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ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(前編)

2021.06.01 Tue

(榎本武揚と国利民福 安全保障-後編-3-3-1ー前)

・ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(前編)

 

・本稿の執筆目的

 

 

 下図は、2009年10月に鳥取短期大学、北東アジア文化総合研究所(平成29年3月31日、閉所)から発行された雑誌『北東アジア文化研究』第30号、第33頁の一部を複写しました。画像の最後部のキーワードに関する箇所に「榎本武揚」という文字があります。論文のタイトルは『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』です。論文のキーワードの一つが「榎本武揚」であることに驚きます。

図1. 論文の第二頁目の一部

 

 

 キーワードにある「松島」とは、江戸時代後半から海外で鬱陵島とは別に存在すると誤解されていたもう一つの別の島、「松島」のことです。しかし、鬱陵島は明治時代に日本で、松島、竹島、さらに松島竹島とも言われていました。本稿では、かつて地元から「リャン島」と呼ばれた現在の「竹島」を論ずるものでは無く、上記論文が引用した資料に登場する艦船名と海軍の資料とを照合し、資料の信頼性を検討するものです。

 

 とかく悪口の対象にされる榎本武揚と勝海舟は、明治24年に福沢諭吉から『瘠せ我慢の説』という手紙を送りつけられ、江戸城無血開城や箱館敗戦・投降のことで福沢から非難されました。勝は福沢に反論の手紙を出しましたが、榎本は忙しいので時間ができたら意見を書いて送りますと福沢に返事を出しておしまいにしました。明治時代の榎本は黙々と仕事をする生活でした。政治がらみのことを語らない榎本に代わってというのはおこがましいのですが、榎本への誤解を解き、名誉回復の試みをしてみます。事の本質がどこにあったのか顕在化しようとするものです。

 

 

・ウラジヴォストークで榎本の帰りを待つ人々

 

 

 1878年(明治11年)9月29日午後5時半、榎本はウラジヴォストークに到着しました。

 

『ロシア帝国の西の端のペテルブルグから東の端のウラジヴォストークまで、距離は一万キロあまり、日数にして六六日。夜をどこで過ごしたか数えてみると、鉄道車輛二夜、ホテルや駅逓や個人の邸宅一九夜、汽船二〇夜、馬車二四夜である。つまり昼夜兼行で疾走する馬車で過ごすことが最も多かった。日記は日毎(ひごと)の記録であるから、馬車でゆられながら書いたことも多かったはずである。その精神力には驚嘆せざるをえない。』

(『現代語版 榎本武揚 シベリア日記』平凡社、2010の前書きで、中村喜和氏の前書きから引用)

 

 そこでは、小樽と函館の商人と開拓使らが榎本の到着を待っていました。彼らはウラジヴォストークの貿易事務館で北海道の物産展を開催し、マーケティングと商談をしながら、榎本の帰りを待っていました。

 

 函館丸*1は鈴木大亮、村尾元長ら開拓使官吏と函館、小樽両港の商人たちを乗せ、北海道の物産を積み込み、8月27日午後4時、ウラジヴォストーク港に入港しました。黒田清隆開拓長官を乗せた軍艦、金剛艦は函館丸出航から4日遅れで8月28日に函館を出航し、8月30日早朝にウラジヴォストークに入港しました。 黒田長官を乗せた金剛艦は9月3日に帰国の途に就き、9月6日に小樽港に帰港しました。金剛艦には参議兼海軍卿の川村純義 (1836‐1904、薩摩藩士)、ペテルブルクで榎本の元で仕事をしていて、先に帰国していた花房義質も同乗していました。*2

*1 箱館丸は 明治2年(1869年)9月、樺太の東富内アイロップに停泊中、暴風により大破したため、焼却された。榎本が日記に箱館丸と記した船は、後に開拓使が、明治8年3月に海軍省から汽船函容丸を購入し、函館丸に改名した船。地名の箱館は明治二年に榎本武揚達が降伏すると、函館に表記が変わった。しかし、暫くの間、混用された時代があり、榎本も習慣的に箱館丸と日記に書いたと考えられる。(参照元、『国史大辞典11』、斎藤虎之介編『函館海運史』函館市、昭和33年)
*2 手塚律蔵『浦鹽日記(遺稿)』中公公論53(8)、1938

