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飯塚事件のドキュメンタリー映画『正義の行方』を見る

2024.04.15 Mon

このドキュメンタリー映画は、1992年2月に福岡県飯塚市で小学1年生の女児2人が殺され、山中に遺棄された「飯塚事件」をめぐり、事件を担当した元警察官、弁護士、そして新聞記者たちに事件を語らせることで、それぞれにとっての「正義」を描いています。

 

この事件の犯人として死刑が確定した久間三千年さんは2008年に死刑が執行され70歳で刑死したのですが、弁護団は一貫して無実を訴えた久間さんの遺志を継ぎ、いまも再審を求めて活動しています。映画は、「正義」と「真実」とが現在進行形で問われているドキュメンタリーでもあります。

 

監督の木寺一孝さんは、NHKのディレクターとして、さまざまなドキュメンタリーを制作してきました。2022年には、この映画のもとになった『正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~』を制作、BS1で放送されました。2023年にNHKを退職、現在もディレクターの仕事を続けています。日本記者クラブで行われた試写会後の会見では、事件の真相究明が目的ではなく、事件にかかわった人たちの考えを多角的に構成し、その様子をありのままに提示したいと考えていたと、制作の意図を語っていました。(写真は、4月5日に日本記者クラブで行われた試写会後の会見で語る木寺一孝さん=筆者写す)

事件の経緯は

 

映画は、まず事件とその後の捜査や裁判の経緯を、警察関係者、弁護士、西日本新聞記者の証言で追います。「飯塚事件」と言われても、私にはほとんど記憶がなかったので、あらためて映画で事件を思い出しました。

 

事件は、1992年2月、飯塚市内に住む女児2人が登校途中で行方不明となり、翌日の昼に、福岡県甘木市の「八丁峠」でふたりは遺体で発見されました。久間さんが犯人として浮上した端緒は、女児のランドセルなどが投げ捨てられていた「八丁峠」の別の場所(福岡県朝倉市)で、事件当日、「青色のワゴン車を見た」という森林組合職員の証言からです。その車の後輪がダブルタイヤだったなど証言による車の特徴が久間さんの所有していたマツダのワゴンと一致したのです。(写真は遺体発見現場近くに建てられた地蔵=上)と「青いワゴンが停まっていた」とされる八丁峠の場所=下)

なぜ、青いワゴン車から久間さんがすぐに割り出されたかというと、この事件の4年前の1988年12月に、殺された女児と同じ小学校に通う1年生の女児アイコちゃんが行方不明となり、その「最後の目撃者」が久間さんだったからです。この女児は弟と一緒に弟の友だちがいる久間さん宅に遊びに行ったのを最後に行方がわからなくなっていたため、警察の内部では久間さんは有力な容疑者だったのです。ウィキペディアの「飯塚事件」によると、警察が久間さんのアリバイを最初に聴取したのは、事件から5日後で森林組合の青色のワゴンだったという証言が得られる前でした。

 

警察は、その後、久間さんの毛髪を入手して、死体の遺棄現場から採取した血液などの検体とDNAを警察庁の科学警察研究所で鑑定したところ、「同一人物である可能性がきわめて高い」と判断されました。この情報を入手したのが西日本新聞で、1992年8月に、「重要参考人浮かぶ DNA鑑定で判明」という記事を掲載します。(遺体発見現場近くに佇むスクープ記事を書いた当時の県警担当記者=左=とサブキャップ=右)

ところが、福岡県警は久間さんを逮捕しませんでした。県警がDNA鑑定を補強するため帝京大学の石山昱夫教授に依頼したDNA鑑定で、久間さんのDNAが混入していることはない、という結果が出たからです。

 

警察は、女児が拉致されたと見られる場所で青いワゴンを見たという女性の証言、久間が売却後に入手したマツダワゴンの座席の繊維と女児の着衣に付いていた繊維が同じナイロン素材だった、座席から人尿痕が見つかった、などの状況証拠を積み上げるとともに、石山鑑定の検体が少量で久間さんのDNAを検出できなかった可能性がある、という証言を得て、1994年9月に久間さんの逮捕に踏み切ります。

