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榎本武揚と国利民福 最終回-中編 −グレートゲームの終焉と榎本武揚の願い−

2024.03.11 Mon

図1. 諏訪山 吉祥寺の榎本武揚の墓
(2008年11月22日没後百回忌にて撮影)

 

 

榎本武揚と国利民福 最終回-中編

−グレートゲームの終焉と榎本武揚の願い−

 

・榎本武揚、臣民−国民第二号*のために意地を貫く

 

 

*参照『榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−国内向け』榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−国内向け | 情報屋台 (johoyatai.com)

 

 

【榎本武揚、最初で最後の自己主張】

 

 

 明治18年8月12日付け『渡良瀬川の鮎斃死* 足尾の鉱毒の為か』という朝野新聞の記事が、足尾鉱毒事件を世間に伝える第一報でした。

*へいし、倒れ死ぬこと。のたれじに。(精選版 日本国語大辞典、コトバンク)

 

 渡良瀬川の『下流域における漁獲量激減、作物の生育不良が目立ち始め、1890年(明治23年)8月の大洪水では有害重金属を含む鉱泥が渡良瀬川に大量に流れ込み、栃木、群馬の田畑約1万haが鉱毒水につかり、農作物は全滅』*1する事態が起きました。

 後に紹介する横井時敬が自主的に被害地で試料を収集し、分析した結果、災害は足尾銅山の製銅が起因していることを突き止め、問題提起しました。農民代表は公平無私の人と評される帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)の古在由直(こざい・よしなお、1864~1934)に土壌と水の分析を依頼し、また、政府及び県からも古在に調査依頼をしました。

 陸奥*²農商務大臣(明治23.5-明治25.3)は足尾銅山の経営者、古河市兵衛とは深い関係があり、明治24年末の田中正造の足尾鉱毒問題に関する国会での追求に対し、足尾銅山の操業を守ろうとしました。古在は被害の原因を足尾銅山の銅の化合物であることを特定し、その報告書(古在、長岡宗好の連名)が明治25年2月の官報で公表されました。

 2月10日、和田鉱山局長は足尾鉱毒問題に関し、東京日日新聞の紙上で次のように意見を述べました。「農商務省は足尾銅山の鉱物により耕地に害が有るとの風説に対し、明治23年12月以来対応を開始し、農商務省がするべきことは怠らずに既に実施してきた。現在起きている問題は、公益、公安、公利を害することが無く、被害地の損害にたいする損害賠償の問題では、足尾銅山から生まれる公利は被害地の損害より遙かに大きく、十分に損害賠償できる。鉱業停止や損害賠償を命令することは行政官庁の職権を越えている。以上のことから、農商務省は職務怠慢または冷淡の処置と認めるべき理由は無い。(筆者要約)」

 陸奥農商務大臣は3月14日に辞職しました。

 古河側は、明治26年に「粉鉱採集器」の設置により鉱毒を予防できるとして明治29年6月までを試験期間とすることで、被害農民らと示談を進めました。足尾銅山は、試験期間中はなにごともなく平穏無事に試験期間の満了を迎えましたが、翌7、9月に渡良瀬川沿岸で未曽有の大洪水が生じ、渡良瀬川を越えた広い地域で甚大な被害が生じました。農商務省は12月に省内に調査委員会を設置し、初めて鉱毒予防工事命令をだしました。一方、農民の鉱毒反対運動は以前と比べものにならないくらい激化しました。

 明治29年秋頃に榎本は辞職しようとしていたという話もありますが、第十帝国議会が明治30年3月24日に終了するのを待って政界引退をすることにしていました。足尾鉱毒問題が明治23年以来、数年ぶりに、しかもさらに被害地域を拡大させて再登場することは、榎本の想定外の出来事、青天の霹靂ともいえる事件でした。榎本には何の準備もありませんでした。

 榎本は典型的な「江戸っ子」気質で情にもろく、淡泊で、おまけにかなりの負けず嫌いでした。大村益次郎からは真っ正直な奴と言われていました。しかし、箱館戦争で敗戦後、投獄されると、獄中で黒田清隆と密約でもしたのか、牢を出て政府に出仕した後は、上司に意見をしますが、上司からの指示には従順に従って過ごしました。榎本は農商務大臣として予定していた企画、政策を全部かたづけ、政界から引退しようとしていた矢先、予定外というだけでなく、想定外の事態が起きました。足尾鉱毒問題の再燃です。しかも、前回より遙かに甚大な鉱毒被害が生じていました。日本初の公害事件でしたが、その時、政府は未だ民事事件として扱っていました。君恩に報いるため、民をより富ませなければならない、幸福にしなければならない旧徳川幕臣の代表、榎本は苦悩しました。

出典
・熊沢喜久雄『古在由直博士と足尾銅山鉱毒事件』肥料科学、第3号、1980、pp.57-91
*¹妹尾啓史『足尾鉱毒問題と古在由直』東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻/応用生命工学専攻、https://www.bt.a.u-tokyo.ac.jp/senjin/vol2/
・長岡宗好、ながおか・むねよ、1866-1907、福島県平町出身。江戸小石川大塚の平藩邸で生まれ、平町で育つ。農林学校卒、同校助教授を経て東京帝国農科大学、教授。(山本悠三『足尾鉱毒事件と農学者の群像』〔東京家政大学研究紀要〕第 56 集(1),2016,pp.41-49〕)

*²陸奥は外務大臣(明治25.8-明治29.5)に就任し、青木周蔵や榎本のお膳立ての元(井上清『条約改正』岩波新書、1955)、日清開戦直前(7月25日)の1894年7月16日に日英通商航海条約の不平等条約の一部改正*³に成功し、川上操六*⁴らと対清開戦へ誘導した一人でした。外務省における「情報非公開­=秘密保持」を重視、強化し、「民意」を排除した外交で成功した*⁵ため、その弊害について検討されないまま、小村寿太郎に引き継がれ、軍部はそのメリットを最大限に利用するようになりました。
*³条約改正に関する引用 『陸奥宗光:中高生のための 幕末・明治の日本の歴史事典』https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_25.html

*⁴かわかみ・そうろく、1848-1899、旧薩摩藩士、参謀総長、陸軍大将。日清開戦前に、陸奥と共謀し、内閣で曖昧な説明をし、朝鮮半島に事前に軍を増派した。

*⁵吉村道男『初期議会における外交文書公開要求とその周辺−情報非公開主義の源流−』栃木史学(14)、平12、pp.134-137

 

 榎本は、明治30年(1897)3月23日、足尾鉱毒被害地の現地視察を終えると、24日に内閣に調査会設置を決め、調査員を任命し、翌25日、第一回調査会が開催されました。3月27日に勝海舟は榎本農商務大臣の足尾鉱毒の被害地視察を陸奥と古河市兵衛との関わりとを対比して批判し、辞職を促しました。

