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ゴッホと日本 上野の美術展

2018.01.08 Mon
文化

ゴッホと日本 上野の美術展
平成30年 2018 1月
仲津 真治

「北斎とジャポニズム」は、国立西洋美術館での展示でして、この情報屋台でも拙感想を述べ、鑑賞録を記した通りですが、似たような趣旨で、ゴッホへの日本の影響をテーマに、近くの東京都立美術館でも展示を公開中とのこと、その会期がこの一月八日までと言うではありませんか。「すわっ大変」と急ぎ行って参りました。

1)  すると、とても混んでおりました

入り口から長い行列ができていて、すっと入れた、この館でのこれまでの経験とは大違いでした。 訳を聞くと、日本でのゴッホ人気と、会期末だからでしょうと言う事でした。

念のため、展示されているコレクションや所蔵先の名前を追っていくと、極めて広範囲で、内外の美術館は言うに及ばず、個人名も多岐に渉っていました。なかでも、オランダのファン・ゴッホ美術館などが目を引きました。 この展示には浮世絵との関連を念頭に、ゴッホの集大成を図っているとの印象がありました。ゴッホはオランダ出身ですからね。

2 )  作品点数は総計で百八十点余りに達する

そこを長蛇の列の観客が入り込んだわけですが、通例なら一時間少しと言う見学時間が三時間を越えました。 実際、余りの混雑で遅々としか進めないのです。そして、所々で、立ったまま凝視続ける見学者がいました。 美術の感性の優れた人でしょう。鑑賞者の中には、小さい子供が程々に居ました。家族連れですね。それに初めて見たのは、赤ん坊を負ぶっているお母さん達、こう言う美術好きの人がいるようです。

外国人も混じっていました。 中に、東南アジア地域の言葉が聞えてきたので、「タイの方ですか?」と聞くと、「べトナム」との答えでした。 世の中、様々です。 白人と違い、東洋系の人々は顔立ちだけでは、暗い館内で分かりにくく、結局、言葉による聞き分けになりました。

3)  意外と接点の大きかったゴッホと日本

フィンセット・ファン・ゴッホは1853年生まれです。 ペリーの最初の来航の年で、鎖国日本が欧米との間に門戸を開く端緒となった年です。 この二つの事象の間には何の繋がりも在りませんが、晩年三十代のゴッホの日本、取り分け「浮世絵」への傾倒をみると、何かを暗示している感じすらしますね。 私自身、作品「ひまわり」で思い浮かぶイメージや、学校で習った「炎の人」と言われるゴッホの印象と、浮世絵の持つ雰囲気の違いに、違和感が在ったことは確かです。そこは素人ゆえ、御寛容宜しくと申し上げるほか在りません。 斯ように、この展示は、いろんな事を教えてくれました。

1857年に、テオドール・ファン・ゴッホ(通称「テオ」)と言う弟が生まれます。
この人は生涯一枚しか自作が売れなかったという兄を、苦労惨憺支え続けたと聞きます。

翌1858年、日仏修好通商条約が結ばれ、フランスが日本から直接商品を購入できるようになり、陶磁器や絹製品などの日本からの輸入が本格化します。
高価な伊万里焼などの磁器が、「浮世絵」の版画にくるまれて、入って来だしたのはこの頃からでしょう。続いて、1862年から1867年に掛けてロンドンやパリで万国博が相次いで開催され、数千点もの日本からの展示物が並びました。ジャポニズムがうねるようになります。 翌1868年は改元され、日本は明治となりました。

一方、ゴッホはオランダのハーグにて、ダーヒル画廊の支店に就職します。
ロンドンやパリの支店にも勤務します。ロンドンでは、日本の美術品を所蔵するサウス・ケンシングトン美術館を訪問しています。 斯く、この画商の仕事をしているときに、ゴッホの画家としての下地が養われたと見られます。 つまり、ゴッホは画商として絵の世界に縁が出来たときから、日本や浮世絵との繋がりがあったと云えるようなのです。

4)  画廊解雇から、今度は聖職者を志し、挫折、次いで画家に転じる

1874年、第一回印象派展が開かれます。ゴッホ21歳でした。
1875年、ゴッホの勤務態度が悪化し、ダーヒル画廊を解雇されます。
やがて、一転して神学部に入るべく、アムステルダムに移り、海軍軍人で在日経験を持つ叔父の「ヨハネス・ファン・ゴッホ」宅に下宿しました。

1879年、ベルギーのブリュッセルの伝道師養成学校に仮入学します。正規では認められなかった由です。そして、地方の炭鉱で伝道活動に従事中、常軌を逸した活動ゆえに資格を停止されます。

1880年、度重なる失敗や失意体験を経て、画家への転進を決意、ブリュッセルの美術学校に入学し、絵の就業を始めます。 その後、オランダ国内で専門の画家から手ほどきを受け、多くの油彩画やデッサンを書くようになります。1885年には、初めて浮世絵版画を購入しています。

