大手メディアが伝えない情報の意味を読み解く
情報屋台
政治
経済

複雑な英国: セント・アンドリューズなどが登場する物語

2015.11.10 Tue
政治

今年のラグビーのワールドカップは英国のイングランドで開かれ、何と日本代表が大活躍、決勝トーナメントに進出できなかったものの、緒戦の南アフリ カとの試合で、最後のトライによる逆転場面を実現、それがファン投票で「W杯最高の瞬間」に選出されるなど、話題に事欠きませんでした。斯くて、珍しくラ グビーで日本中が盛り上がり、五郎丸選手などは一種の社会現象まで現出しています。結局、優勝は強豪ニュージーランドに決まり、全日程が終了、次なる 2019(平成31年)W杯日本大会へと引き継がれることとなりました。

ラグビーやサッカーにみるUK(イギリス 英国 連合王国)の特別性

と ころで、このラグビーやサッカーのワールドカップなどへの参加(国や地域)には、UKについて、或る特別な事があるようです。ここにUKとは、 United Kingdom(連合王国)の略で、 正式には「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」と言う由です。日本では通常この国の事を「イギリスないし英国」と呼んでいますが、当該国家自身を始め、国際的にはUKが通称として通っ ています。

ただ、ラグビーやサッカーの競技や国際試合では、このUKについてみると、国名のUKによらず、イングランド、スコットランド、 ウェールズ、北アイルランドと言う、地域名ないし地方名で参加しています。通常、各国は一国づつで参加するのに、UKは例外で、何と四地方乃至四チームと して出場し、また、その名前で国際団体にも加盟するなどの特別扱いを受けているのです。現に、今回のラグビーの決勝トーナメントには、全部で八チームが出 場、その中に、スコットランドとウェールズが入っていました。(でも、スコットランドはオーストラリアに敗れ、ウェールズは南アフリカに倒されて、準決勝 を突破できませんでした。)

それにしても、何故、こうした例外的な特別扱いが、この四チームについて為されるのでしょうか。

こ れは、所謂フットボール(蹴球 サッカー)が今日に繋がるようなルールと人数で形成されていった頃、また、そこから足だけで無く、手も使う競技としてラグ ビー(ラ式蹴球)が分派発達を遂げた頃、その時期は概ね19世紀の半ばを過ぎた辺りですが、それらがプレイされていた場所が、先ずイングランドであり、対 戦などを通じ、広がった所が、ウェールズ、スコットランド、アイルランドであった事に発するようです。よって、サッカーやラグビーの発祥や形成の場所で 在った事が、これら四地域ないし四地方を特別扱いする最も大きな理由と見られます。言い換えれば、サッカーやラグビーのコミュニティーでは、競技の誕生と 形成・発展の場所に敬意を払っている分けです。

それに四地域ないし四地方は、国とも言える歴史や伝統があった。

ここに、加う る事情があります。イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドは、各々独自の歴史、文化、言語などがあり、構成民族も微妙に違っていて、も ともと別の国として成り立ってきた長い経緯があるのです。その上に、征服、支配、被支配の輻湊した関係があって、狭い島国の領域の中でも、しばしば抗争と 戦争を繰り返してきました。これら四地域の中で最大面積を持ち、最有力であるイングランドにしても余り大きく無く、日本の本州とさして変わりません。この 事は、大陸に成立したフランスが、中世以降相応のまとまりと広がりをみせ、大国の地歩を築いて行ったのと対照的です。

斯かる歴史と背景ゆえ、国としてはUK(連合王国)一本なのに、サッカー、ラグビーなどの試合となると、出場者、応援するチーム、旗、唱う歌が違って来る事が起きるのです。

更 に、この中で、アイルランドは16世紀の頃から、イングランドの支配下に入っていましたが、凄まじい反発・闘争が起き、その結果、第一次大戦後、遂にUK から独立、大英帝国を継承して形成された英連邦にも加わらず、国名もエールと改めました。そして、独自の立場でEUに加盟、英ポンド圏からも離れ、ユーロ を通貨としています。

宗教的にはアイルランドはカソリックですが、アイルランド島の一部(北東部)には、プロテスタントの人々が多く、民意 により、この地域だけは、UKに残留しています。それが北アイルランドで、UK(連合王国)の正式国名の一部となっており、例外的四地方の一角も占めてい るのです。これまた、呑み込みにくい事ですが、その後の変遷を記すと、1960年代になり、カソリック教徒を中心に、差別されていると主張する人々による 社会運動が起き、それが切っ掛けとなって、深刻な内紛・抗争が生じ、警察や軍隊が出動、多くの死傷者が出ました。然りながら、1998年の所謂ベルファス ト合意によって、漸く事態は沈静化、その後安定状態に入り、北アイルランドとして、引き続きUKの一部であり、サッカーやラグビーでの特別扱いもそのまま です。

