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企業家 榎本武揚の民間事業(1)

2022.12.31 Sat

図1.  榎本の北方開発構想

*江戸時代、シコツ越えと言われていた。約2里、8kmを歩いた。当時、千歳川はシコツ川と呼ばれていたが、縁起を担いで名前を千歳川に変えた。明治5年3月に、「開拓使」は函館近郊の亀田村の一本木から、森村(森港)に至り、森村から海路でトカイモイ(室蘭)に渡り、トカイモイ(室蘭)より苫小牧・千歳を経て札幌の豊平橋に至る札幌本道の工事に着手した。

明治6年 「札幌本道」の開削 | あしりべつ郷土館公式ホームページ (ashiribetsu-museum.com)

開拓期の人流・物流を支え続けて-札幌本道と札樽国道|北海道開発のあゆみ|北海道開発局開局70年 (mlit.go.jp)

 

 

榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 企業家 榎本武揚の民間事業(1)

 

・企業家、デベロッパー、国利民福

 

・榎本の復帰

 

 明治天皇は、海軍薩摩閥の横暴を『「日本の海軍省に非ず」、「薩摩の海軍省」([明治14年]四月四日) 』*と評し、榎本海軍卿の追い出し事件をぼやいてみたところでなすすべも無く、内閣は4月7日に榎本海軍卿の解任と川村海軍卿の復帰を決定し、内閣は奏上し、明治天皇は裁下しました。榎本は、同日、海軍卿を免ぜられると、新しい辞令(駐仏公使)を受け取らず、さらには海軍中将を返上すると主張しました。世間の目が薩摩と榎本の確執に集まっていました。榎本は伊藤博文ら長州閥の斡旋で5月7日に一等官の待遇で宮内省御用掛に復帰しました。

*出典:東京農大榎本・横井研究会編、吉岡学「『保古飛呂比』に見る海軍卿辞任から宮内省出仕への道程」『榎本武揚と横井時敬』東京農業大学出版会、2008、pp.168-171

 

 維新後、開国開明に関し大隈重信と長州閥は開明急進路線*¹を進みましたが、木戸孝允は大隈の急進性に反発し*²、袂を分かち、長州閥は木戸孝允をリーダーとする開明漸進路線(伊藤博文、井上薫、品川弥次郎など)へ舵を切りました。木戸が民衆の困苦へ理解を寄せるようになったためでした。木戸亡き後は、伊藤がリーダーでした。伊藤のグループは、榎本の考え方とケミストリーが合い、また、伊藤らは榎本の実力を認めていました。

*¹ コトバンク [佐々木克]『田中彰編『日本史6 近代1』(有斐閣新書)』による「民蔵分離問題」の解説から引用。

参考:御厨貴『明治国家形成と地方経営』東京大学出版会、1980、p.9

*² 木戸は、廃藩置県(明治4年7月14日)を前にして、明治4年3月9日付けの日記に、「・・・今日の流れで最も憐れなのはただ民衆だけである。大いに根本を改革しないなら、何万人もの困苦を止めることはできるだろうか。・・・」と書き記し、大隈を先頭にして行わせてきた「急進改革路線(開化)」に疑問をもつようになった。伊藤之雄『大隈重信(上)』中公新書2550、2019。木戸は明治10(1876)年5月26日に没す。

 

 榎本の政府復帰の二日後の明治14年5月9日、東京日日新聞は、「北海道に十万坪の土地所有」という記事を掲載しました。

『同君[榎本武揚]が北海道の開拓に望みを嘱せらるるは戊辰の一挙前よりの事なるが、露国駐剳の頃より追々地所を払い下げられ、既に昨今は十万をもて数えるほどの坪数にいたりしよし。そのうち小樽港鉄道の停車場となるべき地もその所有にて、この地価は東京にても中等以上に位するほどのものと聞けり。またその他の地所をすべて貸し置かるるに、地代は普通の半額を収めらるるが、それにても一ヶ月千円内外の収入なりと云う。』

 榎本が解任されたときは二等官でした。一等官という高給に釣られて復帰したのではないという、榎本への応援記事です。記事の『露国駐箚の頃より追々・・・』と書かれていますが、榎本が開拓使払下げの土地の購入を開始した時期は、榎本が開拓使だった明治5年10月以降で、北海道では最初の事例でした。

 とかく、榎本と蝦夷と言えば、蝦夷共和国建国ストーリーに注目が集まりがちですが、榎本が北海道の開拓を希望した時期が、戊辰戦争以前であると書かれていることに、注目するべきです。現に蝦夷島総裁以下組織図*には、右から海軍奉行、陸軍奉行に並び「開拓奉行」*が置かれていました。大挙脱走し、蝦夷地へ向かった榎本の本望は、あくまでも蝦夷地開拓でした。

