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榎本武揚と国利民福 Ⅲ 安全保障(後編-1)

2020.10.25 Sun

(明治9年10月11日付け、榎本からのシベリア経由の帰国上申を寺島外務卿から三条実美太政大臣に伺い。国立公文書館所蔵)

 

国利民福 Ⅲ.安全保障 後編-1

 

  • 日露和親条約から樺太・千島交換条約へ

 

 

 1855年2月(安政元年12月)に下田で日露和親条約が締結され、日露の国交が始まりました。この条約では、択捉島と得撫(うるっぷ)島との間を国境としましたが、樺太は従来通り、日露両国民の雑居地とし、国境にあいまいな箇所を作り領土問題を残しました。ロシアは徐々に樺太から日本人を追い出し、実効支配をするつもりでいたのかも知れません。

 

 日露和親条約締結に先立ち、嘉永7年1月14日(1854年2月11日)、ペリー艦隊が江戸湾に再び姿を現します。3月に箱館奉行、堀利熙は北の周辺の巡回に出かけました。そのとき、私的小姓として19歳の榎本は堀利熙に随行しました。榎本はこの時から日露の国境問題と関わり始めていました。そして、榎本は朝廷に北の護りと蝦夷の開拓を願い出ましたが無視され、その後、箱館戦争に敗戦し、1869年(明治2)年5月に箱館から陸路で東京へ護送され、投獄されます。榎本は34歳でした。

 

 この頃、日本政府の外交はどのような状況だったのかを石田徹『明治初期外務省の朝鮮政策と朝鮮観』早稲田政治経済学雑誌(364)、2006から関連箇所を以下に抜粋、要約しました。

 

『明治2年8月以降、パークス(英国公使)と明治政府要人との間で数度に渡り樺太問題について意見交換が行われた。パークスは、日本側の外交失策によりロシアが北海道を獲得することを恐れ、明治政府要人に樺太から撤退するよう忠告していた。』その後、樺太でのロシアの横暴(アイヌ人の墓地を掘り起こし道路建設を強行したこと)に日本政府は繰り返し厳重抗議しましたが、ロシアから受けた反論にたいし議論は平行線のままで、ロシアの横暴も植民活動も続けられました。『明治3年1月にはロシア側が母子泊(ハコドマリ)の日本側漁場に波止場建設を開始、その抗議と建設阻止に向かった日本側官吏6名が逆にロシア側に拘束されるという事件が起こる。』この国辱的事態に対し現場からはロシアへの報復を求めますが、外務省はなすすべがありません。さらに、樺太から帰朝した丸山はドイツ人から20万円を借り入れ、征韓を計画し、取調を受けることになりました。日本は樺太問題で正論を唱えても国際的には受け容れられず、さらに強硬論に訴えることもできないという事態が外務省に与えた屈辱感は大きかっただろう。その雪辱は国威の発揚につながり、国威発揚の場が、たまたま明治初年以来懸案だった朝鮮外交論へ投影されていった。そして、明治2~3年夏にかけての朝鮮政策論で強硬論が目立ち始めた。
丸山作楽(まるやまさくら、1840~1899) 島原藩士。明治二年に政府に出仕し、外務大丞として樺太へ出張し、ロシア側と漁場の問題などを交渉した。翌三年に帰京後、ロシア南下対抗の強硬論を主張したり、征韓論に与したり、対外強硬派になる。反乱を起こし、征韓論を実行しようとしていたことが発覚し、終身禁固刑になる。その後の恩赦で出獄し、保守政治家として活動を続ける

 

 明治3年5月に黒田清隆は樺太専任の開拓次官になります。同年7月に樺太を視察し、ロシア側の官吏と会い、その後、北海道を視察して帰京しました。そして、黒田は同年10月に雑居状況下にある樺太での日本の実効支配が三年持たないこと、北海道の開拓に注力することを建議します。

 

