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「駿河藍染」物語~民芸の一断章③

2024.03.03 Sun

第3章 インパール作戦

 

「『駿河藍染』物語」①と②で、型絵染の人間国宝だった芹沢銈介(1895~1984)の作品作りを静岡市の染めの職人、秋山浩薫(1920~1989)が支えていた、という話を紹介した。もちろん東京・蒲田に大きな工房を持っていた芹沢の仕事の一部だが、手仕事の世界では、さまざまな工程で職人技が不可欠であることを物語っている。後年、「駿河藍染」を名乗った浩薫は、50年前、私が朝日新聞静岡支局の記者だったころに出会った人でもある。

 

◆芹沢銈介の「物偈」

 

先日、駿河藍染の2代目として浩薫の跡を継いだ息子の秋山淳介(72)から、工房にある古い型紙を整理していたら、芹沢の型紙が新たに見つかった、という連絡が入った。1978年に東京民藝協会が『民芸手帖』創刊20周年を記念して頒布した限定150部の色紙「物偈」12葉のすべての型紙だ。(写真左は、「物偈」にある「知らば見えじ 見えずバ知らじ」の型紙=秋山家提供、写真右は『芹沢銈介全集』第2巻に掲載されている「物偈」の色紙)

「物偈」は芹沢が師と仰いだ柳宗悦(1889~1961)が書いた短い言葉で、その多くは晩年にたどり着いた境地が著されている。偈は、仏教の経典などから引いた言葉だが、柳は物偈を「ものうた」と呼んでいた。芹沢は柳の物偈から12首を選び、『民芸手帖』の表紙にしようとしていたようで、『民芸手帖』の1979年1月号から12月号まで芹沢の物偈が掲載されている。そのときの様子を淳介は次のように語っている。

 

「芹沢先生から型紙と原画が送られてきて、それをもとに親父が染めました。手伝おうかと声をかけたのですが、親父は私に触らせませんでした。親父が敬愛した柳先生の言葉と芹沢先生の型ですから、自分しかできない大事な仕事だと思ったのでしょう」

 

芹沢が浩薫に頒布する「物偈」の仕事を任せたのは、浩薫の腕を見込むとともに、「内弟子」という気安さがあったからだろう。浩薫は戦前、静岡市内の紺屋で働いたのち、東京・蒲田の芹沢家に住み込みで修行した時期があった。芹沢には、岡村吉右衛門(1916~2002)や柚木沙弥郎(1922~2024)ら染色家を目指して弟子入りした「外弟子」がいるが、浩薫に対しては、そうした外弟子との師弟関係とは別に、身の回りの世話を含めた「内弟子」との関係があり、それが前回のまでの連載で紹介したように、芹沢銈介とたよ夫人の秋山親子に対する愛情につながっていた。(写真は、東京・蒲田の芹沢邸で芹沢たよ夫人と写る秋山浩薫、撮影年月日不明=秋山家提供)

 

紺屋の奉公から芹沢の内弟子に

 

あらためて浩薫の生涯を振り返ると、その人生はドラマチックであり壮絶でもある。1920年に静岡市に生まれた浩薫は1歳で母を、7歳で父をなくし、静岡県安倍郡梅ヶ島村(現、静岡市葵区梅ヶ島)の親類に預けられ、尋常小学校を卒業後の1932年、静岡市内の紺屋「紺徳」(現:パサージュ紺徳)に奉公に出された。年季奉公が明けたお礼奉公の途中で、芹沢のもとに飛び込む。そのときのいきさつを朝日新聞静岡版「しずおか再考・駿河染」(1975年1月17日)は、次のように記している。筆者は私だ。(写真は、上掲の朝日新聞静岡版の記事)

「紺屋の年季奉公をしているころ、生地問屋で芹沢氏のびょうぶを見た。『駿河八景を描いたものだった。とてもおもしろい絵だと思ったので、聞いたら染め物だといわれた。それまで、あまり紺屋の仕事は、好きじゃなかったけれど、紺屋にも、こんな仕事ができるのかと、それから親方の眼を盗んでは勉強した』という。その後、芹沢氏の名前や作品を知った秋山さんは、年季が明け、お礼奉公の途中、芹沢氏の家に飛び込んだ。昭和16年(1941)のこと。『もうあと少しで、店が持てる時でしたが、いてもたってもいられなかった。しきたりを考えるより、職人も芸術家になれる、なんて、信念のほうが強かった。店を張らずに、人生を貼ったわけです』という」

 

