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最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-2 海軍卿(1) 「商権恢復運動」と「税権回復要求」

2021.12.09 Thu

 

榎本武揚と国利民福-最終編二章-2 海軍卿 (1)

 

 

 榎本にはペテルブルクから帰国後(明治11年10月)に宿題が残されていました。朝鮮の元山津をロシアの軍港にさせない、南洋群島を日本の領土に加える、ペルシャとの国交樹立、日清朝同盟の検討、そして海軍卿就任です。帰国した翌年、明治12年に東京地学協会創立を渡辺洪基(わたなべひろもと)と共に提唱し副社長になり、明治13年2月に設立された興亜会(次回以降に後述)に入会しました。そして、榎本は、明治13年2月28日に海軍卿に就任しました。

 

 榎本がペテルブルクに赴任した明治7年ごろ、明治新政府首脳は年々拡大する貿易の累積赤字を眺めて青ざめていました。そして、榎本が帰国した明治11年ごろにかけ日本の商社が外国人商人の貿易支配を逃れるため海外へ進出を始めました。榎本が海軍卿に就任する明治13年を前後して、横浜寄留地では日本国内の商人が外国人商人から商権を取り戻すために集結し外国人商人と対決していました。「国益(藩益)」が「国利」に変わっていく時期でした。

* 文末の表を参照

 

 榎本は、1862年から1866年の間、約5年間、軍艦開陽の建艦監督を兼ねオランダ留学をし、その間、ヨーロッパの見聞を広めました。ヨーロッパの社会を良く知る一人です。榎本は帰国すると、当時、幕藩体制下(封建制度)の日本の常識により、徳川家の船であれば「お国の船」と話していました。その後、品川から脱走(脱藩)した榎本艦隊は出帆した後、寄港地では、きちんとお礼をした後出帆しましたが、榎本艦隊を追跡してきた薩長軍は寄港地で略奪の限りを尽くしたと記憶されています。榎本は、他藩も日本の一部なので大事にしましたが、薩長軍は東北は他国なので尊重しなかったと考えられます。

 

 榎本は蝦夷嶋へ行き、自分たちの国を作り、ロシアが日本へ南進することを防ぎながら失業したさむらいたちの生計が立つようにしようとしたのです。すでに榎本の頭の中には「国利民福」の四文字がありました。

 

 そして、樺太問題の解決のため、明治7年に「日本」という看板を背中に背負って特命全権公使となってペテルブルクに乗り込んだ時、明治8年1月10日付けの寺島外務卿へ送ったロシアとの談判の報告書には、「私は国論と国利を苦心して斟酌(しんしゃく)しているので・・・」と書きました。

 

 日本国を背負って仕事するようになった榎本の頭の中は国際社会の中の日本、国際人である日本人という意識が早くから形成されていたのでした。一方、国内で生活する人々は、まだ国益、藩益、藩利の世界で生活していました。しかし、新しく誕生した政権が発足して翌年の明治2年、貿易赤字が始まり、年々累積赤字は拡大することになりました。そこで、政府は税収を増やし赤字の穴埋めをするため関税自主権を取り戻そうと画策を始めます。一方、民間では横浜居留地の外国人貿易商に取引を牛耳られさらには安く買いたたかれるので、本来、海外の市場へ直接持ち込めば得られる利益を得られずにいました。

 

 我国の貿易赤字を解消しよう、海外へ直接輸出しよう、自分たちのビジネスが外人たちのいいなりにならないよう「商権」を取り返そうという人々が立ち上がりました。そして、最後には全国の人びとの想いが、地域(藩)を越えて横浜に結集し、横浜居留地の外国人商人と正面からぶつかる所まで燃え上がりました。もうそこには、自藩の「国益」の追求という意識は無く、日本国民全体の利益、日本人全体の公益のための運動になっていました。日本国内で生活していた人々も横浜居留地という外国(植民地)を相手に、ついに国民国家としてのナショナリズムに目覚め、「国益」から「国利民福」へと意識が変わったのです。