 黒田が予言した樺太から日本が追い出されるかもしれない明治6年の前年初め、黒田清隆の尽力で榎本らは赦免され出牢します。薩摩の大久保利通は国情を考えると藩閥を言っている場合では無い、全員参加して国内外の諸問題に対処しなければならないとして、岩倉具視に榎本らの早期出牢を求めていました。

 

 榎本は明治5年の出牢後は開拓使として北海道で仕事を始めます。その後政府は、明治7年初めに、榎本を樺太問題でロシアから追い込まれた状況下、対露領土問題処理のための特命全権公使に選び、ペテルブルグへ送り込みます。榎本はペテルブルグに到着した時、39歳でした。箱館奉行の堀利熙の小姓として北の大地を歩いてまわってから、20年後のことです。

 

 

  • 条約締結後の榎本の想い

 

 

 榎本はオランダ留学時代(1862~1867)の仲間、林研海の妹、多津(1852~1892)と1867(慶応3)年6月(頃)に結婚しました。榎本、32歳、多津、16歳でした。その後の二人は幕末から明治への動乱に翻弄され、榎本は結婚した翌年の1868年8月に徳川の艦隊を引き連れ脱走し箱館で陣を構え、多津は榎本の家族と共に静岡藩へ移り住みます。
林研海(1844~1882) 医師。初代順天堂堂主、佐藤泰然の娘、つると医師の林洞海との間に生まれる。陸軍軍医総監。

 

 

 榎本は箱館戦争で敗戦し投獄された後、1872(明治5)年正月に出牢しますが、すぐ開拓使となり、函館に赴きます。その後、1874(明治7)年6月には公使としてペテルブルグに着任します。

 

 榎本は、『御用向きは重き事なれどもつまり人間のする仕事なれば人の思うほど難しい事は無い』(1875(明治8年)2月14日)と東京にいる妻に手紙をしたためながら仕事をしていました。

 

 この手紙のおしまいに、「御まえとは(結婚して以来)今まで6,7ヶ月一所(一緒)に住んだことしか無く、とかくそのことが懐かしい、二年半か三年のうちには帰国できるので、それまで子供の成長とともに月日が経つのをお待ちください」と嘆き、また多津を慰めました。そして、樺太・千島交換条約が締結(1875年5月7日)できたので、早々に帰国したい想いでした。

 

 その手紙を書いた翌年、1876(明治9)年11月21日付けの妻への手紙に、来年、シベリヤ経由の帰国が許可されたこと、12月19日の手紙には、来年5月にシベリヤ経由で帰国することになったと書きました。榎本はうれしさ一杯だったはずです。

 

 しかし、翌年の1877(明治10)年3月17日の手紙で魯土戦争のため帰国が延期になりそうだ、と妻に書き送っています。榎本の帰国準備中の1877年4月に露土戦争が始まり、本国から露土戦争終結まで帰国を延期するようにと指示されてしまいます。榎本は、今回の帰国延期はしかたないが、今後、もし、さらなる延期の指示があったら、受け入れ難い、という思いでした。
 魯土戦争 露土戦争とも榎本は手紙で使っています。ロシアとトルコの戦争。1768~74,1787~92,1877~78の三回行われた。今回はバルカン半島のキリスト教徒をトルコが弾圧したとして、キリスト教徒の保護を口実にロシアが開戦しました。

 

 

  • 榎本がペテルブルグに着任するまでの19世紀のロシア

 

 

 ロシアの19世紀は、1801年3月のエカテリーナ一世(1684~1796)の息子パーヴェル帝(1754年10月1日~1801年3月23日)の暗殺で幕開けをしました。すぐアレクサンドル一世(1777年12月23日~1825年12月1日)が23歳で皇帝に即位しました。エカテリーナがスイス人で共和主義者の家庭教師をアレクサンドル一世に付けていた結果、若きアレクサンドル一世はロシアに自由を与え、自由を専制と暴力とから守ることを希望しながら即位しました。

 