以下、勝の発言です。

『榎本が巡視して姑息*1の慰藉*²をしたといふが、陸奥*³などが、金を貰ったいふのと、五十歩百歩の論ぢやあないか。前政府の非を改むるのは、現政府の役目だ。非を飾る*4といふことは宜しくない。』江藤淳・松浦玲編『海舟語録』講談社学術文庫、2004p.69

*1こそく。一時しのぎ、その場限り。(精選版 日本国語大辞典)
*²いしゃ。苦しみなどを慰め助けること。なぐさめいたわること。なぐさめ。(精選版 日本国語大辞典)
陸奥宗光(1844.8-1897.8)は、農商務大臣時代に田中正造が提出した古河市兵衛の足尾鉱毒問題に関する国会質問書へ、陸奥はあまりにも古河市兵衛に肩入れした態度で回答した。
*4飾非。悪事・欠点などをもっともらしくつくろいかざる。(新漢語林)

 

 しかし、榎本が3月23日に足尾鉱毒事件の現地を視察し、農民たちとも話しをしたことが、『姑息の慰藉』ではないことを、東京農業大学を創立し、初代学長となった横井時敬*¹が証言し、伝えてています。

 

『田中翁遺蹟保存会編集部編『義人全集』第四編(鉱毒事件下巻)所収

横井時敬の「序」(全文、同書一~六頁)*²

 

 余が足尾銅山鉱毒問題に関係したのは明治廿四年頃、当時余が産業時論*³といふ雑誌を主宰して居つた時であつて、之を農村問題、社会政策等の見地から取扱ったのが始めであつて、当時鉱毒被害地不毛の原因が鉱毒に原因することを地方民も官吏も一般に良く認識されなかつた頃である。

・・・

 当時の農相榎本武揚子は輿論の勃発、及田中翁等の熱心なる運動の結果と、親友津田仙翁(6)の勧告とに依て始めて鉱毒問題の閑却[かんきゃく、うちすてておくこと]すべからざる事を知り、且つ自ら被害地を視察検分して、其惨状の意外なるに驚き、又省内に於る関係書類を検査し、その下僚の古河銅山主に致され居る不都合を看破して激怒し、茲[ここ]に一大英断を以て最後の断案を下すべく、官吏、学者、専門家を網羅せる鉱毒調査会 (7) を組織し、鉱毒問題解決に最後の鍵を与ふるに至つたのであつて、・・・。 

         昭和2年3月[1927.3]

横井時敬

(6)津田仙(1837-1904) 在野の農学者。学農社を創設し、短期間だが学農社学校を経営、また長きにわたって『農業雑誌』を刊行した。[津田梅子の父親]

(7) 社会政策学会*の例会で横井が設置を提案、横井のほか、柳田國男らが委員に就任した。また、横井は住友別子銅山煙害事件にもかかわり、・・・

 

 *明治29年4月創立。(社会政策学会「史料館」『社会政策学会最初の記事』 社会政策学会https://jasps.org/history-3.html )

 

 

 東京農業大学の『榎本武揚は産みの親、横井は育ての親』*⁴とも言われます。明治24年に榎本は、徳川育英会育英黌農業科を創立し、黌主になり、後に私立東京農学校へ改称しました。その後、経営難に陥り、明治28年(1895)に横井時敬が学校経営に参加し、横井の努力のもと明治44年(1911)に私立東京農業大学として出発することになり、横井が初代学長に就任しました。横井は次のように指導しました。

 

『「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」など、実学を重視する多数の言葉は今なお東京農大の教育の根底に息づいています。』*⁵

 

 横井の教育思想は、現地(現場)、現物、現実から課題解決(Solution の追求)を目指す、三現主義の元祖です。科学的成果と価値観を結びつけ、その答え(solution)を設計図に表して実現する工学者、エンジニアの榎本とは、まさに意気投合したはずです。

 

 

図2.明治30年3月24日任命の足尾銅山鉱毒事件調査委員

 

 

 現場で農民の姿や生活(自然)環境の激変を見た旧徳川幕臣の榎本は、立ち上がらないわけがありません。榎本は、鉱毒被害地の視察から戻ると、大隈重信の邸宅を訪れ、報告とともに、夜遅くまで、対応策である、調査会の設置と委員選出を議論しました。田中正造は大隈率いる立憲改進党の党員だったことから、榎本は夜討ちして大隈邸に乗り込んだのかも知れません。翌朝も内閣で、大隈の机を叩いて議論する榎本の姿を見たという人もいました。

 出牢後、上司に意見するも、指示には従順で通してきた榎本の姿とは180度違いました。最後の最後に来て、榎本は、関東の人民(百姓)のために立ち上がりました。

 薩長閥の政府では榎本は非主流派で、単独でなにも決められない立場でした。しかし、今回、足尾鉱毒問題に対してははっきり自身の意見を大隈ら主流派に対し内閣に調査会を設置することを主張し、利害がからむ調査委員の人選においても、まともな方針がでるように榎本の信ずる人材を投入しようとして、対立が生じたと想像されます。

 明治24年1月に国会が焼失し、電灯線の漏電が原因と考えられ、宮中での電灯の使用が停止されました。榎本電気学会会長は、電気工学分野において我が国が世界に誇る、志田林三郎博士(1856.2-1892.1、佐賀県小城郡生)に電気技術基準(「電燈線敷設法」)を研究させました。明治25年6月に国内初の電気技術基準は完成し、国会や宮中での電灯の使用が再開されました。科学・技術が災害を起こさずに国民の幸福や利益を生むためには、設計行為(研究成果の実用)に対し、国家が価値観を法文化し、技術を規制する必要を榎本は示しました。このような榎本だからこそ、ついに政府の主流派に対し、強硬に意見をぶつけ、足尾鉱毒事件を「公害」であるという判断のもと、人民のために規制しなければならないという方針を貫き通しました。

 古河市兵衛を推す政府内グループとのせめぎ合いを繰り返しながら、調査会は作業を進めていきました。古河市兵衛の銅山の操業継続工作は、外貨獲得の継続と利益の軍事費への充当を強力に推し進めようとした主流派により行われました。非主流派の榎本が、薩長閥政府内において、内閣に対し自身の辞職を引き換えに、初めて政策に対し自己主張し、政府要人らに足尾鉱毒問題を「民事事件」から「公害」(事件)という認識へ変えさせました。榎本が農商務大臣を最後に政界から引退する決意もっていたからこそできたのでしょう。

 かくして、勝が、榎本が現地で流す涙(姑息の慰藉)と陸奥が金で買収されたことが大して変わらないと主張したことは、勝が早々に榎本を辞職させるための環境作りだったことが分かります。勝は、西の人間が関東で起こした事件に対し、江戸っ子代表のような榎本を矢面に立たせるわけにはいかないと判断したと思われます。