 

 

 幕末開港直後の1860年に函館と長崎に置かれていたロシア海軍病院のうち、函館病院は6年後に廃止され、長崎病院に統合されていました。1870年代初頭、シベリア小艦隊の主港がウラジヴォストークになると、艦隊の寄港地は長崎になり、函館の存在意義は薄れました。

 

 この状況を跳ね返そうと、ウラジヴォストークでの北海道の物産展では、黒田長官自ら逐一物品の価値を説明するという熱のいれようでした。そして、見本市が一般公開されると、市民多数が来館し、品物の品質や価格について議論が行われました。

(原暉之『ウラジオストク物語』三省堂、1998)

 

 金剛艦はウラジヴォストークに到着すると、ロシア海軍の士官などの人たちを艦に招待し、夜になると、用意してきた花火を打ち上げ、盛宴を開き、大いに交流を計った様子が後日談として明治11年10月20日版の朝野新聞の紙面で紹介されました。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010005700、除籍艦艇/軍艦(3)(防衛省防衛研究所)

 

 ペリー艦隊の二度目の来日時も、艦上で宴会が開かれました。まず、1854年3月1日にサスケハナ艦長がペリーの書簡を幕府側に提出した後、浦賀奉行の加山栄左衛門、中島三郎助ら九人を軍艦に招待、晩飯を出し、宴会が行われました。日本側の返礼の宴会が行われた後、条約締結の交渉中、3月27日にペリーは、日本側関係者、約70名を艦隊の内部を見学させた後、旗艦ポーハタン号に招待し、午餐会を兼ねて盛大な宴会を開きました。艦上は日本人が音頭を取って乾杯し、大騒ぎでした。用意された二組のバンドも大いにはやしたてました。

 

 その後、各国の軍艦内でのパーティーは横浜港に停泊している間、いろいろな国の軍艦でしきりに行われました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』によると、1863年9月に横浜港に停泊していた英仏の軍艦で宴会が開かれ、外国人女性も参加して演芸が行われ、音楽が奏でられました。

 

 軍艦の艦上や艦内での大宴会の様子は、横浜黒船研究会会員だった、故草間敏郎氏執筆の『ヨコハマ洋食文化事始め』雄山閣(平成11年)を参照、引用しました。このように、軍艦は戦争の道具としてだけでは無く、外国に寄港すると、外交を円滑に進めるため、また、相互理解と交流、親睦を推進する場所としても用いられていました。

 

 榎本は帰国後、明治12年2月に不平等条約改正のため条約改正取調御用掛を兼務しました。さらに、明治13年2月に海軍卿になった後、在日の諸外国の外交官を軍艦に招待し、外交官たちを軍艦で墨田川へ乗せて行き、芸妓を呼んでの宴会を開催しました。榎本は国際慣例にしたがい、不平等条約改正の一助になることを期待して、在日の外交官をもてなしました。しかし、薩摩出身の海軍軍人、つまり榎本の部下らはこぞって榎本を非難したのです。これは、国際慣例を無視した非難ですから、薩摩閥が榎本を追い出そうとする意図をもった恣意的な権力闘争と考えられます。

 

 瀬脇貿易事務官は、榎本の到着を待つ人々の中で最も待ち焦がれていた一人でした。瀬脇は、榎本たちがウラジヴォストークに到着したら、瀬脇自身の目で確認した松島の様子や松島を開拓すれば、経済的利益が得られ、国防に貢献することを榎本に説明しようと待ち構えていたはずです。

 

 

・瀬脇氏

 

 

 瀬脇寿人(1822‐1878)、元の名は手塚律蔵といい、周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡の出身です。

『律蔵は 17 歳のころ、故郷を出て長崎と江戸で蘭学を学んでいる。そして、嘉永4(1851)年 には佐倉藩に召抱えになり、江戸で又新堂という塾を開いており、安政3(1856)年には幕府の蕃書調所の教授手伝になっている。』

