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「駿河藍染」物語~民芸の一断章⑤

2024.03.08 Fri

第6章 芹沢美術館の建設

 

1974年、静岡の染色工芸家、秋山浩薫(1920~1989)は、師である芹沢銈介(1895~1984)の美術館を静岡市につくろうという活動を始めた。その結果、1981年6月、静岡市立芹沢銈介美術館が芹沢自身のテープカットで開館した。めでたしめでたし、と言いたいところだが、浩薫にとっては、思わぬ反発、怨嗟、中傷が続き、苦しみの日々となった。浩薫らが美術館建設を進めるためにつくった「芹沢銈介顕彰会」が1980年8月にまとめた「経過報告書」をもとに、美術館建設の経緯を追ってみることにする。(写真は、静岡市立芹沢銈介美術館=静岡市のHP)

「報告書」の冒頭は「胎動期」あとあり、「静岡市高松の塩沢氏は昭和40年(1965)頃より、芹沢記念美術館創建の意欲を持って、その期の到来を待ちつつあった」と書かれている。塩沢氏とは、静岡の老舗の紺屋で芹沢と親しい関係にあった塩沢家の当主だった塩沢源吾のこと。この運動が始まったころは、静岡市染洗業協同組合の理事長でもあった。

 

「報告書」によると、1974年3月下旬、数名が芹沢館建設に向けての相談をして、活動を始めることにし、「できることなら美観に満ちた高松にあるマッケンジー邸の庭園内に記念館を建立することが望ましい」と語り合った。その後、秋山氏は、塩沢氏の指示を受け、「従来から同じ意見を持つ、伊藤氏、高成田氏、水鳥氏等と談合する」とある。伊藤氏とは、染洗業協組の副理事長だった伊藤昇司であり、その次に私の名前が出てくる。水鳥氏とは、工務店を営んでいた水鳥春男で現在は「芹沢銈介美術館友の会」の会長である。

 

今回の連載のため静岡の秋山工房を訪ねた折に、水鳥も同席していた。私が浩薫の長男で「駿河藍染」を継いだ秋山淳介(72)に「美術館建設のきっかけはなんでしたっけ」と尋ねたら、水鳥がすかさず、「あんたの名前が最初にでてくるじゃないか」と、「報告書」を私に見せた。「報告書」を読んだ記憶はなく、私の名前が出ていることに驚いた。

 

50年前の記憶はおぼろげなのだが、芹沢館に関して、ふたつだけ覚えていることがあった。それは、マッケンジー邸についての記事を書いたことと、当時の静岡市長だった荻野準平(1909~2001)の公用車に乗せられて、マッケンジー邸に行ったことだ。

 

あらためて私のスクラップ帳を見ると、1974年7月4日の朝日新聞静岡版に「生涯かけ主なき洋館を守る」という見出しで、マッケンジー邸を管理していた人の記事があった。この洋館ができたのは1940年で、茶の貿易商をしていたダンカン・マッケンジーの自宅だった。夫妻は戦時中、日本を離れたものの戦後、この家に戻り、ダンカンは1951年、エミリー夫人は1973年に亡くなった。マッケンジー邸は遺言で静岡市に寄贈されていた。(写真は、1974年7月4日の朝日新聞静岡版の記事)

この日付と「報告書」を照合すると、私が芹沢館建設の「談合」に加わったあとに掲載された記事だから、芹沢館にしたいという話がある、といったことが書かれていてもよいはずだが、一言も触れられていない。運動の正式な旗揚げまで待とうということで、その際に、こんないい場所があるという「前触れ」になると考えていたのかもしれない。

 

荻野市長の車に同乗した日付は全く覚えていない。「報告書」を見ると、マッケンジー邸の記事が出た2日後の7月6日、塩沢らが荻野市長を訪問して、芹沢記念館の創建を陳情したとあるので、その折に、マッケンジー邸の話も出たのではないか。「報告書」によると、市長は「市民一体となって芹沢先生の偉業を讃えるために、顕彰会のようなものをつくってはどうか」という提案をしている。この陳情については、「芹沢館建設で市民が陳情」という記事が翌日の各紙に出た。そんなこともあって、市長はマッケンジー邸を見る気になり、市長室の隣だった市政記者クラブから私を呼び出したのだろう。芹沢館の話もしたはずだが、車中での会話はまったく覚えていない。

