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ドイツ・ウーラント紀行⑥

2023.07.03 Mon

ウーラントの出生地であるテュービンゲンで、ウーラントのゆかりの地を訪ねる探偵団のしごとはひとまず終わり、南ドイツ最大の都市、ミュンヘンに移動しました。テュービンゲンからミュンヘンは、シュトゥットガルトでの乗り換えを含め、鉄路で3時間弱でした。

 

翌日、定番の観光コースだと勧められたノイシュヴァンシュタイン城の見学ツアーに参加しました。城はミュンヘンの南約100キロのフュッセン郊外にあり、ミュンヘン市内からツアー・バスで約2時間でした。城に近づくにつれて、壁面にフラスコ画を描いた家々がありました。フラスコ画のある町として有名なのはオーバーアマガウで、村中で10年に1度、イエスの受難劇を演ずることでも知られています。2000年にこの受難劇を見るツアーに参加したことがあり、そういえば、バスの窓からノイシュヴァンシュタイン城を遠望したことを思い出しました。

 

◆虚構の城

 

山の中腹にあるノイシュヴァンシュタイン城に行くには、ふもとでバスを降りて、城までの狭い道を歩いて登るか、専用のバスに乗り換える必要があります。老年探偵団に歩くという選択肢はなく、バスで登りました。専用バスを降りたところで、ツアーガイドが最初に案内したのは、城ではなく城が見渡せるマリエン橋でした。ふたつの山に架けた橋で、下の谷を見ると、その深さに足がすくみましたが、そこから見る城は幻想的で、絶景というしかありませんでした。(下の写真は、マリエン橋とノイシュヴァンシュタイン城=城のHP)

この城は見るからに中世の城だと思っていたのですが、実際には19世紀後に建てられたと聞いて、近代建築じゃないかと驚きました。施工主はバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845~1886)で、着工は1869年でした。中世の城のように石材も使われていますが、大量のセメントが使われ、鉄骨コンクリート製というのが正しいようです。(下の写真は、ルートヴィヒ2世の肖像画=城の公式HP)

したがって、中世の城のような防衛機能はなく、ルートヴィヒが道楽として築いた「虚構の城」あるいは「虚栄の城」というところでしょうか。米国のディズニーランドにある「眠れる森の美女の城」(下の写真)のモデルといわれているそうですが、虚構という意味では、似たり寄ったりかもしれません。(下の写真は、ノイシュヴァンシュタイン城の入口と、米ディズニーランド©CrspyCrem27)

ルートヴィヒの人生も調べてみると、「虚構の人生」のように思えてきます。ルートヴィヒは1864年、前国王マクシミリアン2世(1811~1864)の死去で、18歳で国王に即位します。中世以来の帝王を夢見ていたようですが、バイエルン王国は1818年以来、両院制議会が政治を運営する立憲君主国になっていました。王位に絶対権力が付いていないことを思い知るのが1866年の普墺戦争で、ルートヴィッヒは参戦に反対だったようですが、バイエルン政府はオーストリア側に付いて参戦しました。戦争はプロイセン側の勝利に終わり、バイエルンは多額の賠償金を支払うことになりました。

 

帝王はお飾りという現実からの逃避が作曲家リヒャルト・ワグナー(1813~1883)への傾注であり、ノイシュヴァンシュタイン城建設への執念となったように見えます。ルートヴィヒがワグナーに熱を入れるようになったのは1861年、ミュンヘンの宮廷劇場でワグナーの歌劇「ローエングリン」を観たときからだと、城の公式HPには書かれ、王の心境を次のように記述しています。

 

「時が経つにつれて、ルートヴィヒ2世は、バイエルンを統治する王であることを常に意識しながらも、シュヴァンガウの現実の騎士であると同時にローエングリンの虚構の騎士であるというロマンティックな思いにかられていました」

 

「シュヴァンガウ」は、ノイシュヴァンシュタイン城の場所にあった城の名前で、ルートヴィヒの存命中は、シュヴァンガウ新城と呼ばれていました。ノイシュヴァンシュタインの名前で呼ばれるようになったのは、ルートヴィヒの死後で、王の愛した「ローエングリン」が白鳥の騎士の物語だったうえ、城全体が大量のセメントを使ったことで白色が基調となったため、「白鳥の城」がふさわしいということになったのです。ノイ・シュヴァン・シュタインを英語に直すと、New Swan Stoneですから、まさに白鳥の城ということになります。

 

