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ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(後編)

2021.06.06 Sun

明治13年6月測量報告書に添付された松島(蔚陵島)の海図
(左図はgooglemapの鬱陵島)

 

(榎本武揚と国利民福 安全保障-後編-3-3-1-後)

 ・ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(後編)

 

 

 初めに論文『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』(北東アジア文化研究、第30号)が、山口県庁、山本修身、明治十七年作成の『蔚陵島一件録』から引用した2箇所に登場する艦船、明治14年に島根県から内務省に提出された伺いに登場する軍艦を海軍省報告書の「艦船航泊表」などと対照してみます。次に、『蔚陵島一件録』から引用された万国公法と榎本武揚との関係に関する推論を検討します。

 

 

・論文での引用―1

 

 

・誤り―1.1 「榎本公使魯国へ渡航之際発見」

 

 榎本は南回り航路でペテルブルクに向かったので、「魯国へ渡航之際松島(鬱陵島)を発見する」、はあり得ません。帰国時は、函館丸に乗船し、ウラジヴォストークから小樽へ三日間で移動しました。三日間ではウラジヴォストークから鬱陵島(松島)経由で小樽へ行くことはできません。

 

 鬱陵島を発見というのは欧米的な世界の見方です。鬱陵島は極東、日朝間では古くから知られている島で、改めて発見するような島ではありません。1696年に徳川幕府が鬱陵島を朝鮮王朝領であることを関係各藩に通知し、日本人が鬱陵島へ渡海することを禁止しました。鬱陵島は17世紀には日本ではすでに知られた島でした。その島を榎本が南回り航路でロシアへ行く際に松島を発見したという一文は誰が見ても事実と異なることを書いていると分かります。逆に、ここに書かれたものは嘘、創作であると宣言したに等しい文です。

 

 前回取り上げたように、幕末に高杉晋作は鬱陵島に渡り、開拓移民を検討していたこと、探検家の松浦武四郎が江戸時代の鬱陵島に関する資料を集め、吉田松陰にその情報を伝え、吉田松陰も1858年に『竹島開拓論』を書き、提案しました。吉田松陰死後、弟子の木戸孝允と村田増六が連名で鬱陵島開拓を希望した『⽵島開拓建⾔書草案』を1860年に幕府に提出しましたが、却下されています。

 

 論文、杉原隆(前島根県竹島問題研究顧問)『明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」』(Web竹島問題研究所)によると、明治4年すでに2件の鬱陵島の開拓願いが出されていたことが紹介されています。さらに、明治12年に旧秋田藩主佐竹家当主や越後村上藩主、越前鯖江藩藩主らと大阪の深見信治ら4人が「海産起業願」を伊藤博文内務卿に提出しようとしていたことを論じています。

以降、「杉原論文」と呼ぶ。

 

 「海産起業願」による試験渡航の計画をこの論文では次のように紹介しています。

 

『「海産起業願」には「いよいよ近⽇渡航ノ上試験仕る」として拠点となる漁港温泉津に準備するものを列挙している部分がある。そこには漁船15隻、漁師100⼈、杣(そま:きこりのこと)10⼈、⿊鍬(⼈夫のこと)10⼈、⼤⼯5⼈、⽯⼯5⼈、漁師妻15⼈、⻑屋3⼾を必要としている。また物品として家具類、鍋、釜、風呂、瀬⼾物類、漁道具類、味噌、醤油、塩、油、蝋燭、酒50樽、⽩⽶⽞⽶凡そ100⽯、⼤阪への通船、兵役者30⼈、⼤砲等も必要としている。また末尾に地元の⼈の動向として「⽯⾒同盟⼈共凡そ百五拾名」とある。』(筆者、一部調整)

 

 驚くほど非常に大規模かつ組織的な試験渡航計画でした。恐らく、こういった計画を持った地方住民や事業家は外にもいたと考えられます。

 