 アレクサンドル一世は三権分立の導入などで改革を図ろうとしましたが、ナポレオン戦争の勃発で改革できずに終わりました。1812年、ナポレオン軍に勝利したロシア帝国皇帝アレクサンドル帝に率いられて愛国的、青年貴族将校はパリに入城しました。青年貴族将校たちは、数か月間、革命後のパリに滞在したことで、ロシアに自由な市民社会を夢見るようになります。しかし、ナポレオン戦争勝利後のアレクサンドル一世は、青年将校らの動きを警戒し、逆に専制を強化しました。

 

 アレクサンドル一世の崩御により、1825年12月、ニコライ一世(1796年7月6日~1855年3月2日)が皇帝に即位します。新しい皇帝に近衛将兵が忠誠の誓いをする儀式で若い貴族将校たち革命家が、誓いの拒否、立憲制の導入、農奴制の廃止、信仰の自由を求めて、ロシアで最初の武装蜂起、革命を起こしますが、準備不足で失敗します。その他地域でも蜂起しましたが、ニコライ一世により鎮圧されました。ニコライ一世はピョートル大帝(1672~1725)以来の南下政策をとりクリミア戦争を戦うも敗戦し、ロシアの近代化への遅れという問題を認識しますが、クリミア戦争終結前に崩御します。
 ロシア語で12月をデカーブリというので、デカプリストの蜂起と呼ばれている。

 

 

 1855年に即位したアレクサンドル二世(1818年4月29日~1881年3月13日)は戴冠式直後に政治犯へ恩赦を与え、続いて、1856年にクリミア戦争の敗戦処理(パリ条約締結)をした後、農奴解放に取り組む演説を行い、近代化のための大改革を始めます。また、アヘン戦争(1839~1842)を契機に欧米列強が東アジアへの進出を本格化していることを知り、ロシアも東アジアへの影響力を高めようとしました。日本との国交樹立(1855)も進めました。

(ここまで、土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007を参照しました)

 

 

  • 榎本とナロードニキ運動-ロシアの国内情勢

 

 

 榎本はペテルブルグに1874年6月に着任します。ロシアで軍制改革(兵役義務化)があった年です。この頃のロシアはクリミア戦争敗戦(1856年)から立ち直り、国力を回復させ、国内の大改革が進んでいました。

 

 榎本が、ロシア国内の情勢をどうみていたのか、中村喜和一橋大学元教授の『御用向きは重きことなれども―ロシア公使時代の榎本武揚の宅状より―』(『遙かなり、わが故郷』成文社、2005年4月)から抜粋して紹介します。

 

 

 榎本は日本人がロシアを大いに恐れ、今にも蝦夷を襲ってくるに違いないなどとは何の根拠もない当推量の認識を持っているから、自分がシベリア経由で帰国して、みんなに実態を教えると豪語していました。陸路でウラジオストクへ旅行し、ロシアの国情をよく見てみようという企画です。榎本の思考は地政学的には広大な領域をカバーしていましたが、外交官という立場からロシア政府の上層部のみと交際する日常が原因で、ロシア社会への洞察が不十分だったようです。

 

 1874年「ヴ・ナロード」を合言葉(スローガン)に何千人もの学生が農村へ革命の宣伝活動に出かけました。ナロードとは人民、農民に代表される民衆という意味です。ヴ・ナロードは民衆の中へという意味です。学生が農民服を着て、宣伝用のパンフレットを携え、農村へ出かけ、農民の中に入り、啓蒙し、革命運動を組織化しようとしました。学生を主体とする知識人がナロード(民衆、農民)を地主や官吏の抑圧から解放することが運動の目的です。
 「ヴ・ナロード」
榎本が着任後暫くして、1874年夏にペテルブルグ、モスクワに住む多数の若者たちが農村に入って、自らが信奉する「社会革命」の理念をプロパガンダする運動が起きました。この運動は「民衆の中へ(ヴ・ナロード)」と呼ばれ広く知られるようになりました。