よこい・ときよし、生没年:1860.1-1927.11
 農学者。肥後国(熊本県)出身。熊本洋学校卒業後,1880年東京駒場農学校卒業。82年福岡県農学校教諭となり,このとき塩水選種法を創案。89年M.フェスカの推薦により農商務省に迎えられたが,翌年辞任。90年農学会幹事長(のち会長)となり“興農論策”策定の中核的役割を果たす。94年東京帝国大学農科大学教授となり,1922年まで農学および農政経済学を講ずる。1906年から死去まで大日本農会の副会頭,理事長を務め,この間全国数百ヵ町村を遊説し,直接農民に農業の振興を訴え続けたことは特筆される。東京農業大学学長,農業教育研究会会長,帝国耕地協会会長その他多くの農政関係の団体・機関に参画し,農業界諸分野に重きをなした。初期の著書は《稲作改良法》《栽培汎論》など技術分野のものであるが,その後の著書は《農業経済学》《合関率》《農村改良論》《小農に関する研究》など農政・経済分野のものとなる。《横井博士全集》がある。

執筆者:安田 健 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版

2019年11月21日開催の東京農業大学横井記念講堂での、榎本・横井研究部会員、横井時樺先生講演時の配布資料。
「産業時論社」は小石川區指ヶ谷町二番地にあった。

『明治23年(1890)11月における『産業時論』の創刊がその第一歩である。『産業時論』は、わが国最初期の農政経済雑誌であり、横井は主幹として健筆を揮った。中でも、足尾鉱毒問題が顕在化して間もない時期に、この事件を社会に告発したことは注目されよう。

 ちなみに、横井はその後も足尾銅山鉱毒事件や別子銅山煙害事件にかかわり、横井逝去の時には、渡良瀬川沿岸被害民の代表が巨大な弔旗をもって葬儀に参列した。この弔旗は、本学図書館大学史料室が所蔵し、現在そのレプリカが1階に展示されている。『産業時論』を横井が個人で継続することは困難で、間もなくこの雑誌は廃刊となった。そこで、翌明治25年(1892)1月に博文館から『日本農業新誌』を創刊し、横井は主筆を務めた。』

出典 友田清彦『東京農大初代学長 生誕150年 横井時敬の足跡 日本における近代農学の開拓者』東京農業大学、2010、https://www.nodai.ac.jp/research/teacher-column/0260/

*⁴松田藤四郎『東京農大の産みの親: 近代日本の万能人  榎本武揚』藤原書店、2008、p.172

*⁵『東京農業大学のあゆみ | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)』https://www.nodai.ac.jp/about/history-3/

参考

1.足尾鉱毒事件と政府--幻の鉱業法と第1次鉱毒調査委員会を中心に / 小西//徳応/p49~77

『明治大学社会科学研究所紀要 = Memoirs of the Institute of Social Sciences, Meiji University』28(2)(32),明治大学社会科学研究所,1990-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2808945 (参照 2024-03-09)

2.山本悠三『足尾鉱毒事件と農学者の群像』東京家政大学研究紀要〕第 56 集(1),2016,pp.41-49

3.『足尾銅山鉱毒事件資料』国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/fonds/2321538

4.埜上 衛「横井小楠の実学思想」『実学史研究 Ⅴ』思想文閣出版、1988、p.154
『ここにある「実学」は「真実の学」を意味し、具体的には「実意」「実践」の倫理性、「実証」の客観性、「実用」の社会性、そしてこれらに伴う民衆尊重を併せ思考するもの』

 

【場外乱闘=勝海舟vs. 福澤諭吉】

 

 

 勝と福澤は足尾鉱毒問題の関係者でも無いのに論戦していました。言わば場外乱闘です。啓蒙家である福澤諭吉は、足尾銅山の操業止めずに足尾鉱毒問題を科学や技術をもって検討し、解決するべきだ、これが文明国のやり方、未開の徳川時代には解決できないことなのだと主張しました。

 さらに、石河幹明*¹「足尾鉱毒問題」『福澤諭吉 四』岩波に収録された大石正巳*²の発言によれば、大隈重信は3月29日の榎本農商務大臣の辞職後、農商務大臣に就任し、4月10日に金子堅太郎次官が辞任した後、大石正巳が農商務次官に就任しましたが、自身が農商務次官に就任以降、足尾鉱毒問題が起き、その時、調査会が世論に流されないように福澤が『現代の文明知識によって出来得る限りの手段を尽くして、此鉱毒を防止し又は消滅せしむる予防工事を施して、此鉱山業はどしどし継続せしむべきであると、大体かういう風な意見・・・それぞれの各方面の専門家を招集して其方法を研究せしめ・・・』といった言論を張り、『調査会は福澤の主張に助けられた』と伝えました。(出典 商兆琦『鉱毒問題と明治知識人』東京大学出版会、2020、pp.91-130)

石河幹明(いしかわ・みきあき)の記述による。1859-1943、常陸(茨城県)生。明治-昭和時代前期のジャーナリスト。「時事新報」の記者となり,のち編集長として活躍。大正12年からは福澤諭吉の著作の編集に尽力した。編著に「福澤諭吉伝」など。 (コトバンクから抜粋・引用)
おおいし・まさみ、1855―1935。明治・大正期の政党政治家。土佐藩出身。1874年立志社に入って自由民権運動に参加し,81年馬場辰猪,末広重恭らと国友会を組織。同年の自由党の結成に際して幹事となり,のち《自由新聞》社主をつとめたが,党首板垣退助の洋行に反対し,83年脱党。・・・ 進歩党の結成,松方・大隈内閣の成立などを画策し,98年憲政党による大隈内閣に農商務相として入閣。憲政本党,次いで立憲国民党の幹部として活動したが,1913年桂太郎の立憲同志会結成に参加し,15年政界を引退。自由・進歩両党間に介在した策士的政治家であった。執筆者:大日方 純夫(出典 コトバンク)

 

 

 福澤の「実学」を慶應義塾大学のホームページでは『福澤がいう実学はすぐに役立つ学問ではなく、「科学(サイヤンス)」を指します。実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢が義塾伝統の「実学の精神」です。』*¹と紹介していますから、当時、福澤の考えに従えば、科学はすぐに役立たつ学問ではないので、足尾鉱毒問題はすぐには解決策が見いだされず、被害者たちは鉱毒により苦しめられ続けられることになります。

 実際に、『足尾銅山の製錬排ガスには、多量の砒素(亜ヒ酸)が含まれていたために、その除去・精製は、困難を極めた。』*²ため、明治30年当時の鉱毒対策には有効な手段は無く、足尾銅山の煙害問題が解決されたのは昭和31年になっての事でした。