(石橋智紀『2.研究レポート(1)瀬脇寿人(手塚律蔵)と彼をめぐる人たち』より引用、f4-2-1.pdf (shimane.lg.jp))

 

 まだ、手塚律蔵と名乗っていた頃、幕府で翻訳の仕事をしていました。この時期、江戸の長州藩邸にいた攘夷派から誤解され、殺害されそうになり、必死になって逃げ江戸城のお堀に飛び込んで助かりました。この恐怖の体験から、母方の姓、「瀬脇」に改名し、1850年、佐倉に身を潜めました。

 

 手塚は、『西洋鉄熕鋳造篇』*1(1850*2、大砲鋳造,鉱山冶金技術、反射炉)の訳述、『洋外砲具全図』(1854)の訳述、『格爾屯氏萬国圖誌』(1862、こるとんしばんこくずし、世界地図)の翻訳、『鶏林亊略』(1876年(明治9年)4月、朝鮮事情の紹介)の共同執筆という成果があります。佐賀藩、薩摩藩で反射炉を築造するときに重要な役割を果たしました。

1 コトバンク 《西洋鉄熕鋳造篇》せいようてっこうちゅうぞうへん。

*2 1850  STEEL STORY JAPAN  https://steelstory.jp/iron_soujiten/term_edo-prewar/ 「熕」は大砲のこと。

 

 1853年に瀬脇は江戸に出て私塾又新堂を開きました。瀬脇は又新堂時代の1854年に『洋外砲具全図』を長州藩の木戸孝允*1に呈上したい旨、手紙に書きましたが、その手紙の後半に、中島三郎助から外国船の設計図を手に入れて*2もらえないだろうかと書き記しました。中島三郎助は1854年に日本初の洋式軍艦、鳳凰丸を完成させていました。その後、1856年に瀬脇は幕府の蕃書調所に出仕しました。

 

*1 木戸孝允(きどたかよし、1833-1877)  長州藩出身。吉田松陰の弟子。西郷隆盛、大久保利通、木戸は維新三傑と呼ばれる。幼名は桂小五郎。江戸で四大道場の一つ、練兵館(氷見出身の斎藤弥九郎が道場主、指導者。木戸は吉田松陰と交流の深い二代目斎藤弥九郎の指導を受けた。小谷超『斎藤新太郎(二代目弥九郎)について』氷見市立博物館年報(平成20年度))で剣術を学び、当時、剣豪として知られていた。練兵館では長州藩士が多かった。さらに練兵館では軍事教練も行った。また、練兵館には江川太郎左衛門もいたので、木戸は江川に弟子入りし、最新の軍事技術や兵学を学んだ。薩長同盟締結の交渉時、長州代表だった。「五か条の御誓文」作成に大きく関わった。榎本が箱館戦争敗戦後、窂に入れられているとき、政府内で処刑を主張していた。

*2『手塚律蔵書簡』https://bunka.nii.ac.jp/he/ritages/detail/75802

 

 後述しますが、木戸は軍事学(兵学)の専門家でした。この頃は江川太郎左衛門からも指導を受けました。木戸が瀬脇から本を受取り、藩に必要と判断すれば、写しを取り、藩の幹部に送ることになります。

 

 木戸は1855年、幕臣で横須賀奉行所配下の中島三郎助に住み込みとして造船の勉強をさせてもえるよう真摯にお願いし、中島の元で造船を学びました。この年、ヘダ号*1が建艦されました。木戸は中島の元で造船を勉強した結果、ヘダ号をモデルにして建艦することを選択したのか、軍艦建造の意見を藩に提出し、長州では1856年にヘダ号をモデルにした軍艦*2が建艦され、進水しました。

 

 伊豆、韮山の反射炉を建設中、佐賀から反射炉を建設した関係者を招いて、指導してもらいました。瀬脇は、長州に限らず薩摩や佐賀での西洋式の兵器製造や軍艦の建造に貢献したと考えられています。

 

*1  ヘダ号 1854年に下田に停泊中のロシア船、ディアナ号は大地震と津波に遭遇し、激しい損傷を受けた。1855年に伊豆の戸田村でロシア軍人が帰国するために幕府の許可を得て建艦された西洋式軍艦。
https://fuji3po.com/numazu/tourist/hedazosen.html

*2  「萩エリア~萩市の資産 恵美須ヶ鼻造船所跡https://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6078.html

 

 

 瀬脇はこのような人物なので、榎本のシベリア日記では呼び捨てでなく、『瀬脇氏』と丁寧な呼称になっていました。

 

 

・その島の名は?