 

 この年の夏、この運動は頂点に達し、歴史上「狂った夏」と呼ばれました。「ヴ・ナロード」を熱狂的に推し進めた学生たちは自らを「ナロードニキ」と自称しました。ナロードニキとは「民衆主義」です。その余波であるペテルブルグ大学での学生と教師との衝突を心配した妻からの問合せに榎本は次のように答えています。

 

 1875(明治8)年2月14日付け、妻、御多津宛の手紙のことです。『旧冬(1874年暮)当表騒動の風説御申越しに候へども右は学校の書生と先生との間に起こりたる事にて政府を覆す抔(など)とはまるでうそ事に候、当表に而も此の書生さわぎを知らぬ人多く候』

 

 二年後の1876年12月18日にはもっと大規模な事件が起こりました。榎本は翌年正月元日付けの手紙の中でこの事件を報じました。

 

『先達て書生32人一揆ケマシキ騒動ヲシテ捕縛セラレタリ。女書生11人加われり。彼らの騒ぎハマサカ肥後の神風連や長(州)の前原のごときツジツマの合わぬ事ならぬど、矢張向フ見ズの所業なり。其趣旨ハ政府の抑圧を怒り自由説を唱へ、小旗に自由といふ字を書き人中にて振廻し祝声(シュプレヒコール)を揚ケたるなり。32人皆窂に入れられたり。頭立たる者ハシベリヤへやられ可申との噂。』

 

 これは聖者ニコライの祝日の当日、ネフスキー大通りの中央にあるカザン大寺院の前で起きたので、「カザン広場のデモ」と呼ばれている事件のことです。32人の逮捕者が出て、そのうち11人が女性*1であったという数字はロシア政府側の発表と合致しています。ただ、この集会の首謀者で演説をぶった革命家プレハーノフ*2をはじめ多くのデモ参加者が逃走したという事実は榎本の宅状では抜け落ちていました。

 

*1 ロシアの女子教育 ロシアの大改革の一環として学校制度の整備が進み、高等教育を受ける学生数が急増した上に、ペテルブルグ、モスクワ、カザン、キエフの各都市で大学タイプのカリキュラムで運営された女子高等課程と女子医学専門学校が相次いで創設され、女子の学生数は学生数全体の三分の一に迫る勢いだったので、ナロードニキ運動で取調を受ける女性が増えました。

 

*2 ゲオロギー・プレハーノフ(1856~1918) モスクワの南東480kmの地点で農業地帯のタンボフ県の小貴族の家に生まれる。ロシアの革命家、ロシア・マルクス主義の父と呼ばれている。ナロードニキ運動から社会革命運動を開始し、国外に亡命中に、ロシア・マルクス主義の基礎を築いた。ロシアでの労働者階級と農民階級の同盟の問題を巡ってレーニンと対立する。日露戦争には敗北主義、第一次世界大戦では連合国側を支持し、ドイツ軍国主義に対抗した。

 

 

 それにしても、榎本がナロードニキの運動を熊本の神風連や長州萩の乱と対比させていることは興味深く、この年のうちに起こる西南戦争(1877年、明治10年)のことを考えると、この時期、日本社会も大いに動揺していました。運動の内容は、日本各地でやがて起こる自由民権運動のほうがナロードニキ主義に近いように思えます。為政者から見れば、ロシア同様に警戒すべきものでした。

 

 以上、中村喜和一橋大学元教授の『御用向きは重きことなれども―ロシア公使時代の榎本武揚の宅状より―』(『遙かなり、わが故郷』成文社、2005年4月)からの抜粋でした。

 

 榎本は政治に無関心だとよく言われます。しかし、それでも上記の程度は家族宛ての手紙に書いています。フレデリックス先生からヨーロッパの歴史に詳しいと評価を受けた榎本が現場にいて、ロシアの政治状況を把握できないことはありません。むしろ当時の国際情勢や各国の政治事情を把握し、理解していたとみるべきでしょう。外交官という立場から外交儀礼としてロシアの国内の事情や情勢についてあまり語らなかったのかもしれません。