複雑で例外が多い今日の「UK」に至るまで、大きな事件や変動を辿って行くと。

古代から中世に移る中で、ヨーロッパ世 界での大きな激変は、四、五世紀頃からのゲルマン民族の大移動であり、それを契機とする、ないし交差するローマ帝国の東西分裂、そして西ローマ帝国の滅亡 でしょう。その頃、ローマ帝国の辺境であったブリテン島始め、西ヨーロッパの各地には、主にケルト族という先住の人々が棲んでいましたが、彼等はゲルマン 民族の諸族の大移動のため、西へ南へと追われました。その流れの中で、ブリテン島には、アングロ・サクソン族というゲルマン民族の諸派が進入し、各々の部 族毎に王国を建てました。やがて、九世紀の初めに、それらはイングランド王国として統一されます。ただ、その支配は、概ね所謂イングランドの地に限られ、 ウェールズ、スコットランド、アイルランドには余り及びませんでした。これらの地域には依然としてケルト族の人々が住み続けたのです。

ノルマン・コンクェスト(ノルマン人によるイングランドの征服)

中 世は、ヨーロッパの各国、各地で、また各部族の間で闘争や移動に伴う紛争が耐えなかったのですが、王国のひとつ、11世紀のイングランドでは王位を巡る争 いがありました。それは、国王ハロルドとノルマンディ侯ギョーム(ウィリアム)二世の間で起きました。双方の正当性の主張は相譲らず、結局武力で結着を付 ける外無くなり、有名な1066年のへースティングズの戦いが起きて、ウィリアム二世が勝利を治めました。斯くて、以降はノルマン王朝と言われる由です。

さ て、上陸してきたノルマン人は、フランス語を使う人々でしたが、アングロ・サクソン人やデーン人と同じゲルマン民族の仲間でしたので、異民族による支配の 観は呈さず、領民を謂わば少数の棟梁として統治する形態を取ったと申します。もっとも、その内実は中央集権の厳しいものであったため、イングランドでは他 のヨーロッパ各国と違い、緩やかな封建制とは異なる、強固な体制が発達しました。かくて、強い王権があり、それが過ぎると、反って諸侯から反発が起き、例 えば、1215年のジョン王の御代には、貴族の諸権利を認めたマグナカルタが制定されています。これは、その後、議会制度の発達を典型とした、英国の独特 の歴史に繋がったと言われます。

また、フランス・ノルマンの統治はイングランドに、言語や文化の面で大きな影響を与え、残したようです。特 にフランス語の使用は公用語として、三百年近く続いた事もあって、イングランドの言語に大きな変容を引き起こし、今日の英語が元のゲルマン語(ドイツ語) から随分変化した言葉に変わる原因となったようです。例えば、宮廷語であったフランス語に由来するporkは食卓で使われるが、豚肉の元となるpigは領 民の所に居るので、元の英語にルーツがあると言う具合です。学者にもよりますが、今日の英語の約三分の一はフランス語から来ているという説がある位です。

このノルマン・コンクェストは、支配王朝がそのままイングランドに居残ったことも
反映して、ウェールズ、スコットランド、アイルランドとイングランドの相違をより大きなものとしました。なぜなら、ノルマン・コンクェストは、これらの国・地域・地方に
広からず、余り、影響を与えなかったからです。そう、端的に言えば、ノルマン・コンクェストはイングラントに止まりました。

斯くて、気候や土地の広さから、農業や牧畜が盛んとなりつつあったイングランドは、ブリテン島で最も豊かに発展した国・地域となり、その言葉や文化などが他地域に広がりつつあったのに、ノルマン・コンクェストは、そのイングランド自体を変えてしまいました。

イングランドの優位と支配の拡大 ウェールズの征服と併合

13 世紀の終わり頃、イングランドに登場したエドワード一世という王は、極めて強健であり、優秀でしたが、同時に凄い野心家でもあり、現代的視点からすれば、 帝国主義の権化とも言われる言動を実践しました。その王は、フランス王フィリップが自分に敬意を払わないことを不快とし、何と、フランスの征服を考えるよ うになります。そのためには、ブリテン島をまず統一し、その力を強力に結集しようと、まず、ウェールズ、次いでスコットランドを統合しようとします。その ため、様々な外交手段や権謀術数などを用いるのですが、最後は武力に依ることとなります。

