チベットの歴史のラフスケッチ
平成29年(2017) 9月
仲津 真治
中央ユーラシアの東側、チャイナの西域、インド・ヒマラヤの北方に位置する
チベットについては良く分からないことが多いので、さる啓発を受け、この程、
或る本を紐解いてみました。 岩波現代文庫の一つで、「チベット受難と希望」
という書でした。 四百余頁の大部です。 「雪の国の民族主義」という副題が
付いていました。
原著者は「ピエール=アントワーヌ・ドネ」 と言うフランスのジャーナリスト
でして、1953生れ、現AFPのストラスブール支局長の任に在り、経歴を見ると、
パリの研究所の中国語学科の出で、北京の特派員を経験しており、 チベットの
言語にも通じている由です。 邦訳は、山本一郎という時事通信社のOB、
東大教養のフランス科出身です。
以下、やや断片的ですが、拙論を交えてエピソードを拾います。
1) 八世紀から在ったチベットの威光・・・唐に及ぶ
チベットと当時の中華帝国「唐」との間には、婚姻などの交流や対立があり、
西暦763年には、往時の唐帝都「長安」(今日の西安)の奪取に成功さえしています。
当時のチベット帝国の軍事的影響力は、パミール高原を越え、西はアラブ世界や
トルコへの入り口に及び、北はトルキスタン、南はネパールに達していました。
そして、対立と交流の在った唐との間には、西暦821に平和条約が結ばれているの
です。その前には、甘粛、四川の一部はチベット側の支配に移されました。
こうしたことで分かるように、チャィナ側が対チベットの関係で一方的に優位に
立っていたと言うわけでないのです。
因みに、隋や唐は、その帝室が漢人の一統ではなく、遊牧民族の鮮卑の
出自です。 つまり、チベットとチャイナの間にはいろいろ在り、複雑であるこ
とが知られるのです。
2) チャイナ側の「纏足」の慣行はチベット側では一度も行われず などなど
チヤイナには、その貴族階級の間で「纏足」と言う慣習がありました。
比較的、近年までそれは残っていたと言います。 しかし、チベットには
そうした事は一度も行われていないと申します。閨房に一日中閉じ込められ、
年に何回かしか外界を見ることも出来なかったチャィナの姉妹達と違って、チベ
ットの女性は自由に外出することが出来ました。
また、チベットではイスラム教の女性のように、顔を覆うことことも在りません
でした。 それに、ヒンズー教の伝統では、夫に先立たれた妻は、亡き夫の遺体
とともに生きたまま焼かれることになっていましたが、チベットにはそんなこと
はありませんでした。 つまり、いずれも文化や慣習が異なり、各々違う文化圏
に属していたのです。 こうしたことは、チベットの独自性を良く物語っている
と著者は主張しているのでしょう。
3) モンゴルとチベットなど
このあと、紆余曲折を経た後、十二世紀に至り、歴史は大きく動きます。モンゴ
ル帝国が拡大してくるのです。 特に、チンギス・ハンは諸部族からなるモンゴ
ルを統一(西暦1206)します。 その力を広げ、更に、チベット北方のタングート、
朝鮮、宋も支配下に納めます。 宋は、チンギス・ハンの後となりますが、
1279年に至り、完全に独立を失います。王朝は「元」に取って代わられ、それは
大モンゴル帝国の枢要部を構成します。 大モンゴルの影響力は広く、シベリア、
安南、ミャンマー等にさへ及びます。 西方では、ロシア、ポーランド、ハンガ
リー等の東欧諸国にも達しました。
この中で、チベットは、十三世紀の初頭にモンゴルに忠誠を誓いました。
これはチベットに仏教をもたらしました。ラマ教で、仏教の一大宗派です。
それは、チベットの宗教に多大のインパクトを与えました。 そこに登場し、
教祖から霊的な師となったのがダライ・ラマで、モンゴルの導師のような存在と
なったと申します。これと引き替えに、チベットは世俗的な保護をモンゴルから
受けるようになった由です。
なお、付言しますと、この元朝の遺制には特徴的なのが幾つもあり、印象的なの
は、地方名を河北省、広東省の如く、「省」と呼ぶことになった事と申します。
もともと、それは、宮内省、民部省の如く、律令国家の中央官庁の名称でしたが、
元の統治下で、「広東地方行書省」などと、地方に置かれた出先機関の名称に用
いられ、それがいつの間にやら、それがその地方の名前となってしまった事に由
来すると云います。 元の統治は実質百年で終わりやや短いのですが、刻印の
