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ユーラシア史観ー広域且つ巨視的に捉えるー 

2016.12.03 Sat
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ユーラシア史観ー広域且つ巨視的に捉えるー

この程、大いに関心があって、「逆転の大中国史 ユーラシアの視点から」と言う書を手にしました。そこには、私どもが暗記する如く習った、「夏、殷、周、春秋、戦国、秦、漢、三国、・・・・・」と、中国の歴代王朝が最近まで連綿と、一気通貫で続いて来たかの様な歴史観は間違っていると記されていました。更にその上で、天の意を受けた徳有る者が、天下を治め、その者が徳を失えば、別の徳有る者に取って代わられると言う、所謂「易姓革命」の思想も疑問視しされていました。正直言って、これには驚きました。
1  ユーラシアの視点から見ると・・・・

数万年前、現生人類のアフリカからユーラシアへの移動が進展し、その地で、所謂旧石器時代に入りますと、広大なユーラシアの草原や大地には、狩猟採集の中から、放牧の民が登場して来るようになります。もともと彼らが其処に移動してきて、定住では無い棲み方をするようになったのです。これに対し、黄河辺りの、所謂「中原」では、河川に沿って農耕が営まれるようになり、遂に文明が生まれ、四大文明の一に数えられるようになります。 この中原で生まれた王朝の史観は、自らが中心で、その文化・文明を周辺に広げていき、周りの民を、化外の所謂夷狄と呼んで、同化していくというものでした。

だが、ユーラシアの各地に起こり、放牧や移動により、交流・通商さへしていた遊牧の民は、実は冶金の製法を持ち、短剣などの青銅器の器具すら有していたと言います。それに関わる謎は多々あるようですが、今では、ユーラシアの古代遊牧民の青銅器文明は紀元前三千年前まで遡れるようになっていて、いわゆる中国四千年の歴史より古く、河川に沿った四大文明を特別視する史観は、研究と調査の進展により、次第に修正を迫られていると申します。

2  では漢民族ないし漢族とは何か、そもそも居るのか

この四大文明の中で、中国で生まれ育ったのが、いわゆる黄河文明であり、その中心をなす地域が中原でした。その地で、この文明を生み、担ったのが漢民族ないし漢族と言われる人々で、古代から斯くなる民族が居て、その文化・文明を周辺部に広げて行ったのだと、現在の中国でも日本でも信じられています。斯く言う私自身もそうした史観に浸って来ましたし、王朝名を諳んじようと努めて参りました。

しかし、本書の著者「揚海英」氏は、それを否定します。陸続と得られる考古学、文化人類学や言語学の諸証拠によれば、そもそも漢民族と呼べるような人々は居なかったと言うのです。斯く主張する揚教授は、1964年、現中国の内モンゴル自治区のオルドス高原の生まれで、モンゴル名は「オーノス・チョクト」と言い、北京第二外国語学院の日本語学科を卒業、1989年日本に留学、文化人類学を専攻し、博士号を取り、大野と言う日本名もある、国立静岡大学の教授です。経歴で注目されるのは、国立民族学博物館で研究し、有名な梅棹忠夫先生などに師事していることです。

この揚教授によれば、漢字と言う便利で有意義な文字が発明、育成されると、異なる言葉、文法、語法、発音、民族、部族の間でも、意味さえ分かれば、漢字で筆談してでも話が通じる事となり、其処に、そうした漢字の共用性、表意性が生きて来て、漢字文化圏のようなものが形成されたと言うのです。従って、それは、文字共用集団であって、漢人という民族が生み出されたのでは無いと言うのです。これは、大変重要な切り口と思われます。
3  秦の意義  統一と囲い込み

中国最初の統一王朝は、良く知られる秦です。この秦は現地の博物館で知りましたが、
古く紀元前771年に創始されていて、周王朝と併存し、春秋次いで戦国と生き残って、諸国を打ち負かし、遂には期限前221年に天下を統一しました。秦はもと西北部の遊牧民族に出自を持つと言い、これが統一王朝へと発展、初期漢人の雛形集団をなしたと申します。

