大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
情報屋台
社会
政治
経済
暮らし

榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−国内向け

2023.07.04 Tue

図1. 江戸時代から明治10年までの10年ごとの「百姓一揆」年平均件数の推移グラフ

(青木虹二『百姓一揆総合年表』三一書房、1971、p.36から転載し筆者加筆)


 

榎本武揚と国利民福 最終編第二章―3(3) 民間団体−国内向け

 

・地方結社、民権結社、Society

 

【7世紀の対外危機】

 

 ヤマト政権は白村江での敗戦(663)ショックが引き金となり、来るべき対外危機に備え、豪族の集合体から専制的な中央集権国家への移行を目指し、戸籍 (670、庚午年籍)を作成し、壬申の乱(672、天智天皇の弟と子の皇位継承内乱)を経て、天武−持統時代(673-702)に唐の律令制をヤマトの伝統的な社会に適用させた律令国家を樹立しました。農民*¹に口分田が与えられ、農民は納税と兵役、賦役提供などの義務が課せられました。政権から選任された官僚たちの「設計」により作られた律令国家の国号は「日本」、国家の頂点に立つ専制君主の称号を「天皇」としました。まさに「日本」は社会工学*²によって誕生した国でした。農民は国民第一号であり、国民としての第一世代と言えます。

*¹参考:村山光一(コトバンク)『日本の場合は、女子、子供に対しても給田していることから知られるように、農民の戸の再生産に対する国家の配慮、関与が明瞭(めいりょう)にみられる。これはわが班田収授制の一大特徴といってよい。』
*²高木純一『社会工学』(NHK教養大学 ; 第11)、宝文館、1952、pp.6-11.

 

 日本の律令制の寿命は約200年でした。百姓は、口分田制(681-902、寿命約200年)*¹の後に発達した荘園制(743-1501、寿命約750年)*²の中を生きました。13世紀後半*³、百姓たちは共同体を結成し、団結することで構成メンバーの安全保障を強化し始めました。百姓の共同体は「惣」(惣村、惣庄、惣中)、構成メンバーを「惣百姓」と呼びました。さらに惣は連帯を拡大し、相互の安全保障の領域を拡大しました。

 惣および惣連合の結成はイデオロギーに基づくものではありません。百姓たちは自分に制御できない環境(変数)である自然界と人間界から受ける暴力に対抗して生き抜くため、血縁を越え、地縁で協力関係をもち、政治的に結合した生きかた(自己変数の調整)に自ずと到達しました。生存継続、生命維持のための自然な動きと言えます。江戸時代までに封建制度と組み合わさった村落共同体が形作られました。「全国の村の数は天保5年(1834)に6万3562、平均的な村の戸数は60~100戸、住民は400人でした。」*⁴ 村には法人格があり、村の構成員(百姓)になる資格取得手続き、村の掟、村の代表(村方、三役)を選挙する手続き、全員参加の議会(寄合)、警察権(自検断)などを「村」は備えている政治的共同体でした。

 百姓が自発的に作った政治的な「村」は明治21年の市制町村制制定までの地方自治の基盤でした。政治的村落共同体の寿命は約600年でした。

*¹村山光一『口分田』コトバンク
*²永原慶二著、日本歴史学会編『荘園』吉川弘文館、平成10年、pp.324-331
*³例:同上、pp.228-232
*⁴渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』草思社、2017、pp.28-29、pp.32-33

参考文献:
永原慶二著、日本歴史学会編『荘園』吉川弘文館、平成10年
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』ちくま新書618、2006
山口啓二『幕藩制成立史の研究 (歴史科学叢書)』校倉書房、1974
中田薫 著『村及び入会の研究』岩波書店、1949
渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』草思社、2017
白川部達夫『明治初年の土地均分論』東洋学研究(43)、2006
竹下譲『地方自治制度の歴史 明治の激論−官治か自治か』イマジン出版、2018
総務省トップ > 政策 > 地方行財政 > 地方自治制度 > 地方自治制度の歴史
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/bunken/history.html
柳田国男『日本農民史』刀江書院、1931、https://dl.ndl.go.jp/pid/1716078/1/1
Norbert Wiener, Cybernetics: Or Control and Communication in the Animal and the Machine. Paris, (Hermann & Cie) & Camb. Mass. (MIT Press) ,1948.
池原止戈夫他共訳、ノバート=ウィナー著『サイバネティックス』岩波書店、1971、p.ⅱ

 

 13世紀に二度に亘る国家危機、「元寇」*から鎌倉幕府は日本を守り切りました。しかし、戦後、鎌倉幕府の存立基盤の惣領制、御家人制は揺らぎ、鎌倉幕府(鎌倉北条氏)は1333年5月に滅亡しました。鎌倉幕府の寿命は約150年でした。