 この論文では、明治時代初期(明治4年)からの竹島渡海願いといえる開拓願書では、『明治4年には竹島(アルゴノート島)、松島(ダジュレー島)の2島の鬱陵島でなく、「竹島とか松島」と呼ばれる1島としての鬱陵島の認識がある、・・・』と論じられています。この議論は重要な議論で、瀬脇が開拓を勧奨した松島は鬱陵島を指すと認識していたのではないかという疑いがあります。もしそうなら、動機はなんだったのでしょうか。明治になっても木戸孝允と手紙のやり取りをしていたことから、確信犯として松島開拓を勧奨していたと考えられます。但し、この推定を支えるものは状況証拠しかありません。

 

 余談ですが、この論文に登場した大阪の深見信治は、前回の明治16年10月18日の郵便報知の新聞記事「朝鮮鬱陵島の開墾、かつて高杉晋作も注目」という件で前稿の中に登場しました。その記事には『明治十二年頃、萩辺(あたり)の児玉某、竹内某などという者の発起にて、大坂の深見信治とか言える者と謀り、該島の伐材、漁猟に着手せんと企てたりしが風涛(ふうとう)の危険なると資本の不十分なりしとにより、ついに止みたり。』と書かれていました。

 

 深見信治なる人物は、旧殿様に声をかけたり、現地では事業を希望する人たちに鬱陵島で事業することを持ちかけたりしていたことが分かります。渋沢社史データーベースでは、1878年(明治11年)深見信治は永田義原とともに『「興農債条例」(地券担保金融機関)を発表す。』(https://shashi.shibusawa.or.jp/details_mokuji.php?sid=9355)と記録されています。ここでは、榎本が鬱陵島の発見者では無いことを論じていますので、深見信治をこれ以上、追求しません。

 

 江戸時代から始まり、明治に入ってからも鬱陵島を開拓、移民したい、事業を行いたいという伺いや願が多数提出されている状況でした。これは、榎本が鬱陵島をみんなに教えたから、盗伐するために人が鬱陵島へ殺到したという説明はできないことを示しています。

 

 

・誤り―1.2 「榎本之妻弟林紳二郎東京府平民近松松二郎 岩崎某」

 

 榎本の妻、多津の弟は、紳二郎ではなく、紳六郎です。紳六郎(1860年生―1933年没)は、幕府奥医師の林洞海の六男で、1869年(明治2年)に西周の養子になりました。明治17年作成の資料なら、「西紳六郎」と書かれるべきですが、「林紳六郎」となっているとは不思議です。1878年(明治11年)、西紳六郎は18歳で、海軍の兵学校に在学していました。新規事業の仲間として誘われるような状況ではありません。

 

 論文『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』の本文中では、東京府平民近松松二郎は、論文中では榎本の義弟として扱われています。この論文は査読されているのだろうかと疑問があります。

 

 近松松二郎は特定されませんが、近松松次郎であるなら、旧旗本で榎本の従者として箱館へ行き工兵隊に属した者がおりました。榎本が牢にいる間、榎本家へ相当の仕送りをしましたが、箱館戦争敗戦後から榎本が牢から出るまでの間の足取りは良く分からないようです。その後、鉄道建設業者として知られ、明治10年代には既に大手業者と肩を並べて、仕事をしていました。土木工事史に登場する人物です。しかし、西紳六郎と接点があるのでしょうか。

 

 仮に明治11年に榎本から松島の話を聞いたとするなら、それは、榎本がロシアから帰国した後のその年の11月から12月にかけてのことになります。

雑誌『建設業界』28(5)、28(11) 上野花園の生まれ、旧旗本出身、生年、没年不明、箱館戦争後、請負業者。鉄道建設工事の歴史などに登場する知られた人物。明治12年、自分が所有する土地を小学校用地として寄付し、翌年に、現在の東京都足立区西新井小学校の前身、公立の近松小学校が設立された。勝海舟が扁額「近松小学」を書いて学校に寄贈した。近松松治とも。(足立史談編集局『足立史談』第600号。足立教育委員会、2018年2月5日)

 

 

 岩崎某は不明です。

 

 

・誤り―1.3 「汽船高尾丸に乗り込み該島へ渡り」

 

 