なお、この秦はChinに通じ、シナと言う言葉を生んだとも申します。揚教授はこの「シナ」を所謂「中国」の意に用いていますが、通常日本人は避けます。私は「チャイナ」を用いることにします。

さて、話は戻りますが、懸かる経緯で分かるように、矢張り、漢族という民族集団が居て、それが統一王朝を生み出したと言うのでは無く、漢字共用の集団が国を形成し、まとめて行ったと見た方が自然のようですね。

秦の古都に在る博物館の展示では、始皇帝の二大業績として、乱れていた漢字と、度量衡の全土統一が上げられていました。とりわけ、漢字の共用化と統一は意義・効用が大きかった様です。

一方、秦が成立した頃、その一帯と周辺では、遊牧民族の活躍が始まっていました。対抗して、秦は最初の「万里の長城」に当たるもの建設に取りかかっています。遊牧民族は、この頃から匈奴と呼ばれましたが、疾駆する広がりを持ち、対して秦は囲う城や壁を築いて、都市や集落を守る戦略を取り始めたのです。この基本的な相違と対峙は、以降、概ねユーラシア史を貫くものとなりました。
4  漢の時代に在った刮目すべき事

秦が短期で消滅すると、大帝国「漢」が建国されます。前漢、後漢併せて約四百年、漢字文化圏の大国が形成され、西方のローマと並びますが、前漢では、匈奴が漢の皇帝劉邦の軍を破り、漢が絹と女性を提供して、臣従の礼を取るという事例がすら起きています。 匈奴優位のこの事例は、当時漢を中心に世界が回っていた訳ではない事を物語っていますね。

他方、光武帝により再建されて以降の後漢の時代には、匈奴の西走が起き始めています。そして、四世紀後半には、それはフン族の暴発として出現、ゲルマン民族の大移動へと繋がっていきます。青銅器の創造、所持に続き、遊牧民族が歴史を動かしたのです。
5   人口が激減した三国志の大混乱の時代などを経て、隋、唐の世へ

紀元581年、遊牧民族の流れとされる鮮卑系の揚堅が、北周の国を奪って帝位に就き、「隋」を建てます。それはもと鮮卑系の遊牧民族なのですが、所謂チャイナとされました。揚堅は「高祖文帝」と言われ、二代目は有名な煬帝です。その人は日本の聖徳太子とも御縁が有りました。

この隋は短期で滅び、紀元618年、李淵が帝位に就いて、国号を「唐」とします。実はこの王朝も鮮卑系の遊牧民族の出自と申します。漢人そのものと思われてきた 「唐」王朝も、実は鮮卑系の遊牧民族の流れを汲むことが、文献だけに偏らない、近代の言語学、文化人類学、考古学の研究果実として得られて来たのです。それは凄い成果と思われます。斯くて、中国文化・文明の最高・最大の栄華を生み出した唐王朝の出自が明らかになるにつれ、現体制の中国は、近年、唐のことを余り誇らなくなったと言います。

とは言え、唐の大帝国たる所以は、諸民族や諸部族から差別無く人材を登用、優れた国家体制を築いた事と言われます。同じ遊牧民族テュルクのオスマン帝国でも見られた例です。唐では、日本の有名な阿倍仲麻呂が高位高官に遇せられ、有能ぶりが惜しまれて、その地で生涯を終えることになった事など、そうしたケースは数多かったと言われます。こうしたことが寄与したのか、唐が大いに繁栄して、その王朝によるチャイナの支配が強まったことも確かです。斯くて唐は紀元907年まで続きます。

この唐の時代、他方では、所謂テュルク(トルコ)の帝国が分裂、うち西テュルクが西行し、モンゴルにはウィグル帝国が存したと言います。また、遙か西方には、サラセン(イスラム)帝国が覇をなしていました。
6  宋と言う国の意義

さてこの次の時代は、「キタイ」と「宋」が相次いで国をなしました。ここにキタイと言う遊牧民族は、音としてキャセイに繋がると言い、現香港の航空会社にその名が
残っています。懸かるところに歴史の深みと広がりが感じられますね。 一方、宋は紀元960年建国されていますが、其処の一翼を占める趙一族は、テュルク系出自との説がある由です。かように、チャイナの世界は漢で一貫されているのではなく、実に複雑なのです。更に後年、タングートが大夏国を建てます。

