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大川小学校の悲劇と我慢強い東北の哀しみ

2020.02.28 Fri

あの日から、間もなく9年になる。海が黒い壁となって押し寄せ、あまたの命をのみ込んでいった。目に見えない放射能にさらされ、多くの人が住み慣れた土地を追われた。

先の戦争が終わった8月15日を節目に「戦前」「戦後」と言うように、東日本大震災があった3月11日を境にして「災前」「災後」と呼ぶようになるのではないか。誰かがそんなことを書いていた。あの大震災は、そうなってもおかしくないほど強烈なインパクトを私たちの社会に与えた。

けれども、そうはならなかった。福島の原発事故では原子炉がメルトダウンして放射性物質をまき散らし、首都圏を含む東日本全体が人の住めない土地になる恐れもあった。それを免れることができたのは、いくつかの幸運が重なったからに過ぎない。なのに、政府も電力業界も素知らぬ顔で原発の再稼働を推し進めようとしている。

大震災の前と変わらない日々。災いから教訓を汲(く)み取り、それを活かして新しい道を切り拓く。それがなぜ、できないのか。

津波に目を向ければ、石巻市の大川小学校の悲劇がある。

学校に残っていた78人の子どものうち74人、教職員11人のうち10人が亡くなった。被災地にあったすべての小中学校で教員の統率下にあった子どものうち、命を落としたのは大川小学校以外では南三陸町の1人しかいない。高台に逃げる途中で波にのまれたケースだ。こうした事実は、この小学校で「考えられないような過ち」がいくつも重なったことを示している。

にもかかわらず、石巻市も宮城県も過ちを認めようとせず、言い逃れと責任回避に終始した。子どもを亡くした親たちが裁判に訴え、最高裁判所が昨年10月に石巻市と宮城県に損害賠償を命じるまで「津波の襲来は予見できなかった。過失はなかった」と言い続けた。

責任逃れをしただけではない。当事者がウソをつき、事実を隠蔽した。それが、子どもを失って打ちひしがれた親たちの心をどれほど苛(さいな)んだことか。

数々のウソの中で最もひどいのは、教職員で唯一生き残った遠藤純二・教務主任のウソである。大川小の子どもたちは北上川沿いの高台に向かう途中で津波にのまれたが、列の最後尾にいた遠藤教諭は学校の裏山に登って助かった。

イギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏の著書『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房)によれば、被災から4週間後に開かれた保護者向けの説明会で、遠藤教諭は次のように語った。

「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もう駄目だと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら、数メートル先のところに3年生の男の子が助けを求めて叫んでいました。(中略)絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登っていきました」

この証言の中に、いくつものウソがあった。学校の裏山の杉の木は1本も倒れていなかった。遠藤教諭は「波をかぶった」と言ったが、彼が男の子を連れて助けを求めた民家の千葉正彦さんと妻はそろって「服は濡れていなかった」と明言した。

唯一生き残った教員がなぜ、ウソをつかなければならなかったのか。記憶が混濁していただけなのか。彼はその後の裁判でも、「精神を病んでいる」として証言に立つことはなかった。虚偽の事実を並べ立てた理由は、いまだに分からない。

大川小の子どもの中には、学校に迎えに来た親と帰ったため難を逃れた子もいる。そうした子どもの1人は、6年生の男の子が「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」と訴えていたのを覚えていた。

石巻市の教育委員会は被災後、生き残った子どもたちからも事情を聴き、記録した。ところが、公表した記録にはこうした証言が収録されていなかった。それどころか、保護者たちが事情聴取のメモの開示を求めたところ、「メモはすべて廃棄した」と答えた。

学校や教育委員会の過失とみなされるような証拠を隠蔽したのである。メモを廃棄した指導主事は翌年、小学校の校長に昇進した。「組織を守るために力を尽くした」ということなのだろう。

大川小学校の悲劇については、ジャーナリストの池上正樹、加藤順子両氏による『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など優れた本がいくつか出版されているが、取材の広さと深さという点で、リチャード・ロイド・パリー氏の著書は群を抜いている。

パリー氏が初めて日本を訪れたのは高校生の時である。クイズ番組で優勝し、そのご褒美が日本旅行だった。オックスフォード大学で学んだ後、イギリスの新聞の東京特派員になった。震災の時点で在日16年。日本の内情についても、地震についても熟知していた。

この本を書くために、彼は6年の歳月を費やした。インタビューするたびに遺族は涙を流した。「どうしてこの人たちを泣かせなければならないのか」と苦しんだという。それでも、意を決して彼らの声に耳を傾け続けた。