 

 

 瀬脇は、維新後は開成学校教授でした。明治3年に外務省に採用されました。明治9年4月19日、ウラジヴォストークの初代貿易事務官として赴任するために乗った、長崎からウラジヴォストークへ向かう英国船から、『當テ稍大ナル一島』を目にし、もしや松島ではと思いました。瀬脇は、士官(英国人)に島の名とどこの国の領地か質問すると、島の名は「松島」、「日本の属島だ」と答えました。一緒にいたフランス人にも聞くと、同じ答えが返ってきました。人家の有無も聞くと、人家は無いと言われました。ウラジヴォストークに着任後、近隣の米国人に聞いても同じ答えでした。

 

徳川幕府が設立した洋学の研究・教育機関、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で始まり、1861年(文久2年)に洋書調所、1862年開成所に名前を変え、維新後、明治政府は開成所を接収し、1868(明治元年)に開成学校という名称で再開し、1869年に正式に開校した。後に東京大学を形成する一組織である。

 

 

 松島こと鬱陵島は、かつて諸国の人を集めた和寇と呼ばれる海賊の基地でした。この和寇は朝鮮沿岸に被害を与えたので、朝鮮王朝は鬱陵島に人が住むことを禁止しました。これを朝鮮王朝の「空島政策」(くうとう)と言いました。そのため、長い間、鬱陵島は無人島になりました。そこで、松島は無人の島なので、急いで日本人が住み、領有を確実にするべきだ、と瀬脇らに誤解されるようになりました。

 

 瀬脇が見た「松島」は、長崎とウラジヴォストークを直線で結んだ途中に位置していました。ロシアの南侵を考えると、この島がロシア領にされると、日本の安全保障が脅かされる。日本が開拓民を送り、日本領として確実にすれば日本の安全保障の助けになると瀬脇は考えました。さらに瀬脇はこの島の豊富な樹木を伐採し、長崎経由で上海に持ち込み、売りさばくことを考えました。

 

 

図2 長崎―鬱陵島―ウラジヴォストーク

 

 

 西洋における鬱陵島の発見で鬱陵島の西洋での名前は次のように変わっていき、その名前が日本に逆輸入されました。

 

江戸時代の鬱陵島の日本名、竹島。

1787年、フランス海軍が鬱陵島を発見し、ダジュレー島と命名。

1789年、英国船が鬱陵島を発見し、アルゴノート島と命名。

 

 両国の船が測定した緯度、経度にずれがあったため、西洋の地図上では朝鮮沿岸に近い西側の島をアルゴノート島、その東側の島をダジュレー島として配置され描かれました。この時点で、鬱陵島が二つあることになりました。地図上で鬱陵島がずれた位置にもう一つ見え、島が二つあるように見える・・・今は古(いにしえ)のテレビ放送でゴースト映像を見ているようなものです。

 

 そして、外務省ホームページ『日本における竹島の認知』によると、次のような事態が起きました。

 

『長崎出島の医師シーボルトは,欧州で「日本図」(1840年)を刊行しました。彼は,隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(鬱陵島の江戸時代の呼称),「松島」(現在の竹島の江戸時代の呼称)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方,ヨーロッパの地図には,西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため,彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」,「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました【図2】。

 

 これにより,それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が,「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。』

 

 地図上に二つ描かれた鬱陵島のうち、外国人たちから日本領の松島のほうが見えていると教えられた瀬脇はその話を信じ込んだようでした。しかし、日本には長久保赤水が作成し、1779年初版の『改正日本輿地路程全図』などがあり、それらの地図には鬱陵島と現在の竹島と隠岐諸島との位置関係が的確に書かれていました。

