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榎本武揚と国利民福 最終編二章-2-(3)海軍卿

2022.05.13 Fri

 

 

・海軍の始まりと海軍卿を巡る人事

 

 

 明治新政府の時代、日本帝国海軍が設立されると、「機関官差別問題」*が生じました。明治新政府海軍の教育組織は、英米の影響に追従して改変されていき、その過程で、兵科出身者に対し、機関科出身者は戦闘要員でないことを理由に、命令権、階級、給与、教育課程などの制度上の差別待遇が生じました。

 

 その背景は、英国海軍では、貴族の少年たちが艦長の許可を得て軍艦に乗船し、実体験を重ねる艦長教育を受けるとか、兵科入学には複数の貴人らの推薦を必要としていることに由来していると言われています。

* 熊谷光久『明治期海軍における機関官差別問題の発生と変遷』軍事史学29(2)(114)、1993

  映画『マスター・アンド・コマンダー』2003、原題Master and Commander: The Far Side of the World

 

 

 昭和19年(1944)10月1日、海軍機関学校の海軍兵学校への統合により、解決に向けて動き始めるまでの長期間、この差別待遇は常に問題視され、機関勢力から改善を求めて軍部内で議論され続けました。

(熊谷光久『明治期海軍における機関官差別問題の発生と変遷』軍事史学29(2)(114)、1993)

 

 

 「機関官差別問題」は、徳川幕府の長崎海軍伝習所で兵科生徒と機関科生徒との身分や家柄の違いに差別を見出すことでき、この問題は長崎海軍伝習所での差別が元となって明治新政府の海軍での差別問題となったという議論があります。長崎海軍伝習所で蒸気機関術の修業をする者の家柄は幕府内では低い地役人で、榎本釜次郎(榎本武揚の幼名)の家柄すら御徒士という低い家柄だったという誤認から、差別問題の起源はは長崎海軍伝習所にあったとされています。

* 熊谷光久『明治期海軍における機関官差別問題の発生と変遷』軍事史学29(2)(114)、1993

 

 薩摩が実効支配していた明治新政府の海軍において、「機関官差別問題」が徳川幕府の長崎海軍伝習所から持ち込まれたのか否かを確認し、さらに明治新政府の海軍に放り込まれた、薩摩閥に見えるが実は非主流派の徳川閥の榎本がどのような状況に陥ったのか、見ていきましょう。

 

 

【海軍の黎明期】 ・・・「機関官差別問題」は長崎海軍伝習所が発祥の地か?

 

 

 1853年のぺリ―艦隊の来日を1852年の別段風説書で長崎奉行(水野忠徳*)に予告したオランダ商館長(ドンケル・クルチウス)へ、長崎奉行はさらなる意見を求めました。1854年にオランダ王が日本へ特別に派遣したスンビン号艦長(ファビウス中佐)は、幕府海軍創設の意見書を長崎奉行に提出しました。主な内容は、日本の地理的条件から洋式海軍の創設を勧める、洋式軍艦は帆船から蒸気船へ、外車船(外輪船)はスクリュー式へ、船体は木造船から鉄船へと変化している、それに伴い必要な造船所と造機工場、および人材養成学校の設立案でした。この意見書に基づき、長崎奉行は、阿部伊勢守正弘*筆頭老中へ提案書を送付し、幕閣(幕府の最高行政機関)で検討した結果、洋式海軍の創立、軍艦の購入、海軍伝習所の設立が決まりました。また、阿部は「『交易互市の利益を以て富国強兵の基本』としたいという意思をもち、『ペリーの黒船という外圧を逆手に取って思い切った人材を登用していつの間にか改革を進めた』」*3人物でした。

*水野忠徳 みずのただのり 1815-1868 阿部正弘の人材登用政策により幕府官僚を歴任。浦賀、長崎、勘定、外国の各奉行の後、公武合体に反対し箱館奉行へ左遷となるが拒否し隠居。小笠原開拓御用掛も努めた。江戸開城の後、激憤し病死。(コトバンク)