 勝は、文明化したから、江戸時代と違って大量の銅を必要とするようになり、公害が生じているのだと、福澤の文明論に対し、反論しました。勝は、福澤は文明と科学と技術、産業との関係が分かっていないとまでは言わなかったものの、そう理解していました。勝は福澤と違って、いろいろ揶揄されますが、長崎海軍伝習所の学生の間では主のような存在でした。勝は工学を学んだ経験がありました。福澤は対清開戦派で勝は非戦派でした。福澤は日露戦争でロシアへ復讐しようとする側に与し、外貨獲得をする優良児、足尾銅山の経営を公害対策から守ろうと、論陣を張っていました。

『慶應義塾について▶理念』 https://www.keio.ac.jp/ja/about/philosophy/
猪俣一郎『足尾銅山に於ける鉱煙処理の推移と各種同精錬法全排ガスからの染色硫酸製造』猪俣二平、昭41、p.ⅲ (早稲田大学 応用化学 平沢泉教授提供)

 

 

・何故、福澤諭吉は痩せ我慢の説を書き、公開したのか?

 

 

 明治28年の三国干渉で、日本国内は臥薪嘗胆を合い言葉にロシアへの復讐戦の準備を始めました。明治32年1月に勝海舟は75歳で薨去し、明治33年3月に義和団の事件が起きると6月に北清事変が起きました。この年8月、黒田清隆が59歳で薨去しました。福澤諭吉は明治24年に脱稿した『痩せ我慢の説』を翌34年1月1日に時事新報で公表すると、1月末に脳梗塞を起こし、2月に他界しました。66歳でした。

『痩せ我慢の説』には、二つの偶然があります。一つは、『痩せ我慢の説』を脱稿し、木村芥舟*¹らに回覧した年は日清戦争の3年前の明治24年、もう一つは、時事新報に掲載した年は日露戦争の3年前の明治34年でした。福澤が開戦時期を知っていたのか、入手した情報から察知していたのかは分かりませんが、不思議な一致です。福澤が他界する前月に『痩せ我慢の説』を時事新報の誌上で公開したので、『痩せ我慢の説』は福澤の遺書のような存在になりました。

*・きむら・かいしゅう、1830-1901、幕末の幕府軍艦奉行。名は喜毅(よしたけ)。遣米使節の咸臨丸(かんりんまる)の司令官として太平洋を横断。帰国後、海軍の建設に努める。・・・明治1(1868)年2月海軍所頭取,同年3月勘定奉行となり,江戸開城の善後処理に当たる。新政府に出仕を勧められたが応ぜず,6月辞表提出。7月隠居して芥舟と号した。以来、野にあって詩文に親しみ,同25年,幕末の政治,外交を内容とする『三十年史』を世に送る。勝海舟とは対立し、福澤とは深い交流があった。(コトバンクから抜粋)
・くりもと・じょうん、1822-1897、旧幕府の外交官、江戸生。明治維新後は新聞記者。本性は喜多村、通称は瀬兵衛。(コトバンク)

 

 

『痩せ我慢の説』はネット上*¹で読むことが出来ます。この説の中身は、文明開化の旗手、福澤が書いたにしては、三河武士の伝統や紀元前二世紀の中国の故事などを論拠に議論され、福澤の文明開化思想に対し矛盾に満ちた論述です。佐伯真一『戦場の精神 武士道という幻影(NHKブックス998、2004)*²の研究により、サムライは嘘つきで、サムライには数多くのだまし討ちの歴史があり、謀略と虚偽を肯定し、目的(使命達成)のためには手段を選ばないことが明らかであり、広く巷で語られる美談としての武士道は無いのです。そこで、『痩せ我慢の説』とは、現実を知らない福澤が自身の主張を説得力ある内容にするため、福澤の頭の中で都合良く作られた歴史物語であり、その説の中身に正面から逐一向き合って考え始めたら、福澤が主張したいことや福澤の執筆動機を理解することは出来ません。

青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46826_24771.html
石浜哲士氏の指摘による。

 

 

 福澤がこの書を脱稿した頃、福澤が同僚の小幡篤次郎*に見せると、『今の有様[明治24年]では、どうも人間の意志が薄弱になつて困る。どうしても人間には意志が鞏固[強固]でなければいかぬ。瘦我慢でなければいかぬ。今日に於て榎本武揚や勝安房を攻撃するのは、情に於て忍びない、気の毒ではあるが、日本の士氣を振はす爲めには最も良い薬』(『桃介式』、p.12-13)*とコメントしました。このコメントがこの書の執筆動機と狙いです。

*小幡篤次郎、おばた・とくじろう、1842〜1905。
洋学者、教育家。中津藩士生、元治元(1864)年福澤諭吉の塾に入り、慶応2(1866)年塾長、幕府開成所英学助教。『天変地異』等の科学啓蒙書で科学知識の普及に貢献。東京学士院会員、貴族院議員。出典  https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6395/

出展:福澤桃介著「瘠我慢説」『桃介式』実業之世界社、明治44年10月、pp. 5-17

 

 

 朝鮮半島から清国の勢力を排除するため、朝鮮国介入(主権侵害)派であり日清開戦論派の福澤は、非戦論派かつ日清朝提携推進派、興亜思想の筆頭である榎本と勝に「江戸城を無抵抗で明け渡した腰抜けの勝と箱館戦争の死に損ないの榎本は黙っていろ」*²と日清関係について口封じを狙っていました。次に日露開戦が間近に感じられる北清事変(1900.6-1901.9)の最中に、福澤は国民に向かって、ロシア帝国と戦う日本兵はこの二人を真似するな、敵に白旗を揚げるな、死ぬまで戦え、玉砕するまで戦えと主張しています。

 山岡鉄舟と西郷隆盛との交渉が不調で終わり、勝と西郷との会談が決裂したら、勝は江戸城に籠城し、市街戦を制するため、事前に新門辰五郎に子分を使って江戸城下を焼き払う準備を済ませていました。福澤がそこまで考えずに無血開城を批判する文章を起こしたということは、文の中身そのものは福澤の言いたいことを示さず、結論として、勝や榎本は日清朝-提携論を黙り、福澤が推進している朝鮮国を文明開化させる日清開戦論を邪魔するなということです。

 北京にいる榎本は、明治17年12月4日の甲申政変後、清国側の情報を収集し、パークスとも議論をしていました。翌明治18年1月10日に安藤太郎へ『在韓アストン氏[英国領事]十二月十九日付之詳報を接収せり』、『清兵ニ格別責ムベキ所ナキガ如シ却テ逆ネジヲ喰ネバ幸ヒ位ナル・・』と書き送りました。しかし、甲申政変後、国内では、多数の新聞記事が清国に対する開戦論を声高に訴え、民衆は乗せられました。

