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中国で人気呼ぶ秋山亮二氏の36年ぶりの復刻写真集

2019.08.20 Tue

 

1980年代の初め、日本の写真家が中国で撮った子どもたちの写真集が36年たった今年、復刻され、日本と中国で同時発売になり、中国各地では出版記念イベント行事が開かれなど人気を呼んでいます。東京在住の秋山亮二さん(77)が制作した『你好小朋友 中国の子供達』(冒頭)と題した写真集で、初版の5000部は発売直後に売り切れ状態となり、1万部が増刷されました。いま、なぜ、中国で、なのでしょうか。中国でのイベントから帰国したばかりの秋山さんを世田谷の自宅に訪ね、話をうかがいました。

 

奇跡が生んだ復刻版

 

「復刻の話は、数年前から中国のいろいろなところから来ていたのですが、写真集のもとになったネガがすぐには見つからないこともあり、断り続けていました。しかし、中国のある雑誌が私のインタビュー記事を掲載したときに、そこに私の写真集からスキャンした写真も載っていて、なかなかのクオリティーだと感心しました。私の娘の友人でもあるその編集者が関係する出版社からのお誘いだったので、話を聞いてみようかという気になりました。そして、東京で出版社の社長と会う日になったら、なんと、納戸の奥にあった段ボールの箱からネガが見つかったのです。それまで本気に探していなかったんでしょうね(笑い)」

 

カラーのネガで残っていたのは、6×6判のフィルム約700本で、写真の数にすると約8000枚でした。秋山さんが1981年6月から82年6月までの間、数回に分けて内モンゴルから海南島まで中国全土をまわった撮影旅行の記録でした。そこから写真集に選んだ写真をさがすのは大変な作業になりそうですが、幸いなことに、写真集に使ったネガはそっくり別の袋に入っていたそうです。というわけで、いくつもの「奇跡」が重なり、出版の話は一気に加速、今年6月1日に復刻写真集が日本と中国で同時に発売されました。中国の上海では、発売日にあわせて秋山さんを招いた出版記念イベントが大きな書店で開かれ、復刻版のきっかけをつくった長女の秋山都さんも同伴しました。その後も、杭州や成都でも同じようなイベントがあり、いずれも大盛況だったそうです。

 

「出版記念イベントには、写真が好きな若い人たちがたくさん来てくれましてね。写真集を購入していただいた方へのサイン会があり、上海と杭州では約500人、成都では300人くらいにサインをしました。そのおかげで手首が腱鞘炎になったようで、痛くなりました。成都のトークショーでは、写真集のなかに写っていた少年が医師になっていて登場、撮影当時の話を語ってくれました。写真(下の写真)では、少しむくれた表情なのですが、当時は日本軍の蛮行を描いた映画を多く見ていたせいで、日本人に不愉快な感情を持っていたそうです。会場にわざわざ来てくれて、会場を大いにわかせてくれたのですから、今は違うのだと思いますけどね」

 

復刻版を出したのは青艸堂という京都の出版社です。経営者の夏楠さんは中国人の女性で、以前は中国の雑誌の編集者をしていたそうです。編集者としてこの写真集に興味を持ったこともあるのでしょうが、中国のネットで話題の本となり、日本でも古書に10万円の値段がついたこともあり、商機ありと見込んだのでしょう。販売戦略も強気で、中国での販売価格は390元(約5800円)で、日本での価格(4200円)と比べても豪華な水準です。廉価版を求める声もあったようですが、「万人を対象にした本ではなく、その価値があると思ってくれた人に売る」という考えを貫いているようです。

 

「1983年にこの写真集を出版したのは、サクラファミリークラブという小西六(コニカを経て現在はコニカミノルタ)が組織した写真愛好家のクラブでした。小西六としては、中国でカラーフィルムの販売を広める思惑があり、制作したものだったと思います。当初はカレンダーを制作するつもりだったようですが、途中でカレンダーから写真集に変更になりました。いい写真がたくさんあったからと、私は言いたいところですが、世界市場で配布するのに中国の子どもだけの写真では不十分だと思ったのかもしれません。この写真集は3000部刷って、国内で販売したのは1000部で、残りの2000部は中国でのフィルムの販売促進用に配られたと聞いています。そんないきさつもあったし、中国の方々にお世話になって撮ったものだけに、自分の写真集という意識は、中国で話題になる最近まで、あまりありませんでした」