ルートヴィヒのワグナーへの思い入れがわかるのは城内の壁画で、ワグナーのオペラを題材にしたものが多いのです。王が居住する居間(サロン)の絵は、「ローエングリン」から採られたものですし、「歌人の広間」の壁絵の多くは歌曲「パルジファル」、「副官の部屋」の絵は歌曲「タンホイザー」といった具合です。(下の写真は、「ローエングリン」の白鳥の騎士、赤騎士と戦う「パルジファル」、ヴェーヌス山の「タンホイザー」=いずれも城のHP)

ルートヴィヒは、ノイシュヴァンシュタイン城ばかりでなく、オーバーアマガウ近くにリンダーホーフ宮殿、ミュンヘン東方のキーム湖の島にヘレンキーム城を建設するなど、中世風の城や宮殿の建設を積極的に進めました。このため、王家の財政では賄えず、その負債は国の財政を圧迫する事態になりました。

 

そこで、バイエルン政府はルートヴィヒの廃位を計画、精神に異常をきたしたという理由で、1886年6月、王をノイシュヴァンシュタイン城からミュンヘンに近いシュタルンベルク湖畔のベルク城に移送しました。その翌日の夜、王は医師とともに散歩に出たまま行方不明となり、この湖で2人の溺死体が発見されました。ミステリアスな死によって、「虚構の城」の王は死後も、映画や小説の虚構の迷宮で生き続けることになります。城もこの地域の重要な観光資源になっています。

 

◆バイエルン優勝

 

ノイシュヴァンシュタイン城の観光ツアーから戻ったミュンヘンの町は、大変な騒ぎになっていました。この日(5月27日)は、独サッカー・ブンデスリーガの最終節で、地元FCバイエルン・ミュンヘンの優勝が決まったのです。バイエルンの優勝は11シーズン連続、33回目ですから、地元にとっては珍しくないはずです。しかし、前節の敗北で今シーズンの優勝は難しいと思っていたところ、首位のボルシア・ドルトムントが負けたために、バイエルンとドルトムントが勝ち点で並び、得失点差でバイエルンに優勝が転がり込んできました。劇的な逆転優勝というわけです。

 

私たちは、そんな話は知らず、ドイツでもっとも有名なビアホールといわれる「ホーフブロイハウス」にくり出しました。大きなホールは満員状態で、席が空くと、すぐに通路で待っていたお客が奪うように席に座ります。バイエルンの赤いユニフォームを着たお客もいて、そこでバイエルンの優勝を知りました。バイエルンの応援歌でしょうか、ホールの一角に陣取る楽団が演奏をはじめると、ホール中が大歓声とともに歌声であふれます。結婚式の流れという若者たちは踊りはじめ、私たちは隣席の人たちと乾杯です。(下の写真は、ホールと踊る若者たち)

翌日、市の中心ともいえる新市庁舎前のマリエン広場を通ったら、広場は柵で囲まれ、その中に入るためには警察官の検問を受けなければなりません。バイエルンのチームも来て祝賀会が開かれるとのことで、私たちは喧噪を避けて広場を離れました。あとでニュースを見たら、バイエルンの女子チームも優勝を決め、男女チームが市庁舎のバルコニーに登場、広場は1万人を超すファンで埋め尽くされていました。歴史的な日に、私たちはミュンヘンにいたことになります。(下の写真は、5月28日の新市庁舎前の様子、新市庁舎のバルコニーに登場したバイエルン男女チームを報じるAFPBBのニュースサイト)

◆ヴィッテルスバッハ家

 

新市庁舎を通過した私たちは、ルートヴィヒが初めてワグナーの「ローエングリン」を観たという「宮廷のオペラハウス」を見学しました。レジデンツと呼ばれるバイエルンを統治してきたヴィッテルスバッハ家の宮殿にある「キュヴィリエ劇場」(下の写真)で、戦災に遭い建て直されたようですが、ロココ様式のきらびやかな内装は昔のままで、いまも現役の劇場として使われています。

劇場に隣接するバイエルン州立歌劇場(下の写真)は、1811年にバイエルンの国立劇場として建設され、本格的なオペラはこちらで上演されています。私たちも見たかったのですが、この日はバレエ公演で観劇は断念しました。建物のてっぺんに旗が翻っていたので、バイエルンの州旗かと思ったのですが、よく見るとウクライナの国旗でした。欧州が準戦時であることを思い出しました。