(以上の引用元、参照元:  https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_ninchi.html

 

*長久保赤水(ながくぼせきすい、1717-1801) 常陸国多賀郡赤浜村(現在の高萩市)の農民出身。江戸中期の地理学者、儒学者。

 

 

 瀬脇は赤水らの地図を見たことが無かったのでしょうか。瀬脇は佐倉と関わりが深いうえ、幕府の蕃書調所で教授をしていたので瀬脇が知らないとは思えません。しかし、瀬脇は、シーボルトの弟子だったので、シーボルトが作図した地図を信じていたのかもしれません。瀬脇の学問歴からすると、外人に意見を求めて結論を出すタイプでした。

東京慈恵会医科大学創立八十五年記念事業委員会 編『高木兼寛伝』「第六章 岳父、瀬脇寿人のこと」(東京慈恵会医科大学創立八十五年記念事業委員会, 1965)では、シーボルトの弟子であることは否定されている。しかし、シーボルトが1859年から1862年の間、和蘭商事会社員として来日していた間、瀬脇は蕃書調所の教授だったので、交渉をもっただろうとしている。

 

 瀬脇は日本の安全保障のためにと言いつつ松島での事業を考えていました。しかし、有事に兵士となって敵と戦う屯田兵が瀬脇の構想には含まれていません。また、地政学的検討がありません。瀬脇の松島開拓の動機に疑問が残ります。敢えて言うならば、瀬脇は幕末の吉田松陰の鬱陵島開拓案を推進していたようにも見えます。『鶏林亊略』を林深造と共著し日本に広く朝鮮の状況を伝え、そして、この島を橋頭保、兵站基地にして、朝鮮半島への侵略を考えていたのではないかという疑問をもちます。

 

 

・松下村塾の竹島開拓論

 

『「幕末海防論と「境界」意識」と題する論⽂を書かれた⿃取⼤学の岸本覚⽒によると、松下村塾での⽵島開拓論の開始は安政5(1858)年2⽉19⽇の吉⽥松陰から桂⼩五郎への書簡での提案だという。』

 

『吉⽥松陰が処刑された翌年の万延元(1860)年7⽉2⽇に桂⼩五郎と村⽥蔵六が連名で幕府に提出した「⽵島開拓建⾔書草案」は松下村塾の⽵島開拓論の集⼤成といって良い。まず開拓の必要については、⽵島は⻑門国萩より東北の海上約50⾥にあって、朝鮮から⽵島までも約50⾥なのでほぼ等間隔にあること、最近外国船が⽵島周辺に出現するようになってきており、植⺠でもして国防を考える必要があること、北前船が下関へ往復する時暴風暴波の折には⽵島に碇泊して天気の回復を待っていること、すでに島には⽇本⼈が建てた⼈家が5、6軒はあると聞いていること、かって朝鮮国へお渡しになったという風聞もあるが、朝鮮⼈の渡海は皆無であること、世界地図を⾒ると⽇本と同じ⾊に着⾊され、島名も「タケエイ・ララド」と記され⽇本の属島と認識されていることは明⽩であること、万⼀この島が外国の⼿に落ち植⺠でもされた時は⽇本や直近にある⻑州にとって多⼤の禍になることは必⾄であること等をあげている。この⽵島開拓建⾔書草案は幕府の閣⽼久世広周(くぜひろちか)に提出されたが、藩主からの建⽩書でないという理由で却下されている。』

 

 以上は、『杉原隆「島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について」(Web 竹島問題研究所、2010)』からの引用です。

https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-o.html

 

 吉田松陰(1830-1859)は、長州藩の志士、兵法家、思想家、教育家として私塾「松下村塾」を舞台に長州人を啓蒙し、幕末及び明治時代に活躍する多数の人材を輩出した。

 

*木戸孝允、伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作、品川弥次郎、山田顕義、野村靖、山縣有朋、・・・・

 

 