 

 

  • 榎本の露土戦争への見通

 

 榎本は露土戦争をどう見ていたのかを榎本の宅状を通して、見てみます。

 

(1)明治10年7月28日付け、妻あて

 

 次の一文は言葉少なですが、国際情勢を把握し、各国の動きをよく分析し、今後に起きる事をよく見通しています。

 

『イギリスがトルコを助けてロシアと戦うという趣意ではなく、トルコ領内の肝要なる場所を自分も奪って、ロシアが地中海へ出る邪魔をするつもりなのでしょう、油断できない先生たちです。』

 

 「トルコ領内の肝要なる場所」とはキプロス島の事です。1878年の露土戦争で英国がトルコに便宜を図った見返りにキプロス島の統治権を獲得します。英国は露土戦争で一発の銃弾も放たずに、敗戦したトルコからキプロス島を得ました。以前からエジプトの植民地化を目指す英国には、キプロス島は重要な戦略拠点という認識がありました。すでに英国のディズレーリ首相とロスチャイルドにより1875年に英国はスエズ運河会社の株44%を取得し、筆頭株主になりました。1877年には、ディズレーリ首相は、英国女王がインド帝国の皇帝を兼ねる事にし、ロシア皇帝に対し箔を付けてロシア皇帝に対抗しました。英国による自国の利権獲得と防衛への布石、ロシアの南下阻止の準備は着々と進められていました。

 

 ロシアがトルコと戦争している間に日本が朝鮮に手を出す気なら面白いが、決してそれはないだろうとも手紙に書いています。軍略的には可能、しかし、国際政治的には不可能と言っているのか、それとも薩長政府にはそこまでできないだろうと言っているのかは分かりません。この時、榎本が政府で主流派のトップだったら何をしたでしょう。

 

 

(2)明治10年8月12日付け、妻あて

 

『日本人が訳もしらずに「トルコ」ビイキをするハ気が知れず 手前ハ「ロシア」之ヒイキもせねど「トルコ」は決して誉むべき国にあらず 日本などのほうが国もよく人間も開けたり、魯帝之御帰国はいつや分からず親子一同戦場にあり これに反して「トルコ」帝は勿論(もちろん)其皇族の中 壱人(ひとり)も戦場にある者なし、大抵数十百人妾と共にチワグルヒ(痴話狂い)などして日を暮らし居るバカ息子のミなり』

 

 

(3)明治10年8月12日付け、らく(姉)あて

 

『ロシア兵は年二円七十五銭ばかりの給金で惜気もなく命を棄てる者かなと何れも言い做(な)せり。「トルコ」の兵は無給金にて其の上にロクな食物もアテガワズ、これにて能(よく)戦うは尚感心すべし。給金にて戦うわけにはあらね共 艱難を忍びて国の為にする赤心(まごころ)は感するに余りあり。』

 

 『榎本は、「手前楽しみになる者は第一が宅状(家族からの来信)、第二が日本新聞を読むにあり。日本新聞紙は(東京)日日新聞、報知、朝野、曙の四種にして日日はさすが福地(桜痴)之筆ゆへ第一にて、その外も随分面白く候えども、只々飽果(あきれはて)るハ社説と当初の議論文也。」「社説や理屈ポキ評論にて半分餘(あまり)の紙を塞ぐハ実に残念なり」と考えていました。 
 福地桜痴(1841~1906) 長崎の医師の家庭に生まれる。本名、源一郎。幕府外国方通訳。幕末からジャーナリスト。明治維新後、官僚を経て、東京日日新聞の主筆、社長。歌舞伎座を創設するなど芸術活動にも取り組む。

 

 