『甲申政変後、日本国内では清国討伐すべしとする排外主義的愛国心にもとづく対清開戦論が、民権論者もまきこんで民衆の間に全国的に燃え広がった。

 明治18年1月18日、対清開戦、義勇軍志願を呼びかける有志大運動会が東京上野山で開催された。民権派青年をはじめとして学生、車夫、壮士など約三千人が集会・運動会で気勢をあげ、デモで銀座に繰り出した。開戦論の[福澤の]時事新報社の前では激励し、末広鉄腸*¹が非戦論の論陣を張っている朝野新聞社*のまえでは石を投げつけ窓を破って行進していった。』

出典 黒木彬文『興亜会のアジア主義』九州大学法政学会、法政研究71(4)、2005、pp.260
*朝野新聞の社屋は大江戸博物館内で再現されている。

 

 非戦論の朝野新聞の末広は、5月の亜細亜協会の議員選挙で選出議員24名中、上位から3位の高い得票で選出されました。亜細亜協会は、対清開戦に対し非戦論を支持していました。清国公使徐承祖は細亜協会5月の年会の祝詞のなかで、『「我は日本人なり、我は中国人なりというなかれ」と、日中両国が自国のナショナリズムに囚われることなく、「興亜の策を思図」しよう、と呼びかけた。』

出典 黒木彬文『興亜会のアジア主義』九州大学法政学会、法政研究71(4)、2005、pp.247-287

 

 

 朝野(末広)の非戦論の論点は、次の四点です。

1、戦争は国家利益の点から利益になるか損害になるかを比較して判断する。戦争でたとえ勝利しても損害の方が大きいから戦争に反対する立場を取る。

2、戦争は一部の高級軍人と好戦的政治家の名誉称賛の風潮を作るが、その陰にははかり知れない多数の兵士およびその家族の不幸がある。しかし、戦争に味をしめた将軍、政治家は戦争を繰り返すようになり、不幸が絶えなくなる。

3、戦勝により外国に植民地を獲得しても利益より損失の方が大きくなる。

4、社会の軍国主義化は国民の自由を奪う。

 

 末広はジャーナリストであり、国際政治や軍略、歴史などの専門家ではありません。その末広がここまで主張できたのは、榎本らの協力があったと考えざるを得ません。すなわち、末広の論調は榎本の論調とも言えます。

 

 福澤は勝と榎本に『痩せ我慢の説』への返答を求めましたが、勝は、自身の出処進退は自分が決めるもの、人のやっていることをああだこうだと論評するのは人様の勝手で私には関係無いと、有名な返書*²をしました。

 

すえひろ・てっちょう、1849-96、明治初期の小説家,政治家。伊予国宇和島生れ。本名重恭(しげやす)。別に子倹,浩斎の異称がある。藩校明倫館に学び,藩校教授,官吏を経て1875年《曙新聞》編集長となるが,新聞紙条例批判により禁獄,成島柳北の《朝野新聞》に移っても筆禍により投獄される。81年自由党結成に尽力したが板垣退助の外遊を批判して83年脱党。病に悩みつつ86年《雪中梅》,翌年《花間鶯(かかんおう)》等の政治小説を刊行し,また大同団結運動を推進した。90年の第1回総選挙に愛媛県から立候補して当選,自由党に属したが91年脱党した。同年《南洋の大波瀾》を刊行して南洋進出を唱える。92年第2回総選挙に落選,のち再び当選するが96年に没した。

執筆者:小川 武敏 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

『行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与あずからず我に関せずと存ぞんじ候そうろう。』
引用元 https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46826_24771.html

 

 

 榎本は忙しいので後日また返答しますと福澤に書き送り、福澤の「痩せ我慢の説」への返書は放置されました。榎本と福澤にはちょっと込み入った関係がありました。箱館戦争で敗戦後、福澤は牢屋に入れられた榎本と母との再会への力添えや、榎本の助命嘆願運動を行いましたが、その間、福澤が榎本たちから求められて差し入れた化学書のレベルが恐らく啓蒙(教科書)レベルだったので、榎本や大鳥など化学の専門能力のある者たちから、あの福澤大先生の知識レベル(専門能力)とはこの程度かという風に受け止められました。脱走した榎本たちへの戦力強化または助け船になるはずの米国の甲鉄艦ストーンウォール号の買い付けに関わった福澤の悪事*が、榎本の記憶にまだ残っていたので、戦争を指揮したことも無く、さらに好戦極まりない福澤に関わらなかったのです。

*榎本は、小野友五郎たちから、慶応3年の小野の甲鉄艦ストーンウォール号買い付けの渡米の際、福澤随員の公金横領を聞かされていないはずは無く、榎本は福澤を相手にしていなかったとも言える。

出典 藤井哲博『お荷物随員・福澤諭吉:小野友五郎の生涯』中公新書、S60、pp.117-121

補足

福本日南は、明治30年8月6日付けの新聞『日本』に「膨張的日本」という題の論説を書き、福澤諭吉らの軍備強硬論を「貧国強兵」として批判しました。「富国強兵」とは、まず、国会財政を潤して後に軍備を増強することを言いますが、当時の日本は、国家歳入が特に増えているわけでも無く、皇室から始まり、臣民の隅々まで、生活費を切り詰めて軍備に当てました。足尾銅山の銅の輸出は貴重な外貨獲得源でした。福本はそのことをもって「貧国強兵」と日露開戦派を批判しました。

 

 

・グレートゲームの終焉

 

 

【日露開戦まで−後方支援】

 

 

 政界引退後、明治32、3年に興亜思想は終焉し、メキシコ殖民事業から撤退した榎本は、学会や業界団体を指導して回わり、後方支援をしていました。明治33年3月に義和団事件が起き、6月に北清事変に発展しましたが、榎本には目立った動きはありません。榎本に相談する人がいたかもしれませんが、現場では榎本の次の世代が活躍する時代でした。技術分野も榎本の電信と蒸気機関は、電話や無線通信*、内燃機関(ガソリンエンジン)の時代になりました。マックスウェルが1864年に電磁気に関する方程式を発表し、1868年に蒸気機関に関する制御理論を発表した後、重要な実験を重ね、40年近くかかりましたが、日露戦争終了の年、1905年にアインシュタインは特殊相対性理論を発表しました。榎本の電気磁気学に関する知識も次の世代へ発展しました。科学・技術の発展も榎本に引退を勧告していました。

*『1904年にフレミング[Sir John Ambrose Fleming, 1849-1945、英国]が二極管の応用を発明してからわずかに3年、1907年にはこの分野には革命的な発明がもたらされたのである。デ・フォレンスト[Lee De Forest、1873-1961、米国]による三極管の発目である。』
20世紀に入って電気工学は増幅(発振)、応用数学による変復調という重要な技術を加速的に獲得し、電子工学の扉を開いた。
高木純一『電気の歴史 −計測を中心として−』オーム社、1967
J.A.フレミング、奥村正二訳『近代電気技術発達史』科学主義工業社、1942