*尾佐竹猛『国際法より観たる 幕末外交史物語』邦光堂、昭5(大正15年版の普及版)、p.383

 

・デベロッパー榎本の北方開発-北辰社

 

 榎本らは小樽を中心とした開発のため「北辰社」*¹を起業し、企業家(機能資本家)*²として、デベロッパーとして、北海道で活躍しました。

社名「北辰社」の由来は定かでは無い。中国古来北極星を「北辰」と呼び、日本に伝わり、仏教の妙見菩薩と結びつき北辰妙見と呼ばれるようになった。北斗七星と混同される。北極星は星たちの中心にいて不動であることから、天帝太一神の居所とされる。(コトバンク)

参考:大塚久雄『「機能資本家とは,出資をなせるに止らず,それについての企業職能をも、 自ら把持している資本家であって,いわば彼においてはいわゆる 「企業の所有」と「企業の経営」とが合一している。そしてこのことに対応して, かかる 「あらわな姿の」機能資本家の、 損失のばあいにおける責任は無限責任である。いうまでもなく、彼はもっとも本来的な姿の, 十全なる資本家である。』松田正彦『株式会社の指標と諸形態』広島大学経済論叢 24(3) 43-51 2001年   24-3_43.pdf (hiroshima-u.ac.jp)

 

 榎本は北海道で資源探査をしながら、各種資源を有効にする、用立てるためのアイデア(創意工夫)が生まれてくると、政府の対応を待っているのでは無く、自らが資本家となり企業家となって取り組み、実現させました。そこで得た収益で私腹を肥やしたのでは無く、開発が進み新たな発展段階に達した地域にさらに必要な投資を行いました。

 例えば、小樽の街が形成され、移民が定着して生活するようになり、石狩川水域との物流、取引量が増え出すと、榎本たちは、住民たちのために高等商業学校を誘致するために中央での人脈を活かす、建設のための寄付をするといった活動をしました。

 19歳の榎本釜次郎(榎本の幼名)青年が、樺太から北海道を闊歩しながら学んだ、状況把握をする力、決断する力、行動力、諦めない心で、国利民福増進のための企業活動を北海道で実現してみせました。

 

【榎本の資源探査の旅】

 

 榎本は明治5年3月に放免され、明治新政府の「開拓使」四等に出仕し、「北海道鉱山検査および物産取り調べのための巡回」を拝命しました。後の盟友(弟子)、北垣国道は前年12月に「開拓使」へ七等の待遇(同年6月の官員録*¹では六等)で異動し、榎本が3月に出仕すると、合流しました。「鉱山検査および物産調査」という仕事は、軍隊のエンジニアの仕事でもあり、エンジニアは軍隊の進軍計画に基づき、進軍予定地の資源探査をし、軍事行動に使える資源を調査、分析、利用可能性を評価しておきます。榎本が世界一流のエンジニアであることは、北海道での活動と成果*²から明らかになります。

「職員録・明治五年六月・官員全書改(開拓使)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054278400、職員録・明治五年六月・官員全書改(開拓使)(国立公文書館)
加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫、昭和63)の第十章「十 北海道開拓使時代」に詳しく紹介されている。

 

 アーネスト・サトウは、5月4日に北垣の家を訪れると、そこには榎本釜次郎がいて共に宴会をした、と日記に記しました。

『六月九日(陰暦五月四日) 開拓使北垣 (晋太郎[国道]) の家で、日本風の夕食のもてなしをうける。他に招ばれていたのは、榎本釜次郎(武揚、開拓使四等出仕)、わたしのかつての日本人教師小野(清五郎)、それに成田である。盲目の楽人たちが琴、胡弓、尺八、三味線を演奏した。とくに『鶴の巣籠』はうつくしい曲であった。芸者は、竹川町の 顔の大きいイク、板新道の、美人のコカネとミヤキチ、どちらも新橋の近くである。』

(萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 9』朝日新聞社、2000、pp.195-196)

 

 アーネスト・サトウが美しい曲と記した「鶴の巣籠」*¹は、尺八や胡弓などで演奏される本曲*²で、鶴が巣を作り、子を育て、巣から送り出すという、親子の情愛*³をテーマにした一種の標題音楽です。