*文永の役、1274年10月3日。弘安の役、1281年5月3日。
参考:上田純一『元寇』コトバンク。小山靖憲『御家人』コトバンク。

 

【豊臣秀吉の対外戦争の政策】

 

 庚午年籍(670)と壬申戸籍(1872)の間、海外侵攻のために全国的で大がかりな戸籍調査を実施した政権は、豊臣政権(1585-1603)でした。豊臣秀吉(1537-1598)は、国内統治の安定化策である、検地(1582-1598)、刀狩(1585-1588)、大名間の私闘禁止 (1585-88、惣無事令)などを実施し、内政の延長線上(諸説あり)にある、朝鮮半島を経由(1592‐98、文禄・慶長の役)して、明国征服をするため、武家奉公人と年貢の確保を目的とした職分固定(1591、身分統制令)、『「唐への夫」つまり朝鮮侵略への軍事動員のため、緊急に村落の夫役徴発可能人数を把握する』*ための戸口調査(1592、人掃令、関白豊臣秀次が実施)を行いました。このプロセスで各領地(国)の国民は作られたましたが、日本の全領土をベースにした日本国民は作られずに終わりました。

出典 藤木久志『人掃令』コトバンク。(ここうちょうさ、ひとばらいれい)

 

【19世紀の対外危機】

 

 19世紀の対外危機である西欧列強によるアジア諸国の植民地化、東アジア、特に清国の経済的支配、そして、日本への開国要求(前哨基地化、貿易) は、国内では討幕勢力の追い風になり、討幕勢力は尊皇攘夷の表看板のもと戊辰戦争を起こし、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古しました。王政復古では、神武創業を宣言することで、日本の社会システムを白紙に戻すことにし、日本国をヨーロッパ基準の国際対応可能な国に再建しようとしました。

 19世紀の対外危機は日本国内の支配勢力(統治者)を入れ替えさせ、7世紀同様、有力者(徳川、雄藩)の集合体から中央政府による全国民支配をベースにした社会システムへ自己変革を促しました。雄藩は事前の設計図をもたず*¹、王政復古後、再び戸籍(1872、壬申戸籍)を作成し、学制令の創設、武士層の消滅、国民皆兵と村請制を止め国民(地主)ごとに課税するなど、兵農分離以来の革命的かつ専制的な改革が推し進められ、旧武士層、富裕農民、百姓らの不満は爆発し、全国各地に結社が設立され*²、反乱や大規模一揆、地方自治に関する攻防*³が、明治22年憲法発布(1889年2月11日)、明治23年の第一議会(国会)開催(1890年11月25日)の頃まで、繰り返されました。

 王政復古は、再び国民を復活させました。国民として第二号(第二世代)の国民と言えます。明治新政府は、日本列島各国(藩)の百姓を改めて日本国民にし、国民に課税することで政府の資金を集め、支配層の糧とし、さらに国民を皆兵制に組み込み、対外戦争に備えました。しかし、実際は、国民皆兵は、国防のためではなく大陸侵攻の為でした。

 村請制が終了することは、百姓、個人々の契約意識に変更を迫りました。村落共同体での百姓の契約が実施不能な経済環境になったとき、村全体で契約者に契約内容見直しを迫り、世直し一揆(交渉不調の場合、打ち壊し)をし、仲介を得て、契約内容を軽減させましたが、王政復古後、当初の契約内容を忠実に守るべきことに変わりました。

参考:『旧来の個別領主権改変を意味する版籍奉還は、政府の指導者たちが早くから抱懐するところであった。しかし、三条・岩倉・木戸・大久保などの上級指導者ほど、自己の意見として奉還論を主張することに慎重であり、戊辰戦争終結までは、旧来の藩の領主権について、これの改変を意図するような態度はつとめて避けていた。』丹羽邦男『地租改正法の起源−開明官僚の形成』ミネルヴァ書房、1995、pp.43-44

引用元
1. 渡辺隆喜『民権結社の成立と地方民会』大学史紀要(明治大学大学史料委員会)、2005-03-25
pp.15-16 『明治六年頃から[民権]結社が組織され始め、明治十四、五年がピークになる。』
(筆者補足:明治14年の松方財政により富裕農民は活動資金を失い、民権運動から撤退)
2. コトバンク「士族結社」『広範な地域に,多様で大量の結社がつくられたことがこの時期の特徴であり,全国の結社数を確定することは困難であるが,・・・ ,全国では1000社をはるかに超える結社の存在が推定できる。結社の種類は,その構成員からすれば士族結社,豪農結社(青年や知識人を含む),都市結社(都市知識人を中心とする)などの種類があり, ・・・。結社の規模も町村単位,数ヵ町村単位,郡単位,数郡単位から府県単位にいたる多様な地域規模の結社が存在した。』
*³明治11年4月の地方長官会議で、大久保内務卿が指示し、作成されたと考えられる郡区町村編制法案では、数百年続いた村の自治を継続させ、町村長は住民から公選し、住民の総代にするとされ、4月15日の審議では賛成多数だったが、大久保が暗殺された5月14日に決議済みの郡区町村編制法案が蒸し返され、町村長を官選することにされた。詳しくは文末の【補足】を参照。