 

 ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie, 1709-1751、仏)は、1747年に『人間機械論』を刊行し、人間は機械だと唱えました。イギリスの小説家、メアリー・シェリー(1797-1851)が1818年3月11日に匿名で出版した怪奇小説、『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』といった、人間をパーツの結合体と考え、パーツを機械部品と交換できるといった人間・機械論には関心を示さずに他界しました。ノバート・ウィナーが1947年に動物と機械を統合した理論でカバーできることを”CYBERNETICS”(動物と機械における制御と通信)で示し、1950年に” The Human Use of Human Beings”(「人間機械論」人間のものは人間に、機械のものは機械に)を発表しました。人間と機械との関係に関する論文の登場により、機械は人間と並んで一緒に議論される対象になり、人間と機械の統合的研究は哲学の時代から科学や工学の対象に移っていきました。当時、物質文化の旗手であった榎本は、理解していたかもしれません。

 明治35年1月に日英同盟が締結されると、9月に内田良平が伊藤博文に相談した結果、伊藤の提案で日露協会が設立されることになり、初代会長に就任しました。日露緊張の事態に対し、榎本は国政のバックヤードにいて、国際交流という名誉職をしていただけなのでしょうか。内田良平が現地(満州、シベリア)で収集した情報について、話し相手になり、日露開戦に備え、サジェスチョンをしていたということは想像に難くありませんが、榎本の葬儀の参拝者の長蛇の列の最後尾に黒龍会がいた、ということ以外には示唆する史料はありません。また、榎本の国際政治への取組は、すわ戦争かというとき、開戦が決まればできる限りのことをするが、その前にまだ外交で創意工夫し交渉することがあると榎本は考え、相互に経済的メリットを出す解決策を交渉する計画を立案(設計)します。伊藤が掲げた日露協商案は、榎本のサジェスチョンを感じさせます。

 協商は殖民地を分け合う帝国的条約です。ロシアが満州、日本が朝鮮半島を分け合うという案ですが、この場合、遼東半島をロシア海軍に占拠させておいて、日本の安全は守られるのか、心配です。しかし、榎本の発想なら、対馬−釜山のラインを日本が軍事的に確保できれば、ウラジヴォストークの艦隊と遼東半島の海軍のシーレーンは切断され、シベリア鉄道を切断すればロシアの艦隊への物流は止まり、艦隊は身動きできなくなります。朝鮮半島の港をロシアの艦隊が利用できる方が、遼東半島にロシアの艦隊がいることより、日本の安全にはリスクが高いと榎本は考えるでしょう。

 遼東半島にロシアの艦隊がいるということは、以前のようにロシアの艦隊が長崎で越冬し、長崎から佐賀にかけての温泉街で湯治することが無くなり、地元にとっては経済的にはマイナスですが、日露戦争で日本兵から沢山の死傷者を出すこと無く済ませるほうが優先されると考えることが出来ます。また、満州にロシアを封じ込め、朝鮮半島を通して、満州と交易ができれば、日本や朝鮮国には大きな経済メリットが生まれます。日本にもロシアにも日露開戦派と非戦派が存在していることを榎本は理解しており、その点から日本の安全保障を確保し、経済的メリットを出す交渉と条約締結が可能だと榎本が考えていてもおかしくありません。日露協商を推進した政治家が伊藤と井上馨ということから、想像に難くありませんし、明治36年12月21日に桂太郎が山縣有朋に日露開戦方針の確認を求めると、『対露開戦を認めたことはないと即座に反駁していた』*¹ということから、日英同盟締結後も国内では日露開戦に対し、慎重な政治家がいました。日露開戦に前のめりになっていたのは、日清戦争開戦時と似ていて、榎本や伊藤、山縣の次の世代の軍人、政治家たちや世界の中の東アジアを考えられない人々でした。

 伊藤が掲げた日露協商案立案に榎本が関わっていたことを示唆する史料もありません。ただ、明治38年3月29日、選挙により榎本武揚が軍人遺族救護義会の第三代目会長(実質二代目)に就任し、日露戦争での傷病兵や戦死者家族への厚い対応を立案し、実行したことだけが史料に残っています。

 尚、軍人遺族救護義会は明治39年に帝国軍人後援会へと改称し、『帝国軍人後援会史』*²の中の榎本小伝の文末に『氣性豁達俠骨に富み、個人的にもよく後輩を導き、公共社會事業方面に於ける斡旋、實に努めたりといふべし 。』と記されています。

黒沢文貴『明治末・大正期の日露関係』外交史料館報、第30号、2017
帝国軍人後援会 編『社団法人帝国軍人後援会史』,帝国軍人後援会,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1463174 (参照 2024-03-10)

補足
実際には、ウラジヴォストークの浦塩艦隊は、日本海沿岸や津軽海峡を経由して,東京湾付近(明治37年7月22日)や伊豆半島沖にまで達し、相当な戦果を上げた。
・東京日日新聞社, 大阪毎日新聞社 編『日露大海戦を語る : 参戦二十提督回顧卅年』,東京日日新聞社[ほか],昭和10、pp.287-290。
 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1224266 (参照 2024-03-13)
・佐世保海軍勲功表彰会 著『日露海戦記』,佐世保海軍勲功表彰会,1907.6.、p.4(日露海戦日誌)
 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/995106 (参照 2024-03-13)
・真鍋重忠、『日露旅順海戦史』
吉川弘文館、1985
・外山三郎、『日露海戦新史』、東京出版、1987

 

 

【明治40年国防策】

 

 日露戦争で一応の勝利を収め、陸軍は、田中義一や山縣有朋らを中心に「帝国国防策」の作成作業に入り、海軍にも声をかけました。陸海軍の協議が済み、明治40年4月4日に明治天皇は『明治四十年国防方針』を裁可しました。内閣は無視されました。軍の戦後の軍備拡張の根拠となる文書でした。基本方針では、国是は「開国進取」だとしています。尚、これを明治新政府の方針だと言うが、江戸時代に、自ら鎖国は退縮、開国は進取の勢いがあるとして徳川幕府が始めた国是だと勝海舟は主張しています。榎本の南方経営もこの開国進取の精神の発揮でした。海外へ出て、エンタープライズ精神を発揮することでした。この国是により国権の拡張を謀り、国利民福の増進を勉める、そのために満州と韓国の利権とアジア南方並びに太平洋の彼岸への民間の活動の発展とを擁護、拡張することを帝国施政の大方針である、という国家戦略が基本方針で述べられていました。海軍側では誰が原案を作成したのかははっきりしていないということなので、開国進取、国利民福、太平洋の彼岸=南洋群島といったキーワードが入っているということは、海軍のバックで榎本が国防策の作成に関わっていたのだろうかと思わせます。