 

美術館建設に反対ののろし

 

市長の提案を受けて7月末に、「芹沢銈介先生顕彰会発起人」が開かれ、顕彰会が動き出す。ところが、「報告書」を見ると、顕彰会が正式に発足する1974年12月の前後から、「芹沢館反対」の動きが出てくる。

 

・「七間町の白沢氏」から、県が博物館を建設し、そのなかに芹沢の作品も展示するから顕彰会の動きを中止してはどうかと、運動中止の要請が来る(1974年10月の顕彰会準備発起人会での情勢報告)。白沢氏とは、静岡市内にあった「維也納」(ういんな)という喫茶店の店主、白沢良で、芹沢銈介や柳宗悦がよく訪れていたという。

・稲森道三郎氏から原野谷会長に運動を中止するようにとの意向が申し入れられた(1974年11月の発起人総会での情勢報告)。稲森氏とは、随筆家で静岡の老舗のみそ醸造会社の経営者、原野谷会長とは顕彰会の会長に就いた原野谷泰治で元静岡銀行常務、県文化協会副会長だった。

・静岡市社会教育課の職員によると、静岡県民芸協会の理事から芹沢館建設に絶対反対するとの強い申し入れがあった(1974年12月の顕彰会発足での情勢報告)

・鳥羽敏夫副会長(当時、静岡県自動車工業高校校長)が小川・稲森両氏と面談して正しい理解と協力を得るよう求め、他日、稲森氏と会談するが協力は得られなかった。(1975年3月の理事会での状況報告)。小川は戦前から芹沢の友人だった版画家の小川竜彦(1910~1988)で、芹沢銈介美術館ができたときの初代館長となる。

 

「反対派」の意図は、今となっては不明だが、白沢が主張したように県立美術館建設の動きはあったようで、芹沢美術館ができれば、美術館の動きが停滞する恐れがあり、絵画を中心とする美術界からの不満があったのだろう。淳介の記憶によると、浩薫らが県内の美術界の大物に根回しに行ったところ、「芹沢は工芸じゃないか。美術館が必要なのか」と言われたという。県立美術館は1986年に開館している。

 

また、小川らの動きは、芹沢美術館をつくる旗振りなら、自分たちのように古くから芹沢を支えてきた文化人がするのが筋で、職人ごときが出る話ではない、といった芹沢人脈のなかでの文化人と職人との対立もあったと思われる。

 

1974年12月、正式に発足した顕彰会の原野谷会長らは、早速、芹沢宅を訪ね、顕彰会の趣旨を説明、「報告書」には、芹沢から「小さくとも充実した館にしたい」という心境を伺う、とある。

 

しかし、このときの芹沢の心境は、まったく異なるものであったことがひょんなことからわかった。2023年5月に、Yahoo!オークションに出品された「芹沢銈介書簡1通 白沢良宛 古文書」には、芹沢独特の判読しづらい癖字で、芹沢の顕彰会に加わった人たちへの悪口が書かれていたからだ。「秋山という不届き者が連れてきた」とか「鼻につく自己顕示」とか、顕彰会の動きが「不可思議な人物の策動」というのだ。顕彰会の代表らが挨拶に行く以前に、顕彰会の動きは「策動」だと芹沢に伝えられていたことがわかる。おそらく白沢らが伝えていたのだろう。このハガキの意図は、あなたがたが言うように顕彰会というのはとんでもない連中だったよ、ということだろう。「瞬間湯沸し器」といわれた芹沢の性格そのままが出ていて、貴重な「古文書」かもしれないが、出品者の無神経さには驚く。オークションには、芹沢が白沢に宛てた別のハガキも出品されていて、人間国宝も安らかに眠っているわけにはいかないのがネット時代だ。(写真は、オークションに出された芹沢銈介の白沢良宛書簡=オークションサイトのウェブから)

芹沢銈介は、挨拶に来た顕彰会の会長らを芹沢の名前を使って自己顕示をしている輩だとみなしたようだが、そうした讒言をした反対派にとっても、あるいは芹沢にとっても誤算だったのは、静岡市長が建設に積極的だったことで、美術館が現実のものになってきたことだ。市は1975年度予算案で、芹沢銈介美術館建設の予備費を計上する。