*阿部正弘 あべまさひろ 1819-1857 福山藩主。幕府老中首席。ペリー艦隊来航の対応を行い、開国を決意。有能な吏僚を身分の高下にかかわらず幕政の要路に抜擢(ばってき)し、朝廷、幕府、諸藩の合体と幕政の改革に努め、海軍伝習所、講武所、蕃書調所などを設立し、日本の軍制改革を行い近代化と国防力向上に努めた。幕末の国難に全国有力諸大名と協調したが、譜代門閥からの抵抗を受け首座を降りた。(コトバンク) 榎本の父、箱田良助も同藩の出身。

*3 土井良三『開国の布石 評伝:老中首座阿部正弘』未来社、2000年。P.303、P.14。

 

 

 海軍伝習所の第一期生の艦長候補を幕閣は旗本、三名を指名し、伝習所総督は船員のうち戦闘員(兵員)は、幕府の組織で該当すると考えられる役職の者から選ぶ一方、非戦闘員のうち、機関士は日本には存在しない職業だったため前例が無く、人員を集めることに苦労しました。以下、機関士(エンジニア)要員採用の様子を、藤井哲『長崎海軍伝習所』*1から抜粋して引用して紹介します。

 

「当時オランダ海軍では、まだ乗組員のうち海兵隊員だけが戦闘員で、残りは非戦闘員の扱いであった。・・・非戦闘員の乗組員は、主に艦の運航と機関の運転を行うという考え方である。英・仏海軍では既に戦闘員・非戦闘員の区別をやかましくいわなくなりつつあったが、オランダ海軍ではその点ではやや保守的であったといえようか。」*p.12-13

 

「欧米では、当時この両者[公開測量方(マスタ、航海士)と蒸気機械方(エンジニア、機関士)]を下士官待遇から一種の技術士官待遇に変える過度期にあったが、幕府はこの職種の人材を探すのに苦労したから、むしろ欧米の傾向を先取りして、はやばやと士官待遇にした。・・・ しかし、蒸気機関方要員に適当な人材が見付からず、当初[一期]は間に合わせ的に長崎地役人をもってこれに当てている。」*p.16

 

「蒸気軍艦を導入してその乗組員を養成するのが伝習所の目的であるというのに、日本側の当初考えた一期生の顔触れを見ていると、肝心の蒸気機械方が人数的にも能力的にもはなはだ弱体で、艦の運航にも差し支えるのではないかと危ぶまれた。幕府内に蒸気の経験者などいるはずもなかったから、これはできるだけ素質のよい若者を選んで一からオランダ人の教育を受けさせるしかなかった。」*p.20

* 藤井哲『長崎海軍伝習所』中公新書1024、1991

 

 

 いくつかの資料では、榎本釜次郎が、安政四年(1857)1月、長崎海軍伝習所の第二期伝習生に採用時、父、榎本円兵衛の役職を「御徒目付」と記していますが、円兵衛は弘化一年(1844)に「西の丸徒士目付」から「御勘定、旗本」*1に取り立てられました。榎本(釜次郎)は伝習所の員外聴講生になったとき、すでに旗本の子弟でした。榎本は伝習所二期生になると、蒸気機関方となって机上も実地も猛勉強しました。

 

 第二次オランダ海軍分遣隊司令官(1857-1858)であったカッテンダイケ(1816-1866)の日記(水田信利訳、東洋文庫26『長崎海軍伝習所の日々』平凡社)で、『・・・、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心さを物語る証左である。これは何よりも純真にして、快活なる青年を一見すればすぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯五十九度*2の地点まで北の旅行をした時に実証した』と榎本(22歳)を評しています。榎本釜次郎青年は、永井岩之丞伝習所総督(目付)の眼鏡にかなった期待通りの人物でした。

*1福山城博物館編『伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚』福山城博物館、2009、P.58

「箱田良助は、文政五年(1822)に御徒士(おかち)榎本株を買い入籍し、榎本圓兵衛武規(エノモトエンベエタケノリ)を名乗り、翌年に幕府天文方に出仕し、天保四年(1832)に西の丸御徒士目付となり、弘化一年(1844)に御勘定、旗本になる」とある。