 

DEAR OLD DAYS (愛しき古き日々)

 

もとの写真集に比べても復刻版の部数が多かったので、そんなに売れるのだろうかと、秋山さんは心配したそうですが、実際には、出版社の「読み」以上の人気になりました。この写真集への期待が中国市場で大きかったわけですが、その理由はなんなのでしょうか。

 

「1980年代の中国にカラー写真は、ほとんどありませんでした。また、写真というと、写真館で写した記念写真のようなものがほとんどなので、この写真集にあるような日常の写真というのは珍しいのかもしれません。だから、写っている人だけでなく、あの時代を生きた人たちは、自分たちが写っているという気持ちになったのでしょう。記念イベントの会場でも、自分たちもこうだったと、なつかしがってくれる人たちがたくさんいました」

 

成都のトークショーに現れた医師の男性以外にも、各地のイベント会場には、これが私です、という人が何人も訪れたそうです。また、写真集のなかに「王府井の店先」というキャプションで、北京の修理屋の店先に立つ女の子と店の奥でたたずむ母親の姿の写真があるのですが、成人したその女の子がことしの5月、夫君を連れて秋山さんの自宅を訪ねてきたそうです。

 

「母親と一緒に写っている写真は、これしかないと言っていました。観光旅行で日本に来たついでだったのかもしれませんが、近くの神社を案内したりして楽しいひとときでした。この夫婦はふたりとも米国留学の経験があるそうで、豊かになった中国というものを感じました。」

 

復刻版の背表紙には、1983年版にはなかった「DEAR OLD DAYS」の文字が副題のように入っています。「愛しき古き日々」。中国の人たちがこの写真集に見出したものを一言で表すと、この言葉になるのでしょう。出版社は、写真集のキャンペーンで、この英語に中国語の「光景宛如昨」(昨日の光景の如し)という言葉をあてています。「光景宛如昨」は、中国の詩人、李叔同(1880~1942、禅僧としての名前は弘一法師)の「憶兒時」の一節で、中国では「故郷の廃家」(ウィリアム・ヘイス作曲)の歌詞として歌われています。日本では、「幾歳(いくとせ)ふるさと来てみれば」と歌われているあの曲です。

 

ウイグルの子どもたち

 

写真集がきっかけになり、写っている子どもたちの消息がわかりはじめているそうです。内モンゴルの家族の写真があるのですが、その家族と接触した人によると、この時代の写真はこれしかないと言っていたとのこと。秋山さんがすこし気になっているのは、新疆ウイグル自治区で撮ったウイグル族の子どもたちです。トルファンの果物市場で見つけた子どもたちで、小型のバスで美しい林のなかに移動して撮影、1時間ほどで戻ってきたのですが、子どもたちの母親が誘拐されたのではないかと心配していたそうです。

 

「現地の案内役との言葉の行き違いがあって、お母さんたちを心配させてしまいました。ポラロイドで撮った写真を渡して、撮影だったことを納得してもらいましたが、撮影旅行の最大の“事件”でした。この子どもたちの消息を知りたいのですが、いまの新疆ウイグル地区ともなると、情報を得るのがちょっと難しいようです」

 

秋山さんがウイグルの子どもたちを気に掛けるのは、撮影時の“事件”があっただけではありません。実は、1983年版の表紙は、この子どもたちの写真(上の写真)だったのです。復刻版では、出版社の意向もあって、成都の女の子の写真に変えたのだそうです。

 

「ウイグルの子どもたちが『中国の子供達』の代表みたいに表紙というわけにはいかない、ということなのでしょうね。写真集のなかには、かれらの写真はしっかり掲載しています」

 