 

 維新後の百姓の暮らしぶりはどうだったのでしょうか。

 大久保利通は日記に『明治2年に、農民は旧幕府の頃よりも困苦しており、「腸(はらわた)寸断の心地」になってしまうと』と記しました。明治3年3月に日田県知事の松方正義は次のように『明治政府の大蔵省「旧藩にも無き税金」を発令し、民心を全く顧みることなく農民を“誅求”している』* と、大久保利通に報告しました。その松方は、明治14年に大隈重信の下野に伴い、大蔵卿に就任し、いわゆる松方財政、松方デフレにより、農民、百姓を苦しめ、村の構造を変えました。

 

*竹下譲『地方自治制度の歴史 明治の激論−官治か自治か』イマジン出版、2018、pp.18-19
ちゅうきゅう、租税などをきびしくとりたてること。
この時の大蔵卿は、伊達宗城(だて・むねなり)、1818-1892、宇和島藩主、政治家、伯爵
奥田晴樹『松方正義の廃藩意見書:維新と開化』吉川弘文館、2016、pp.147-149
『さらに、松方は、版籍奉還の聴許からほぼ一年後の明治三年(1870)六月八日付で、管下の「下民」疾苦[しっく]の状況を具体的に報告し、・・・』尚、松方は、明治二年(1869)五月四日付の三条実美への意見書で、『「政体」は、律令制と欧米諸国の制度を折衷して不変の「国是」とする。』と考えを表明しました。

 

 

 以下は、後藤靖『自由民権』中公新書279、昭和47,p.15から引用した、明治3年福島県田村郡一揆の檄文です。

『「王政一新以来、更に御仁恤[じんじゅつ]なく唯々取立のみ強く、万民泥炭の苦におちいり、人間に存じながら甲斐もこれなく・・・・一命をなげうち一と働き致し候わば何かと相成り申すべく」(明治三年福島県田村郡一揆の檄文)』

図2.は青木虹二『百姓一揆総合年表』(三一書房、1971、p.34)から転載した明治1年から10年までの一揆の年次件数表です。

 

図2. 明治1年から10年までの各年の一揆の件数

 

補足:都市騒擾*(そうじょう)とは、都市部で起きる食糧蜂起、町衆の閉店罷業などである。日比谷焼打事件も都市騒擾である。村方騒動とは、村の百姓が村の代表である村方の不正などを正そうとする村内の団交である。
*岩田浩太郎『近世都市騒擾の研究:民衆運動史における構造と主体』東京大学学位論文要旨、2005
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=216271

 

【全国規模の結社、団体の始まり】

 

 日本最初の全国規模の結社は、森有札(ありのり)らによって、地租改正が公布された明治 6 年7月に創立された日本初の啓蒙団体「明六社」(めいろくしゃ)でした。明六社の目的は、『第一に文明開化の叫ばれた維新当初において新進学者の集まりであった明六社は、その新知識を以て世人の眼を開く、すなわち啓蒙的な役割を果たそうとした』ことにありました。

 

 当初の社員は、旧幕府開成所の教授たち(西周、津田真道、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、杉亨二、箕作麟祥)や旧幕府で貿易を積極的に推進した西村茂樹、福沢諭吉、森有礼でした。その後、地方在住の会員である通信員などが加わり、30名になりました。明六社社員は会合で討論し、演説会を一般公開し、また「明六雑誌」を発行して、社員たちの知識、議論を全国に普及させました。しかし、明六社は明治新政府の言論統制*に配慮し、明六雑誌を明治8年11月、第43号をもって自主廃刊とし、会の実質的活動も終了しました。

*政府批判への言論統制。明治8年6月、新聞紙条例(明治2年新聞紙印行条例の改正)。同年6月、讒謗律(ざんぼうりつ、名誉毀損罪の原型)。

出典:本庄栄治郎『明六社について』日本学士院紀要 第二十六巻 第二号、1968、pp.91-113、https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/26/2/26_2_91/_pdf/-char/ja

 