 嘉永7年、吉田はペリー提督が条約締結を求め再び江戸を訪れた時、下田で漁民の小舟を盗み旗艦ポーハタン号に乗り込み、渡米を希望しました。しかし、吉田はペリーに拒否されたため帰ろうとするとすでに小舟は流されていました。そこで、吉田は下田奉行所に自首することにしました。吉田は江戸小伝馬町の窂に入れられました。吉田は死罪になるところを川路聖謨(としあきら、豊後日田出身、幕臣、1801-1868)の強い働きかけで老中たちが吉田の死罪に反対し、安政元年(1854年)に江戸小伝馬町の窂から萩の野山獄に移送された後、『幽囚録』を執筆しました。

 

「今軍備を固め、蝦夷を開拓し、諸大名を封じ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、・・・、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満洲の地を割き取り、南は台湾、ルソン諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。その後、民を愛し土を養い、辺境の守りを固めれば、よく国を保持できる。でなければ諸外国競合の中に坐し、なにもしなければ、いずれ国は衰亡するだろう」

(参照元、吉田松陰遺書、福本椿水訳注『幽囚録』p38、福城義亮、昭和14年)

 

 このような吉田松陰の日本国土拡大論の一部を成す松下村塾の竹島開拓論は却下されましたが、吉田松陰の門下生は諦めていません。斎藤栄蔵は1836年、萩藩士の家に生まれ、境家の養子となり境二郎と名乗り、松下村塾に入塾しました。

 

 明治5年、境は島根県の官吏となり松江に赴きました。境は県の参事になった明治9年10月15日に、内務省地理寮から『「⽵嶋ト相唱候孤島有之哉⼆相聞固ヨリ旧⿃取藩商船往復シ線路モ有之趣」「旧記古図等御取調本省へ御伺相成度」と⽵島の地籍の問い合わせ』がありました。竹嶋または竹島と言われる蔚陵島へ旧鳥取藩の時代、商船往復し線路があったと聞いているので、昔の地図などを調べて竹嶼の地籍を報告して欲しいと政府から回答を求められました。

島根県 明治5年4月に島根県は浜田県と合併、8月に鳥取県と合併し、大島根県と呼ばれていた。

 

 

 内務省地理寮が問い合わせてきた「竹嶋」と呼ばれる孤島は、現在の竹島の事では無く、鬱陵島を指しました。

「寮」は律令官制における官庁。内務省地理寮は、1874年1月に設置され、大蔵省租税寮地理課の事務を引き継いだ。

 

 

 このときの島根県令は長州人で岸信介、佐藤栄作の曾祖父の佐藤信寛(1816‐1900)でした。島根県は佐藤と境の二人の長州人が管理していました。二人は早速、『⿃取藩の元禄時代の⽵島渡海に関する旧記、古図を利⽤した添書を作成し、わずか11⽇後に「内務卿あて⽇本海内⽵島外⼀島地籍編纂⽅伺」なる表題で島根県令佐藤信寛、参事境⼆郎の名で回答』しました。短時間で回答書を作成したためか、古地図や古文書など元の資料に対し誤りが多い資料が添付されました。

 

 そして、翌年の明治10年に『内務省は4⽉9⽇付けで最⾼議決機関の太政官指令として「書⾯⽵島外⼀嶋之儀ハ本邦関係無之儀ト可相⼼得事」と島根県に回答』が来ました。

 

 

 以上の佐藤と境の件は、『杉原隆「島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について」(Web 竹島問題研究所、2010)』から引用、参照をしました。

https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-o.html

 

 

 長州人、吉田松陰の門下生は鬱陵島をあくまでも自分たちの領地にしようとしていたようです。

 

 

・瀬脇に刺激された人々

 

 

 明治9年に瀬脇が松島開拓を夢見て以後、鬱陵島開拓はどうなっていたのでしょうか。

 

 瀬脇が日本領の松島と思い込んでいる鬱陵島の開拓と伐木事業を、明治9年に福島出身の書記二等見習の武藤平学がウラジヴォストークから本省に提案しました。また、瀬脇は長崎からウラジヴォストークに来る貿易商、下村輪八郎らにも推奨しました。下村輪八郎らは松島を現地調査し、政府に松島の開拓を願い出るようになりました。