エドワード1世は、1276年以後、四度に亘り、ウェールズ進攻を企て、ついに、1282年
(元寇の「弘安の役」の翌年)ウェールズ大公のルウェリン・アプ・グリフィズを下して、ウェールズをイングランドの支配下に置きました。その結果、エド ワード1世は長男エドワード(エドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えました。これが、エドワード一世によるウェールズ征服ですが、ウェールズ人 (主にケルト人)は決してイングランド人に同化されなかったと言います。むしろ、その民族意識を強め、植民してきた異民族のほとんどを同化させたとのこと です。然りながら、その後、様々な曲折を経て、遂に、1536年に至り、ウェールズはイングランドに併合されてしまいます。

もっとも、ウェールズではウェールズ語(ケルト語の一種)復活運動が今或る如く、根強い自国語への愛着が在ると言われます。同地では、道路案内などに、英語とウェールズ語と併用しているケースが多いのです。

スコットランドとの統合 意外な結末

エ ドワード一世は、1282年にウェールズの征服に何とか成功すると、その矛先をスコットランドに向けます。ここに、イングランドとスコットランドの血みど ろの戦いと必死の遣り取りが始まります。イングランド側の主役はエドワード一世、それを嗣ぐ二世であり、スコットランド側の主役がロバート・ブルースと、 その次弟エドガー・ブルースでした。両者・両国の対立は根深いものがありますが、大いなる端緒は、スコットランド王「アレクサンダー三世」の死去 (1286)でした。エドワード一世は、これを千載一遇の好機と捉え、果敢に外交と攻勢に出ます。息詰まるような中世のドラマですね。猛烈な折衝と、血み どろの戦いは約三十年続きます。

その大舞台のひとつが、スコットランドの有名なセント・アンドリューズの町です。その地はゴルフ発祥の地と して知られ、1754年設立の「Royal and Ancient Golf Club of St Andrews」が所在しています。また、ゴルフとともに人気のあるセント・アンドリューズ大学もあります。

ここに、セント・アンドリューズとは聖アンドリューズの事で、スコッランドの守護神と言われ、この町に大司教が置かれている由です。また、この町では、スコッランド議会が開かれ、スコットランド王も所在した、将に同地の一大中心地なのです。

さ て話を戻しますと、この三十年余りの断続する戦いがどうなったかと言うと、結局イングランド側はもともと優位なのに攻めきれず、スコットランド側が果敢に 善戦、バノックバーン(1314)の決戦で大勝を納め、両国ないし両地域の関係を以降安定ならしめました。ブリテン島の北部に遂に、恒常的と言って良い和 平を成就したのです。こうした平和は、スコットランドの首都で調印された「エジンバラ条約」(1328)で確定致しました。イングランドのエドワード一世 の野望は遂に潰えたのですが、スコットランドのロバート・ブルース王の粘り強い戦いぶりは、地域の長期の安定に大きく寄与したと言って良いでしょう。同王 の像はバノックバーンの地に立っています。

その後、三百年余りの歳月が立ちました。1588年、スペインの無敵艦隊に勝利を納め、以後のイ ングランド(英国)の世界制覇の端緒を開いたエリザベス一世(チューダー王朝)は、1603年未婚のまま死去しました。血縁とて無く、後継者の指名も何も 無いところ、重臣が動きます。そして、エリザベスの曾祖父のヘンリー七世の娘マーガレットが昔、スコットランド王家に嫁いでいて、ジェームズ四世との間に ジェームズ六世をもうけ、その人が今スコッランド王に在位していることを確認します。斯くて、同人をあらためてジェームズ一世として、イングランド王にも 就けることが決定されました。同一の君主が、スコットランドとイングランドの二つの王位を兼ね、それぞれの国や政府、議会は各々そのままと言う、驚くべき 形態が取られたのです。これを「同君連合」と言います。

実は、以前から、イングランド王がスコットランド王を兼ねて、両国を統べると言う構 想はあったのですが、それが色んな条件が重なり、状況が熟して実現したのです。ただ、スコットランド王がイングランド王を兼ねるという点は、従来在った構 想と違っていました。かくて、これは「スコットランドがイングランドを統合した」とも言える連合形態でした。窮すれば通ず、いつの時代や国でも、知恵や工 夫は出てくると言う歴史の教訓でしょう。