 

すると、小川、稲森、白沢らは、手のひらを返したように、芹沢美術館の賛成派となり、「美術館建設は賛成だが、顕彰会が悪い」ということで、顕彰会とは別の「新委員会」をつくり、浩薫らを排除した。1975年11月のことだ。

 

1975年度予算で調査費がつけば、1976年度予算で建設費が計上されるのが順当だが、500名以上の市民が会員になった顕彰会と、市と協議する窓口になった新委員会とが並立することになったこともあり、市長も動きづらくなったのか、美術館建設の動きは停滞する。

 

その後、不思議なことに芹沢と新委員会とのパイプ役は、小川や稲森ではなく、新委員会に残った顕彰会の鳥羽と塩沢がなったことだ。芹沢も塩沢や鳥羽らへの誤解が溶けたのか、「小さな美術館で結構で、自分が番人をするからスペインの寝台を買おうか」と話すなど、態度を軟化させ、自分の作品やコレクションを寄贈することを明言した。芹沢の頭には、マッケンジー邸があったのだろう。

 

芹沢の態度が軟化したのを受けて、1976年になって、荻野市長は建設推進を決意する。1976年7月、朝日新聞に「芹沢銈介美術館 登呂公園に建設 静岡市が計画」という記事が掲載される。私が書いた記事だ。荻野市長の談話として、次のように書かれている。

 

「もし氏(芹沢)が作品を寄贈するというのであれば、何としても美術館をつくらなければならない。その準備や完成後の管理は『顕彰会』などの民間の団体が最適なわけで、要請があれば、顕彰会の会長も引き受けるつもりだ」

 

顕彰会を財団法人などに改組して自分が会長になると明言したことになる。稲森らは、顕彰会を解散せよと息巻いていたが、そもそも顕彰会を作るというアイデアは荻野市長が出したものだったから、おいそれと引っ込めるわけにはいかなかったのだろう。荻野市長がマッケンジー邸ではなく、登呂公園の隣接地に新しい建物をつくることにしたのは、自分の業績として美術館をつくるなら、立派なものを作りたいという政治家としての願望もあったろうし、市立の登呂博物館などとの相乗効果を考えのだろう。

 

記事の本文を読むと、芹沢氏の「弟子」「知人」らの“勢力争い”もあって、美術館建設をめざした顕彰会はほとんど活動できなかったが、静岡市が推進の中心になることで建設の具体化が進み、「争いも解消しそうだ」と書かれている。記者(私)の意図としては、すったもんだしたけれど、やっぱり顕彰会が美術館建設の推進役だよ、ということを言いたかったのだろう。(写真は、1976年7月の芹沢美術館についての朝日新聞記事、日付は不明)

◆芹沢小品展の開催

 

この時期、芹沢は、パリで開く「芹沢銈介展」のことで頭がいっぱいだったはずだ。1976年11月から77年2月にかけての芹沢展は、芹沢の集大成ともいえる作品展で、開催が正式に決まった1975年から開催までのほぼ2年間は、静岡の美術館どころではなかったのだろう。芹沢が落ち着いて、美術館のことを考え始めたのは1977年になってからだろう。塩沢と鳥羽がパイプ役になっての芹沢と静岡市との調整も進み、市は1978年度予算に建設費を計上する。

 

芹沢の浩薫に対する勘気も収まったようで、1979年11月には、静岡市内のギャラリーで顕彰会が後援、東京民芸協会が主催する「芹沢銈介小品展」が開かれた。出品されたのは、「物偈」、「どんきほうて」、「極楽から来た」などの作品で、作品は東京民芸協会から秋山工房に送られてきた。完全主義者の芹沢は、この小品展についても指図したはずだから、顕彰会が後援することも浩薫が参画することも承認したことになる。展示も開会式も、原野谷会長、浩薫らが行い、顕彰会も浩薫も名誉回復を果たしたといえる。

 