秋山さんが撮影に入った1980年代初めの新疆ウイグル地区は、いまほどの厳しい規制はなかったと思いますが、自治権の拡大を求める動きは常にあったわけで、外国のカメラマンが入ることに中国政府は神経をとがらせていたはずです。当時の内モンゴルも自治権が狭められた時期で、中国政府にとっては、外国のカメラマンを入れたくない地域だったと思います。海南島も、いまは「東洋の真珠」と呼ばれる観光地になっていますが、もともと軍港のある要塞の島で、監視が厳しかったと思われます。

 

「この撮影は、中国撮影家協会の全面的な協力のもとで撮影旅行ができました。この組織につないでくれたのが小西六と関係するカラー現像の会社にいた斎藤金次郎さんという人でした。この人は戦前から中国にいて、八路軍(中国人民解放軍の前身)に加わったこともあったそうで、いろいろな人脈を持っていたのだと思います、この方がいなければ、撮影旅行も写真集もできなかったと思います」

 

パートⅡへの期待

 

ところで、8000枚のネガが見つかったというので、パートⅡの計画はあるのか、秋山さんに尋ねたところ、このネガを使った新たな写真集の発刊を出版社は考えているそうです。

 

「中国に起源を持つ陰陽という考えがあるでしょう。今回の復刻版を出すにあたって、残りのネガも見ているうちに、今回の復刻版が陽だとすれば、陰にあたるものも出したいと、私も思うようになったのです。陰といっても、泣いたり、悲しんだりという意味ではありません。原子のイオンにも陽と陰があって、あわさって完全なものになるでしょう。そんなことを考えました」

 

数年前、私は山形県酒田市にある土門拳記念館を訪れました。1950年代に土門拳(1909~1990)が撮った子どもたちの写真もありましたが、その屈託のない笑顔と目の輝きに驚くと同時に、子どもたちに今の日本が失ってしまったバイタリティを感じました。1950年代といえば、日本の高度成長がはじまったころです。いまよりはずっと貧しかったのですが、「明るい未来」を信じて、がむしゃらに働いていた時代が子どもたちにも反映されていたのでしょう。

 

 

秋山さんが子どもたちを写した1980年代の中国は、文化革命が終わり、改革開放路線による高度成長が始まった時代です。子どもたちの明るさにも、その時代が反映されているように思えます。

 

「明日は、今日よりも絶対によくなる、ということをおとなも子どもも確信していると感じました。当時の日本には、もうそんな感じはなかったように思います」

 

土門拳記念館のホームページを見ていたら、土門の次のような言葉が紹介されていました。

 

「こどもを撮っているときは、それが二度と撮れないなどといった厳しさは、それほどにも感じていないときもあった。そんなものはいつでも撮れると思っていたのだが、実際には、そのとき、それを撮っておかなければ、今となっては、もう二度と撮れないのである」(「私の履歴書」)

 

秋山さんの仕事も、まさに二度とは撮れないある時代の中国の子どもたちを写し取ったということでしょう。

(写真集の写真は秋山氏提供、秋山氏を写した写真は東京都世田谷区の秋山氏の自宅で高成田惠が撮影)

秋山亮二氏のプロフィール(『中国の子供達』より)

1942年生まれ。東京都出身。父は写真家の秋山青磁(1905~1978)。早稲田大学文学部卒業後、AP通信、朝日新聞社写真部を経て、フリーの写真家に。インドの飢餓や離島の過疎化などフォトジャーナリストの視点から積極的に取材、発表。その後、深瀬昌久、森山大道らとともにニューヨーク近代美術館の「New Japanese Photography」など国際展に参加、個展「Ryoji Akiyama Photography」(ライス大学、ヒューストン)も開催。6×6版の二眼レフで氷魚人の生活を撮影。ニューヨーク、インドネシア、中国など「旅する者の視点」から対象を淡々と捉えた作品を発表し、独自の世界観を構築した。作品はニューヨーク近代美術館、東京都写真美術館、宮城県立美術館、呉市立美術館、川崎市市民ミュージアムなどに収蔵。作品集に『津軽・聊爾先生行状記』(津軽書房)、『ニューヨーク通信』(牧水社)、『楢川村』(朝日新聞社)、『奈良』(游人工房)など。翻訳書に『アメリカの世紀1900-1910 20世紀の夜明け』(西武タイム)、エッセイ集に『扇子のケムリ』(法曹界)がある。


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