 

 こう考えると、明治5年に記録されている滋賀、近江商人の『勧業社規則』、明治6年発刊の大井憲太郎訳『仏国政典序』で「国益民福」が用いられ、明治16,7年頃の流行歌「ダイナマイトどん」(ダイナマイト節)の歌詞に「国利民福」が使われた時期の間、すなわち明治6、7年頃から明治16,7年の間に、国民のスローガンは「国益」から「国利民福」へ変化し始めました。次の項でその様子を見てみます。

 

<補足>

 渋沢栄一の国利民福 渋沢栄一が岩崎彌太郎に「国利民福」を主張した時期は、明治11年とも14年ともいわれています。この時期を加えて検討すると明治7年頃から明治11年または14年の間に「国益」が「国利民福」に変わり始めたことになります。

 

 

・「商権恢復運動」と「税権回復要求」-国益から国利民福へ

 

 

 徳川幕府は米国と、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を締結し、後に1858年(安政5年)に日米修好通商条約を調印しました。同年、英国、ロシア、オランダ、フランスとも修好通商条約を締結しました。徳川幕府と五か国との条約では、日本には関税自主権が無く、外国人には国内を自由に移動させないかわりに領事裁判権を認めました。日本は経済的に、領土的に欧米列強の半植民地状態にされて、自由貿易圏、国際市場に取り込まれたのでした。

 

 英国の外交官、パークスやアーネスト・サトウは、英国の長崎代理領事、ガウアー(A.A.J Gower)が報告した情報*1に基づき裏付け情報の収集を行い、『大名側の(倒幕の)目的は大君(タイクーン)と戦うことではなく、ただ大君から特権を剥奪しようとするにあった。』*2、そして、薩長を代表とする倒幕派は開国の利を得ようとしているとその動きを分析していました。しかも、「尊王攘夷」を表看板として残し、尊王攘夷を支持する人々を取り込みながらの倒幕運動でした。榎本が、薩長が仕掛けた徳川との戦争が「私闘」であると朝廷に訴える理由がここにありました。

 

*1 萩原延壽 『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄3』朝日文庫、2007、P.164

*2 坂田精一訳、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上)』岩波文庫、1960、P.187
          萩原延壽 『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄3』朝日文庫、2007、P.168
『(グラバー商会の関係者や)ガウアーらは、九州の諸大名がひとしく外国貿易の増大をのぞんでいることをみとめ、・・・・幕府が勅許を得ずに諸外国と条約を結んだり、港をひらいたりしたのだから、自分たちもおなじことをする権利がある、・・・』

 

 

 不平等条約締結後の日本国内の様子を荒野泰典・千葉功「アジアの近代化と明治維新」(2021.8)では、次のように論じています。

 

『修好通商条約による貿易の開始は国内市場に大きな衝撃をあたえた。綿糸輸入は国内の綿織物業に大きな打撃をあたえ、生糸輸出の開始は絹織物の特産地(京都西陣・上野(こうずけ)・桐生など)を窮地に追い込んだ。国内と海外の金銀比価の差額を利用した投機によって金が大量に流出し、物価は騰貴した。・・・「改税約書」(一八六六(慶応二〉年)による関税率の一律引下げと幕府の戦争準備 (第二次長州戦争)、さらに、貨幣の改鋳、不換紙幣の乱発、贋貨の横行に凶作などが加わって、狂乱物価を引き起こした。大坂・江戸など都市部での打ちこわしに連動して、農村部でも全国的に一揆が頻発し、幕府の無力化を白日のもとにさらした。・・・一八六六年から七七(明治十)年までは、一揆・騒擾型(そうじょうがた)の民衆運動がもっとも激化した時期だった。件数と規模が一挙に拡大するとともに、闘争形態も激化し、権力側の弾圧策も強圧的になっていく。』