 榎本武揚は天保七年(1836)8月25日に誕生し、幼名を釜次郎と命名された。榎本釜次郎が7歳のとき、父円兵衛は旗本に取り立てられた。釜次郎は、安政二年(1855)、19歳のとき、長崎海軍伝習所で員外聴講生として学び始めた。当然、旗本の子息だった

(参照 『人事興信録』データベース)

*2 樺太の北端の対岸の町、オホーツクが北緯59度。59と50を読み違えたとすると、北緯50度は、当時、幕府がロシアへ樺太の国境線として主張していた東西のライン。榎本は長崎海軍伝習所の第一期の員外聴講生になる前年に、堀利煕(ほりとしひろ)の国境調査に随行していた。

 

 

「第三期は旗本・御家人の子弟ばかりで、年齢は、二三の例外を除いて、十代後半か二十代初めであるから、海軍兵学校生徒と呼ぶにふさわしい若者の集団である。」これはまさしく海軍兵学校の姿であり、世界の列強国の海軍教育の趨勢の中で決して遅いとは言えません。*

* 藤井哲『長崎海軍伝習所』p.25
 尚、徳川幕府は、長崎海軍伝習所を安政6年(1859)に廃止した。慶応3年9月27日(1867年10月24日)に横浜に到着したイギリス軍事顧問団が、11月5日に築地の海軍伝習所で指導を開始した。篠原宏『海軍創設史』リブロポート、1986。

 

 

 蒸気機関方出身の榎本が、オランダで専門領域の機関学(実際は近代技術の習得)に加えて海軍諸術(実際は洋学全般)を幅広く研究するように指示されたことから、徳川幕府が留学生たちに託したことは、オランダへ造船の建艦立会を名目として実際は、ヨーロッパの産業技術、社会システム、文化などの幅広い調査・研究と修得を狙っていたことがわかります。

 

 更に、『オランダ留学した士分と職方は同じカリキュラムで研究する』*ことになっており、『・・・士分も庶民もないのである。ただ幕府の身分制から、旗本御家人と工匠とは扱いが異なっただけ』*なので、とても徳川海軍の教育制度と待遇制度が「機関士差別問題」の原因であるとは言えません。こういう人事を幕閣が行ったことは、徳川幕府が、旧来の制度、組織に対し、新たなる脅威―欧米列強と対峙するため、欧米の近代知識と技術とを吸収・移転するために、いかに柔軟な人事制度で対応をしていたかを窺わせます。徳川が日本海軍建設の主体となっていれば、「機関士差別問題」は生じず、生じたとしてもさほど時間をかけずに処理され、解決していたでしょう。

大久保利謙編著『幕末和蘭留学関係史料集成』雄松堂書店、昭和57年

 

 

【勝海舟の人事】

 

 

 慶応3年(1867年)12月9日の「王政復古の大号令」*1により幕府が廃止され、「三職」 (総裁*2・議定・参与)の設置を宣言し、天皇の軍事指揮権を代行する「将軍職」が廃止になりました。しかし、慶応4年(1868年)1月3日に戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)が勃発すると即日、「将軍」*3が復活し、1月17日付で新政府の政治組織「三職分課」が定められ、総裁の配下に七課が新設され、各課に議定が指名され、議定に権限が移譲されました。参与は各課内で分割された業務を担当しました。その一つとして誕生したのが「海陸軍事務課」でした。その後、新政府の政治組織の改変が繰り返されていきました。新国家建設のマスタープランはなく、復古だけを夢見た明治維新でした。政権の周囲の変化に促され、その都度、対処を繰り返しました。

*1 奥田晴樹『維新と開化』吉川弘文堂、2016、p.7-8

p.7三職の『施政は、「神武創業(神武天皇の肇国(ちょうこく)=国家創建)之ニ原(もとづ)キ、・・・」・・・国家創建以降、さまざまに構築され変革されてきた、国制、具体的には政治制度や法制、経済・社会のあり方、さらには時々の政策などにとらわれずに新政府の施政を進める、という宣言だった。』朝廷と幕府という政治制度の廃止を正当化し、古代王政への復帰を理想とし、祭政一致を掲げた。祭政一致とは宗教組織上のトップと政治権力のトップが同一人物であること。