 海軍省報告(明治10年7月、明治11年6月)には高尾丸は存在しません。輸送艦高雄丸なら海軍の艦船として記録に載っています。高雄丸は、英国製の外輪船でしたので一目見れば汽船と分かります。1878年(明治11年)2月6日に高雄丸は水路局に所轄が変更され測量船に修理改造されることになりました。しかし、修理箇所が多すぎるため、3月27日に横須賀造船所所轄になり、修理は翌年の1879年(明治12年)2月25日まで続き、3月13日に水路局へ引き渡しが行われました。(水路局届では明治11年12月19日)

 

図1 明治10年7月から明治11年6月までの間の海軍省報告書に記載された艦船表

 

 図1は明治10年7月から明治11年6月までの間の海軍省報告書に記載された艦船表です。縦軸に艦船の種別が書かれ、横に該当する艦船が書き並べられています。

 

 海軍の船は軍艦と呼ばれます。軍艦にはいくつかの種類があり、艦船名の最後に、〇〇艦、□□丸、△△艇などという名前のつけかたで艦種を区別します。強力な大砲を搭載している艦船、つまり戦艦には〇〇艦と命名します。よく知られた例では、戦艦大和と言いますが、戦艦大和丸とは言わないことから分かります。

 

 戦艦以外の船には、□□丸という名前をつけ、軍艦を建造するための資材を輸送したり、海上で兵員を輸送したりする、戦場の戦艦に必要な物資を積載して後方で待機するなどの仕事をする輸送艦もあります。また、水路局で海図(Chart)を作成するために測量をする船もあります。ちょうどこの時期、輸送艦だった高雄丸を測量艦にするための改造を施そうとしたら、修理箇所があまりに多く、修羅艦という分類に入れられ、横須賀造船所に渡されていました。

 

 この一覧表から、高雄丸は、この時期、修羅艦に分類されていました。つまり修理中でした。

 

 尚、前年の1877年10月3日に、高雄丸は長崎港で花房義質代理公使一行を乗せ、釜山に向かいましたが、釜山で船内にコレラが発生し、死者を出すなど大ごとになり、花房一行を釜山に残し、高雄丸は一旦長崎港へ戻り、船員の検査や船内消毒を行い、再び釜山へ行き、1878年(明治11年)の1月末に横浜港へ帰港しました。

 

 以上のことから、明治11年に近松松二郎が乗り込んだ船「汽船高尾丸」が正しくは「輸送艦高雄丸」としても、高雄丸に乗り込んで、松島(蔚陵島)へ渡ることは不可能でした。

 

 「高雄丸」は新聞記事の中では「高尾丸」という表記が使われていました。しかし、明治11年7月11日東京日日新聞の「海軍の新鋭扶桑・金剛・比叡を・・・」という見出しの記事の中では、艦名を「高雄」と表記されていました。船尾に右から「たかおまる」または「たかお」という文字板が取り付けられていたと考えられますから、新聞記事に高尾と書いていたところ、新聞社に海軍から高雄が正しいとか高雄と書いてくれと言う連絡があったのでしょう。

例 明治10年1月10日朝野新聞「西京行幸随行艦」、明治10年7月3日「鹿児島の賊軍城山に籠って 四斤半山砲の威力を発揮」

 

 

 山本修身が明治17年に関係者から事情聴取をして、汽船高尾丸と書きとったなら明治10年頃の新聞記事からの知識に基づいて書いた可能性があります。但し、文書を書くとき、発音が合っていれば当て字でいいような時代でしたので、高雄丸を高尾丸と書くことはお構いなしなのかもしれません。いずれにしても「たかおまる」で鬱陵島に人が渡ることはあり得ないことであったのです。

 

 

・論文での引用―2

 

 

・誤り―2.1 「十三年に至り ・・・ 軍艦磐城号を以て人夫職工等を渡島せしむ右軍艦借用せし」

 

「軍艦磐城号」は存在しません。「軍艦磐城艦」なら存在します。しかも、日本海軍の軍艦の名前に「△▽号」という表記法はありません。「軍艦磐城号」と語った人物は日本人ではなく、朝鮮または清の人なのではと考えられます。山本から事情聴取された山口県内の人々は日本人だけでは無かったという疑いが生じます。