『他のヨーロッパ諸国とも通商条約を結び、一八六九年のオーストリア·ハンガリーとの修好通商航海条約を最後に、日本型の「不平等条約」体制が確立した。しかしこの一連の経緯そのものが、維新政権の正統性が「天下の人」(国民諸階層)から疑われる原因となった。岩倉は、「天下の人」は王政復古後ただちに撰夷の令が下ると期待したが、あろうことか和親に転じ、欧米諸国の公使を参内させるなど、事態は旧幕時代より悪くなっている、かつての攘夷の主張は幕府を倒すための謀略だったのではないかとの議論が沸騰している、と意見書で述べた。・・・岩倉はそれを維新政権の罪であるとし、その対策として、今なぜ「和親」なのかについて説明責任を果たすと同時に、領事裁判権などの不平等条項を含む条約を改正して、幕府によって失われた国威を回復するしかない、と主張し、これを「万国対峠」と呼んだ。この段階で、「開港」以来の国威の失墜という感覚と条約の持つ不平等性が結びつき、無知・無能な幕府がペリーの恫喝によって結ばされた不平等条約という言説が定着し、条約改正による国家主権の回復という国家目標が具体的な形をとったと考えられる。』

 

引用元: 荒野泰典・千葉功「アジアの近代化と明治維新」『新 体系日本史5 対外交流史』山川出版、2021

 

 倒幕が実現した後、攘夷が行われないため、日本国内では明治維新政府へ疑惑の目が向けられ、非難もされました。その疑惑を取り除き、非難を避けるために岩倉具視の条約改正をして「万国対峙」するという明治維新政府の国家目標が登場しました。

 

 『近代的な工業として綿織物業が勃興したのは、明治23年の豊田佐吉の人力織機、同30年木製動力織機の発明に起因するということができま す。これより先、綿糸紡績については、慶応3年(1867年)に薩摩の島津斉彬が鹿児島紡績所を興して以来、各地に洋式の紡績工場が開設され、良質の綿糸が供給されるようになりましたが、豊田佐吉の動力織機の発明により、我が国綿織物業の発展の基盤が確立されました。即ち、明治初年においては綿織物は多く輸入に頼っていたのですが、明治 27~28年頃より生産は急ピッチで上昇し、輸出も次第に増加しました。その結果、綿織物の輸入は明治41年を最高に急速に減少を示しました。』 (引用元: 歴史について | [公式]綿工連 | 日本綿スフ織物工業組合連合会WEBサイト (jcwa.jp))

 

 

・商権恢復運動 (商権回復運動)

 

【直輸出】

 

 明治2年から明治14年までの間、明治9年を除いて輸入超過、貿易赤字でした。さらに明治7、8年には正貨*1の海外流出が急増し、明治元年発行の外債の元利金支払い問題が生じていました。政府部内では横浜居留地を介した「間接貿易」を脱し、「直接輸出」による市場開拓を検討しました。また、税権回復のための条約改正が必要だという議論が政府内でされました。民間では明治7,8年頃から「商権恢復運動」が高まりました。

 

 明治8年10月、大久保利通内務卿は三条実美太政大臣宛てに、「海外貿易発展ノ為メ直輸出*2ノ基ヲ開クノ急務ナルコトヲ建議シタルモノナリ」と題して建議書*3を提出しました。建議書には、『皇国開港以来、外国貿易ノ商権ハホボ外商ノ手ニアリ、我ガ商売到底彼ラの籠絡(ろうらく)二患(わずら)ルを免レズ。・・・善ク商権ヲ挽回シ外商ト対峙スルヲ得可ケンヤ。且ツ、輓近(最近)輸入ノ歳額輸出ノ歳額二超過シ、有限ノ国力ヲ以テ無限ノ損耗二當ルノ勢イニ推移・・・』、その原因は、『海外通商ノ道二熟練セザルノ致ス所』、『国商(国内の商人、内商を指す)ノ資金薄少ナルヲモッテ持重耐久ノ力無き』と分析し、日本が商権を挽回する打開策は、政府は勧業寮*4監督下の直輸出会社を資本金50万円で設立し、うち30万円を勧業基金から貸付とする、直輸出を奨励し、主要輸出品の蚕種、生糸、茶等の品質を改良し、海外で取引価格を向上させることにある、という主旨で論じられていました。