p.8『岩倉や大久保は、既成の身分秩序を存置したのでは、到底、新政府の首脳部に参画できる身分ではなかった。公家と武家、さらには公家の堂上と地下をわざわざ挙げて、新政府ではそれらの身分に関わりなく話し合い、「至当の公儀」による施政が行われると、闡明[せんめい。はっきりさせる、あきらかにする]した所以だろう。』堂上とは清涼殿へ昇殿できる上級貴族、地下とは清涼殿に昇殿する資格が認められていない者。清涼殿は、天皇の日常の御座所だったが、1590年に常御殿(つねごてん)が日常の御座所となったので、清涼殿は儀式に使用されるようになった。至当とは、この上もなく適当、きわめて当然、妥当の意。(コトバンク)

*2 奥田晴樹『維新と開化』吉川弘文堂、2016、p.16

『総裁は、宮廷とは異なる政治空間に立地する、新政府機関の最高権力を掌握することになった。しかし、これでは、天皇の親政の復活という「王政復古」の看板と齟齬[そご]を来してしまう。』

*3 同上、p.15

『慶応4年(1868年)1月3日付けで、嘉彰親王が軍事総裁に任ぜられ、「御守衛兵士」を「指揮・進退」する権限を委ねられた。以後、嘉彰親王は「将軍宮」[しょうぐんのみや]と称される。』

 

 

 篠原宏『海軍創設史』(リブロポート、1986)によると、海陸軍の対立の始まりと勝海軍卿辞任までの経過は次のようでした。

 

 東京築地にある旧幕府海軍所が、明治元年(1868年)8月25日に大総督府に接収されましたが、新政府は榎本らによる蝦夷嶋占領への対応に追われ、海軍振興の方針を決められずにいました。明治2年5月17日の榎本の降伏受諾により、ようやく6月21日から25日にかけて行われた朝議で兵制*会議が開催されました。

*兵制とは兵役、兵備に関する制度のことで、軍制とほぼ同義。(コトバンク、藤村俊一)

 

 この会議開催前すでに薩摩藩の伊地知正治*1による「海主陸従論」と長州藩の木戸孝允―大村益次郎*2の「陸主海従論」が主張されました。海主陸従論とは海軍は陸軍より厚遇され、地位も高くされるべきだという主張で、陸主海従論は、明治新政府樹立は陸軍の働きによるものだ、これからも国内を守るのは陸軍だから海軍より陸軍を重視するべきだという主張です。

*1いちじまさはる(1828-1886) 薩摩藩士、薩摩藩尊攘派、薩英戦争、戊辰戦争に参軍。明治新政府の官僚、参議、宮中顧問官など歴任。伯爵。(コトバンク)

*2おおむらますじろう(1825-1869) 通称は蔵六(ぞうろく)、周防の医者の家に生まれ、緒方洪庵の適塾で学び、塾長になった。後に、幕府の講武所教授に就任しながらヘボンに英語を学び、長州に招聘され兵学を教え、藩の軍事制度改革を行った。明治維新十傑の一人、明治新政府陸軍建設の功労者。大村の政策-藩兵解隊、帯刀禁止、徴兵制の採用―に反対する攘夷派から敵視され、長州士族8人に暗殺された。(コトバンク)

 

 

 兵制会議は、最初から海軍優位を推す大久保利通と陸軍優位の立場をとる木戸・大村との対立で幕開けしました。海陸軍の派閥抗争、権力闘争の始まりでした。ドイツ陸軍と英国海軍が日本国内で戦っているようだと皮肉ることがでる状況です。当初は、大久保が優位、すなわち、海軍振興論が優位に立った展開をしました。

 

 その後、明治新政府は明治2年(1869年)7月8日の組織改正で兵部省を設立しました。大村益次郎が兵部省大輔に就任しました。廟議(びょうぎ)で勝海舟を外務大丞*¹から兵部少輔*²海軍掛に異動することを協議した後、岩倉具視が大久保利通に了解を得ようとしました。大久保はこのときはこの人事に反対しないものの、旧幕府の中にも勝を疑う人がいるので、疑いなく統御できることが勝の人事にとって必要条件だとコメントをつけました。大久保は西郷と違い、勝に疑念を抱いていました。

*¹ だいじょう、省内序列第4位。

*² 省内序列第3位。

 