参考 楽曲解説「鶴の巣籠」 http://shakuhachi-genkai.com/analysis/analysis04-trunosugomori.html
『「巣篭因縁経」と呼ばれる、親の愛のありがたさを解いた経文の趣旨を標題に作曲されたものであると云われている。』
日本音楽の楽曲分類用語。尺八楽(がく)、胡弓(こきゅう)楽、琴(きん)楽で用いられる。(コトバンクより引用)
コトバンク、「巣籠」、「鶴の巣籠」より引用。

 

 明治2年5月、榎本は、戊辰戦争最後の戦い、箱館戦争で敗れると、6月30日に投獄され、明治5年3月6日に放免されました。その間、榎本は、母「こと」の死に目に会えず、「こと」は明治4年8月26日に亡くなりました。宴会で、尺八または胡弓で演ずる「鶴の巣籠」は定番と言えます。しかし、榎本が放免されて渡道するまでの二か月間にやらなければならないことが多数あった中で、真っ先に母の供養をしたはずで、そういったことを併せ考えると、北垣が榎本の気持ちを慮って「鶴の巣籠」の演奏を依頼したのでしょう。更には、渡道を前に北辰社の創業という自分たちの新たな旅立ちを祝しての宴会とも言えます。

 榎本は黒田清隆開拓使次官と開拓について相談をし、望遠鏡、地図、その他開拓調査に必要な品物をそろえると、5月25日午前9時に家を出て、品川停車場*¹で11時の汽車に乗り、11時35分に横浜停車場に着き、宿に入りました。その後、見送り人らと会食した後、箱館占領当時、いささか関わりのあったフランス人商人ファーブル*²から時計、晴雨儀(気圧計)、磁石など購入しました。一行は、榎本と同行者の北垣ほか8人、僕従者5人でした。同行者にオランダ人が一名いました。僕従者には、大塚、そしてロシアへも僕従した大金(大岡金太郎)らの名前もありました。5月27日朝4時、彼らを乗せた大型のアメリカ船は横浜港を出帆し、5月29日夜9時半に函館港に到着しました。29日は、たまたま同船したロシア人から、ウラジヴォストーク*³の貿易と経済の状況、ニコラエフスク、ネルチンスク、バイカル湖などの情報を得ることができました。翌朝30日5時、榎本たちは上陸し、先に赴任していた松平太郎(元、蝦夷島副総裁)と合流し、宮古海戦で戦死した甲賀源太郎らの墓に詣でました。6月1日、榎本は活動を開始しました。(加茂儀一『榎本武揚』中公文庫、昭63、pp.384‐388)

  図2. は、榎本の物産、資源探査の巡回ルート図です。明治5、6年に探査行を実施しました。

図2. 明治5~6年、榎本武揚の北海道巡回ルート
(引用元:中山行編集『現代視点 戦国・幕末の群像 榎本武揚』旺文社、1983、p.189)

 

 榎本は、船内でロシアの情報収集に熱心でした。榎本の北海道開発企画は、シベリア(水陸路)を介してロシア主要都市さらにサンクトペテルブルクと結びつけた壮大な構想だったことが窺えます。図3.はウラジヴォストークとサンクトペテルブルクの間の探査ルートです。樺太領有権交渉担当者に指名され、交渉の地が東京からサンクトペテルブルクへ変更になった背後に榎本の意思も働いていたと言えます。

図3.榎本のユーラシア大陸での探査ルート

(引用元:榎本隆充・高成田亨編『近代日本の万能人 榎本武揚』藤原書店、2008、p.333)

 

5月7日に品川‐横浜間の鉄道は開業していた。
宮本隆康『実は新橋―横浜間に先駆け開業・・・品川で「鉄道発祥の地」の証を追う』東京新聞、20215.2、https://www.tokyo-np.co.jp/article/101905

『榎本武揚と国利民福 Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの 榎本武揚』http://www.johoyatai.com/4208を参照。
 榎本が日記に「ファーブル」と書いた人物は、函館市史編纂室編『函館市史』通説編2 4編1章2節2-2、では、フランス商人「ファブル」として登場し、彼の仲間の「ファルファラ」は「ハルハラ」として登場する。二人は南部藩との武器弾薬の取引をしていた。『函館市史』では、南部藩[盛岡藩]から箱館へ派遣された人々や箱館在勤者(留守居役)たちは、箱館が不安定な状況となり、『箱館退去日を[明治元年]8月13日と決定した。またその日の午後には、フランス商人ファブル、ハルハラを留守居所に 招いて箱館脱出のための蒸気船雇入れと銃器購入のための南部銅売買交渉』をした。

 ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ『イタリア商人ジャーコモ・ファルファラの未刊日誌』イタリア学会誌 第 66 号(2016 年)でとりあげた「ファルファラ」は、武器弾薬や牛などを英国籍の商船「ガウチョ」号に積み、横浜港から南部藩へ届ける旅に出て、途中、ブリュネや榎本らと遭遇したことを記した日記を取り上げ、論じている。「ファーブル」は、ブリュネらとともに、箱館港に係留していたフランス軍艦に乗船し、脱出した。
*³1856年、ロシアは極東沿岸の港に自由港制を適用した。榎本が北海道へ向かう時期は、すでにウラジヴォストーク港は自由港だった。
 

【北太平洋のグレート・ゲームの海面】

 1853年にクリミア戦争が勃発し、その戦火は世界中に広がりました。

 1854年、榎本は堀利煕の北蝦夷(樺太)の巡検(日露国境確定作業)に追従し、巡検後は蝦夷地(北海道)を巡察しました。同年8-9月に英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のペテロパブロフスク基地包囲戦を実行しました。

 翌年、1855 (安政2)年4月に、仏軍艦二隻が病人二百人余を乗せて箱館港に入港したので、日本側は養生所を設けて負傷兵を収容し、フランスの軍医と日本の医者が協力して治療したこともありました。クリミア戦争の一連の出来事だと考えられています。(藤原逼『北方洋学思想史―南部盛岡と箱館(3)』アルテスリベラル56号、岩手大学人文社会科学部、1955)

 1855年5月8日、幕府関係者や戸田の村民から盛大な見送りの中、ヘダ(戸田)号に乗船したプチャーチン一行は帰国の途につきました。プチャーチンたちは、途中、英仏連合艦隊に繰り返し遭遇しながらニコラエフスクにたどり着きました。

『五月二一日船はペトロパヴロフスクへの入口に数マイルのところに到達したが、凪のためストップした。霧が晴れると、水平線上に四隻の艦影が見えた。敵艦である。プチャーチンは[6本すべての]オールをとって、漕ぐように命じ、数時間後に風が出たこともあって、夕方には湾内に入り、投錨した。・・・五月二三日出航し、霧に紛れて、なお沖に見える敵艦を避けて、進んだ。 ・・・六月二〇日「ヘダ」号はニコライ哨所[ニコラエフスク]の前に停泊した。』

出典:和田春樹 『開国-日露国境交渉』 日本放送出版協会、1991年
奈木盛雄 『駿河湾に沈んだディアナ号』 元就出版社、2005年

 

 クリミア戦争当時(1853-1856)、1854年8-9月、極東のロシア軍基地、ペテロパブロフスクの基地および軍艦を攻撃に訪れた英仏連合艦隊は、海岸線の調査をしました。沿海州で英国艦が命名した海岸の一つにポート・メイがありました。アムール河口(ニコラエフスク)を主要港とするシベリア小艦隊は間宮海峡を年間のうち海面が結氷しない4ヶ月間しか航行できないため、南に新しい港を求めて、1859年、頻繁に箱館港に集合と出入りを繰り返し*¹、海岸線を調査しました。その結果、沿海州沿岸のポート・メイが良港になると確信し、英仏系の地名をウラジヴォストーク (東方の支配、東方を支配せよ)* ²というロシア名に書き変えました。そこには、小さな漁村がありました。

 東シベリア総督は、同年11月、ウラジヴォストークとポシェットとの占領と軍事哨所建設を決定し、翌1860年6月にウラジヴォストークに将兵が上陸し、哨所建設に取りかかりました。1856年のアロー戦争を仲介したロシアは1860年11月 の北京条約で清国から仲介の見返りに沿海州を手に入れました。ロシアは、1867年、経営に行き詰まっていたロシア領アメリカをグレート・ゲームの敵-英国を避け、米国に売却しました。1871年(明治4年)にロシア政府は、ロシア海軍の主要港をアムール川河口のニラエフスクからウラジヴォストークへ南下させる決定をし、1872年(明治5年)にウラジヴォストーク港を主要港としました。ウラジヴォストークは沿海州の中心都市として整備と発展が始まりました。(参考:原暉之『ウラジオストク物語』三省堂、1998、p.62)

 

図4. ロシア太平洋艦隊の主要港の変遷
(google mapsを引用した)

 

 クリミア戦争が北海道の北方の海域をグレート・ゲームの海域に変えました。その後、ロシア海軍の主要港がニコラエフスクからウラジヴォストークへ南下したことで、グレート・ゲームの領域が南へ拡大していきました。