 

 しかし、ウラジヴォストークからの松島についての問い合わせや開拓願いについて動じない人がいました。榎本の親友の一人である、外務省公信局長の田辺太一でした。田辺は、田辺が言う旧政府、即ち、徳川幕府の外交官でした。田辺は、明治10年4月25日付の瀬脇から転送された武藤らの松島開拓願の許可願いに対し「松島は朝鮮の鬱陵島なので、開拓願いに対し、許可できないと回答すべき」という主旨の付け札をしました。

 

 この付け札があるにも関わらず、その後も開拓願いが瀬脇から出ていること、初代の貿易事務官、瀬脇が翌年11月に亡くなった後、三代目の貿易事務官、寺見も開拓を推進していることから、この付け札は実際にはいつつけられたのか、またはどのように無視されたのかなど、研究が続いています。

 

 三代目貿易事務官になった寺見もが熱心に鬱陵島開拓を推進している様子から、寺見は榎本と共にユーラシア大陸を横断してウラジヴォストークに辿り着くと、榎本と共に瀬脇から鬱陵島開拓論を熱く聞かされたと考えられます。

 

松澤幹治『(7)松島開拓願を出した下村輪八郎と『西海新聞』「松島日記」』
https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/kenkyuukai_houkokusho/final_report4.data/f4-2-7.pdf

 

 

 瀬脇に松島開拓を勧奨された下村輪八郎らは、翌年明治12年に長崎で米国船に依頼して松島へ向かい、6月11日に松島に到着すると、船に日章旗をかかげ、砲声を一発だし、島内の反応を待ちました。このとき、山口県人の吉田孝治が加わっていました。島には朝鮮人の仮住まいが見えました。

 

 その後、ボートで水夫長らと上陸しようとした際、海岸にいた朝鮮人3,4人が指さす方向へ行くと、小さな湾があり、上陸を果たしました。島内の調査を続け、日本領土であることの確信を深め6月12日に「大日本松島」などと書かれた標柱二本を建て、ウラジヴォストークへ向け出発し、6月14日にウラジヴォストークに到着しました。

*標柱の表に「大日本松島」、その下部に姓名、裏に年号月日を書いてある。二本とも同じように書かれているのかは不明。

 

 

 6月16日に「松島日記(草案)」を寺見事務官に提出しました。7月12日に寺見から下村は、松島開拓について、東京・外務省の榎本に謁見を乞い、委細を陳述するように言われました。寺見から榎本への伝言と手紙を預かりました。下村は7月13日にウラジヴォストークを発ち、14日に函館に着き、17日に函館を発って7月24日に長崎港へ帰りました。この間もしくはその後、下村は東京で榎本に謁見を乞いたか否かなどの足取りは分かりません。

 

 下村は翌年明治13年には開拓に着手し、港も作り船が接岸できるようにし、ウラジヴォストークとの貿易を拡大し、開港以降低迷している長崎の振興回復も計画したいと希望しました。そして、開拓を実施するために、長崎に「松竹社」を結成しようと考えました。

 

 下村たちの行動記録は「松島日記」という題名で長崎の「西海新聞」に明治12年9月24日から10月10日まで連載され、10月15日に開拓の基本方針が掲載されました。これにより、松島の産物や産業の可能性などが広く知れ渡ることになったと考えられます。

 

(出典 松澤幹治『(7)松島開拓願を出した下村輪八郎と『西海新聞』「松島日記」』
https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/kenkyuukai_houkokusho/final_report4.data/f4-2-7.pdf)

 

 

 政府内で「松島」と開拓建議について議論した結果、一連の動きに決着をつけるため、寺島外務卿は軍艦、天城艦を島の位置の測量のために松島へ派遣しました。天城艦が松島の位置を測量するのは、1878年(明治11年)6月の測量に続き、二度目でした。1880年(明治13)年9月に海軍は正式に、日本で様々な人が松島と呼ぶ島の位置(緯度、経度)からすると、松島は朝鮮領の鬱陵島であり、すぐ脇の岩礁が現在の竹島とは異なる「竹嶼」であるとして、地図を添えて報告しました。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017259400、単行書・竹島版図所属考(国立公文書館)