淳介によると、東京・蒲田の芹沢家を訪ねた浩薫は芹沢に弟子入りを求め断られるが、さんざん粘る浩薫に根負けしたたよ夫人が「話ぐらい聞いてあげたら」と、家にあげてくれたという。そこで、浩薫が静岡生まれで、早くに親をなくし紺屋で修行してきた経歴などを話し、さらに亡父が新聞店を営んでいたことを告げると、「秋山新聞店ならうちの近所で、君はあそこのせがれなのか」ということで、弟子入りを許されたという。

 

インパール作戦に従軍

 

芹沢家に住み込みながら一家の世話をする一方、芹沢の型染や柳の民芸論を学んでいた浩薫は1年もたたない1941年10月、召集されて静岡県三島市にあった三島中部十部隊に入隊した。2年後の1943年9月には、「野重三連隊」(陸軍第15師団野戦重砲兵1旅団第3連隊)の兵士としてビルマ(現ミャンマー)に向かい、無謀な作戦の代名詞となったインパール作戦(1944年3月~7月)に従軍する。戦闘に参加した日本兵約6万のうち、約半数が戦死した作戦でかろうじて生き延びた浩薫は、終戦をタイ・バンコクで迎え、捕虜としてカンボジア、ベトナムを経て1946年4月に復員する。(写真は、三島に入営していた当時の秋山浩薫=右端、秋山家提供)

浩薫は召集から40年後の1981年、ミニコミ誌に「ビルマの空」と題した従軍記を書き始め、亡くなる1989年まで書き続けた。半紙1枚くらいずつを日々書くことが戦死者への供養になると思ったと、書かれている。この連載は、友人たちの支援もあり、自費出版された。4分冊になった『ビルマの空』を読むと、インパール作戦の壮絶な様子とともに、「民芸の徒」であった浩薫の姿が伝わってくる。(写真は、秋山家に残された秋山浩薫の手書きの原稿)

「ウ号作戦」と呼ばれたインパール作戦の前に、浩薫ら兵士が受けた指示は、「一週間で攻め落とすので荷物は少なくし、食糧もできるだけ敵陣地から調達する」とのことだったという。長期戦になったらとか、撤退するときになったら、といったプランBを考えないのが日本軍の特質だ。恐ろしいことは、いまもこの種の突撃精神が企業でもスポーツでも脈々と流れていることだ。

 

浩薫の任務は重砲隊の通信兵で、軽武装の歩兵が戦う最前線の塹壕から重砲隊に爆撃地点を指示する観測所への有線を保全するのが主な役目だ。砲弾が飛び交うなか、あるいは砲弾が途切れる夜中に、断線した通信線を不眠不休で補修する。塹壕の外での作業だから危険度は高い。

 

戦況は日々悪化し、食糧も砲弾も尽き、マラリヤ、赤痢、栄養失調などの病気と英軍による砲弾と空爆によってインパールの占領はできなかったうえ、兵士は死傷者ばかりとなり、大本営は1944年7月1日、インパール作戦を中止する。前線の浩薫たちに撤収命令が下ったのは7月20日過ぎだ。浩薫はそのときの心情を『ビルマの空』で、次のように記している。

 

「豪雨と敵弾の中で栄養失調やら、マラリヤ、負傷、大腸カタルと、数多くの病む兵隊は山に命を落とし、何千とも知れぬ哀れな犠牲を出しながら撃つ弾もなく、やせさらばえた兵隊、それでもインパールをコヒマを撃つまではと頑張り、与えられた任務に、戦闘に、はげまし合いながら来たのに、万事窮す」

 

日本兵の死臭が漂う密林を抜け、多くの傷病兵を飲み込んだ「気ちがい川」を渡るうちにマラリヤに罹患していた浩薫も発熱し、前の兵士にかろうじてついていくだけになった。

 

「私は前の兵の足元に合わせて自分の足を押し出しながら、思わず口の中でウソの様だが一人でつぶやきはじめた。『民芸』、『柳先生』、『芹沢先生』、ミンゲイ、ヤナギセンセイ、セリザワセンセイと、そして柳先生の顔を、芹沢先生の顔を頭に浮かべて、前の兵の足に曳きづられながら登る程に木が深くなる。時々、ボンボンと爆発する音がする。敵ではないらしい。自決する兵隊がいるとのことだ」

 

「店を張らずに人生を貼った」という浩薫の「民芸」への執念が重い足を前に進ませたのだろう。

 