『一八五九年(安政六) から一八六三年(文久三) に箱館に入港した外国艦船の数を比べると、米国は計百二十三隻のうち軍艦は一%未満の一隻、英国は計七十九隻のうち一六%の十三隻だったのに対し、ロシアは計九十二隻のなんと八九%にあたる八十二隻が軍艦で占められていた。こうした状況を見ると、ロシアの極東戦略における箱館の軍事的役割に目を向けるのは自然な流れだろう。』(伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009、p.222)

意味するところは、『太平洋上のわが艦隊揺籃の地であり、・・・。ロシアの使命の発祥の地であり、わが東方支配の策源地であるからだ』 原暉之『ウラジオストク物語』、p.62。地名「ウラジヴォストーク」の起源は、「ウラジカフカス」に由来しているとも考えられる。 同上、p.63

 

【近代都市小樽の誕生】

 

 1872年、明治5年、ウラジヴォストークがロシア海軍の主要港*¹として整備が開始されたことで、日本は、ロシアの南侵に対し、北海道の沿海州に面した地域の開発と防衛力強化が急務となりました。

 明治5年9月、「札幌開拓使庁」(明治3年4月竣工)を「札幌本庁」に改称し、札幌本庁は「北海道土地売貸規則」、「北海道地所規則」を布令し、10月に太政官は公布*²しました。石狩川河口域から直線で30km離れた小樽に、乱伐が進み、いずれは荒廃地になりかねない森林地帯がありました。榎本と北垣、松本は早速、十数万坪(二十万坪とも言われている)の土地を共同購入しました。資金不足分は借金で充当しました。榎本らは、小樽を戦略上の要衝の地として都市開発を進めようとしていました。

 小樽とウラジヴォストークとは北緯43度線上を東西に500km隔てて位置し、当時の蒸気船で3日の距離でした。榎本は、高田屋嘉兵衛が箱館を東蝦夷の玄関口にして漁場や街を開発したように、小樽を道央の玄関口とし、国内の主要な港湾都市として発展させることをデザインしました。

原暉之『ウラジオストク物語』、p.92
『北海道農地改革史. 上巻』北海道、1954、pp.33‐39

 

 小樽の至近に石狩川の河口があり、石狩川水系を利用して開拓で生産された物資を小樽へ船で送り、積み出す、また石狩川水系で暮らす人々が必要としている生活物資や資材などを小樽港へ輸送させ、石狩川水系を利用して水運で各地へ送り届けることができました。小樽港からウラジヴォストークへの北海道産の小麦をはじめ様々な物産を輸出すると、その後は黒龍江を遡行してロシアの主要都市へ輸送することも可能ですし、途中、松花江へ荷物を移し替えれば清国の東北三州へ輸送することもできます。必要な石炭は、空知炭鉱から掘り出し、空知川-石狩川のルートで小樽港へ運ばれ、手に入れることができます。

 図5. は石狩水系と関連地図です。

図5. 石狩川水系の水運を利用した開発企画

右図は、「国土交通省:ホーム>政策・仕事>水管理・国土保全>統計・調査結果>日本の川>北海道の一級河川>石狩川」から引用した。https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0109_ishikari/0109_ishikari_00.html

左図は、google mapsを引用した。

 

 小樽市『小樽港の沿革と自然状況』*によると、榎本たちの明治5年の小樽開発の着手で小樽でのインフラ整備が着々と進行していたことが分かります。

1865年 元治2年   幕府は「オタルナイ」を村並とした

1869年 明治2年   開拓使を置き、「蝦夷」を改め「北海道」と称し、「オタルナイ」を「小樽」と改める

1872年 明治5年   政府は色内村に石造ふ頭を築造、同6年完成(本港最初の築造ふ頭)

1880年 明治13年 小樽、札幌間に道内最初の鉄道開通(11月)(日本で3番目)

* 〈小樽港要覧〉小樽港の沿革と自然状況 | 小樽市 (otaru.lg.jp)

 

 榎本は、明治6年8月末から11月にかけて空知川沿いの石炭層を調査し、良好な品質であることを精度の高い分析結果で示しました。室蘭では空知の石炭を使った製鉄業(明治20年、日本製鋼所設立)が始まりました。空知の石炭と室蘭の製鉄業とは小樽港*が結びつけていました。明治25年には、空知炭鉱と室蘭は鉄道で結ばれました。榎本の目論見通り、小樽港と道央は発展を続けました。

*小樽港は、日本遺産「炭鉄港(たんてつこう)」になっている

https://otaru.gr.jp/tourist/hakubutukantantetukougaidance

 