美術館は静岡市が直接、管理することになり、顕彰会は、芹沢作品などのスライドと映写機を美術館に寄贈することを決め1980年に解散する。1981年に美術館が完成すると、顕彰会を引き継ぐ形で「静岡文化サークル」が発足、浩薫はその主要メンバーとして活動する。この文化サークルには、芹沢たえ夫人が三女のとしとともに参加している。芹沢銈介の話などを語ったのだろう。水鳥が会場から東京・蒲田の自宅まで車で送ったという。1994年に「文化サークル」が解散すると、1995年には「芹沢銈介美術館友の会」が発足、この会は今も存続している。(写真は、「静岡文化サークル」と「芹沢美術館友の会」の会報)

美術館建設の運動がはじまった1974年から美術館が1981年に完成するまでの7年間、浩薫にとっては、運動に横やりを入れられ、静岡の「文化人」などから個人的な中傷を受け続け、あげくに師の芹沢からは「破門」状態となるなど、さんざんな日々だったと推測する。私は1977年4月に静岡から東京に転勤したので、それ以降の動きは知らないが、それ以前も、「内紛」に立ち入って、浩薫の側を助ける記事は書いていない。

 

浩薫に同情する私としては、中立という記者の立場が取りづらいと思ったのだろうが、忙しかったこともある。1976年1月から半年間、100回におよぶ「茶」という連載記事を私が中心になって毎日、連載した。このシリーズでは、週1回のペースで、「茶飲みばなし」というコラムをつくり、その挿絵を浩薫に頼んだ。スクラップブックを見ると、型絵染による浩薫の挿絵は18回あった。どれも「茶」をめぐる風景を切り取ったすばらしいものだった。(下の写真は、朝日新聞静岡版の「茶飲みばなし」の記事と、秋山家提供の挿絵に浩薫が色をさした作品のスライド)

芹沢美術館に対する浩薫の貢献については、浩薫の死後に静岡県焼津市で開かれた「秋山浩薫追悼展」に寄せた四本貴資(1926~2007)の文章が正鵠を射ていると思うので、その部分を紹介する。四本は芹沢の弟子の染色家で、三女としの夫でもある。

 

「昭和42年(1967)芹沢銈介が静岡市の名誉市民になった頃からはじまった芹沢記念館建設への機運は、昭和49年(1974)頃から具体化し、多くの先輩や仲間の方々と共に秋山さんはその運動の中核として奔走する日が続き、彼の剛直ともいえる性格と先生の弟子だと言う気負いがあったためか、時にその行動を誤解されたり、中傷されたり大変な思いだったようで、長い電話を貰い、余りの情熱にいささかとまどうことも度々でした。芹沢先生への畏敬の念と、母親のように慕っていた芹沢夫人への思いが彼を駆り立てたのでしょう。この運動を盛り上げるのに秋山さんが果たした役割は大きかったと思います。昭和56年(1981)芹沢銈介美術館の開館によって今までの苦労は一気にむくわれこの上もない喜びだったことでしょう。開館以来、展示替えの度に数人のサークルの方々と美術館に来てくれ、展示を見て喜び、感激し、展示担当としてはいつも励まされる思いがして張り合いがありました」

 

秋山家のアルバムに、芹沢銈介の3人の娘に囲まれる秋山浩薫の写真が残っている。20歳で芹沢家に住み込んだ浩薫は、芹沢の子どもたちにとっては、なつかしい人であったに違いない。(写真は、芹沢銈介美術館開館5周年記念行事での秋山浩薫と芹沢銈介の娘3人。左から長女・規恵、次女・和喜、秋山浩薫、三女・とし)

◆芹沢美術館余談

 

1981年に開館した芹沢美術館に関連して、余談をふたつ加えておきたい。

 

ひとつは、初代の館長になった小川竜彦である。美術館建設の運動が始まった当初、猛然と反対していた人物で、途中から、賛成に回り、初代の館長になった。その経緯を見れば、美術館に反対と言うよりも、芹沢の古くからの友人であり、版画家でもある自分たちを差し置いて、浩薫ごとき職人が旗を振る運動には賛成できない、という考えだったのだろう。

 

芹沢も小川らの声に同意し、「秋山という不届き者」という考えになったのだと思う。実際、小川は戦前からの芹沢の友人であり、柳宗悦とも交流する「文化人」であり、「職人」とは違うという意識があったと思われる。芹沢との距離の近さ、芸術家と職人の違い、年齢差などを考えれば、小川の行動もわからないではない。