ルートヴィヒが「ローエングリン」を観た1861年当時、ワグナーはスイスに亡命中で、ルートヴィヒがワグナーと親しくなるのは1864年にワグナーの追放令が解除されたあとです。ルートヴィヒはワグナーをバイエルンに招待し、ワグナーの借金を肩代わりしたり、ぜいたくな暮らしを援助したり、まさにパトロンの役割を果たします。その極め付きがバイエルン北部のバイロイトに祝祭劇場で、ルートヴィヒの援助のもと、ワグナー自身が設計し、1876年に完成しました。この建物も現役で、毎年夏に音楽祭が開かれ、ワグナーの作品が上演されているそうです。

 

ノイシュヴァンシュタイン城を見て、こんなぜいたくをしたら、湖で殺されてもおかしくはないと思いました。しかし、レジデンツを見学し、ヴィッテルバッハ家の歴史を垣間見ると、あの城だけが浪費だと奢侈だとは思えなくなりました。1385年創建という宮殿を夜な夜な徘徊している先帝たちの霊は、ルートヴィヒ2世の霊に対して、「お前は悪くない、時代が悪かっただけだ」と慰めているのではないか、という気がしてきました。下の写真は、16世紀のアルプレヒト5世時代に建てられた「アンティクヴァリウム=考古館」。壁面から天井にかけての絵画はフレスコ画、並べられた彫刻は、アスプレヒトが収集したギリシャ・ローマ時代のもので、実はルネサンス時代の模造品も多いとのこと。もう1枚の写真は、ヴィッテルバッハ家の一族の肖像画が飾られたレジデンツの回廊です。

先帝たちが徘徊していると書きましたが、日本の首相官邸ではあるまいに、近くにあるフラウエン教会(ミュンヘン大聖堂)と聖ミヒャエル教会には、ヴィッテルバッハ家歴代の王たちの墓所があり、静かに眠っているようです。フラウエン教会の入り口には「悪魔の足跡」と呼ばれるタイルがあり、王たちはのんびりと徘徊できないのかもしれません。(下の写真はフラウエン教会の外観=教会のHP、教会の内部=筆者撮影、「悪魔の足跡」=教会のHP)

フラウエン教会は、二つの高い塔があることで、新市庁舎とともにミュンヘンのランドマークになっています(下の写真)。私たちが中に入ったときには、聖歌隊の練習中で、聖歌が教会中に響き渡っていました。ルートヴィヒ2世の棺が安置されている聖ミヒャエル教会(下の写真)は、教会とは思えない佇まいで、建物の尊顔を拝しただけで失礼しました。

教会の塔で、もうひとつ目立ったのが聖ペテロ教会(ピータース教会)でした。この町のもっとも古い教会で、14世紀の大火で焼失したのち1368年に再建され、17世紀初期に91メートルの塔を建てたという歴史があるそうです。教会の中に入ると、天井のフラスコ画や柱の彫刻がおごそかの感じで、宗教的な雰囲気に浸れるのか、祈りを捧げるひとの姿が目につきました。(下の写真は、教会の内部)

◆ウーラントとワグナー

 

ウーラントは、18世紀後半から19世紀前半にかけて花開いたドイツ・ロマン派の詩人であり、ワグナーはそれよりも四半世紀遅れて生まれ、19世紀いっぱい続くロマン派音楽の作曲家になりました。ふたりをつなぐ糸はロマン派というスタイルだけで、直接の接点はないのですが、1848年から49年にかけて、ふたりは歴史的な動乱に翻弄され、同じような経験をします。「ドイツ三月革命」です。(下の写真はウーラントの肖像画とワグナー)

1848年2月にバーデンの民衆蜂起ではじまった「三月革命」は、またたくまにドイツ諸邦に広がり、諸邦は民衆からの要求に妥協する形で、ドイツ全体を束ねる国会の設置を認めます。その結果、諸邦での選挙を経て5月には、フランクフルトで国民議会が開かれます。この議会に、ヴュルテンブルク王国のテュービンゲンから議員として選出されたのがウーラントです。

 

フランクフルト国民議会は、大ドイツ主義対小ドイツ主義、カトリック対プロテスタント、親プロイセン対親オーストリアなどの対立が錯綜して、なかなかまとまらないなかで、諸邦の王による「反革命」の圧力が強まりました。1849年4月には、国民議会から新憲法による帝冠を奉じられたプロイセン国王が戴冠を拒否、ザクセン王国では、反革命に抵抗する民衆蜂起「五月蜂起」が起きますが、プロイセン軍の支援を受けたザクセン軍によって鎮圧されます。こうした反革命によって、6月には国民会議が解散を余儀なくされます。

 