 現在までの小樽港の発展を国土交通省・北海道開発局は次のように紹介しています。

『小樽港*は、北海道における政治・経済の中心地の札幌を始めとする道央地域を背後圏に日本海側流通拠点港として重要な役割を担っている。本港は、石狩炭田[空知、夕張]の開発に伴い、明治13年手宮~札幌間に鉄道が敷設されたことにより、石炭の積出港として整備され、明治32年の開港以来、平成9年で100周年を迎え北海道の開拓の拠点として今日まで発展してきた。』

引用元: https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kk/kou_kei/ud49g70000008mg2.html

 

 

【対雁の開拓】(現在の江別市)

 

 明治5年の小樽での土地取得に続き、榎本は、明治6年10月に石狩川の対雁(ついしかり、現在の江別市) の土地十万坪を大岡金太郎*¹名義で購入しました。対雁周辺では豊平川、千歳川が石狩川に合流します。内陸部からの物資が対雁に集まり、それら物資を大船に積み替え、石狩川に入り約20キロメートル下ると石狩湾にたどり着きます。対雁は内陸の交通の焦点、積換点でした。河口から小樽港まで約20キロメートルです。小樽港で倉庫に物資を積み上げ、順次輸出されることになります。

 かつて榎本の農場、「榎本農場」があった地を江別市は記念して「榎本公園」として残しました。公園に建てられた塔の上には道産子にまたがり、遙か彼方を指さす榎本武揚の銅像*²が設置されています。札幌へ榎本農場のような周辺の農場から農産物が供給されました。

 榎本は武士の失業対策事業として蝦夷地を開拓しながら蝦夷地を警護する「屯田兵」事業を創業しようとしたところ明治新政府に拒絶され強行しようとして失敗しました。榎本が対雁の土地を払い下げられた翌月、黒田開拓使次官は、屯田兵制度を政府に提案し、許可を受けました。以下はコトバンクかららの引用です。

『1873年(明治6)11月、開拓次官黒田清隆(きよたか)は、東北地方の士族で「強壮ニシテ兵役ニ堪ユヘキ者」を北海道に挙家移住させ、「且(かつ)耕シ且守ル」ことを骨子とした屯田兵設置の建議を政府に提出し、ほぼ全面的に容認された。開拓使は屯田兵例則を定めるとともに屯田事務局を設け、75年道内および青森、酒田(さかた)、宮城の東北3県士族から屯田兵を募集、198戸、965人を選抜して琴似(ことに)兵村(現札幌市内)に移住させた。』

 榎本と黒田の事前の打ち合わせにより、黒田が屯田兵制度の実現をさせたと考えられます。この後、西国で続けて起きる士族の反乱を榎本はサンクトペテルブルクの公使館で知ります。政府が反乱を軍事力で制圧してしまったことを新聞記事で知り、北海道や小笠原など、未開の地に殖民させるという選択肢もあるのにと残念がっていました。なにか起きると兵力で解決しようとする明治新政府と、原因が生活困窮にあるなら生計が立つ道を用意しようとする榎本たち旧幕府の旧首脳陣の発想の違いに驚かせられます。

通称、大金。元、蝦夷嶋政権副総裁の家来で、榎本が駐露公使で派遣されたとき、従者として同行し、サンクトペテルブルクで西洋の先端技術の実習、習得に励んだ。
参考情報 共同リファレンス『江別の榎本公園にある銅像の由来を教えてほしい』https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000223897

 

 

 武藤三代平「榎本武揚と北垣国道による小樽市街開発」*¹では、北垣が書き残した当時の様子や彼らの経営理念を紹介し、論じています。武藤論文から抜粋を以下に紹介します。

『明治五年北海道地所買取ノ模範トナランカ為メ,榎本氏卜謀リ, 十数万坪ノ土地ヲ小樽ニ於テ払下ケヲ願ヒタリ.是レ北海道土地払下ノ嚆矢[こうし]ナリ。』*²

『余, ...公事ノ為メニ家産ヲ抛チ[なげうち]終ニ此負債ヲ累成シタリ・・・今日此土地 [小樽所有地] ヲ売テ我公事ニ尽シタル負荷ヲ消却スルノ幸ヲ得ルニ至リシハ,是レ因果応報ノ理力」と記している. この北垣の記述は近代日本が急速に資本主義体制を導入していくために、政府高官が公的事業に私財を惜しみなく投じた好例といえる. その私財のおおよそが小樽所有地によって賄われていたという事実が浮かび上がる. 小樽から上がってくる資金を得ることで, 彼らはその見返りとして、公共施設のために無償の土地提供をしたり, あるいは高等商業学校[第五高等商業学校、小樽高等商業学校]を誘致する際にも、地元の誘致運動に中央から便宜を図り,両者で五千円の巨額金を寄付しているように、地元小樽に社会的な利潤の還元を行っている. 』*³

