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19 近付くリオ五輪、其処は何故ポルトガル語の話される国となったか?

2016.08.01 Mon
政治

近代オリンピックの第31回競技大会が、平成28年(2016)8月5日から8月21日まで、ブラジルのリオデジャネイロで開催されます。ちなみに、その初回は1896年にギリシアのアテネで開かれており、それはBC776年から約千二百年も続いた古代オリンピックの復活と言う面もあると言われております。因みに私どもは、この6月、古代アテナイ西北方のオリンピアの地を訪ね、その古えの姿を見て参りました。(16 参照)

ところで、中南米と言えば通常スペイン語の話される諸国の地域というイメージがありますが、ブラジルは唯一の例外で、スペイン語と似ていて、言語系統上も近いけれども、ポルトガル語と言う別の国語が使われていると聞きます。例を言えば、パンは英語で言うbread の意味で、日本語の中の外来語となっていますが、元はポルトガル語の由です。
では、何故、ブラジルがポルトガル語という事になったか、この機会にその分けを尋ねて見たいと思います。
其処には大航海時代に遡る歴史的な理由が在る:トルデシリアス条約

近世15世紀に入ると、ヨーロッパは、所謂大航海時代を迎えます。その先陣を切ったのが、その西南端のイベリア半島に位置するスペインとポルトガルの二国でした。両国は激しく争い、航海先や到着地の各地で紛争や戦闘が起きます。これはならじと、合いの手が入り、その下で両国が折衝、時のローマ教皇(アレクサンドル六世)が、「アメリカ新大陸などはスペインの支配下に、アジア・アフリカなどの旧大陸はポルトガルの支配下に置く」と言う事で仕切ったと申します。これをデマルカシオン(英語The demarcation)と言う由です。

具体的には、更なる調整もあって、西経46度37分の子午線が支配線の境界(ここから西がスペイン/東がポルトガル)となったとのこと、これが条約となって、1494年(スペインの指揮下に在ったコロンブスによる新大陸発見の二年後)に、スペインのトルデシリアスで調印されます。斯くて、これをトルデシリアス条約と言います。

この後、ブラジルの一角(今日のリオデジャネイロ付近)がポルトガル人によって発見されますが、それは1500年の頃の事と言い、また、其処は西経45度の東側に位置していました。斯くて、このブラジルの地は条約の内容とも合致し、ポルトガルの領域となったのです。

この地点などが拠点となって、ブラジルの大地の奥深く、探検や開拓が行われ、それはいつしか西経46度37分の子午線を越えていきました。その頃には、スペイン側にそれを阻止する力とてなく、広大な南米の大地は、ブラジルがホルトガル、その余は悉くスペインの支配するところとなったのです。

因みに、トルデシリアス条約は、他の列強の反対もあって、1506年にローマ教皇ユリウス2世によって廃止されたと言われます。その事もあってか、世界は次の領土・植民地獲得の段階に入って行きますが、アメリカ新大陸に関する限り、この条約は概ね守られていて、スペインとポルトガルの支配圏が生き続け、各地様々の発展と変化を経て、各国が独立し、現代に及んでいます。

なお、アメリカ新大陸の内、北米に関しては、スペイン等の支配が余り広がること無く、英国やフランスなどの勢力の展開するところと成り、後年、アメリカ合衆国が独立、また英連邦カナダが成立し、概ね英語圏となっています。
だは、アジアに於ける仕切りは、どうなったか:サラゴサ条約

さて、地球は丸い。さすれば、西半球に一応の仕切りが出来たとしても、東半球はどうなるのか、間もなく、アジアなど、各地で両国の利害が対立し、もめ事が起きるようになりました。これが最も先鋭化したのは、貴重な香料を巡る争いでして、モルッカ諸島が焦点となりました。

その権益を狙ったスペインは、ポルトガルのマラッカ海峡制圧を受け、1519年、マゼランを指揮官とする艦隊を派遣、その死に出遭っても地域に人員を配置、拠点を築きます。だが、その維持のため、アフリカやアジアに根拠地を持たないスペインは、東風の貿易風に逆らって広大な太平洋を横切るしか無く、それは結局失敗します。そして、遂にモルッカ諸島の領有を諦めるのです。

この結果、スペインとポルトガルで間で結ばれたのが、東経133度の子午線を植民地分界線でとする条約で、1529年に調印されました(サラゴサ条約) 。斯くて、モルッカ諸島はポルトガルの支配下として確定、その代わり、スペインは多額の金銭補償を得たのです。
スペインのフィリピン進出とポルトガル・種子島

スペインは斯くてモルッカ諸島から撤退します。しかし、その勢いと視角は鋭く、すでにマゼランが到達していたフィリピンに対して、通商等を要求していきます。其処は、件の分界線より西側なので、本来ポルトガルの支配圏に入っていたのですが、スペインは先取権を主張して、その経営に乗り出したのです。その際、フィリピンへはメキシコから貿易風で太平洋を横断することは容易であったものの、1560年代に北寄りの偏西風を利用して太平洋を西から東に横断することに成功し、メキシコ-フィリピン間の往来(いわゆるガレオン貿易)を盛んにして行くのです。

付言すれば、サラゴサ条約に言う東経133度の線は日本列島の岡山付近を通っており、スペイン・ポルトガルで分断される形となっていました。1543年には、ポルトガル人が種子島に漂着して、交易が始まっており、スペインは1584年に平戸に来航しています。日本にも、遂に列強の手が伸びていたのです。

リオの近代五輪開会を待つ中、斯く歴史に色々思いを馳せることは、大いに意義在るところと信じます。


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