5)  パリへ  印象派と日本趣味

1886年、33歳のゴッホはこの頃、パリに居た弟テオの所へ突然やって来ます。芸術の都「パリ」は芸術に関して、人も情報も集まるところでした。
ゴッホにとって、印象派の人々と接触し、交流が始まります。

翌年に掛けて、ゴッホは大量の浮世絵を研究します。 場所は「収集家 ビング」のギャラリーで、そこに頻繁に通いました。

此処で話題は広がりますが、実はこの頃、ゴッホ自身が模写制作した作品が残っています。このうちの一点が今回の展示品に在りました。 それは、「パリ・イリュストレ」誌の「日本特集号 1886年5月号の表紙を飾った油彩のものでした。
そのオリジナルの縦大判錦絵は、「渓齋 英泉」原作の「雲龍 打掛の花魁」でした(この作品も展示品の中にあり、文政後期が天保前期制作と推定されていました。)  これだけ一箇所に揃えてあると、展示として凄い迫力がありますね。

6)  日本の夢、南仏に求めて

浮世絵に魅せられたゴッホは、未だ訪れたことのない日本を夢見て、南仏に向かい、アルルに落ち着きます。 1887年の事でした。

そこの漁村を題材に、日本美術に色濃く影響された油彩画を多く描きます。

7) ゴーガンとの破局

パリで知り合い、意気投合していたゴッホとゴーガンでしたが、1888年この南仏での共同生活を始めると間もなく激しい口論しました。 結局そのまま破局を迎え、ゴッホは自身の左耳を切り取るという不可解な事件を引き起こします。 そして、ゴーガンはアルルを去りますした。

8) 終焉

精神異常を来していたゴッホは、サン・レミの精神病療養所に入ります。

1888年弟テオが結婚し、間もなく、息子に恵まれます。
同年5月、パリ近郊のオーヴェールに遷り、医師「ガシェ」が主治医となります。
同年7月27日、何とゴッホは銃弾を受け、二日後テオに看取られ、永眠します。享年37,ピストル自殺と見られています。 主治医ガシェの下に多くの作品が残されました。

9)  ゴッホが、日本の浮世絵に大きく影響されていたことは分かるが、それは
何処にどう出ているか?

この展示会を見て、ゴッホが日本の浮世絵に傾倒、多大のインパクトを受けていたことが、好く分りました。

では作品の何処にそれがどう現れているか、それが美術展鑑賞後に残った疑問でした。

其処で、インフォーメイションのコーナーに参りました。

すると先ず示されたのが、文中、既に紹介済みの「ゴッホ自身の手になる模写」でした。 原作は「渓齋 英泉」の「錦絵」で、「雲龍打掛の花魁」ですね。でも、これは模写ですから、当然でしょう。 模写するくらいですから、傾倒していると言い方も出来るでしょうが、「影響されたというのにはやや違うと思いますね」と突っ込んだら、帰ってきた答えは、作品番号21の「雪景色」でした。

これは、1888年ゴッホ自作の風景画で、「歌川広重」の「東海道五拾三次」
の「蒲原」や「亀山」に似たイメージが在ると言います。 それらは同じく雪景色を描きつつ、地平線を高く、右上から左下に流れる斜線で構成しているので、それをゴッホは「アルルで見た雪景色に生かしたというわけです。
ただ、率直な感じ、こうした捉え方は牽強付会という感じがしました。
其処で、「他には?」と聞いたら、「特に在りません。」とのことでした。

その点、最近、北斎とジャポニズムで見た、ロダンの弟子の「北斎の神奈川沖浪裏」を参照したと思われる作品は、分かり易い影響例でしたね。 英語で「Big  Wave」と呼ばれる彼の絵は、影響がずばり出るようです。

10)  芳名録

ゴッホは、存命中ほとんど絵が売れず、困窮極まったと聞きます。 ではどうして生活をやりくりしていたのか、この展示会では正面から答えた解説は在りませんでした。
そこに弟テオの存在に意味があるとも聞きますが、ゴッホの死後間もなく
後を追うように往っています。

斯くて、その作品を受けて管理したのは、主治医ガシェそして、その息子ですが、其の家を多くの日本人が訪ね、記帳し、芳名録を残しています。 動機や趣旨は何でしょうね。 実に面白い事績です。 ゴッホ死後に、浮世絵から多くを学んで居たと言うゴッホのことを、浮世絵の国日本からやって来て、確かめ、検証し、「浮世絵に関心を持ってくれて有難う」と言う、感謝の意を表したかったのでしょうか。

この芳名録は全三巻に及び、約二百名の実名があり、本展示の中で相応のウェイトを占めていました。 ゴッホ没後ながら、日本に訪れたゴッホ熱狂の或る断面を示すものなのでしょうか。


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