 

 

【グレートゲームの終焉】

 

 

 東進しながら南侵を続けるロシア帝国と徳川幕府が樺太の国境を交渉するときに、榎本とグレートゲームとの関わりが始まりました。当時、まだ釜次郎と名乗る19歳の青年でした。1854年、徳川幕府は、ロシア帝国の交渉団の代表プチャーチンと樺太で待ち合わせて、現地で国境の確認作業をしようとしました。そこには釜次郎青年もメンバーに含まれていました。一方、プチャーチンはグレートゲームの一環である、クリミア戦争の煽りを受け、日本海や北太平洋をパトロールする英仏の軍艦を恐れ、樺太に赴けずにいました。

 1890年、ドイツの宰相ビスマルクはヴィルヘルム二世皇帝との対立で辞任すると、ビスマルクが構築した条約網で守られたヨーロッパの平和をヴィルヘルム二世皇帝が壊し始めました。ヴィルヘルム二世皇帝が殖民地や利権を求めて海外へ進出を開始したため、英、仏、露の既得権益に脅威を与えました。その結果、1893年に露仏同盟、1904年に英仏協商、1907年に英露協商が締結され、三国協商が成立しました。ロシアの関心が極東から西側へ戻ったためでした。ついに、約100年続いた英露のグレートゲームは終了しました。

 榎本はグレートゲームから解放されました。72歳でした。あれから、53年過ぎていました。翌年、日露の国際交流の重要性を認識し、日露協会で新任の駐日ロシア公使の歓迎会をしました。榎本は病の床につき、欠席しましたが、歓迎会は盛大に行われました。そしてその後の10月に薨去しました。江戸っ子のヒーロー*である榎本に関し、各新聞社は一面その他に毎日、榎本の病状や功績、履歴、事績、逸話の特集記事を組みました。この時期の榎本に関する記事の面積を測ってみれば、いかに勝や福澤らと人気が大違いであるかが分かります。

*高成田亨氏の命名

 

 

・榎本薨去前年の工業化学会会長告辞

 

『會長告辭

・・・

今や我国は露国の驕慢*¹を挫き東洋の平和を無疆*²に保維し國光を海外に輝せり是れ即ち武の戦に勝てるなり此の如く武の戦に勝てる我国は將來平和の戦にも勝つべき覺悟なかるべからず平和の戦に勝を制する途は元より一ならずと雖も経済の發達を圖り[図り]國家の富源を開くより急なるはあらじ国家の富源を開くべき道は殖産工業*³の發達を措いて那邊*⁴にか之を求めん宜なる哉*⁵近時忽焉*⁶として産業勃與し工業の隆興驚くべきものあるや

然りと雖も工業殖産の發達は單に實地の練習舊來の慣例のみに依て以て其目的を達し得べきにあらず學理と實地と相待ち究理の士と實際家と互に相提携し滋に始めて其精巧と發達とを期すべく以て國家富源を開くに足らん

・・・

乞諸君今より後も其志を變せず益奮勵努力して本會の隆盛を期し工業社會のために其利益を増進せられん事を余も亦矢て微力を茲に致さんとす庶幾く*⁷は諒せよ

明治四十年四月七日

工業化學會々長

子爵 榎本武揚                     』

(下線は筆者挿入)

 

*¹きょうまん。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること。また、そのさま。(小学館、デジタル大辞泉、コトバンク)
*²むきょう、無彊。限りない。
*³この頃、殖産興業とは別に殖産工業と言うようになった。誤植では無い。
*⁴なへん、那辺。どこのあたりに。
*⁵「宣なる哉」(うべなるかな) とは、『「うべなり」の連体形に感動の助詞「かな」の付いたもの) もっともなことであるなあ。本当にそうだよ。』出典 精選版 日本国語大辞典/コトバンク
*⁶こつえん。突然ある状態になるさま。コトバンク
*⁷しょき。心から願うこと、こいねがうこと。(コトバンク)

 

 

 明治31年3月に刊行された初刊「工業化学雑誌」の『発刊の辞』に「維新より以来此に三十年各種の工業日に月に進歩発達し・・・」とあり、工業の発展を強く意識する時代になっていました。初刊で手島精一は、『機械工業は製造用の機械を外国に仰き・・・化学工業に至ては邦人の実験を要しその創意に係らさるを得さるもの多き・・・[機械類は]概ね製造に併用し即ち資本の一部に算すへきものにして夫の化学製品の如き消費品に比せは国家計座に影響すること夫れ幾何や・・・』という論文(「工業化学会の創設に就き」)を掲載しました。

 明治40年の榎本の会長告辞で、省略した箇所でも「工業」を繰り返し用いています。榎本の「殖産興業」は「殖産工業」へと発展していました。

 明治40年頃は、国内の造船所の近代化が進み、造船所は「船舶・諸機械製造業」の性格を持ち、『国産機械需要の高まる明治末ごろから、大造船所は、積極的にその機械製造能力を活用し始めます。』

(中野哲郎『日本近代技術の形成』朝日選書809、2006、pp.452-455)

 

 

 自動車工業は、明治35年ごろ、自作に取り組む。特に、タイヤの実用化で苦労しました。日露戦争で大陸の戦闘では輸送の重要性に痛感し、明治40年に陸軍は軍用自動車の調査を開始し、明治44年、国産軍用トラック「甲号」を完成しました。以降、昭和20年8月までに軍は国の自動車産業政策に深く関わることになります。

 関東大震災で東海道線が止まり、自動車が物資輸送で活躍したので、自動車の価値が認識され、自動車の需要が高まり、自動車の輸入が増えました。

 特に当時の自動車は産業用機械とは違い、常に人間と機械とが結合し、運転者の操作が機械への制御信号になり、運転者のパワーを増幅して動作するところに特徴があるマンマシンシステムでした。自動車というマンマシンシステムは社会の中で活動を開始することになりました。南洋の土地で世界商品を生産し、失業問題を解決し、新日本人を誕生させようとした榎本たちへの時代的要求から、マンマシンシステムが人間社会の重要構成員となっていく世界へと時代は大きく変わり始めました。榎本が人類社会へ機械=マシンが浸透することを確実視していたことは、榎本の遺言とも言える翌明治41年1月の電気学会での演説から分かります。

 

 

・榎本薨去の年、電気学会会長の新年挨拶

 

 

『・・・然れども翻って考えるに我電気事業は如此隆盛を致せるに不怐[かかわらず]多くは是れ欧米各国の精を抜き華を取り之を我国に施設したるに過ぎず未だ本邦に於いてオリジナリチーと称し得可きもの鮮[あきら]か少ないは予の深く憾みとするところにして今後益々諸君の研鑽と発明とに依り事業の発展に伴いこれが改良進歩を図らざる可からざるなり・・・』