 

*1 正貨(せいか)  本位貨幣および地金のこと。日本は明治4年から金本位制に移行しました。日本の金は、幕末に国内外の金銀の交換レートの違いを利用して海外へ大量に持ち出された。貿易決済は銀を用いていた。この時期、貿易赤字が続くということは、日本国内から銀がどんどん海外へ流出し、日本国内の資産が減少し続けることを意味している。

*2  ぢきゆしゅつ(横浜貿易新報社『横浜開港側面史』1909、P.310、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992282)、ちょくゆしゅつ、じかゆしゅつ

*3 岡田俊平『「商権恢復」と聯合生糸荷預所』成城大学経済研究(12)、1960‐05、P135

  『大久保利通文書』侯爵大久保家蔵版、昭和3年、P465-P482

(参考: 富澤一弘『生糸直輸出奨励法の研究』日本経済評論社、2002)

*4 内務省勧業寮 内務省で殖産興業を担当した部局。1874年(明治7年)7月設置、組織改編で1877年1月廃止。「寮」は大宝律令下の官制で明治新政府も用いた。内閣制度発足で宮内省の部局名としてのみ用いられ、1949年(昭和24年)に廃止。(コトバンクより)

 

 

 政府は、居留地の外商を介した貿易、つまり「間接貿易」に対し、内商の手による「直接輸出」(直輸出)を奨励しました。幕末に幕府が試験的に直輸出を行い、新政府は明治5年1月から翌年にかけて米穀約120万石を香港、ロンドンへ輸出しました。それは大きな損害を出しました。その後も政府は直輸出をトライしますが、採算に合わずに終わりました。新しい経験を積む必要がありました。商権回復運動が始まると、経営者の間に「藩益」とは次元の違う、日本の貿易を外商に好き勝手に支配されたくないという経営ナショナリズムが誕生し、海外へ内商の支店の進出が始まり、貿易決済のための日本の銀行設立運動も起きました。

 

『貿易のほとんどは外商によって担われ、外商が主導権を握った。これに応じて居留地では外商による契約の一方的な破談や買い叩きなどの横暴が目立つようになっていた。これは日本人が外国貿易の知識やノウハウも持たないことによって引き起こされた弊害であったが、日本人の側からはこのような状態は屈辱であり、そこで経営ナショナリズム的な気風が生じ、明治の早い段階から貿易上の主導権を日本側に取り戻そうとする“商権回復運動”が起こってくる。この運動の一環として、日本人の経営による貿易商社がいくつか設けられた。“商権回復運動”の理念に照らすと、その貿易商社は国内に店舗を置くのみならず、海外にも支店を設置し、かつその海外支店には日本人スタッフが派遣されてその支店長の職に就き貿易を担うことが理想とされた。このような商社は直輸商社と呼ばれた。』

 

引用元: 木山 実『産業セミナー第213回 日本一の貿易港神戸が産んだ日本一』関西大学 経済・政治研究所、2015年11月18日 (注)著者が引用部分の一部を調整した。

 

 

 大倉喜八郎は、欧米を一巡して帰国した明治6年にロンドンに大倉組商会を開設しました。大倉組商会は主に茶を輸出しました。その後、ニューヨークを中心に日本の商社の支店の進出が続きました。明治9年(1876年)、ノリタケカンパニーの創立者の一人、森村市左衛門は福沢諭吉と貿易赤字の問題を議論したところ、ニューヨークへ支店を出すよう強く促され、ニューヨークに森村組を開店させました。明治14年(1881年)にニューヨークに支店を開設し、日本人を常駐させていた商社は10社、駐在員31名でした。

 

