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野村総研が鎌倉にあった時代 そして調査研究からコンサルティングへ

2015.11.17 Tue
鎌倉航空写真ブローシャから

私が21年間代表幹事を務めた「野村総研鎌倉交流会」の年次パーティの最終回が、11月15日、鎌倉駅近くの中華料理店二楽荘で開催されました。例 年せいぜい50人程度だったのですが、最終回ということもあって約90人が集まりました。この会は、野村総研が創立の翌年1966年から88年まで鎌倉の 梶原山の上に本社・研究センターを置いていた頃を知る人たちの交流の場として続けてきました。OB会ではなく、中途退職者、定年退職者、そして中の人(現 野村総研の社員)が横の関係で集ってきたものです。

若い会社ですから、最初の頃は定年退職の人がまだおらず、中の人のなかには“脱藩者”の 会と見て敬遠する人もいたのですが、定年退職者が少しずつ出て参加するにつれ、現役の人の参加も増えてきました。組織の中にいる人ではなく、私のような外の人間が幹事を担うことによって、異なる場にいる人たちの交流が維持できてきたと自負しています。会においては、在職時の立場や序列は忘れて交流しようと呼びかけてきました。そうでないと、私自身、誰が役員だったかとか、各人の年次がどうだったとかなど、ろくに覚えていないので困ってしまいますから。

鎌倉交流会は、野村総研の初代所長だった佐伯喜一さん(元防衛研修所長)を慕う中途退職者の人たちが、佐伯さんを囲むOBの会という趣旨で始めたものです。当然、会社の公式の 会ではありません。その4回目の幹事を仰せつかった私は、後任が見つからないことをいいことに、おもしろいから幹事を続けてみようと思い、順次中途退職者 だけの会から“オープン化”を進めていったのです。実際、そうすることによって、中の人からは有名シンクタンクというアンテナに集まる最先端の情報などを 聞けますし、大学教授からベンチャー起業家まで多彩に広がる、外に出た人たちからは生きた社会の動向を教わることができます。中途退職者が活躍していると いう意味では、リクルートやIBMの名前がとどろいていますが、野村総研もそれに劣らず各界で活躍する人材を輩出してきています。

海の見え る丘の上に立つ白亜の建物の中でいっしょに仕事をした仲間たちと会えばなつかしい話に花が咲くのは当然です。ただ、私はそれだけでは飽き足らず、せっかく 多彩な人たちが集まる希有な場なので、あえて未来志向の会という位置づけをしました。それで、時にはシンポジウムの部を年次パーティの中に組み込み、ま た、近年は、TEDに刺激されて、さまざまなテーマを持ち寄ってもらう1人10分程度のプレゼンの部を設けてきたりもしました。

私にとって、野村総研の15年は、わき出るような向学心を人生ではじめて覚え、挑戦することの喜びを体感した日々でした。ですから、“中途退学”ではあり ますが、野村総研は私にとっての母校だと思っています。そういう場を共有した多彩な人たちが集う会を幹事グループの協力も得ながら21年間担い、約400 人の人たちすべてと直接つながる役をいただいてきたのは本当に幸運なことだったと改めて思っています。ちょうど今年は野村総研創立50周年。記念につくら れたワインの差し入れが、昨日のパーティ宛に現野村総研から送られてきたのはとてもうれしいことでした。

その野村総研も、私が在籍した頃と 比べると様変わりしています。株式会社野村総合研究所は1965年に設立され、翌66年に鎌倉の小高い丘の上に本社屋が完成しました。アメリカのシンクタ ンクに範をとって、郊外の環境のよい、ゆったりとした場所に構えるという方針がとられたのです。創立の頃からの数年間は、黒字にならなくてもいいから、と にかく調査研究の委託を受けるということ自体が目標となっていたと聞いています。大阪万博の入場者予測のプロジェクトはその頃の代表例です。

私 が野村総研に入ったのは1973年(昭和48年)のことですが、その頃は、野村総研においては調査研究ビジネスの収支を合わせることが強調されはじ めた頃でした。野村総研鎌倉の門を入って玄関に着くまでに、確か徒歩で坂を登って8分かかりました。野村総研のビジネスは調査研究を受託することでしたか ら、その委託者(クライアントの企業や官庁)がいました。彼らがタクシーで総研の門をくぐって、途中、迫力のある橋を渡り、木立の間の坂を登っていくに従っ て、これは委託料が高くてもしかたないなという気分になるのだというまことしやかな説明を、当時先輩から聞きました。私は、厳しくも親身に指導してくれる 先輩にめぐまれたこともあって、生命保険業界や電電公社・NTTなどから高額の調査研究プロジェクトを受託することができて、超多忙ながらも充実した日々を送って いました。

私が退職した1988年、野村総研は野村コンピュータシステムと合併し、それを機に鎌倉を離れ、横浜に移りました。さらに、その後、東京丸の内に本社を置くことになりました。アメリカ型シンクタンクの風情からは遠ざかりました。

私 の在籍中の肩書きは研究員ですが、現在の野村総研の旧鎌倉に当たる人たちの肩書きはコンサルタントです。調査研究というのは、平たく言えば「世の中はこう なっています。」あるいは「こうなるでしょう。」ということをクライアントに伝えることです。そのために、統計を読み、市場調査をし、また各方面に話を聞きに行きます。それに対して、コンサルタントは「あなた(御社)はこうしなさい」という提案をすることに重きを置きます。特に、相手企業の経営資源を評価 し、中の人たちの話をよく聞きます。かつて、私は、あるクライアント企業の人から、(研究員の)あなた方は人の金で自分たちがいちばん楽しんでいるよねと 言われたことがあります。ある意味で本質を突いているとも言えましょう。

野村総研がシステム会社と合併し、調査研究からコンサルティングを志向するようになった背景には、欧米の“手本”を見て追いつき追い越せと走った高度経済成長期を経て、“手本”のない模索の時代に移りつつあるということ がありました。調査研究という低付加価値のビジネスからコンサルティングという高付加価値のビジネスに転換しようとしたことはよく理解できます。

ただ、マッキンゼーやボストンコンサルティングのような真性?コンサルティング会社のコンサルティングと同じことが研究員として育った人たちにできるのか、 という疑問を私は当初抱きましたが、きちんとした調査研究をベースにしたコンサルティングという独自価値を持つことができる可能性は確かにありそうだと納得したのでした。「世の中はこうなる。そして、あなたの強みはこれだ。だからこうしなさい。」というスタイルです。そうして、いまやシステム分野9に対し てコンサル部門1という事業構成で総計1万人を擁する大企業になっているのが野村総研の現在です。その中にも「鎌倉」の魂は引き継がれているということ を、私は今回の鎌倉交流会最終年次パーティでも確信したのでした。

(写真は旧野村総研ブローシャから)


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