 当時の日本の新聞は、国際ニュースはおおむね英字新聞に依拠していました。ヨーロッパをはじめいたるところで、英国とロシアは利害が対立していました。当然、ロシアに批判的な英字新聞の議論が、そのまま日本各紙に受け容れられ、露土戦争の報道では終始ロシア側の戦況不利が誇大に報道されました。「日本新聞紙にこれ迄トルコ常に大勝にてロシア大マケと有之候ハ実ニアトカタナキ事のミ多し。これ英国よりのホラを電信する者あるによりてなり。」戦争の現場に近い榎本は、日本の新聞に不信感を抱いていました。』

(中村喜和一橋大学元教授『御用向きは重きことなれども―ロシア公使時代の榎本武揚の宅状より―』(『遙かなり、わが故郷』成文社、2005年4月)から引用)

 

 英字新聞とはロイター新聞のことを指します。「情報屋台『安全保障-前編』」で紹介しましたが、1870年にドイツ、フランス、英国に一社ずつある通信社が地球上のニュースを取り扱うテリトリーの分割を協議し、協定を結びました。協定の結果、日本でのニュースの受発信をロイターが独占することになりました。榎本が言う、英国よりのホラの電信とはロイター発という事になります。

 

 

「人間は信義こそ貴とけれ、富貴は春の花の如し」

 

 

 榎本はロシアから家族宛の手紙にできるだけ困っている人を援助してくださいと書いています。いくつか手紙の関連箇所を紹介します。

 

 

(1)明治9年3月27日付、多津への手紙

 

『手前入牢中親切に致呉(いたしくれ)たる人々当節困窮之者あらば お姉様にお聞合せ被成(なされ)どのようにもお救ひ可被成候。人間は信義こそ貴とけれ 富貴は春の花の如し。』

 

 「江連に250円を渡してくれるので、自分は初めて気が済みました。」と書き、「江連だけでなく、」と続けた文章です。江連とは、榎本家三女、うたの嫁ぎ先です。榎本が牢にいる間、榎本武揚の家族は、江連家に世話になったことがあったのでしょう。

 

 

(2)明治10年10月23日付け、らくへの手紙

 

『官軍病兵への出金之事 妻は少々不承知之様子 之又承知致候』

 

 らくは、榎本家の次女です。鈴木家へ嫁いでいるので、手紙に鈴木御姉様とも書きます。坂本龍馬が御姉様に頭が上がらなかったことは有名な話ですが、榎本武揚も御姉様に頭が上がらず、日本でしてたようにペテルブルグでも毎晩大酒飲んで、二日酔いで仕事をしているんじゃないかとかいろいろ手紙に書かれると、一所懸命言い訳しています。その言い訳を後の手紙に言われてもいないのに、書き加えています。

 

 酒については、当表、つまりペテルブルグでは、昼、夕に麦酒を瓶で半分くらいずつ飲む程度ですと何度か書いています。酒の量が減ったので、体の調子もよさそうだくらいのことも書いているのですが、信じて良いのでしょうか。

 

 榎本の妻、多津は、西南戦争の時、榎本の出牢の件で世話になった西郷を擁して戦う軍を攻める官軍に見舞金を出すのが気に入らないのか、それとも自分の夫が首魁をしていた蝦夷嶋政権の軍隊を負かした官軍が気に入らないのか、理由には触れられていませんが、官軍側の傷病兵への見舞金提供が気に入らないようです。

 

 海外では『公使領事連一同にて日本へ向け 博愛社へ出金いたし候』と続けて書いています。榎本は、自身の月給を太政大臣より、また公使連よりも一番多いので200円以下ではだめで300円を出すことにしましたと書き続けています。
* 博愛社 明治10年、西南戦争時に戦場の傷病兵へ医療を提供するために設立され、明治19年に万国赤十字条約に加盟したので、明治20年に日本赤十字社へと改称しました。

 