 

 磐城艦は横須賀造船所で建艦され、明治13年7月6日に横須賀造船所より東海鎮守府に引き渡されました。日本海軍の黎明期であるが故、運用が始まってすぐ、7月15日から年内中修理が必要になりました。明治13年に磐城艦を借用して労働者を松島へ連れて行くことはできないのです。

 

 明治13年に、磐城艦は稼働していなかったのです。また、磐城艦の艦長は瀧野では無く長州出身の坪井航三少佐でした。

図2. 横須賀軍港に停泊中の磐城艦、1889(パブリックドメイン、wikipedia)

 

 

・誤り―2.2 「十四年十月に至・・・海軍省用船廻漕丸を以て」

 

 

 海軍省第一回漕丸、第二回漕丸の2隻は、明治14年3月に岩崎彌太郎の郵便汽船三菱会社の横暴な独占に対抗するため設立された風帆船会社に貸し出されました。

(出典 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114999900、往⼊400 造船所伺 風帆船会社へ回漕丸2艘貸渡⽅(防衛省防衛研究所))

 

図3. 第一回漕丸と推定される写真、明治10年頃(パブリックドメイン、wikipedia)

 

 

 第二回漕丸は明治13年3月に、第一回漕丸は同年5月に商船免状を内務省から得ていました。明治14年2月2日に風帆船会社から第一と第二の回漕丸の貸出が海軍省に申請され榎本海軍卿は契約書に修正箇所を指摘して貸し出しを許可しました。つまり、海軍省用船回漕丸なるものは存在していないのです。

 

* JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09114136700、往出544 ⽊⽯運搬等取扱の件第1回漕丸免状受取⽅の義に付内務省へ照会(防衛省防衛研究所)

 

 

・論文での引用―3

 

 

・誤り―『海軍省第一廻漕丸船にて本年8月』

 

 明治14年(1881年)11月に、島根県に提出された『那賀郡浅井村大屋兼助外一名松島開拓願』に境県令が明治10年に内務省地理寮からの回答内容について疑問を付け加えた伺書を内務卿と農商務卿に提出しました。その伺書の中に上のような一文がありました。浅井村は、明治の初め頃は石見地方の中心地でした。浅井村は現在の浜田市の浅井町です。主要な産業は水産業です。

 

 本年8月とは明治14年8月です。大屋兼助は浜田から大倉組の社員と共に「第一廻漕丸船」に乗り、松島まででかけたと書いてあります。〇△□丸「船」という言い方は変です。例えば、帆船日本丸という有名な練習船があります。「日本丸船」という言い方はしません。『一名松島開拓願』は本当に兼助が書いた文章なのか疑問です。その真偽は別として、この時期の第一回漕丸は風帆船会社に貸し出されていました。

 

 ここで注目する点は、山本が作成した資料も境が作成した資料も、回漕丸が廻漕丸として書かれている点です。この時期は、音があっていれば当て字で書く時代なので、回漕丸が廻漕丸となってもおかしくはありませんが、共通して同じ当て字をするという点に何故だろうかと疑問をもちます。

 

 以上のことから、この論文『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』が『明治十七年蔚陵島一件録』から引用した部分では、裏付けを取れば分かる間違いを山口県庁の役人が列挙していました。山本修身はただ聞き取ったことを書いたのか、それとも、山口県に都合の悪いことが多数でてきたので、責任回避のために報告書を創作したのか、さらにまた、山口県から政府への報告書が著しく遅れていることを県知事が責められたため、政府側に問題があるように創作したものなのか、不思議な報告書です。

木京睦人『明治十六年『鬱陵島一件』』山口県地方史研究(88)、2002.10

 

 

 書き残された資料は「自白証拠」のようなものですから、そのまま信じてはいけないはずです。引用する資料の信頼性を確認することはなかなか難しい作業ですが、証拠能力を科学技術で言うなら「確からしさ」を推定しておく必要があります。

 

 

 