 その後、榎本は7月に発症し、10月に薨去しました。

 榎本が初代電気学会で、電気磁気学は新たに発展する領域なので、あえて工学会から独立して電気学会を創立したと明治28年に演説したように、欧米では電気磁気学を応用した技術が次々誕生し、産業と雇用を生み出しました。

 明治32年1月発行の「工業化学雑誌」の誌上で、米国で1871年から1895年の25年間で百件以上の特許権を取得した人のランキングを示し、一位のエジソン(1847-1931)は711件取得し、二位は394件なので、ダントツの取得数と言えます。前年には改良型蓄音機を完成させ、エジソン・ゼネラル・エレクトリック(現在のGE)を設立しました。同年に、エジソンはキネトスコープを発明し、パリ博覧会に出展しました。さらには、10年に及ぶ活動写真関連の模倣発明(特許侵害技術)でビジネスをする人たちとの特許権訴訟で、1907年10月にエジソンの特許権が確認され勝利しました。エジソンの財務支配人と敗訴側の経営者たちは、関連特許を一同に集めパテント・プールし、フィルムの制作と配給を統制する「活動写真特許権会社(the Motion Picture Patents Corporation)」*を設立しました。1908年12月に特許権会社は、事業を分割し、事業ごとに子会社を設立しました。

*Josephson, Matthew. Edison: A Biography (English Edition) (p.336). Plunkett Lake Press. Kindle 版.

 

 明治維新後、海外へ殖民し、起業し、事業を拡大していく人物を榎本たちは、「新日本人」と呼び、多数排出されることを望んでいました。榎本は、自ら殖民事業を興すと主張しましたが、明治29年に設置された農商工高等会議で資本投下を必要とする殖民事業を行わないと結論づけられました。明治30年以降、榎本は、まさにエジソンのような人物、科学技術の分野で発明し、事業を興し、人々の生活を楽しくする「新日本人」の登場を請い願いました。榎本は、失業者、困窮者の救済および貿易網の拡張を殖民事業に求めてきましたが、製造業の発達や発明により生み出される新しいビジネスでの雇用や貿易に、新たな国利民福を増進する希望の光を見出していました。

 

図3.電気学会から故榎本武揚会長へ送られた弔辞

 

 明治41年10月に榎本が亡くなってからすぐ、創立以来生涯、会長を努めた電気学会から榎本へ贈られた弔辞から、榎本の民間団体での精勤ぶりと会員たちの感謝の思いが分かります。

『吊詞

茲歲十月二十七日電氣學會々長子爵榎本武揚君溘焉薨去矣

虔惟明治二十一年學會創立之際閣下容衆望膺統督之職爾來

二十年間終始不渝至誠以變理會務切實以貫徹正鵠克資斯學

之研鑽克加社會之福祉焉厥[ここに その]德洵[まことに]洪遠而今乃亡矣會員舉共痛

惜弗能措玆恭呈吊詞稽顙再拜

明治四十一年十月三十日

電氣學會幹事 工學博士五十嵐秀助』

(意訳)

今年の10月27日、電気学会会長、子爵榎本武揚君が薨去されました。

明治21年の本会創立に際し、閣下に謹んで統督(総裁)にご就任くださいますようみなでお願い申し上げると受け入れてくださりました。以来20年間、会長は、終始、揺るぐことなく誠実に、会の経営を変革し、切実に急所を貫き、さらに、電気磁気学及び電気工学の研鑚を助け、さらにまた、社会の福祉を増加させることに取り組んできました。その徳はまことに洪遠です。本日は会員全員が会長の死に哀悼の意を表し、ひれ伏して再拝します。

 

 

【榎本の願い】

 

 

 国民第二世代である臣民とともに生きた榎本には、君恩に報いるという使命がありました。どうしたら報いたことになるのか、それは、人民が富民になり、人民に福祉や幸福が増し加わることでした。そのためには、平和であることが前提条件でした。榎本も勝も平和を作り出し、経済を発展させ、人民が生計を立てていくことが出来るように勉めました。しかし、自身の信念や欲望にこだわり、領土熱にうなされる人々、例えば開戦論者の福澤諭吉は非戦論者の榎本や勝を目の敵にしました。そして、朝鮮半島や大陸の占領・支配にこだわり、二度も戦争を起こしました。

 榎本の願いは、国際市場で競争力のある商品を発明できる企業を多数生み出し、開国進取の精神をもち、海外での事業を拡大させる新日本人が増え、人民の中に貧民がいなくなり、人民が全員生計をたてられる新しい日本の建国でした。そのためには、国防を怠らず、平和が維持され、科学技術者(エンジニア)の頭脳は、イノベーション、技術革新を続ける創意工夫や発明、オリジナリティに溢れていることが必要だったのでした。

後編へ続く

 

【備考】

 ブラジルへの移民は1908年(明治41年)、笠戸丸で海を渡った781人が始まりだ。4月28日夜に神戸港を出港し、6月18日朝、彼らはサンパウロのサントス港から上陸した。榎本が発病する(7月13日)ちょうど一ヶ月前の出来事なので、榎本は把握していたはず。榎本殖民協会会長時代に、根本正が中南米からブラジルにかけて殖民地の調査を行い、榎本にサンパウロこそ『真にこれ邦人永住の天地』と書いた手紙を送った。榎本の殖民思想の信念が根本らを動かし、榎本のメキシコ殖民事業は撤退したが、さらに殖民の適地を発見し、その後のサンパウロでの日本人移民の発展は榎本の願いが叶ったと言える。
コラム「笠戸丸」 | ブラジル移民の100年 (ndl.go.jp)

榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(4) | 情報屋台 (johoyatai.com)

【補足】

・吉祥寺由来と所在地

図4.諏訪山 吉祥寺の解説

薨去年
当時の新聞や榎本関連記事では、10月26日薨去とあるが、墓石には、10月27日薨去と彫られている。

図5.榎本武揚(右)、多津(左)の墓
(多津、明治25年8月2日没)

(2008.11.22撮影)

 

【後日談】春之助、談

『それから、家族のことをお話しますと、父の一番上の姉[らく、観月院]は天保元年生まれで、早く未亡人になり、一生私の家に居りました。向島で父が亡くなったとき、もう大分もうろくしていましたが、海軍葬で多勢の人が来たもんだから、親父の死んだことがわかったんですね。それから少しも食事しないで、水ばかり飲んでいた。自分だけ生きてもしょうがないと思ったんでしょう。親父が死んで二週間して亡くなりました。この姉は、父が函館戦争のあと、牢に入っていたとき、いろいろ世話してくれた人です。』

出典 金沢誠他編『華族 明治百年の側面史』北洋社、1978、pp.35-36

 

 


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