大ドイツ主義による統一ドイツを希求していたウーラントは、国民議会の解散ンを受けて失意のうちに故郷、テュービンゲンに戻ります。一方、ザクセン王国の首都ドレスデンで宮廷歌劇場の楽長だったワグナーは、ロシアの革命家、ミハイル・バクーニン(1814~1876)らとともに蜂起に身を投じ、これが失敗すると、フランツ・リスト(1811~1886)を頼ってスイスに亡命します。

 

62歳になったウーラントは、それ以降、表舞台に立つことは避けて、1862年に75歳で死ぬまで、北欧の神話や民話の収集に力を入れました。一方、36歳で亡命生活に入ったワグナーは、15年後、追放令が解かれると、バイエルン国王のルートヴィヒに招かれ、その庇護のもと、ゲルマン神話などをもとにした「楽劇」の上演や創作に励みました。

 

「革命」に挫折したのち、北欧の神話や伝承を収拾したウーラントは、農務官僚から民俗学を興し、民話を収拾した柳田国男(1875~1962)を想起させます。その連想ゲームでいえば、ゲルマン神話を楽歌にしたワグナーは、日本の伝統への回帰を提唱した戦前の日本浪漫派を思い起こさせます。

 

◆ウーラントとバイエルン公

 

ヴュルテンブルク王国のウーラントと隣国、バイエルンの王とは接点がないのですが、ウーラントは1818年、31歳のときに、『バイエルンのルートヴィヒ』(Ludwig der Baier)という戯曲を書いています。

 

主人公のルートヴィヒは、ヴィッテルバッハ家における最初のバイエルン公であるオットー1世(在位1180~1183)から5代目になるルートヴィヒ4世(在位1294~1347)の物語です。ルートヴィヒ4世は1314年、神聖ローマ皇帝になるのですが、ハプスブルク家もフリードリヒ3世を皇帝に立てたため、当然のことで争いになり、1322年にはルートヴィヒ4世がフリードリヒ3世を捕らえます。(下の写真は、フラウネン教会にあるルートヴィヒ4世の墓にある彫像)

ここで、ヴィッテルバッハ家とハプスブルク家との妥協が成立、1325年からフリードリヒ4世が死ぬ1330年までローマ帝国の共同王となり、死後はルートヴィヒ4世の単独統治となりました。

 

ウーラントの戯曲は、この妥協の場面を取り上げたもので、捕囚となり死を覚悟しているフリードリヒに対してルートヴィヒは、「あなたは捕囚ではない、(ローマ帝国への)忠誠の力で勝者だ」と説き、ともに帝国を盛り立てようと次のように語ります。

 

ルートヴィヒ:われら同じ祖先の孫、幼ななじみであり、血なまぐさい争いに身を投じた。そして今、われらと同じように互いの民も学んだ。われらと同じドイツの血を引く同胞の部族の子孫でありながら、誤った判断を下し、憎しみ、争ってきた。それでも、解決策はとても近きところにあった。剣でも某略でも呪術でもなく、ただ心の強さのなかにあったのだ。

 

疑心暗鬼だったフリードリヒも、ルートヴィヒの思いに打たれ、次のような二人の言葉で、この戯曲は幕を閉じます。

 

フリードリヒ:もはやそれが可能か問うまい。かくも輝かしき判断が敵意に満ちたこの地で存在するのかも問うまい。もう十分だ。それはこの素晴らしき時間のなかにあり、それはこの崇高な瞬間のなかに生きている。私は、それを感じて、あなたの胸にわが身を投じる。

(ふたりは抱き合う)

ルートヴィヒ:この親しい抱擁のなかで、われらとドイツの民を引き裂いた兄弟殺しの戦いは永遠に和解するのだ。

 

この戯曲を書いた翌年の1819年から1826年まで、ウーラントはヴュルテンブルク王国の議会議員にテュービンゲンから選出され、政治家として活動します。その後、テュービンゲン大学の教授になりますが、1832年から38年まで再びヴュルテンブルクの議員となり、この間、民主派として国王ににらまれたこともあり、教授の職を失います。そして1849年、フランクフルト国民議会の議員となったウーラントにとって、賢明な王が武力ではなく愛でドイツを統一するなどという幻想をもはや抱いたとは思えません。

 

しかし、1848年10月、フランクフルト議会の演説で、オーストリアを含む大ドイツの統一の必要性を次のように表現したウーラントのなかに、ロマンの花畑の香りが残っているように思えます。

 

オーストリアを諦めると、私たちの視野はどれほど狭くなることでしょう。東の高い山々が退き、豊かで広いドナウ川がドイツの岸を映さなくなるとき、ドイツはどれほどだだっ広く無色になることだろうか」

 

(冒頭の写真は、マリエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城)


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