 徳川慶喜が新しい社会システムの構築を試みるなら、慶喜のブレインは開成所の教授連です。彼らの様々な知識と考えを聴くと、慶喜が新しい日本社会を作るなら、どのような社会を目指したのか推測できます。榎本達とともに1862年にオランダへ留学し、欧米の社会システムの調査を担当した西周(にしあまね、1829-1897)と津田真道(つだまみち 真一郎、1829-1903)はライデン大学でフィッセリングの講義を受け、帰国後、津田真道はオランダ語で筆記した講義録を邦訳し、慶応2年に開成所から『泰西国法論』と題して出版しました。『泰西国法論』第一巻第一篇「国法論の釈義並びに其の界限 第五章」には、『立国の本意(自筆原稿では「主意」)は散乱したる民力を統合し其条理を正し政令を理[おさ]め国益民福を増加するに存り・・・』*¹と書かれています。この本は、国会図書館で検索してみると明治14年まで出版を繰り返していることが分かります。開成所の教授連には「国益民福の増加」が国家のキーワード(国是、国家目標)になっていたと考えることが出来ます。榎本の友人、山内堤雲*²は、サンクト・ペテルブルクにいる榎本へ「明六雑誌」を送りました。

畢酒林 口授『泰西国法論 第一巻~第四巻』,開成学校,1877. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2937325 (参照 2023-07-07)、p.23

やまのうち・ていうん、1838-1923、幕臣、洋学者、旧幕開成所教授、箱館政府の通訳、開拓使、明治新政府官僚。榎本の盟友。通称は六三郎(ろくさぶろう)。榎本はよく、「山六さん」と言っていた。榎本が企画した、官制製鐵所(八幡製鐵所)の初代長官に就任した。榎本の妻、多津の祖父、佐藤泰然は堤雲の叔父。孫の山内恭彦は『PSSC物理』(上、下)岩波書店、1962を平田森三、富山小太郎と共に翻訳監修をした。

 

 日本最初の学術研究を目的とした団体=学会は、松本良順らが明治8年に結成した「東京医学会社」でした。同年に、全国の自由民権結社が結集し「愛国社」が誕生しました。母体は土佐立志社でした。続いて、翌明治9年に統計学会の前身である「表記学社」が杉亨二(すぎ・こうじ、1828-1917)*¹らにより創立され、明治 10 年に神田耕平らによって「東京数学会社」が創立されました。(引用元:コトバンク)

 神田耕平は、地租改正の素となる意見書(建言書)*²を提出しました。地方自治に関しては、兵庫県令として県内や地方官会議で積極的に公選民会を推進しました。地方自治を重視していると装って実はまずは専制国家体制を確立して開明を進めようとしている木戸孝允*³から、神田は疎まれていました。

*¹引用元
1.藪内武司『日本における民間統計団体の生誕:「表記学社」とその系譜』関西大学経済論集26(4・5)、pp.769-774、1977 (http://hdl.handle.net/10112/14665)
2.総務省統計局『日本近代統計の祖「杉 亨二」』統計博物館https://www.stat.go.jp/museum/shiryo/sugi.html

*²明治2年(1869年)4月、公議所へ建言書「田地売買許可の議」を提出した。
*³渡辺隆喜『明治国家形成と地方自治』吉川弘文館、2001、pp.41-59

 

 

【全国規模のSociety−萬年會】

 

 渡邉洪基*¹は、明治6年2月から明治9年6月までのヨーロッパで外交官*²の職務につきながら、ヨーロッパ社会では、協会、団体等、民間の交際機関=societyが社会の知識・学術・人的交流を促進し国家の繁栄をもたらしていると考えるようになりました。渡邉は、帰国後、この考えに基づき、最初に明治 11 年4月28日、我国最初の民間殖産興業団体である『萬年會』を設立しました。萬年会は、殖産興業を奨励、講究する会でした。(出典:瀧井一博『渡邉洪基』ミネルバ日本評伝選、2016、第三章、第四章)

 明六社の議論は啓蒙しようという目的でしたから、コミュニケーションは一方向でしたが、萬年会の活動は全国の会員相互が、いかに実業を興し、いかに成果を上げせるかに関する意見とノウハウの交換を目的とするものでした。

 折しも4月11日に第二回地方官会議が開催され、地方自治関連法案が審議され、4月15日に承認されました。あたかも、渡邉洪基は地方自治法案成立を図った時期に呼応するように萬年会を創立し、地方の殖産興業の推進をしようとしました。後述するように、萬年会の主題は、地方の殖産興業への取組能力の向上、地方の経済発展と地方の会員同士のコミュニケーション向上(情報流通)でした。

*¹わたなべ・ひろもと、1847-1901、 越前武生の蘭学医の子、医学と蘭学を学ぶ。1864年 江戸に上り、佐倉の佐藤舜海に蘭方医学を学ぶ。幕府開成所に通学しながら、英学を修め、慶應義塾に入門。幕府医学所の句読師(外国語の講読を教える人) になる。倒幕され1866年(明治元年)4月に 松本良順に従い会津藩に行き、英学校を開き教えた。会津落城後は米沢藩から招聘され、米沢の英学校で教えた。生徒の中に、後に振亜社を設立した曽根俊虎がいた。明治二年に東京に戻りさらに抵抗活動を続けたが、内乱は国を滅ぼすという建白書を 侍詔局(たいしょうきょく、明治2年3月に東京に設置された建白書受理機関。同年7月に侍詔院に改称。コトバンクから引用)に提出し無罪となる。その後、旧福井藩主、藩士への差別待遇に対し武生騒動に加担し外務大録を首になるが、岩倉右大臣の助言で復職する。終生、薩長藩閥勢力への反発、批判を抱いていた。明治19年に帝国大学初代総長。多数のソサイエティの創立に関わる。