ように遺制が良く残っているのです。
他方中央省庁名は、チャイナではその後「部」で呼ぶようになっています。私ど
もが、かの国を訪れたとき、日本の官庁名を「建設省」などと紹介すると、不思
議そうな反応が返ってきたのを良く覚えています。 もともと「省は、唐の律令
制から始まっています」のにね。
さて、話を戻しますが、上述のような特権的な関係が二十世紀の後々まで
チベットとチャィナの関係を近づける紐帯の基礎になったと言います。本来、そ
れは領土や軍事に関わる事ではなく、霊的なものだったようです。
斯くて、チベット人とモンゴル人は極めて深い、宗教的親近性を持ちました。
特にそれは元朝で始まり、特に其処で強かったと云い、明朝ではほとんど衰え、
清朝で相当蘇ったと聞きます。
4) チベットと清の関係の具体例
これまた遊牧民族である満州族の統治した清は、チベットとの間に良好な
関係を築きました。 チベットと清の間柄は、現北京政府が主張するような
「朝貢関係」ではなかったのです。 清の皇帝は、北京から二十km離れた所まで、
ダライ・ラマを迎えに来て、玉座から降り、歓迎の意を表したと申します。
二人の君主は、互いに対等のものとして認め合い、茶を喫し、話し合い、着座し
ていたと言われます。記録は、清の順治帝のときに行われた、ダライ・ラマの訪
中のことを留めており、1653年の事でした。
それは、宗教上の師と弟子の間に存する関係で、前者が精神の平和を提供し、
後者は世俗の保護を提供する間柄でした。
1720年、満州人の兵士がラサに入城、それまでいたモンゴル兵に取って代わり、
ダライ・ラマ七世を保護するようにななります。
後年の1792年、それは清朝で最も名高く、在位六十年に及んだと言う
乾隆帝の代ですが、ネパールの侵攻があり、清がチベットに軍隊を派遣したこと
がありました。そうしたことが起きたのは、事態への対処の必要の外、満州人チ
ャィナの対チベットの漠然たる権威が在ったからと言われます。 しかし、それ
があっても、一度もチベットが固有の独立を失った事は無いとされます。
ただ、乾隆帝の死去は、時代の変化を顕著に象徴するものでした。
その頃、清朝の力はピークを過ぎていて、典型的には、チベットの保護者の役割
を放棄するほか無くなっていたのです。
5) 英国とロシアの登場、中華民国の時代へ
ダライ・ラマ十三世の代になると、チベット側は霊的権力のみならず、清の世俗
的権力も掌中にするようになりました。1894年以降の事です。
そして、清の力が一段と衰えると、英国の力がチベットにやってきて、1904年、
通商使節団の隠れ蓑の下、兵士三千人の護衛隊がラサに入りました。
北京はこれに対し、助けを求めるチベット側の要請に応えませんでした。
斯くて、北京側とチベット側は関係が悪化、単独で自衛したチベット側は
英国側に簡単にひっくり返され、ラサ条約が強制されました。 英国側は
チベットの独立した地位を認め、同時に、チベットが他国と条約を結ぶときは、
英国の同意を必要と誓約させました。 折衝が行われ、一方で、清の宗主権が
否定されたため、清はこの条約への副署を拒否しました。
他方、ロシアが登場、清の宗主権を認めたため、英露間の均衡が取れなくなり、
長期に渉り、遣り取り、調整が行われました。結局、英露ともどもの妥協が図ら
れて、清の宗主権が認められ、その仲介無しに、チベットとの交渉に入ることが
禁止されました。
この結果、1909年、清の軍勢のチベットへの進駐が起き、「最大の規律を示す」
と約束していたのにかかわらず、ラサで清軍による略奪が発生、大混乱となりま
した。何世紀のも間、チベットの意に反した清軍の介入がなかったのに、それが
生じたため、それがダライ・ラマ13世のインドへの逃亡に繋がりました。
そして、1911年、辛亥革命が発生、清朝は崩壊しました。 斯くて清軍の進駐は
短期間で終了、チベットは全面的独立の好機と捉え、実際、独立宣言に踏み切っ
たのです。1913年2月、ラサに戻ってきたダライ・ラマが公式に宣言を発します。
続いて、書簡がインド、英国、ロシアに発せられ、外国の支援も要請されました。
また、1911年独立を宣言したばかりのモンゴルとも友好同盟条約が調印
されました。 更に1914年には、英国、中華民国、チベットの三カ国で、独立の
新たな保証が得られました。各当事国の面子を立てる調停案が英国全権代表の