この同君連合はその後発展し、1707年、連合法 (Acts of Union)により、ひとつの国家であるグレートブリテン連合王国となりました。そして、その中で、スコットランドは、法制度、教育制度および裁判制度が イングランドおよびウェールズとは異なる独立したものであり、そのために、国際私法上の一法域を構成すると申します。この事に限らず、あれこれと、UKは 実に複雑な国家と他方の形態が取られています。

かくて、同君連合時代のスコットランドやイングランドという国は無くなって、グレートブリテ ン連合王国一つになり、王様も兼任の無い一人となったのですが、首都は何処かと言う事に成りました。この点、同君連合の時代に、ジェームズ六世は、同一世 ともなったので、ロンドンにやって来ました。そして、すっかりロンドンが気に入り、従来のエジンバラには一度だけ戻ったきりと言います。スコットランドは 自然が厳しく、イングランドの気候、風土の方が比較的穏やかで肌に合ったのでしょうか。かくて、結局、同君連合の時代にロンドンに定着することが慣例化 し、ロンドンがUKの首都として固まって参りました。斯くて、UKはイングランドを主力とする国として伸びて行きます。

なお、スコットラン ドの地名や人名を見ていると、アングロ・サクソン風のものが多いことに気付きます。そこは元来アングロ・サクソンがあまり入らず、ケルト族の多いところで した。でも、イングランドに移住したアングロ・サクソンは、農業や産業の発展と、イングランドの国力の伸張に伴い、スコットランドにも入植し、勢力を張っ て行ったようです。そうした事が中世のスコットランドで生じ、英語型人名、地名の普及に貢献したように思われます。実際、イングランドとスコットランドの 両方に領地を持つ貴族や
領民は多く、且つ増加していったようです。

他方、アイルランドについては、矢張りケルト語を母語としてい ましたが、16世紀から始まるイングランドの支配により、それらは野蛮人の土語として蔑まれ、学校などでは使用が完全に禁止され、替わって英語が、支配者 の言語として使われました。斯くて、ケルト語は次第に衰退して行きました。そして、18世紀から19世紀にかけて、英語の使用が一般的となったのです。其 処では、元の言葉が残って復活したウェールズと違う事が起きました。第一次大戦後、イギリスの支配を嫌がって、アイルランドが独立し、エールと言う国にな りますと、言葉を元にと試みられましたが、もはや無理であったと言われています。エールでは、元の言葉であるケルト語が失われたのです。

つまり、ブリテンやアイルランドの各地域、各地方で起きたことが区々在り、皆違うのです。

国の旗と、元々の各地域の旗

各地方の違いを良く捉えるため、終わりに旗のことを取り上げましょう。

UKの旗は、Union Flag 乃至Union Jack と言われ、三つの旗を重ねて作られています。
これは「UKとして一本」で出る場合、オリンピック、国連、他国との関係で使われる事になります。

1 イングランドの旗は、白地に赤の縦十字です。セント・ジョージ・クロスと言われま す。

2嗣ぎに、スコットランドの旗は、青地に斜め十字で、セント・アンドリュウス・クロスと言います。Unionになるときは、青を少し濃くします。

3他方、アイルランドについては、白地に細い斜めの赤の十字で、セント・パトリック・クロスと呼ぶ由ですが、実際のアイルランド(エール)は一種の三色旗で全く異なります。
セント・パトリック・クロスは、或る親英的なアイルランドの貴族の家紋のような物から導入したとの見方があります。更に、実はイングランド製との評価もある由です。

4 最後に、ウェールズは龍の紋のような旗で、Union Flag には入っていません。入れるべきとの意見もある一方で、Union Flag に入らず長い間立っていることと、龍はあまり
異色で、Union Flagと合わないともされています。

斯くて、現Union Flag は、1、2、3 で出来ています。

サッカーやラグビーなどは、各地方代表で出ますから、振られる旗は、1,2,3.4と別々で、斉唱する歌も英国国歌ではなく、各地方の歌と聞きました。どんな歌なのでしょう。
教えてもらいたいものです。一方、イングランドは英国国歌を唱うとも聞きました。
真実を知りたいですね。

ともあれ、イギリス、英国、UKは大変込み入った複雑な国で、幾つもの地域乃至
地方から成り、また、その外に、隣接するも全く独立した別の国があるのです。


コメントする

内容をご確認の上、送信してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

政治 | 経済の関連記事

Top