*²オーストリア、イタリア公使館で一等書記官や代理公使。明治7年4月28日、ウィーンの帝国地学協会、Die k.k. Geographische Gesellshaft(1856年創立)に入会した。Gesellshaftは英語でSocietyなど意味する。

 

 会の名称「萬年會」は、現在の東京都港区愛宕にある「萬年山青松寺」(ばんねんざん せいしょうじ)で最初の会合が開かれたことに由来しています。創立当時、榎本は未だサンクト・ペテルブルクにいましたが、創立会員になりました。

 元東京農業大学教授の須々田黎吉(れいきち)『萬年会と創立者渡邉洪基の「夢」』*と題する論文から榎本に関係した箇所を紹介します。

「萬年會」は「殖産興業を奨励、講究する会」(花房義質、談)で、創立メンバーは旧幕臣と旧親藩出身者でした。基本方針は、『内地各方交和シテ、物産上経験工夫ヲ交換流通シ、尚ホ足ラザルハ之ヲ外国二補ヒ、以テ殖産ノ道ヲ尽クシ、兼ネテ殖産上各地各人相結合スルノ道ヲ開クモノ』でした。取り上げた領域は、12分野で、農林水産8,鉱工業3,商業1でした。

 さらに、前出の須々田黎吉論文に、近藤平三郎*¹薬学博士の萬年会創立に関する発言が紹介され、榎本も萬年會の主要なメンバーであったことが分かります。

『創立当時、明治維新の大業が始まると経済上の現象が実に未曽有の変動を起こし、人々は戸惑った。指導の必要が急務と考え、活動を開始した。当時これに着眼した先覚者は、渡邉洪基、大鳥圭介、花房義質、柳原前光*²、榎本武揚、石黒忠悳*³、由利公正、津田仙*⁴、肥田浜五郎*⁵だった。』(鴨井武『工学博士高松豊吉伝』*⁶化学工業時報社、昭7)

 

 この頃、榎本は駐露全権公使、大鳥は工部大学校(東京大学工学部の前身)校長、渡邉、花房、柳原は外交分野で活躍し、肥田は幕臣時代、長崎海軍伝習所で蒸気機関を学び、エンジニアとして活躍し、津田は農業分野で活躍し、石黒は軍医として活躍していました。

 明治11年7月提出の岩倉の意見書では、地方で民権運動が拡大していくことを防ぐために、失業士族を実業につかせ、民権運動から切り離す、各地方に農工科を設置し、青年が都会へ行かずとも住居から通って学べるようにするなど、都会の民権思想が地方の不平士族や平民の青年に侵染させないようにするという内容でした。もともと渡辺や肥田は岩倉具視と関わりがあり、さらに萬年会の創立は岩倉の民権運動対策と合致したものでした。

(出典:黒木彬文『自由民権運動と万年会の成立--非藩閥政府高官・渡邉洪基の殖産興業活動』政治研究(34)、p45-82, 1987-03、九州大学政治研究会)

 

 明治10年に死去した木戸孝允は、岩倉使節団(明治4-6年、1871-1873)で伊藤博文が条約改正交渉を渡米後、使節団の業務に追加し強行したことに抗議し、明治4年7月に途中帰国した渡邉に、その後手紙を送り、政府が進めている皮膚上の開化でなく骨髄から進歩をすべきだと主張しました。また、木戸は、明治9年の明治天皇の奥羽巡幸に従ったとき、「日本橋付近の開化では駄目だ、地方の人民が力をつけることが必要だ、産業が人民の中に広がらなければ力が発揮されない、政商五代才助[友厚の幼名]への政府の特別融資*は同意できない、政府は人民の政府だ、日本の将来は「田舎」に力をつけることが肝心だ」(木戸孝允文書) と考えました。木戸は中央政府と結託した企業が発展しても、国力発展には繋がらないという考えでした。全国津々浦々の地方村落の経済発展、殖産興業推進の総合力(合算)が国力の発展を示すと考えていたからです。また、地方に自治があり、経済力があれば、中央政府が破壊され、国土の一部が占領されても、必ず国家全体を回復する力があるという思想を持っていました。