起立工商会社(1874年設立)、広業商会(76年)、森村組(76年)、三井物産(76年)、同伸会社(80年)、貿易商会(80年)などの日本商社が設立された。(木山 実『産業セミナー第213回 日本一の貿易港神戸が産んだ日本一』)

 

 

【横浜正金銀行】

 

 丸善の前身、丸屋商社の創業者、早矢仕有的(はやしゆうてき、1837-1901、美濃国、藩医、慶応義塾出身)が社長となって「貿易商会」が明治13年に設立されました。「貿易商会」は岩崎彌太郎、福澤諭吉の提唱により、大隈の賛同を得て設立されました。後に早矢仕は大隈、福澤との密接な関係を利用して横浜正金銀行設立の有力発起人になりました。

 

 文久3年(1863年)以降、外国銀行が貿易代金決済、貿易外取引、資本取引(外債など)、すべてを扱っていました。前述の早矢仕や豊橋の銀行家、中村道太(1836-1921、三河国、幕臣、慶応義塾出身)は外国商人の横暴に苦慮していたところ、恩師、福澤諭吉の支援を得、紹介により、中村が大隈大蔵卿を訪問し、正銀取引銀行を設立し『外国銀行の向こうを張って大いに彼らに掣肘(せいちゅう)を加え、漸次わが商権を回復しなければならない』と強く訴えました。

 

 早矢仕、中村ら発起人23名が「横浜正金銀行」の設立願を明治12年11月10日に大蔵卿へ提出し、翌11日に「正金銀行設立願」を許可したいという上申書が太政官に上呈され、同日付で開業許可が与えられました。政府は同年、国立銀行免許の打ち止め後にもかかわらず開業許可を与えたことは、正金銀行設立の重要性が分かります。その後、明治20年(1887年)に「横浜正金銀行法」が制定され、特殊銀行になりました。横浜正金銀行は、金銀貨幣の運転供給を通して「外国為替の商権回復を図るという国家的使命」を帯びていました。

 

* 特殊銀行 敗戦時まで「銀行法」によって設立される普通銀行と違い、個別の特定の目的のために単独の特別法によって設立された銀行。明治14年に政府内で示された松方正義の銀行分業主方針。例―日本勧業銀行、農工銀行、北海道拓殖銀行、日本興業銀行、他。(コトバンクから引用)

 

 

 直輸出は明治33年(1900年)に日本の貿易の38%を占めるようになりました。明治44年の主要銀行の外国為替取扱比率は、横浜正金銀行は45%に達し、大正3~7年の間、第一次大戦の影響が加わり、毎年80%以上を保持しました。

 

参考文献

立脇和夫『明治期におけるわが国商権回復過程の分析』(早稲田商学第364号、1995年3月)

 

 

【聯合生糸荷預所設立事件】

 

「大隈文書」によると、明治13年11月付けで佐野常民大蔵卿宛てに「聯合生糸荷預所」の設立願書が提出されました。横浜居留地へ運び込まれる生糸全部をこの預所で受取、品質の検定や計量を行い、外商との取引や直輸出を取り仕切る企画でした。聯合生糸荷預所を通さなければ寄留地の外商は日本国内から一切生糸を受取れなくなる仕組みでした。発起人は、茂木惣兵衛、渋沢喜作、原善三郎でした。さらに、もう一通は、明治14年提出の願書でした。この願書での発起人は横浜輸出商たちで、前回よりさらに増えていました。

 この企画は、明治12年11月に設立許可された横浜正金銀行の業務開始を背景としていたと考えられています。「聯合生糸預所」の設立計画によると、「貿易取引において外国商社と対等の商権を確立し、貿易上の利益を確保することを目的に生糸輸出商の連合を計るもの」でした。明治14年の設立願では『商権ノ平均ヲ得ル』とし、居留地の外商と内商とが対等な立場なることを目的としていました。同年9月下旬から11月中旬まで外商への生糸の売り込みは中止され、取引が停止しました。取引再開のため、内商は外商と和解協議を行い、日本側の中央市場設立案は否決され、「共同倉庫」設立案は承諾されて双方和解しました。