 

 

・政府が松島は鬱陵島で朝鮮の属島だと結論を出した後

 

 

 日本政府内で結論が出たので、今後は鬱陵島へ日本から行こうとする人はいなくなり、鬱陵島を開拓させて欲しいという願いは出ないものと考えられますが、そうはならなかなかったのでした。

 

 後の明治15年に鬱陵島に日本人が多数いて伐木をしていると朝鮮政府から抗議され、明治16年10月14日、鬱陵島にいた日本人は、政府が出した迎えの船に乗り、15日に下関に帰国しました。

 

 このことを報じた10月18日の郵便報知の新聞記事「朝鮮鬱陵島の開墾、かつて高杉晋作も注目」の文中に高杉晋作も開墾しようとしていたことが書かれていました。

 

『長門の人よりの報道なりとて、大阪の新聞に記す所によれば、該島開墾の事は、昔日よりこれに注目する者これあり。すなわち維新前、吾が長門の高杉晋作のごときも、奇兵隊をして産業に就かしめんとの目的にて、自ら該島に航したることありしが、兵馬倥偬(そうこう、大変忙しいの意)の際にて、ついにその事は中絶せり。その後明治十二年頃、萩辺(あたり)の児玉某、竹内某などという者の発起にて、大坂の深見信治とか言える者と謀り、該島の伐材、漁猟に着手せんと企てたりしが風涛(ふうとう)の危険なると資本の不十分なりしとにより、ついに止みたり。しかるに昨年中より、・・・。』

 

 明治12年に萩周辺の人たちが松島への渡航を試みたが天候悪化と資本不足で諦めたとあり、さらに上記の文中の昨年中とは、明治15年のことで、明治15年になって実行する人々がいたと報じています。

 

 前述したように、1881年(明治14年)5月、鬱陵島を巡察していた朝鮮政府の役人が、無断で木材を伐採する日本人を発見し、朝鮮政府へ報告しました。1882年(明治15年)に朝鮮王朝が、日本政府に日本人が越境して鬱陵島に渡海することを抗議すると、翌年1883年(明治16)3月、日本政府は鬱陵島への渡海を禁止し、10月に鬱陵島に迎えの船を送り、島にいた日本人を連れ帰りました。蔚陵島に常時いる日本人は約400人と考えられていて、過半が山口県人でした。政府の迎の船が蔚陵島から連れ帰ったときは、総勢244人で、うち山口県民は134人でした。

 

 

・当時の山口県庁の行政文書―『明治十七年蔚陵島一件録』の謎

 

 

 これら一連の鬱陵島への日本人の侵入に対し、山口県側で調査に当たった役人の報告書(復命書)である明治十七年作成の『蔚陵島一件録』(山口県文書館所蔵 請求番号 戦前A土木25)という行政文書があります。そして、この報告書を利用して、次の論文が作成されました。

 

朴 炳渉『山陰地方民の蔚陵島侵入の始まり』北東アジア文化研究 第30号、2009年10月

 

 この論文での最初の引用箇所は以下の内容でした。

 

 

 2010年8月5日開催の東京農業大学総合研究所榎本・横井研究部会でこの論文の主たる部分が紹介され、さらに論文中に登場する林信二郎と近松松二郎は確認できないと報告されました。また、論文が引用したこの箇所に、榎本公使がロシアへ渡航中にこの島を発見したという、あり得ないことが書かれていたため、研究部会ではこの論文は検討に値しないと考え、大した話題にならずに終わりました。しかし、榎本への誤った認識が広まるもとになったと考えられます。

 

 そこで改めて、この論文での主張の根拠となった、明治17年に報告された、山口県行政文書、山本修身『明治十七年蔚陵島一件録』からの引用二か所、明治14年11月、島根県から内務省へ提出した伺書『日本海内松島(蔚陵島)開墾之儀に付伺』からの引用一か所に登場する艦船を海軍省報告書と照合し、この文章の正当性を検証してみます。 

(後編へ続く)

 


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