「道端に死体が次々とある。なんだか臭い。林の中は死臭で息苦しくなって来た。今、死にそうな者。はいづりのたうつ者。息絶えた者。顔がばかに黒いとよく見ると蠅が顔中にたかっている、追うことも出来ず道端に死んでいる。くさりかけている者。ボロボロの軍服から白い骨が出ている。もう白骨となってしまった者」

 

「白骨街道」と呼ばれたインパール作戦の敗走路の惨状。これが『ビルマの空』に描かれている。インパール作戦の記録はいくつも残されているようだが、作戦に参加した兵士の証言として、『ビルマの空』は貴重な記録だろう。(写真は、自費出版された『ビルマの空』=水鳥春男氏所蔵)

たとえば、前線の兵士には、いろいろなうわさが届いたようで、『ビルマの空』には、「牟田口司令官は自分が退却する時、死体の山を谷の中へほうり込ませて道をあけさせ、退却して行った」といううわさが記されている。

 

このうわさは史実ではないものの、無謀な作戦を指揮した牟田口廉也中将(1888~1966)が幾多の兵士の屍のうえに生き残り、戦後は「敗軍の将は兵を語らず」と敗北の総括もせず、1960年代になると作戦の正当性を主張するようになったのは史実だから、戦場に届いたうわさは、当たらずとも遠からずだったのかもしれない。

 

いまも「戦争の覚悟」などと、自分は戦場に赴かないのを百も承知で無駄口をたたいている人たちが永田町あたりには徘徊しているといううわさがある。牟田口精神は死なず、である。

 

◆「民芸の徒」だった兵士

 

1944年9月、ビルマの古都マンダレーまで退却した野重三連隊の浩薫らは、ここで2か月を過ごし、浩薫はマラリヤに苦しみながらも体力を回復させた。そうなると頭をよぎるのは「民芸」だったようで、寺院や民家、商店をのぞくたびに、素焼きの壺や鍋、織物などに興味を示し、「面白いもの」を見つけたと記している。名もなき職人が作った「雑器の美」を讃える民芸の鑑識眼にかなうものがたくさんあったのだろう。

 

1945年になって、英軍の進軍でマンダレーを押し出された部隊は、イラワジ河畔からメイクテーラに転戦、敗北を重ね敗走を続ける。そのさなか、浩薫は民家の軒先に立つ2本の木に糸の束が架けられているのを見て、原始的な布が織られていたことを知る。

 

「この家の女性が布を織って居たところへ、戦争が急に押し寄せて、敗走する日本兵の姿が現れたので大慌てで山奥へでも逃げてしまったのか。その織具を見ると珍しく面白いものだなーと見ても、味わいのある布だなと思っても、戦争に追われたこの家の人々は気の毒だなと、出発の命令で織りかけた布に残る想いをかけてそこを離れ、再び山歩きが始まった」

 

原始的な布を織る機具や布を見て、味わいを感じる。敗走する兵士は、どこまでも民芸の徒でもあった。

 

1945年7月、ビルマ戦線の日本軍は南部に追い込まれ、浩薫はマラリヤとアメーバ赤痢で体力を消耗したところで、軍医から「入院」を命じられ、牛車とともに野戦病院をめざして移動したところで意識がなくなり、気づいたところは、死体を運ぶ有蓋貨車のなかだった。生きていることがわかると別の貨車に乗せられ、ビルマ国境を越えてタイに入り、陸路でバンコクの病院に入った。そこからカンボジアのプノンペンに向かう途中で終戦を迎え、サイゴンで入院したのち、捕虜部隊に入り、復員したのは1946年4月だった。

 

『ビルマの空』の浩薫の年譜には「西貢(サイゴン)で退院させられ、連合軍捕虜部隊に入りベトコンの弾除けとなる」と書かれている。「連合軍捕虜部隊」とは、初めて聞く言葉だ。

 

インドシナ半島のフランス植民地が日本の降伏によって生まれた政治的な空白を真っ先に埋めたのがホー・チ・ミン指揮する共産主義勢力(ベトミン)であり、1945年9月にはベトナム帝国が廃されてベトナム共和国(北ベトナム)が独立する。これに対抗するように英軍や旧宗主国の仏軍が南ベトナムに進駐し、旧日本軍は武装解除しないままサイゴンなどの「治安維持」に当たった。これが連合軍捕虜部隊だった。

 

浩薫は体力の回復もできないうちに退院を強いられ、連合軍指揮下の旧日本軍に戻され、ベトミン勢力と対峙ささえられたのだろう。浩薫には、復員までにもうひとつの戦争に加わっていたことになる。

(冒頭の画像は、秋山浩薫著『ビルマの空』の中表紙に浩薫が描いたイラスト)

 

 


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