茂木惣兵衛 もぎそうべえ、1872‐1894、横浜の代表的実業家、生糸売込商人、1876年以降取扱量が売込商人中1位。高崎の商家出身
 渋沢喜作 しぶさわきさく、1838-1912、渋沢栄一の従兄、幕臣、箱館戦争まで従軍、大蔵官僚、小野組糸店を経て渋沢商店を設立、生糸も扱う、東京株式取引所理事長、武蔵国血洗島出身。

 原善三郎 はらぜんさぶろう、1827-1899、横浜第二銀行設立、生糸売込業、政治家、三渓園などが住まい、渡瀬村(現、埼玉県神川町)の旧家出身。

 

 

参考文献

岡田俊平『「商権恢復」と聯合生糸荷預所』成城大学経済研究(12)、1960‐05

(この論文では、「商権恢復」と「富国強兵」との関係も議論している)

浅田毅衛『開国と明治期の日本貿易』明大商學論叢、82(3):101‐118

 

 

【「国益」から「国利」へ】

 

 明治7年から高まった官民による商権恢復運動の過程で、従来の「国益」思想とは違う民族意識とつながった国家利益に目覚め、国利の追求を意識した「国利」思想に変わっていきました。この運動に対し、聯合生糸荷預所の企画は失敗したものの、そこに結集し、高揚した国民的エネルギーを背景とした運動であることを指摘し、評価する研究が多く見られます。

 

 井上清『条約改正』(岩波新書203、1955)では、「関東一円の生糸の事業に関わる者は固く結束し決して外商には売らず、また神戸の商人たちから、例えば「商権」と名づけた酒と激励文が届けられ、ぞくぞくと神戸の商人はこれに倣い、さらには讃岐高松の商業会議所からは『国権拡張のため大御墳発の由、ひとり当会所の大慶のみならず、三千有余万の兄弟姉妹も亦必ず同感することと確信罷在(まかりあり)候』と励まし、寄付が必要なら言ってくださいと申し入れ、同会議所会員および同地方融資の盟約書を送った」ことを紹介しています。

 

 この出来事は、地域を越えた、諸外国との貿易取引上、自分たち日本人が押さえつけられているという、藩意識、お国意識を越えた統一国家日本の商人という自意識に変わっていったことを示しています。

 

 一方、浅田毅衛『開国と明治期の日本貿易』では、大久保が建言した直輸出の会社を井上馨らが創立した先収会社を買収して明治9年に誕生した三井物産とし、三井物産が自主的貿易に転換した時期は明治14年以降、政府が進めた「官業払下げ政策」により紡績所、製糸所、炭鉱を払い下げられてからだったことを考えると、『政府の直輸出論は貿易形態の転換を課題とするよりも財政上の理由(貿易赤字と正貨流出)から正貨獲得を主眼としていた。政府の取引上の外商支配の排除「商権回復」は国民的利害を国家的に集約したスローガン的目標だった』という見方を示しています。

 

 「国益」は、商品や物産の国産化(藩内での生産)による輸入低減と輸出促進による経済的自立(自給自足)を促進する思想でした。ここで言う「国」とは「藩」を指すので「藩益」です。封建制度の政治経済システムから誕生した「国益」は、国際資本主義の政治経済システム(平和の戦)と遭遇し、国民国家の「公益」、「国家利益」、「国利」へと置き換わったと考えられます。その時期とは、横浜の居留地を舞台に貿易事業に携わる商人、物流業者、生産業者らが結集して外商と対抗を試みた明治7年頃から14年頃にかけてでした。

 

 

【その後の生糸貿易】

 

 榎本も、農商務大臣時代(明治27年1月-明治30年3月)に生糸の輸出と関りました。後に紹介しますが、明治30年3月第10議会(通常国会、明治29年12月‐明治30年3月)に提出した『生糸直輸出奨励法』が成立しました。この法案を提出し、通過させた農商務省は、福澤諭吉から時事新報で、農商務省は条約違反の法律を成立させたとして「農商務省不要論」を論じられるほどの批判を浴びました。この法律は明治31年に廃止になりました。