 

 明治4年の大久保の意見書に「兵卿山県、同大輔川村」と記されていましたが、兵部省は翌明治5年2月28日に陸軍省と海軍省とに分省されたため、大久保の軍部への人事構想は実現せずに終わりました。そして、新たに誕生した陸軍卿も海軍卿も空席でした。陸軍省では山縣有朋大輔がトップ、海軍省では前年の明治4年に勝が兵部大丞を辞任した後、川村純義少輔がトップでした。翌明治5年5月に入って西郷隆盛が勝を海軍省大輔に推薦し、勝は5月10日に海軍省大輔に就任しました。海軍省を舞台に大久保は川村、西郷は勝を推すという状況が生じていました。

 

 明治6年(1873年)9月13日、岩倉使節団が帰国すると留守政府との間で対立が生じ、明治6年10月23日に西郷が下野した2日後、川村を三段跳びのような昇進をさせて海軍卿にするわけにいかず、勝が海軍卿に就任しました。勝が海軍卿に就任するまでの一年半、川村が実質上、海軍省を牛耳り、実質の卿代行でした。海軍省を川村が仕切っていていたので、勝海軍卿は仕事がやりにくかったことは容易に想像できます。

 

 勝の海軍卿時代は、外国人の内地旅行問題や台湾出兵など重要な外交問題が多い時期でした。勝は日清朝三国連携という理念から台湾出兵(明治7年5月‐12月)に反対し、さらに大久保独裁の藩閥政治に反対しました。そのため、勝は明治8年4月25日、海軍卿から元老議官の閑職に転出さられたため、勝はただちに辞表を提出し、11月28日に正式免官となりました。

 

 

・榎本海軍卿、期間:明治13年2月28日144月7日

 

 

 明治8年4月25日付で勝が辞表を提出した後、榎本は同年11月22日付のサンクトペテルブルグからの妻、多津宛ての手紙に勝が海軍卿を辞したことに触れて次のように書きました。

 

『手前ヲバ朝廷ニテ呼戻し参議兼海軍卿ニせんとの見込有之由実否は知らざれども当節之様ニヒョコヒョコ参議ノカワル連中ニ付ハイリタク無之候。乍云事は品ニ寄りては御請不致(いたさず)といふ訳もなし、勝もよくよく困りて海軍卿を辞せしと見へたり。』

* 「品」とは品川弥次郎のことか。

 

 

 榎本が帰国する明治11年までの様子をパークスは日記に次のように記しました。(「第十二章 薩摩の大反乱 1877」『パークス伝』p.222)

 

『1878年[明治11年]まで、新政府はけっして安心できる存在ではなかった。・・・地方では絶えず一揆が起こっていた。・・・これは主として国の政体構造が内閣改造の手段を規定していなかったためであった。政権交代は、維新革命の指導者であった約十二名*の人たちが、連合政権[薩長土肥]を盥回[たらいまわ]しするに過ぎなかった。それにはお互いに陰謀と派閥の策動があり、下級政治家の間には地位争奪の争いがあった。薩摩の争乱に至るまでこのような反乱は五件あった。・・・最大の原因は、士族の年金(家禄)が廃止されて資本化(金禄公債)されたことである。』

12名の対象と考えられる人々: 岩倉具視、三条実朝、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、小松帯刀、大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、江藤新平、横井小楠、大隈重信、板垣退助、黒田清隆、伊藤博文、副島種臣、後藤象二郎、佐々木高行、山県有朋、・・・

 

 

 明治11年5月14日に大久保が暗殺された結果、明治新政府内の権力プレートが内部破壊を引き起こしました。その結果、派閥抗争を引き起こし、更には、兵制の議論で抗争は激化しました。大久保の死により後ろ盾を失った人物は川村の他に、大隈重信や岩崎弥太郎もいました。榎本は、サンクトペテルブルクにいてパークスが日記に記した明治新政府内での『お互いに陰謀と派閥の策動があり、下級政治家の間には地位争奪の争い』をする様子に興味はなかったようです。

他に、伊藤内務卿、西郷(縦道)文部卿

 

(文字数の制限のため、ここで切りました。この項は続きます。)


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