 海軍省報告書は、以下の資料を本文全体で参照、引用しました。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062089000、記録材料・海軍省報告書第一(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062089200、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091300、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091500、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091700、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062091900、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062092100、記録材料・海軍省報告書(国立公文書館)」

 

 

論文での引用―4・・・万国公報と日本人

 

 再び、明治17年に山口県庁に提出された報告書、山本修身の『蔚陵島一件録』に戻ります。

 

 

・誤り―『万国公報の名前すら一般にほとんど知られていない時代にあって、内田がそうした主張で切り返したことは驚嘆に値する。そうした知識を内田が身につけたのは榎本武揚の影響ではないかと容易に推測される。

 

 論文『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』が山本修身の報告書『蔚陵島一件録』(明治17年)から引用した上記箇所では、鬱陵島を訪れた朝鮮の官吏が発見した日本人が国際法を語ったことから、論文の本中で『万国公報の名前すら一般にほとんど知られていない時代に』島で作業する人たちが国際法を口にしたことは、『榎本の影響ではないかと容易に推測される』と主張しています。

 

 これは榎本と日本に対する重大な誤解です。まず、榎本にとって万国公報(国際法)は常識の範疇ですが、榎本のことで特筆される法律は、海の外交法、一名、海律全書であり、特に戦時下の海上国際法規に関し、榎本は日本で比類なき第一人者だ、ということでした。ですから、万国公法(国際法)のことだから榎本だ、とはならないのです。江戸時代の日本国内で、万国公法がどれだけ普及し、また、利用されていたかを紹介します。

 

 幕末の海援隊の船と紀州の船の衝突事故、「いろは丸沈没事件」(1867)*1で、坂本龍馬は万国公法による解決を要求し、紀州藩は了解しました。また、岩崎彌太郎も同様に幕末に、長崎で勤務しているとき、鬱陵島を無人島だとそそのかされました。仲間を集め、土佐藩の領土であるという標札をもって鬱陵島に上陸しました。しかし、島の長と漢文でコミュニケーションをとると、この島は無人島ではなく朝鮮領であることが分かり、岩崎は、国際法にのっとり無人島を掌中に収めようとしたが、できなかったとがっかりしました。その後、なんと岩崎は、これではつまらないからと、止める人もいたのに、島の家屋に火をつけさせ、船上から燃える家の周りで騒然とする人々の様子を見て、気分爽快として、帰国しました*2

 

*1園尾裕『いろは丸事件・鞆 坂本龍馬』海事博物館研究年報、2010 (http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005603)

*2白柳秀湖『岩崎彌太郎傳』山本三生、昭和7年

 

 

 万国公報(国際法)は、江戸時代、中国で漢語に訳され、日本に輸入されると、藩校や郷校(藩が運営管理する在の武家子弟や庶民の子供向けの学校)や寺小屋、手習いのテキストや書の手本として用いられました。輸入が追い付かず、海賊版が多数出回りました。日本人にとって、国際法は榎本だけが知る所では無く、広く日本中で知られていました。西周は1868年に日本語の国際法(万国公報)を刊行しました。明治の学制では、大学でも小学校でも万国公報は教材として用いられました。

(尾佐竹猛『幕末外交物語』福永重勝、大正15年。尾佐竹猛『近世日本の国際観念の発達』東京共文社、昭和7年)

 

 

 榎本の評価が難しいのは、江戸時代に既に、日本人自身による列強の技術の模倣や再現が行われ、開国されると各藩はこぞって留学生を列強各国に送り込み、優秀な人材が豊富に育成されていたからです。榎本たちが窂にいる時すでに、日本のインフラ工事は始まっていましたし、列強からの設備導入が行われ産業が興されようとしていました。万国公法に詳しいぐらいでは、国内では抜きんでた人物とは言えません。

 

 そういう国づくりに役立つ人材豊富な世の中で、榎本が箱館戦争に敗戦後投獄されると、木戸孝允や大村益次郎らが榎本の死刑を主張しましたが、薩摩の重鎮であった黒田清隆は、国際法を熟知しているくらいで、榎本の助命嘆願に奔走したのではなく、榎本は、近代社会とはどんな社会かを熟知し、技術革新と社会との関係とを知り、さらには広範囲な科学技術の先端領域を知り、日本を産業立国にしようとし、海外から高く評価され、さらに世界の平和と国民の幸福を願っていた国際人である日本人であったからなのです。