有名なマクマホンの手でまとめられ、文書が北部インドのシムラで仮調印された
のです。主たる内容は、チベット国境での敵対関係に終止符を打とうとするもの
でした。
ただ、中華民国は概ね一応同意したものの、最終的には、この条約の承認を
拒否しました。 しかし、その内容を覆すような軍事行動などの対応は
してきませんでした。 中華民国は対チベットの関係では動かなかったのです。
斯くて、チャィナの体制が中華民国に変わって以降は一応安定的な地域の
国際関係が出来て行ったようです。
6) 共産中国の登場と情況の不安定化
然るに、1949年に到り、所謂「国共内戦」の結果、情勢は激変、勝利を収めた
中国共産党が10月1日に「中華人民共和国」の建国を宣言します。そして
毛沢東は中華民国の残存勢力が進駐した台湾と、チベットを未解放としました。
すると、間もなく、陸続きであるチベットには、共産党の軍隊である「人民解放
軍」が侵入して来たのです。 1951年には、北京でチベットの併合が決定されま
す。 共産党のチャイナは、「以前のチベットがラマ僧が支配する農奴体制」と
規定し、自分たちがこれを解放する使命を帯びているとしているのです。
これに対し、チベット側は「それはアジアの何処にでも在った封建体制」と
反論しています。
その後、独立と自治、信教の自由などを奪われたチベット住民の大規模な反乱が
1959年に発生し、ダライ・ラマ十四世がインドに亡命するなど、爾来チベットの
情況は一向に安定せず、今日に至るも暴動や流血事件が頻発しています。
また、問題は大いに国際化、国連の決議、連帯や支援などが寄せられています。
7) チャイナ側の分断支配、漢人移住、鉄道建設
チャイナは、1965年、チベット自治区を創設し、歴史的に形成されてきた
まとまりのあるチベットを分断、相当広範な地域を、青海省、甘粛省、
四川省、雲南省などに編入しました。 「歴史を鏡」にという国が、あからさま
に歴史を無視しているのです。
また、チベット人を抑圧する一方、漢人のチベットへの移住を推し進めるように
なりました。 就業や就職は漢人に有利で、実質、明らかな差別が行われてきま
した。斯くて、今や多くの地域で漢人の人口が顕著に増加し、チベット人を
上回るようになっている由です。
そして、2006年には、青蔵鉄道が開通、北京・ラサ間に鉄道の営業運転が始まっ
たのです。 遠隔の高地に鉄道を建設するのは大変だったでしょうが、この主目
的は、軍の移動を容易ならしめること、資源開発、漢人移住や移動の円滑化にあ
ると云われています。
8) チベットの対外外交関係などは?
振り返りますと、清の末期から、チベットには、対チャイナの外に、英国や関連
してインド、ロシアなどとの対外関係が生じてきて、条約締結等まで至ったこと
は触れたとおりです。1911年に独立したモンゴルとは相互に同盟まで、結ぶに
至りました。
しかし、第一次世界大戦後や第二次世界大戦に多くの国や地域が独立したのに、
同様の時期を経たチベットではそうはならなかったのです。機会は何度も在りま
したが、結局生かされ無かったのです。
そして、現亡命政権のダライ・ラマ十四世は、既に独立とは云わず、チャイナの、
一角にあって高度な自治を確立するという主張を掲げています。対する中国共産
党は、それは党の指導の範囲内に留まるとしています。他方、チベットの急進派
は自治に止まらず、独立を要求、ダライ・ラマとは違う路線を取っています。
また、高齢となった現ダライ・ラマは、生まれ変わりの中から後継者を選ぶとい
う伝統的な方式を採らず、民主的に選出するという方途を主張している由です。
これは大いなる相違と思われますが、果たしてどう推移して行くのでしょう。
チベットの問題は国際化して久しく、その中でダライ・ラマ十四世は1989年にノー
ベル平和賞を授与されています。この年は、冷戦が終結し、天安門事件が起きる
など、いろんな激変や事態が生じた年です。また、翌々年の1991年はソ連が崩壊
しました。
同じく、1991年には国連がチャィナのチベット政策を批判する小委員会の決議を
成立させ、また、米議会が「チベットを被占領国」と宣言した年です。
国際世論や国際社会という概念が形成されて随分になりますが、チベットは明ら
かに、そのテーマです。
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