 箱館戦争の時、榎本軍に随行した医師、高松凌雲が箱館病院を開設し、戦闘中、東西両軍の兵士の治療に当たったことが日本の赤十字事業の始まりです。高松は明治12年に貧窮者に医療を施す同愛社を設立しました。社団法人同愛社編纂『日本救療事業史 同愛社五十年史』(同愛社、昭和3年)によれば初代社長は榎本でした。さらに、我が国の慈善事業史が聖徳太子に始まり、明治の民営救療事業史は同愛社が始まりと書かれています。榎本は、明治政府において非主流派とは言え、政府内で相当のポイジションを得ている事は、高松らの社会貢献事業にも役立っています。
 高松凌雲(1837~1916)筑後国の生まれ。緒方洪庵、ヘボンらに師事。徳川慶喜御殿医。徳川昭武に随行してパリで赤十字思想と活動を学ぶ。

 

 

(社団法人同愛社編『日本救療事業史 同愛社50年史』社団法人同愛社事務所、昭和3年出版の初頁、国会図書館デジタル公開)

 

 同愛社の特色の一つに、市中各区などに救療所が散在して設置されている事は、市中電車など鉄道省経営の電車等が発達していない時期に、徒歩か人力車を使って病院へ行かなければならないので、『非常ノ幸福ヲ窮民に與ヘタルモノナリ』と書いています。創業期の明治11年12月18日の集会での高松の発言では「貧民の幸福」が論じられています。国民の幸福、貧窮者の幸福を論じ、実現に向け取り組んだ時代でした。

 

 明治41年10月に榎本が死去したので、大隈重信に次期社長を依頼したが応諾されず、翌明治42年3月に高松が二代目の社長に就任しました。

 

 蛇足ですが、榎本がロシアの軍艦に乗って薩摩へ出かけ、西郷と談判したとか、西郷に書状を送ったとかいうデタラメな記事が日本の新聞記事になったという話を手紙で知って、大笑いしたと家族に書いています。

 

 

(3)明治11年3月22日付け、多津への手紙

 

『手前五万円之金を蓄へたりとの風説御申し越し、ほんに種々の事を言ふものかなと笑ひ申し候。手前事ハ自身にムダズカイをせずして当表にても多く人を助け居り候。帰朝の上は嘸々(さぞさぞ)クルシガリが推寄せ来り申す可べくと察せられ候。力の及ぶ丈ハ人を助け遣わすべく候得共(そうらえども)、金八成長後外国へ五年も留学の費用金丈ケハ、必ず残し置き候積もりなるハ、先年申し入れ置きたる通りニ候』
 金八(1873(明治6)年~1924(大正13)年) 榎本武揚の長男の幼名。後に武憲。黒田清隆の長女、梅子と結婚する。榎本の幼名の釜次郎の釜を分解して金八にしたと言われいます。このとき金八は5歳でした。

 

 

戦時中のロシアの家庭の様子

 

 

(1)明治10年5月2日付け、妻宛

 

『「ロシヤ」「トルコ」戦争は双方共3,40万ヅ々の大軍に付 死人けが人病人等の多かるへきハ驚く程ならんと今より察せられ候、其人々の父母妻子兄弟等の情察せられ候』

 

(2)明治10年9月8日付け、妻宛

 

『当表ニテは処々の遊園への高貴の婦人等鬮(くじ)を売りに出て傷兵の為兼ねを集め候事度々これあり、又妓抔も右同様の事を為し、兵士の施しにいたし居り候。東京上野遊園抔ニテは、芸者か役者ニ右同様の事を致させ金を集め□□(させ?)怪我人の為めや、死込ママの妻子のために与えたらんニは定めてよろしかるべし。

 この旨は別紙届け書中にも一寸書き入れ置き申し候。御心得の為め申し入れ置き候。当表の徴兵一条ニテ下々の者困り居り候。中ニは極く貧乏にて老母一人とか、又は学問肆業中(しぎょうちゅう)の書生抔も、是非無く兵ニ取り立てられ歎息いたし居り候者少なからず、実に帥(すい、いくさ)という物はいずれの国ニてもよからぬ物ニテ候。』