 

 生糸はお茶と並ぶ主要な輸出産品でした。お茶は当初から米国が主要な輸出先でした。一方、生糸は当初は英国への輸出量が第一位でしたが、明治7年(1873年)からフランスが第一位になり、明治17年(1874年)に米国が一旦、第一位になると、明治19年以降、米国への輸出量と輸出額が常に50%を越え、米国が生糸の輸出国第一位を続けました*1。米国側では1889年から1908年の間、米国の生糸輸入市場に占める日本のシェアは50%を越えました*2。農家の重要な現金収入源でした。

 

*1 小泉勝夫『基調講演 横浜開港と生糸貿易』シルクサミット2003 in 横浜、2003、10.9
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/summit01/yokohama/koizumi/koizumi.htm

*2 山澤逸平『生糸輸出と日本の経済発展』一橋大学一橋学会、経済学研究(19)、1975-05

 

 

 以降、着実に米国への日本の貿易の対米依存度が高まり続け、しかも、米国との貿易は黒字でしたので、日本にとって最も頼りになる輸出先でした。1931年から32年の間、日本の綿工業の生産及び輸出額は英国を越え世界第一位になりました。綿の輸入を米国に依存していたため、米国からの輸入総額の45.5%を占めました。しかし、1929年に米国で始まった大恐慌は1933年にかけて世界に広がりました。1932年から34年にかけての日本対米輸出額はそれ以前の四年間の平均額の40%へと低下しました。そのため、ついに米国とは貿易赤字を生みました。その後、日本の経済成長が続き工業用資材、原料、燃料などの輸入が増えたため、対米貿易赤字は拡大しました。

 

 米国では、1920年代から対日ボイコット運動が起き、1924年にはいわゆる「排日移民法」が米国で制定され、対日ボイコット運動は1931年から33年に行われた満州事変を契機に全米規模で注目されるようになりました。日本人の米国感情が悪化するなか、貿易も変調をきたしていました。1920年代、生糸の輸出総額に占める割合は低下したとはいえ36%はありました。しかし、1937年には12.8%にまで低下しました。養蚕を頼みとする農民の40%が打撃を受け、旱魃や冷害も加わり、農村地域での欠食児童が増大しました。*1

 

 ボイコット運動があっても米国が日本から輸入する生糸のシェアは拡大を続けましたが、米国でのレーヨンの商品化が完成した1920年代以降、米国のレーヨン産業は成長し、日本の生糸の輸出は1929年に史上最高を記録した後、価格下落が始まり、輸出量もピークアウトを迎えました。技術革新による生糸の競合商品が完成したところにさらに世界大恐慌が起き、日本にも深刻な影響を与えました。特に農村への影響は甚大*2なものでした。

 

*1 池田美智子『対日経済封鎖』日本経済新聞社、1992、P.82

*2 事例

・報知新聞『先づ欠食児童の救済に古米二百万石を払下げ』昭和7年6月11日
(出典 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10066006&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA)

・松本市教育会『=昭和時代= 9 世界恐慌や満州事変や日中戦争のころの松本市教育会の様子を教えてください
https://matsumotoshikyouikukai.jimdofree.com/教育会のあゆみ/教育会の歴史-詳細/9-世界恐慌や満州事変や日中戦争のころの松本市教育会の様子を教えてください/
秋田県『忘れていませんか、飢餓地獄の歴史を』
http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 

参考文献

池田美智子『対日経済封鎖』日本経済新聞社、1992

井上寿一『戦前昭和の社会』講談社現代新書、2011

 

 

(続く)

 

トップ画像の出典 1yenM8silver - 一円銀貨 - Wikipedia

 

立脇和夫『明治期におけるわが国商権回復過程の分析』(早稲田商学第364号、1995年3月)から引用


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