子どもをすべて奪われた親がいた。子どもだけでなく、家族全員が亡くなった人もいる。遺体がすぐに見つかった親もいれば、いつまでたっても見つからない親もいた。遺体を見つけるために重機の免許を取って探し続けた母親もいる。命の数だけ深い悲しみと苦悩があった。

遺族の中には石巻市と教育委員会の対応に納得できず、「一生かげで、死んだがきどもの敵(かだぎ)とってやっからな」と怒りをぶつける者もいた。裁判で責任を追及しようとする親もいれば、それに反発する親たちもいた。

苦悩に打ちのめされた親の中には、死んだ者の霊を自分の身体に乗り移らせて、その言葉を語る「口寄せ」の女性に頼る人も出てきた。日本のジャーナリストはまず、こういう話を取材しようとしない。だが、パリー氏はそこにも分け入っていく。それが大川小学校の周りで起きたことの一つだからだ。

被災地では「幽霊を見た」という話がささやかれるようになった。そうした中で、津波が到達せず、まったく被害を受けなかった家族が10日後、車で山を越えて被災地を見に行った。その晩から、男性の様子がおかしくなった。

彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団をなめ、獣のように身をよじらせて叫んだ。「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」。奇行は何日も続き、妻は知り合いの住職に除霊を依頼した。

般若心経を唱えて霊を取り除いた住職は次のように語った。

「彼は被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません」「自分の行動に対して、ある種の罰を受けたんです。何かがあなたに取り憑(つ)いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう」

こうしたことも、被災地で起きたことの一つとして書き留めた。

避難所での経験にも触れている。取材するパリー氏に対して、避難した人たちはしばしば食べ物を分け与えようとした。「次の数日、あるいは次の数時間のための食べ物しか持たないはずの避難者たちが、私に食べ物を渡そうとした。つい最近、家を失ったばかりの人々が、おもてなしが不充分であることを心からすまなそうに謝った」

「これこそが日本の最高の姿ではないかと感じた。このような広大無辺な慈悲の心こそ、私がこの国についてもっとも愛し、賞賛することの一つだった。日本の共同体の強さは、現実的で、自然発生的で、揺るぎないものだった」

そして同時に、東北の哀しみについても書く。

「東北地方の住人たちは、とりわけ我慢強いことで有名だった。だからこそ、彼らは何世紀にもわたって寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えることができた。歴史的に中央政府が損な役回りを彼らに押しつけてきたのも、その我慢強さゆえのことかもしれない。東北地方では、娘たちを身売りし、息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出すのが珍しいことではなかった」

「人々は文句も言わずに黙々と働いた。そうやって黙り込むことがなにより大切だった。(中略)住人たちは変化することを拒み、変化するための努力を拒んだ。理想的な村社会とは、対立が不道徳とみなされる世界だった」

震災の後、被災地でも私たちが暮らす山形でも「がんばろう東北」という標語をよく目にした。その言葉に共感しながらも、私はどこか引っかかるものを覚えていた。それが何なのか、自分でも理解できなかったが、パリー氏の著書を読んで、腑に落ちた。

そうなのだ。我慢することは大切だ。黙り込むことも時には必要だ。けれども、それをやめなければならない時、というのがあるのではないか。

黙り込むことによって、この山形では、地元の新聞とその企業グループがすべてを支配し、逆らう者を許さないという状態が何十年も続いた。逆らえば暮らしていけない、という状況を生み出し、それを多くの県民が黙認した。

そして、それがようやく終わったと思ったら、今度は吉村美栄子知事の権勢を背に、吉村一族の企業グループがのさばり始めた。政治家も経済人もメディアも、それに異を唱えようとしない。

何をしなければならないのか。その答えも、パリー氏の著書に見出すことができる。彼は「日本人の受容の精神にはもううんざりだ」としたため、次のように語りかけている。

「日本にいま必要なのは、(石巻市の責任を追及した)紫桃(しとう)さん夫妻、只野(ただの)さん親子、鈴木さん夫妻のような人たちだ。怒りに満ち、批判的で、決然とした人々。死の真相を追い求める闘いが負け戦になろうとも、自らの地位や立場に関係なく立ち上がって闘う人々なのだ」

 

*このコラムは月刊『素晴らしい山形』の2020年3月号に寄稿した文章を転載したものです。

 

≪写真説明&Source≫

◎震災から5年後の大川小学校

https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/160326/lif16032609230004-p1.html

 


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