出典:
瀧井一博『渡邉洪基』ミネルバ日本評伝選、2016、pp.60-71
竹下譲『地方自治制度の歴史 明治の激論−官治か自治か』イマジン出版、2018、pp.100-104
*明治9年設立の精藍会社「朝陽館」への明治新政府からの融資を指す。インドから大量に輸入される藍に対抗して、品質の良い藍を国産して対抗しようと事業を興したが、明治16年に業績悪化のため閉鎖。
大阪市『17.五代友厚(ごだいともあつ)製藍所・西朝陽館(にしちょうようかん)跡』
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009886.html

 

 萬年会申合規則に会の主旨が述べられています。以下に示します。この文中で、「各地」とあるのは、地方と中央の殖産興業に必要な知識、情報の格差を解消し、地方の殖産興業力の底上げをすることと、各地で保有する知識、ノウハウの全国流通を目指しているという意味です。萬年会の設立目的は、木戸の地方への思いと同じでした。

 

『本会の経済上各地人民ノ知ラント欲スル事ヲ知ラシメ、又其事情ヲ審察シテ之ニ適応スルノ方法ヲ案ジ、以テ文明ノ道ニ進マン事ヲ謀ルノ主旨』

 

 萬年会は、当局の圧力に留意しながら「萬年会報告」を発行し続けました。殖産興業に限らず、重要な社会インフラ技術である電信技術に関し、世界に誇る日本の電気工学者、志田林三郎*⁶が、明治18年6月に、「電気応用論第一回電信学術の進歩」と題した講演を行い、「萬年会報告」に収録され、全国に配布されました。

 この講演では、電信の原理および実現方法を丁寧に説明し、日本国内および地球上の電信網を紹介し、さらに実際の電信技術を説明しています。志田の講演録が雑誌を通して全国へ配布されたことで、電信技術の知識と国内外の電信網の状況を全国の会員に知らせることができました。同年12月に初代内閣が発足し、榎本は、工部省から分離独立した逓信省の初代大臣に就任し、志田は逓信省工務局長に任ぜられました。

 志田以外にも化学工業など幅広い分野で重要な仕事をした高峰譲吉*⁶など、当時、学術、実業の最前線で活躍していた人物達が講演し、知識を全国に広めました。また、北越(柏崎)の石油とガスに関する特集も「萬年会報告」に掲載されています。萬年会は、現代で言えば、国内トップレベルや業界のリーダ格の人材が、オンラインで講演をするように、様々な産業分野の講演や解説、報告、資料を雑誌に収録し、全国に向けて発送しました。

 明治29年に欧米の視察から帰国した片山潜*⁷は、翌年7月に労働組合期成会を結成し、12月に「欧米に於ける市区改正を論及し、併せて公共事業に及ぶ」と題して、欧米の政治や行政の視察結果を萬年會で講演しました。萬年会で、農工商など殖産に関する技術知識や経営ノウハウと切り離せない労働問題や社会政策などについても講演されました。

 萬年会の講演など諸会合の出席者の記録に、大鳥圭介らの名前はよく登場しますが、榎本の名前はなかなか見つかりません。榎本は公務が忙しく、出席が難しかったのでしょうか。榎本のことですから、例会後の懇親会には必ず出席していたとみるべきでしょう。榎本農商務大臣が開催した、明治29年10月開始の農商工高等会議に招聘されたメンバーには、片山潜もいました。萬年会の活動に榎本の意向が参考にされ、一方、萬年会の講演、考究は榎本の政策に反映されるという関係があったと言えます。

*¹こんどう・へいざぶろう、1877-1963、静岡県松崎生。東京帝国医科大学薬学科卒業。陸軍薬剤官時代に留学。東京帝国大学教授。乙卯(いつう)研究所を創立し、天然物有機化学の発展に力を注いだ。各種アルカロイドの独創的発見で高い評価を得る。(根本曽代子、コトバンク)

*²やなぎはら・さきみつ、1850-1894、公家。戊辰戦争時、東海道先鋒副総督、甲斐鎮撫使(ちんぶし)。日清修好条規交渉を主導。大久保に同行し台湾出兵の処理をした。西南戦争時は黒田清隆に同行し、島津久光を慰撫。その後、様々な官職に着いた。榎本の後任の駐ロ全権公使。(落合弘樹、コトバンク)

*³いしぐろ・ただのり、1845-1941、福島県伊達市生。日本の軍医界の功労者。陸軍衛生部の基礎を確立した功労が大きい。様々な関連団体の会長職に就いた。(大鳥蘭三郎、コトバンク)

*⁴つだ・せん、1837-1908、佐倉藩士(千葉県)の四男。外国奉行通弁、明治維新後は、西洋の学者、教育者。青山学院の前身の学校創設に関わる。キリスト者。次女は津田梅子。(船津 功、コトバンク)