 

 榎本がペテルブルグに着任した1874年に、ロシアは軍制改革を行い、国民皆兵制を取りました。そのため貧しい農民家庭で生活を支える男や学生は学業を諦めて出征しなければならないという悲惨さを伝えています。

 

 帰国後の榎本は、箱館戦争の戦友やその親族、南方諸島へ移民を希望する人々、志をもって職を求めている人々、多くの人々の面倒を見ました。榎本の死後は社会福祉に貢献した人物として賞賛されました。

 

 

軍人遺族救護義会

 

 

 榎本とロシアとの関わりは樺太・千島交換条約だけで終わらず、その後、大津事件や日露戦争にもかかわりました。

 

 箱館戦争の体験に加えて露土戦争の知見がきっかけになったのか、後の日露戦争中に軍人遺族救護義会の三代目の会長に選挙で選ばれます。初代会長の長谷信篤は名誉職でしたから、榎本は実務をする会長として初めて選挙で選ばれました。
 日露戦争 1904(明治37)2月8日~1905(明治38)年9月5日

 

軍人遺族救護義会の簡略史

  • 設立 明治29年1月5日、明治32年から社団法人-日清戦争への対応
       初代会長 長谷信篤、二代目会長 坊城俊章、設立功労者 川上操六大将

   (榎本は協賛員)

  • 明治38年3月29日 選挙により榎本武揚が第三代目会長(実質二代目)に就任-日露戦争への対応
  • 明治39年 帝国軍人後援会に改称する
  • 明治40年4月28日 帝国在郷軍人会と提携開始
  • 明治41年10月27日 榎本薨去、会員数 97,573名(前年比、約8%増)
    (昭和15年、新設された恩賜財団軍人援護会に統合される)

 薨去(こうきょ) 皇族または位階三位以上の者の死去を言います。榎本は正二位でした。

 

 

 榎本が会長就任後に従来の政策に新たに三点の政策を追加しました。

1.保護の実施-生活保護、小児保護(保育)、慰問保護
2.子女の教育支援-遺族家庭、社会生活不能者家庭の子女が中等以上の教育を受けられるようにし、立身出世の道を開くよう支援する
3.忠勇記念会館建設推進(地方自治体、メディアなどに趣意書を配布)

 

 榎本会長は、家族が出兵し、戦死したり傷病兵になったりしたとき、もし、家族が戦死しなければ、残された家族が受けられるはずの教育や社会への進出、社会生活を補償しようとしました。この、補償が無ければ、兵となって戦場行く者がいなくなるだろうと考えたからです。また、遺族を毎年、芸能鑑賞会へ招待し、慰問しようとしました。忠勇記念会館は各地で戦死者を供養するための施設です。

 

 榎本は日露戦争後、明治39年4月に日露戦争での貢献(当時の新聞記事では、日露戦争は明治37年、38年に行われたので、日露戦争での功績を「378事件の功」と書いています)に対し、三千円下賜されます。その貢献―功とは軍人遺族救護義会会長職による仕事に対してなのか。

 

 榎本武揚は宅状に書いたとおり、国民の福祉、国民の幸福、民福のために励みました。

(後編-2へ続く)


この記事のコメント

  1. 高成田享 より:

    ロイター電よりも、榎本電のほうが正確だった、というのは面白い事実ですね。多津あての手紙は、駐露公使の「裏情報」ですが、明治政府のどのような人たちがこの裏情報に接していたのか興味深いですね。

  2. 中山 昇一 より:

    高成田様
    コメントありがとうございました。
    現場からのニュースが一番ということでしょう。
    榎本の情勢を書いた相手は、妻や姉、さらに親しい友人宛ですが、その辺を一旦、リスト化してありますが、分かり易く整理しておくと面白いと思います。ご指摘ありがとうございました。

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