 榎本は事業につぎ込んだ借金の返済ができないと観念した時期もありましたが、榎本の負けず嫌いの精神(折れない心)のおかげか、殖民協会での演説の中で訴えた「国利民福」のため「自ら興す」精神*⁴をもって、小樽の開発事業に取り組み完遂したことを北垣が代弁しています。企業家である榎本は、資本金や収益金という数字を多様な価値へ質的変換*⁵を行ったと言えます。

²³武藤三代平「榎本武揚と北垣国道による小樽市街開発」『小樽市総合博物館紀要 第29号』小樽総合博物館、2016
*⁴『我々は単に政府の補助を待[まっ]て、而後(じご)始めて運動する者ではありませぬ、必らずや、雖無文王猶興[文王無しと雖も猶興る、孟子]の精神を以て自ら計画する所が無くてはならぬ』(明治26年)
参照: 『榎本武揚と国利民福 Ⅱ.産業技術立国(中編)』(http://www.johoyatai.com/2711)
*⁵スカラー量である価値(金銭)をベクトル量の価値へ質的変換を行った。スカラー量から空間を生み出したと言える。

 

【北辰社の搾乳業】

 

 飯田橋の駅から九段下に向かって右側の歩道を進むと、東京農業大学の跡地と北辰社牧場跡地の石柱が立っています。榎本らの北辰社が飯田町の榎本の宅地で搾乳業を営んでいました。当時は、珍しいことでは無く、同業者が多数いました。論文、武藤三代平「榎本武揚と北垣国道による小樽市街開発」(以降、武藤論文)で特筆するべきことは、北辰社の共同経営者、北垣が明治8年に榎本に送った手紙に、牛を飯田町の牧場から小樽へ移送し、小樽で搾乳業と養豚事業を始めていることを取り上げ、論じている点です。牛乳は榎本と北垣らの第一次探査行に同行したオランダ商人ブーレットに卸され、その利益から養豚を行い、『豚の臘乾[らかん]*を製造し、ロシア人、イギリス人、海軍省の軍艦を相手に売り捌く』(武藤論文)つもりでした。

*豚のもも肉の塩漬けを燻製にしたもの。ハム。日本ではもも肉にかかわらず、単一の肉塊を塩漬けして加工したものを指す。

 

 武藤論文中で取り上げた、明治42年5月13日、読売新聞掲載の記事『商店訪問記(12) 北辰社(飯田町3の9)』には、『此店は、元、榎本武揚、松平太郎、北垣国道の三氏に依て創立せられたもので、後、現時の社主前田喜代松氏が、総てを引承(ひきう) けたのであるが、・・・』とあり、創立者は小樽の北辰社と同じです。牛乳史関連の論文などでは榎本らの単独事業として書かれていますが小樽と連動した事業でした。

 明治9年8月2日の読売新聞に北辰社の広告が掲載されており、洋牛の牛乳を配達するとしています。しかし、明治11年「東京府統計表」*には、飯田町3丁目で搾乳業を営む業者はいません。明治8年から明治11年の間に、北辰社は搾乳業を廃業し、外部から牛乳を卸してもらい、牛乳販売店を経営していたのだろうと推測されます。

*矢澤好幸『明治期の東京に於ける牛乳事業の発展と経過の考察』(日本酪農乳業史研究会研究報告書、2014年9月、pp.56-78)

 

 榎本がサンクトペテルブルクに駐在中、北海道の気候にあった栽培種の種子を手に入れ、東京の開拓使に送付し、東京の試験場で育成条件などいろいろ調べてから北海道の開拓使へ送付しました。その手順からすると、飯田町の牧場の牛のお世話をしてみて、いろいろ確認してから、小樽へ移送した、つまり、飯田町の牧場は、試験牧場だったと推測されます。北辰社は搾乳業者では無くなったのですが、それまで「北辰社」牛乳というブランドが確立していたので、牛乳を搾乳業者から卸してもらい、販売を続けていたところ、明治13年12月、前田喜代松が洋牛を引き連れて帰国し、ちょうど牛がいない飯田町の榎本邸=北辰社牧場を明治14年に購入し、ブランドや顧客リストなど総てを引き取った、という推理が可能です。