*⁵ひだ・はまごろう、1830-1889、伊豆八幡野村(伊東市八幡野)生。江川塾などで学び、長崎海軍伝習所で榎本と共に蒸気機関を学ぶ。渡米時の咸臨丸機関長。1866年、日本最初の蒸気機関付軍艦千代田形を共同で完成させた。明治新政府では横須賀海軍造船所長、海軍機関総監。岩倉具視から緻密な頭脳を高く評価されていた。日本鉄道会社の創設に尽力。(土屋重朗、コトバンク)

*⁶しだ・りんざぶろう、1856-1892、佐賀藩出身。グラスゴー大学に留学し、ケルビン卿に師事し、金時計を授与される。工部省から逓信省を分離し、さらに、電磁気学とその応用の領域を工学会から独立させ、電気学会を創立。榎本逓信大臣とともに無線通信実現のチャレンジをした。水中無線関連の論文は電気学会雑誌に掲載されている。

*⁶たかみね・じょうきち、1854-1922、越中国高岡の漢方医の長男。タカジアスターゼの発明、アドレナリンの発見など、製薬業界における輝かしい業績を残した。理化学研究所設立を提唱した。 科学者、発明家、企業家。ワシントンに植えられた桜を寄贈した。(引用元:『特定非営利活動法人 高峰譲吉博士研究会』https://npo-takamine.org/who_is_takaminejokichi/)

*⁷かたやま・せん、1859-1933、岡山県久米郡の庄屋の生まれ。米国に渡米し独力で11年間勉学し、キリスト教徒になる。明治30年に日本最初の組織的労働組合運動と社会主義グループを成立した。(岡本 宏、コトバンク)

榎本は、農商務大臣であった明治29年10月に農商務省による第一回農工 商高等会議を開催し、職工の保護法制化を取り上げた。片山潜らも出席した。

参考文献

・2010年12月に、筆者は故西川治元東京大学名誉教授から、1993年5月発行の『学鐙』に掲載された、須々田黎吉「萬年会と創立者渡邉洪基の「夢」」『学鐙』(第90巻5号、丸善、1993.5)をご教示いただいた。故、西川先生に感謝申し上げます。須々田黎吉は1932年生、元東京農業大学教授、農学博士。
・黒木彬文『自由民権運動と万年会の成立 ―非藩閥政府高官・渡邉洪基の殖産興業活動―』九州大学大 学院法学研究院政治学研究会「政治研究」(34)pp.45-82、1987
・瀧井一博『渡邉洪基』ミネルバ日本評伝選、2016

 

【第一世代の国民と第二世代の国民】

 

「第一世代の国民」(天下公民、公民)*¹は、700年代の過酷な防人や租庸調が課せられていました。第一世代の国民が作られた後、庚午年籍(670)と壬申戸籍(1871)を基準にして計算すると約1200年後に新たに「第二世代の国民」(臣民)が作られました。1200年の間、百姓たちは、様々な境遇を切り抜け、政治的集団「村」に辿り着きました。百姓たちは村の自治のもとで暮らしました。幕末の約20年間、徳川幕府の洋学研究教育機関である「開成所」*²は、米国の歴史から始まり、西洋各国の事情、西洋の国内法や国際法に関する文献、榎本らとともにオランダへ派遣された津田真道や西周らの洋学研究班の講義筆記録を邦訳、出版し、人権や政治システム、西洋史などに関する知識の普及に努めました。その影響で、明治新政府が新たに国民を作ると、国民は、中央専制政府に対し、政党政治や国会開催、選挙権を要求し、激しい闘争をしました。そして、壬申戸籍作成から17年後に大日本帝国憲法を施行させ、第一回衆議院議員総選挙を実施させました。しかしその後は、日清、日露、・・・と繰り返される対外戦争の試練と貧困が、彼らを待ち構えていました。

 明治新政府はその後、陸軍、海軍、内閣(議会)という三君政治に陥りました。その結果、内閣と各軍とが明治天皇の下、並列であるため、大君である天皇が政治をしないのなら、クラウゼビッツの戦争論で論じられている、戦争は政治の延長、政治の手段たり得ない構造でした。昭和に入ると、内閣の政策と無関係に戦争を続けていることが軍の目的となり、政治と戦争とは乖離を続けました。第一世代の国民に課せられた「租庸調、防人」と比べ、第二世代の国民の行き着くところははるかに過酷、悲惨でした。

*¹坂本太郎博士古稀記念会 編『続日本古代史論集』中巻,吉川弘文館,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3035209 (参照 2023-09-05)
*²開成所の由来、出典 激動幕末 - 27.合衆国小誌:国立公文書館 (archives.go.jp)
『嘉永7年(1854)に日米和親条約を結び西欧諸国との交渉が頻繁になると、幕府は翌年[1855]、天文方に置かれていた蛮書和解御用の局を独立させ、洋学所としてこれを江戸九段下に設置しました。洋学所は安政3年(1856)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称。文久2年(1862)に洋書調所と改められたのち、文久3年(1863)にさらに開成所と改称され、外国語学習だけでなく、西欧の進んだ科学や兵学の知識をいち早く摂取するための総合的な研究機関としての体裁を整え、幕臣のみならず諸藩からすぐれた人材が集められました。』