 

 

・松島日記-下村輪八郎たちの松竹社

 

 

 大阪の深見信治ら4名の連名で明治12年7月に『海産起業願―竹島関係』を伊藤内務卿に提出しようとしていた時、瀬脇や下村はなにをしていたのでしょうか。

 

「杉原論文」

 

 

 下村輪八郎は、佐賀藩の庄屋の次男で、江戸の四大道場の一つ、伊庭道場で心形刀流の免許皆伝を受けました。明治11年に長崎からウラジヴォストークへ英国船で向かう途中、瀬脇貿易事務官と一緒になりました。その時、下村は瀬脇から松島開拓を勧められました。しかし、長崎とウラジヴォストークとを往復していれば、船上から鬱陵島が見えるはずですから、以前から鬱陵島が下村の目にも映っていたはずです。下村以外の日本人も同様です。この辺のいきさつには違和感があります。

 

 明治維新後の島根県から鬱陵島まで小舟で往復する人もいました。海産物を持ち帰れば済むのではとも言いますが、海産物の起業案では、海産物を持ち帰ろうとすると輸送中の海上で傷んでしまい島根県に辿り着いた時には売り物にならないので、鬱陵島に加工工場を設置したいという計画が含まれていました。これが、鬱陵島の開拓が必要な理由でした。

「杉原論文」

 

 瀬脇は、当初から木材しか考えていません。瀬脇は海産物の事情を知っていた可能性があります。船で持ち帰る時、腐らない産物である木材を切り出し、上海へ持って行き売りさばくという案を瀬脇は推進しようとしました。

 

 下村は松島、実際上の鬱陵島の開発に取り組むことにし、行動記録を『松島日記』としてまとめました。『松島日記』は西海新聞で明治12年9月24日から10月10日まで5回掲載されました。下村の松島開拓への取り組みはパブリックされていました。

 

「竹島は島根の宝 わが領土」、松澤幹治『(7)松島開拓願を出した下村輪八郎と『西海新聞』「松島日記」』を参照した。

https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/kenkyuukai_houkokusho/final_report4.data/f4-2-7.pdf

 

 

『松島日記』によれば、下村は英国船で長崎からウラジヴォストークへ向かう途中、松島の南側から松島を観察し、松島への開拓意欲がさらに高まりました。ウラジヴォストークに到着すると、瀬脇から佐倉の商人・斎藤七郎兵衛を紹介されました。下村は斎藤と連名で明治9年12月に「松島開拓願並建言」を瀬脇に提出しました。

 

 明治12年に、下村は兄と山口県民の吉田孝治を加え、米国船に依頼して松島へ向かい、6月11日に松島近海に到着すると、船に日章旗をかかげ、砲声を一発だし、島内の反応を待ちました。島には朝鮮人の仮住まいが見えました。その後、ボートで水夫長らと上陸しようとした時、海岸にいた朝鮮人3,4人が指さす方向へと行くと、小さな湾があり、そこで上陸を果たしました。島内の調査を続け、日本領土であることの確信を深め6月12日に「大日本松島」などと書かれた標柱、二本を建て、ウラジヴォストークへ向け出発し、6月14日にウラジヴォストークに到着しました。

 

 6月16日に「松島日記(草案)」を寺見事務官に提出しました。7月12日に寺見から下村は、松島開拓について、東京・外務省の榎本に謁見を乞い、委細を陳述するように言われました。寺見から榎本への伝言と手紙を預かりました。下村は7月13日にウラジヴォストークを発ち、14日に函館に着き、17日に函館を発って7月24日に長崎港へ帰りました。この間、下村は東京で榎本に謁見を乞いたか否かなどの足取りは分かりません。

 

