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明治の新聞縦覧所は日本のコーヒーハウスであり、SNSの元祖だった。

2016.10.03 Mon

◇SNSはローマ時代からあった

ツイッターやFacebookといったインターネットを通じて利用するSNS(ソーシャルネットワークサービス)は、もちろん最近登場したものです。しかし、参加者相互に交流するコミュニケーションの場として意図して作られたものは、実はすでに2000年前のローマ時代からありました。そのことをTom Standageという人が著書(Writing on the Wall: Social Media - The First 2,000 Years)の中で書いています。石版にメッセージを書き付けてやりとりがなされていたようです。

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◇イギリスのコーヒーハウス

上の話はある人から教えてもらって知ったのですが、私が同種のもので思い出すのは、17,18世紀頃のイギリスのコーヒーハウスや、日本の明治時代の新聞縦覧所です。コーヒーハウスは世界的に有名な事例なので、Standageさんの話の中にも出てきます。17世紀末にロンドンで登場したコーヒーハウスは、少部数の刊行物が置かれ、来店者が交代で読んだり意見を交換したりする場になっていました。いわば新聞や雑誌といったジャーナリズム発展の原点とも言える場でした。

◇明治時代のSNS、新聞縦覧所

日本で近代的な日刊新聞が発行されるようになったのは明治初期です。1870年(明治3年)、貿易情報を中心にした“経済紙”「横浜毎日新聞」が創刊されて以降、政論中心の大新聞(おおしんぶん)と大衆雑誌的な小新聞(こしんぶん)という二つの性格の新聞が盛んに登場したり消えたりして、順次ジャーナリズムが活況を呈するようになりました。

とはいえ、新聞を購読する個人は限られていて、初期の頃の創刊紙の部数は数百というオーダーでした。その後、明治の中頃になっても、有力紙の発行部数はせいぜい数万部でした。そういう状況の中で、新聞の回し読みができる新聞縦覧所というものが1872年(明治5年)、横浜に登場したと言われています。戯作者から新聞記者になった仮名垣魯文はその4年後、横浜の野毛山に「諸新聞縦覧茶亭(ちゃみせ)窟螻蟻(くつろぎ)」を開き、一服一銭で客に茶を出して新聞を縦覧させたそうです。これすなわち、「定額読み放題」の元祖のようなものです。この場が、一種のサロンとしてSNS的な情報・意見交換の場となりました。

◇記者、読者、投書家三位一体の時代

論説を載せた大新聞は限られた知識層のものでした。そういう時代の新聞は、記者、読者、投書家の三者が三位一体となって作られる様相を呈していました。各紙には上記の仮名垣魯文のほか、柳河春三、福地源一郎、岸田吟香、成島柳北など著名な人気記者が輩出しました。また、明治前期の新聞においては、読者による投書がおおいに奨励され、紙面で大きく扱われていました。当時は、取材力に限りがあり、今風に言えば、コンテンツ不足だったので、読者による情報提供や意見の表明が歓迎されたわけです。特に熱心な人は投書家と呼ばれており、中にはその中から選ばれて記者となった人も出ました。こうして、記者、読者、投書家三位一体のコミュニケーションが回っていたわけで、その後のマスメディアのように、一方的にコンテンツが分配される構造ではなかったことがわかります。

◇顔の見える大衆社会に

インターネットの発達で、投書家ならぬブロガーやツイッターの投稿家が多数登場し、その中から明治の投書家のような人気を得る人も出ています。小新聞が大新聞(おおしんぶん)の性格も取り込んで大きく部数を伸ばした新聞はマスメディアの王者として明治後期から20世紀末まで、コンテンツを、顔の見えない多数の読者に向けて一方向に流してきました。それがインターネットというプラットフォームの確立により、あたかも明治前期のような双方向のコミュニケーションが、多様なスタイルで噴出しているのが今日であると言えましょう。ただし、明治期は、そのコミュニケーションサイクルに加わる人々は一握りの階層でしたが、今日は、いわば顔の見える大衆社会の様相を呈しているという違いがあります。


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