 

【補足−大久保の地方自治構想】

 大久保利通の政治手法が有司専制的と批判をされるが故に、大久保は専制主義的な中央集権国家を建国しようとしていたと考えられているが、竹下譲『地方自治制度の歴史 明治の激論−官治か自治か』(イマジン出版、2018、pp.111-173)に示された、大久保の地方政治に関する論述からすると、大久保の考えは日本の歴史的な村落共同体を維持しながら列強に対峙できる国家を建国しようとし、単に西欧の社会システムを日本にコピーしようとしていないことが分かる。

 明治11年4月11日、第二回目の地方官会議(全国の知事が参加する会議)の開院式が行われ、翌日から審議が始まった。議長は伊藤博文で、第1議案は、郡区町村編制法案だった。大久保利通内務卿の上申書の起草者、松田道之内務省大書記官が法制定の主旨を説明した。大きくは、町村の自治に関する内容だった。

 大久保・松田案の主旨は、次のようであった。日本の郡町村は、数百年続いた、自然発生的な部落(自治組織)で、「一個人」と同じ権利を保持している。そうした町村には行政は立ち入らず、純粋に自治体にするということが郡区町村編制法案の主旨であった。町村の長(戸長)を、官吏ではなく、民に属する者とし、戸長を住民の「総代」にしたいということである。但し、都市部は集落としての性格が違うので、対象外であった。松田は、大久保内務卿の影響力をバックに主張を推し進めることが可能であった。

 戸長を官選にするか民選にするかで議論が白熱したので、伊藤博文議長は熟慮時間を設定した後、4月15日にいきなり採決し、賛成23,反対10で無修正のまま地方長官会議を通過させた。引き続き、本案は5月14日に元老院で審議が始まり、法案は採決されると圧倒的多数の議官の支持により可決した。他の法案審議日程との兼ね合いで、趣旨と各条文が合致しているかの検討はすぐ行われず、5月16日に地方税規則案について審議が行われたとき、すでに決議済みの郡区町村編制法案が手のひらを返したように蒸し返され、そこから反対議論が始まった。

 特に、14日の会議で曖昧な質疑をして済ました陸奥宗光は、今回は言語明瞭な熱弁で反対をした。法案に反対する者が多く、法案を詳細に検討し、修正を加える委員を選出して作業し、5月24日に再度審議を行ったところ、法案は「総代として戸長を一人おく」の文言中、「総代として」が削除され、「戸長一員を置く」に変えられた。民治から官治への180度の急変は、5月14日の朝8時、大久保利通が暗殺されたことと関わりがあると考えられている。大久保の部下として立案作業を行った伊藤博文法制局長官は、大久保暗殺の翌日、15日には既に内務卿に就任していたが、大久保の遺志を引き継いだ言動は無かった。

 木戸は木戸なりに、大久保は大久保なりに地方と中央、個と全体といった政治システムの日本的在り方を考え、段階的に前進しようとしていたが、木戸、大久保亡き後、伊藤博文は専制的中央集権国家を建国しようとしていた様子を『自由党史』は書き残している。

 板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史 (下) 』岩波文庫青105-3、1958、pp.378-379

『院議あるの日、天皇親しく之に臨み、伊藤博文議長として、・・・。 始め伊藤が編成せる所の憲法草案は、人民の権利を画すること極めて狭小にして、其条章中には、帝国議会の発議権を許すの項目無く、議員を以て単に国政諮詢(しじゅん[参考にする])の府と為せるを以て、枢密顧問官寺島宗則は大に之を不可と為し、理に拠って之を論じ、且つ斯の如き憲法にして若し発布さらるれば、国民は必ず激怒して、其極如何なる擾乱[じょうらん]を惹起[じゃっき]するやも知るべからずと説き、大いに之を争う所あり。弁難攻撃の末、終に議会に発言権を與ふるの条項を之に加ふる事となり、・・・』さらに、議院に弾劾権がないことを知った鳥尾小彌太は大いに憤慨し、『専制国たる支那に於いてすら、御史の設けありて弾劾の事あるに、・・・』と主張し、弾劾権を認めなければ、憲法草案を認めないと伊藤に迫り、弾劾権の条章を追加させた。

参考 「国民第一号」(初代国民)に関しては、2015.7.12開催、横浜黒船研究会講演会の講演資料、中山昇一『開国・明治維新から産業立国実現までの百年間を俯瞰する』を参照した。


コメントする

内容をご確認の上、送信してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

社会 | 政治 | 経済 | 暮らしの関連記事

Top