエンチムと表示されていました。その地はポーランド領内であって、本来の地名はオシフィエンチムなのです。(ただ、この辺りは、ポーランド語の地名であるゆえか、和独翻訳のサブタイトルでは何にも示されていませんでした。)

実を言うと、アウシュビッツとは、ポーランド地名のドイツ語綴りによるドイツ語地名であって、パンフレットや文献などには出て来ますが、地図や現地にはありません。とはいえ、有名度はドイツ語のアウシュビッツが圧倒的です。私どもは何年か前、娘の由希子がポーランドに留学している時に訪ね、その場に参りましたが、交通標識はポーランド語で書かれていました。今も思い起こしますと、真夏だと言うのに、暑くない思いをした記憶があります。恐ろしいホロコーストが起きた場ゆえでしょうか。

哲学者「カール・ヤスパース」に代表される捉え方

フランクフルト・アウシュビッツ裁判は、戦犯を捕らえていても、詰まる所、犯罪者個人、ナチ党や親衛隊などの組織の罪を裁いたものであったと言われます。ドイツ国内には、ナチス・ドイツの時代について、「国民が皆、過去に目を背けずに反省し、それを凝視する捉え方が浸透している」と言われますとともに、ドイツ国家自体については裁かれなかったと受け止められていると聞きます。この事について、哲学者「カール・ヤスパース」は、「ナチス・ドイツは、ナチ党による不法な簒奪によって生成された{不法国家}である。」とし、其処に考え方の基礎を置いているようです。

これらは、特に1932年から1933年にかけての強引な連立工作によるヒトラー内閣の成立、地方行政の国家監督化、緊急大統領令による基本的人権の停止、反対党員の逮捕、ナチ党以外の政党新設の禁止、全権委任法の制定、ヒンデンブルク大統領の死去により、その地位を首相とともに総統へ一元化したこと、その他諸々のナチ党と国家を一体化した諸措置などを指しているとみられます。将に、こうしたプロセス全体が不法であって、それらにより、ナチ党がドイツ国家を簒奪したと言う分けです。

かくて、ヤスパースは、ナチス指導者達は政治犯ではなく、刑事犯罪人であると規定している由です。そして、この見方は、戦犯に対するニュールンベルク国際軍事裁判の考え方とは異なり、個人やナチス組織の罪を追求したものの、ドイツ国民やドイツ国の「集団的罪」についてはこれを否定していると見られます。 かくて、ニュールンベルク裁判の後二十年近く経って、ドイツ自身の司法取組みの原点となった「フランクフルト・アウシュビッツ裁判」(1963~1965)は、この考え方に立ち、起訴した二十名余の者について、いずれも刑事被告人として扱った由です。それは、その後の裁判でも踏襲されたと聞いています。

以上の拙論が御参考になれば存じます。そして御関心在れば、御自身で御覧になって、自らの評価をお持ちになって下されば幸いです。


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