斯くて、時代はキタイ、宋、夏の三国鼎立の時代に入るわけですが、ここに、宋が、秦以来の、そして以降の王朝史でも、最も優れた文化を生み出したと言われます。揚教授はその理由として、国土の大きさが程々で、他国と余り争わず、宗教、哲学、文化などの様々な精神作用が深められたからではないかとしています。現に、中国の影響を大きく受けてきた韓国では、この宋の時代を、中国王朝文化の最高峰としています。唐を至高とし、ある時まで遣唐使を派遣していた日本と大部違いますね。

因みに、韓国における漢字の音・読み方は「宋」のそれと聞きました。

7  梅棹忠夫先生の言 ユーラシアはパワーの場

斯く、揚教授の大著は続き、多岐に渉っていまして、まだまだ引用、紹介したいところが多く在るのですが、それは関心のある方に直接読者となって頂くとします。

そこで、同教授が日本で、梅棹忠夫先生に師事されていたことから来る、その遣り取りを記して、この拙文を閉じたいと考えます。

来日の後、揚教授は大阪千里の国立民族学博物館で研究に従事されますが、そこで、「 文明の生態史観」で著名な梅棹忠夫先生に出逢い、かねて深い疑問を持ってきた、「ユーラシアをどう捉えるか」という問いを直にぶつけた由です。帰ってきた答えは、
「それはパワーだ。」と言うものであった由です。

この遣り取りを直に聞いてもいない私などには、良くわからないところが多々在るのですが、正直に言って、その答えは実に「示唆に富み、然し、端的に、深くユーラシアの歴史の本質を捉えた言」のように思えてなりません。

このパワ-の典型は、モンゴルの「チンギス・ハーン」に代表される力の結集と動員でしょう。まるで、彗星のように現れたテムジンは、嵐を起こす如く、紀元1206年全モンゴルを統一、チンギス・ハーンを名乗ります。やがて、その動きは大いに拡大、代を重ねて、フビライ・ハーンの代に至り、チャイナを征服、大都に都を置き、国号を「元」として、四つの汗国を大モンゴルの版図とします。史上最大の大帝国の誕生ですね。

その帝国は諸宗教に寛容で、儒教、仏教、道教、回教などが自由に信仰されたと言い、
通商・交易も税さえ払えば大いに奨励、許容されたと言います。その国情・仕組みは、歴史に例を求めると、アメリカ合衆国が近いと言われますが、はてさて、トランプの登場で変化し始めたでしょうか。
ここで戻りまして、あらためて本書について記しますと、こうした巨大な歴史の変化やうねりは、突如起こるものではなく、遊牧民族の持つ移動の習性、中心地も定住型では持たない生活、諸部族の交流、放牧、山羊・羊・牛・馬・ラクダと言う乳を出す五畜を養い、生業とする文化などから生まれて来ると言われます。そして、これら五畜には、家畜の一種であるが、放牧の対象とならない豚は含まれていません。

即ち、彼らの間で豚を食さないのは、宗教以前の深い理由があるのかもしれませんね。

将に、ユーラシアの草原や大地は、そうしたところで在り、パワーが宿り、馬などを駆使して、人やその集団が動いて来た場なのです。そして、其処はモンゴール、テュルク、ウィグル、キルギス、カザフ、キタイ、タングート、アラブなどの諸民族が活動、勇躍するところでした。

それは大河川で成立した農耕を基礎とする定住文明とは異なります。その中のひとつ、黄河文明が、自らを世界の中心となし、その文化を周辺に広めることを使命とし、時には城壁で自らを囲って、それに浴さない人々を、夷狄や蛮族とみる世界観、歴史観が、実質的に其処には、厳として有り続けています。それは矢張り偏った見方と言う感じがしますね。

今や、人知が開けて宇宙を視座に、地球全体を見る現代世界となった今日、共存・共栄にふさわしい、歴史観や文化・哲学が生まれ、育つ時代になって良いように思います。
斯くて、以上で、文藝春秋刊の揚 海英著 「逆転の大中国史 ヨーラシアの視点から」の読後感とします。


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