 前田が「北辰社」ブランドを継承してビジネスを続けたため、前田が飯田町の榎本邸を譲り受ける前の経歴も北辰社史として混同されているものと考えられます。もう一つ混同されるのが、大鳥圭介が北辰社牧場の共同経営者として文献に書かれている点です。大鳥は企業家としではなく借金の保証人となったこともある(武藤論文)ので、一緒に経営したと誤解されたのでしょう。

 矢澤好幸『明治期の東京に於ける牛乳事業の発展と経過の考察』の研究成果の一つに「明治期の牛乳屋(搾取家)の相関図」があります。相関図の中の榎本家の系図に榎本武揚と多津の間に「やい」という娘がいて、「やい」は前田留吉の息子、前田甲二郎と結婚したとされています。この相関図中の榎本家の系図は、金谷匡高『明治初期に始まる東京旧武家屋敷の牧場転用による都市空間の変容について 飯田町・番町への牧場移転集中を例として』(日本建築学会計画系論文集2021 年 86 巻 781 号 p. 1189-1196)の1195頁で引用されています。

 例えば、藤原書店の『近代日本の万能人 榎本武揚』2008に収録されている系図には「やい」は登場しません。榎本家に「やい」の確認をお願いしたところ、現存する榎本家の系図には、多津との間には「やい」はいなかったとのこと、前田家へ嫁いだ女性も確認できないそうです。多津の妹、「なみ」の娘、「みつ」は阪川牛乳店に嫁いだそうです。科学技術史がご専門の故、加茂儀一先生が『榎本武揚』の中で榎本家と搾乳業、牛乳販売店、特に小樽での搾乳業や養豚業について触れられていないため、榎本武揚のこの領域に関するさらなる研究成果が期待されます。

 当初は、榎本らの生計を手っ取り早く立てるため、牛乳販売で利益を上げようとしたことも北辰社牧場設立の理由にあったとしても、その後、小樽へ牛を移送するということは、飯田町にあった牧場は、試験目的の試験牧場だった意味合いが強いと考えられます。

 榎本の道内の石炭と小樽港を石狩川(鉄道)で結び、小樽港から積み出す企画は大当たりで、その後、小樽港は発展を続け、重要な港として位置づけられました。小樽はウラジヴォストークとの交易よりも、『樺太との交易で小樽の経済的地位は高まり』(加茂儀一『榎本武揚』p.417)ました。小樽とコルサコフ(旧、大泊)とは直線で約400km離れています。米国西海岸を出発した商船は函館経由でウラジヴォストークへ向かい、樺太へは小樽港から物資が積み出されました。

 

 宮村忠『相模川物語』(神奈川新聞社、1990、p.71)に榎本武揚が登場します。

『かつて相模川疏水計画は実現しなかったが、その宿願は決して消失したわけではなかった。相模原台地の開発計画は、地元有志はもとより、榎本武揚等の知名の士を含めて、何回となく構想が追究され続けてきた。』

 地元有志の一人が伊東方成(ほうせい、1832~98年、相模原出身、蘭方医)であることは間違いないでしょう。伊東はポンペの弟子で、林研海と伊東は医学の研究のため榎本たちオランダ留学生とともに、オランダへ渡りました。伊東は、榎本の獄中時代、榎本をささえ、出仕に協力しました。(出典:相模原市立博物館*)その縁で、小樽開発や対雁開拓で知られていた榎本に協力を依頼したのでしょう。デベロッパー榎本はまさに適任でした。

* 相模原市立博物館「歴史の窓(平成23年度)」http://www.remus.dti.ne.jp/~sagami/90-02-23mado-rekishi.htm

 

【参考文献】

・加茂義一『榎本武揚』中公文庫、昭和63、p.384-389、p.414-423

・武藤三代平「榎本武揚と北垣国道による小樽市街開発」『小樽市総合博物館紀要 第29号』小樽総合博物館、2016)

・武藤三代平『明治期における榎本武揚の権力構造』北海道大学博士論文、2017(国会図書館)

・「龍宮神社」http://dragonjinja.ec-net.jp/enomoto.html

・十河一三編集『大日本牛乳史』牛乳新聞社、昭9


この記事のコメント

  1. 青柳靖 より:

    昨今の北海道酪農事業の経済的混迷を解決する策が、この時代の解析から見出すことができるのかもしれないと考えました。

  2. 中山 昇一 より:

    その通りですね。榎本や國垣たちの北海道開発にかけるエネルギーの強さと創意工夫の力があれば、良い解決策と新たな発展があるのではと期待を持てます。

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