 山本修身の報告書では、この時期は、『明治十一年中 先つ試に近松松二郎は汽船高尾丸に乗込み該島へ渡り一旦帰国之上 其伐木漁猟に従事せしは十二年中なりと云』でした。松島日記では明治12年6月には、伐木漁猟に従事する日本人とは遭遇しません。しかし、『山頂に煙。伐木ではなく「一種の工業」と推定。』、『いたるところに新旧の木材根株、無数。数年前より今に到るまで「盗伐」したものとみる。』という状況を見聞しています。

 

 明治12年から数年前ということは、明治5,6、7年頃です。この頃既に、松島で伐木が行われていたのだろうと下村は推定しました。田村清三郎『島根県竹島の新研究[復刻版]』(島根県総務部総務課、平成8年)によれば、鬱陵島へ開拓移民する、鬱陵島で事業を興したいといった日本人の願望は江戸時代からありました。その結果、明治15年時点の鬱陵島で盗伐するグループの状況については、様々な資料があり、様々な人々が鬱陵島を目指し、様々な人々が鬱陵島にいたことが分かりますが、また、同一人物が登場しても、異なるストーリーになっています。

 

 それら資料の整合性が検討を経て集大成されていないため、簡単には全体像を把握できないことが分かります。今後の研究の進展を待たざるを得ません。

 

 以上のことから、榎本がロシアへ赴任するときに鬱陵島を発見し、その島の存在を東京の周辺の人たちに教えたので、鬱陵島の盗伐が始まったという話はあり得ません。報告書で見かけたとする軍艦は修理中か、風帆船会社に貸し出されており、その使用は不可能でした。

 

 西日本では地域によって鬱陵島は詳しく知られており、大坂の起業家までも取り組んでいました。そこで、何故、山口県の役人である山本修身の創作のように思える「日本人等松島へ渡航の発端は先年 榎本公使がロシアへ渡航するときに松島を発見し それを語ったからだ」(意訳)という報告書が作成され提出されたのかが謎です。山本修身自身が長州人なので、松島のことを良く知っていてもおかしくありません。また、その報告書の信憑性の裏付けが取られなかったのかは何故なのかという二つ目の謎も生じます。

 

 

・結論

 

 

 論文『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』に引用された、山口県庁の行政文書、山本修身『蔚陵島一件録』で言及された軍艦を海軍省報告書の艦船航泊表と対照した結果、その総ての艦が稼働していなかったことが判明しました。また、艦船名の末尾に日本では使われない「号」がつけられた船がありました。

 

 江戸時代、幕末、明治初めから鬱陵島の呼称は西洋の地図の影響で混乱しましたが、榎本がロシアへ向かう途中、西洋の地図上の松島(ダジュレー島、実は鬱陵島)を発見したという主張は間違いでした。

 

 そして、すでに明治4年から開拓願が出され、また、島根県浜田周辺、隠岐の島から鬱陵島を往復する人々がいたことも分かっています。明治16年に鬱陵島から外務省派遣の船で帰国した人々の半数以上は山口県民でした。

 

 論文中での、海軍の艦船、つまり公艦を榎本の口利きで私用に用いたという指摘も正しいものではありません。その艦は海軍から風帆船会社に貸し出されていた船で、民間事業に用いられていました。

 

 さらに、論文中で万国公法は当時日本国内で知る者は少ないので、万国公法を語る者は榎本の指導があったはずだ、という論も的を射ていないことを指摘しました。日本国内では幕末、明治とすでに万国公法は国内で知られている状態(パブリックされている)であり、榎本は当時、海律全書について国内でただ一人、専門的に学んだ人物であることで著名でした。

 

 山口県庁の行政文書、山本修身『蔚陵島一件録』に書かれていることをそのまま事実であるとして論文を作成することができないことは明らかです。山本の『蔚陵島一件録』を論文に引用するなら、事前に引用箇所に含まれた個々の内容の信憑性、裏付けを取らなければなりません。

 

 今後、山本修身作成の『蔚陵島一件録』の検証作業が行われることを期待します。

 

 榎本武揚を鬱陵島侵奪の先駆者とする論には根拠が確認されず、事実無根であります。

以上

 


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