 

顕彰会の動きが円滑に進まなかったのは、浩薫が師である芹沢との距離感を見誤り、自分こそ芹沢の最大の理解者であり、協力者であり、崇拝者であると思い込んだことだろう。その結果、小川や稲森、白沢のような芹沢の古くからの友人で、地元の「文化人」でもあった人たちへの根回しを十分しないままに、運動を進めたことがひとつの原因だろう。

 

私は小川に会った記憶もないので、どんな人物だったのか、わからなかったが、『芹沢銈介全集』第9巻の「解説」を読んで、とんでもない人だということはわかった。第9巻は、「益子日帰り」などの芹沢の紀行絵を集めた巻なのだが、小川は、本文に収録された芹沢の作品について、一言も「解説」していないのだ。

 

かつて大原美術館で開催された芹沢コレクション(芹沢の蒐集品)のなかに展示されていた李朝の陶磁は自分が芹沢に贈ったものだという逸話からはじまり、自分が国画会で入選した話、8行にわたって自分の詩を引用して式場隆三郎(1898~1965)にけなされたが、バーナード・リーチ(1887~1979)が自分の画帳に絵を描いてくれたので救われた話など、まさに「自己顕示」のオンパレードである。最後に、芹沢から電話があり、芹沢美術館をやってほしいと頼まれ、再三辞退したが、荻野市長からも強い要請があり引き受けることになった、と書かれている。

 

芹沢氏の存命中に書かれたものだから、館長就任をめぐる「人事解説」に大きな間違いはないのだろう。しかし、巻末の解説でその本の中身を解説せずに自分の「大物」ぶりだけを見せるような人物である。芹沢にとっては、昔のよしみ、ということで、館長を託したのだろうが、解説を読めば、推して知るべし、である。館長としての業績は知らないが、1年ほどで辞めたと聞く。

 

もうひとつの余談は、マッケンジー邸である。スクラップブックをめくっていたら、1977年3月に「取り壊しか保存か 静岡名誉市民マッケンジー邸」という記事を静岡版に書いている。私が書いたその記事によると、静岡市は乳児園を新築するためにマッケンジー邸を取り壊す計画であることが明らかになった、とある。(写真は、1977年3月9日の朝日新聞静岡版のマッケンジー邸についての記事)

こんな記事も書いていたのだと、記事を読みながら、マッケンジー邸は当然、壊されたものだと思ったが、ネットで調べたら、なんと、静岡市が所有する国登録有形文化財として、あの洋館が存続していた。まさか新聞記事のせいではないだろうが、文化財として残すべきだということになったのだろう。静岡市のによると、2023年4月から2025年3月までは、大規模改修のため閉館とあるから、今後も解体されずに維持されるのだろう。

 

芹沢美術館のゆくえ

 

開館から43年になる芹沢美術館は、財政的には市のお荷物になっていると思う。年間の入場者数は1984年度の8万がピークで、2021年度は2万まで減っている。1日当たりの平均入場者も1984年度が294人だったのが、2003年度以降は100人を割り込んでいる。隣接する登呂博物館の2022年度の入場者数16万、静岡駅に隣接するビルにある静岡市立美術館が年間20万人前後の入場者を集めているのに比べて大きく水をあけられている。

 

東京・駒場の日本民芸館の2021年度の入館者数が3.2万だから、「民芸」の集客力は、それほど多くないのだろう。そう考えると、芹沢が美術館建設の動きが出てきたときに、「小さい記念館でよい」と言っていたのは、謙遜ばかりではなかったかもしれないし、浩薫がマッケンジー邸に目を付けたのは卓見だったかもしれない。3100平米の敷地に建つマッケンジー邸の床面積は555平米、芹沢美術館の床面積は1200平米になっている。駿河湾を望むレトロな洋館に芹沢の型染絵が展示されていたら、どうだっただろうか、などと夢想してしまう。(写真は、静岡市所有のマッケンジー邸=静岡市のHP)


(文中敬称略。冒頭の画像は秋山淳介氏の型染絵)

 

 


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