 

その後の裁判では、こうした証拠の積み上げが認められ、福岡地裁は1995年9月に死刑判決を下し、福岡高裁は2001年10月に弁護側の控訴を棄却、2006年9月には最高裁が上告を棄却して死刑が確定します。そして、2年後の2008年10月には死刑が執行されます。

 

死刑執行後の再審請求

 

これに対して弁護団はDNA鑑定の証拠能力が否定されたとして2009年10月に再審を請求します。2014年に福岡地裁は請求を棄却、弁護団の即時抗告に対して福岡高裁は2018年2月に抗告を棄却、最高裁への特別抗告に対しても最高裁は2021年2月にこれを棄却しました。(再審請求について語る弁護団)

死刑執行後の再審請求が認められた例はなく、棄却は関係者にとっても驚くような結果ではなかったのですが、その中身について、衝撃を受けたのが事件を取材してきた西日本新聞の記者たちでした。再審棄却の地裁決定のなかで、DNA鑑定の証拠価値を「慎重に判断すべき」として、証拠能力に疑いを示したからです。地裁は、DNA鑑定以外の多くの状況事実によっても、ほかに犯人が存在するという合理的な疑いは出てこない、として再審を却下したのですが、西日本新聞の記者にとっては、「重要参考人浮かぶ」というスクープ記事の根拠が揺らいだことになります。

 

西日本新聞は事件の検証をはじめた

 

事件当時の県警担当のサブキャップだった記者が2017年に編集局長になったこともあり、事件の検証を調査報道として取材することを決めます。ドキュメンタリー映画は、ここから西日本新聞記者の検証に焦点を当てます。検証記事は2018年3月から2019年6月にかけて83回、連載されます。

 

この連載では、目撃者の証言が警察官の誘導による可能性があること、石山鑑定には警察庁のトップから科捜研の結果との妥協を求めるような働きかけがあったこと、事件当日の不審車両の目撃情報がかなりの数あったことなどを報じます。

 

この映画で私が衝撃を受けたのは、この検証記事を担当した中島邦之編集委員の次のような言葉でした。

 

 

「久間さんが真犯人なのか、そうでないのか、無実なのかということは分かりませんよね。それはもう。神様でもない限り。知りたいですけれども。しかし、裁判の世界においてはですね、当たり前のことですけれども、証拠が不十分なら、無罪になるんですよ。無罪にならなければいけないんですよね。疑わしきは被告人の利益になるんですよ。それでいえば、その基準に照らせばですね、死刑にするだけの、十分な証拠があるとは思えない」

 

長期にわたって取材した記者の「十分な証拠があるとは思えない」という証言は、重く受け止めたいと思います。

 

事件が残したふたつの謎

 

こうした事件をめぐっては、いくつもの「謎」があるものです。私がこの飯塚事件で心に引っかかった「謎」は、逮捕された久間さんへのポリグラフをもとにした「アイコちゃん事件」の捜査です。警察は久間さんがポリグラフに反応したとして、逮捕から2か月後の1994年11月、アイコちゃんが住んでいた場所から1キロほど離れた山麓を捜索し、捜査開始からわずか25分後にアイコちゃんの着衣と思われるジャンパーなどを「発見」します。

 

着衣の発見で、警察は久間さんをアイコちゃん事件について追及する一方、着衣が見つかった付近の捜索を続けますが、アイコちゃんにつながるものを発見することはできませんでした。また、着衣からのDNA鑑定でも、久間さんとつながるような証拠はみつかりませんでした。その結果、1995年2月、県警はアイコちゃんの捜索を打ち切ります。

 

すぐに発見できるようなところにあった着衣が、なぜそれまで発見されなかったのか、また、着衣が発見された場所付近の大掛かりな捜索にもかかわらず、なぜ着衣以外の事件と結びつくものが発見されなかったのか、謎は残ります。

 

もうひとつ、心に引っかかる「謎」は、久間さんの処刑が早かったことです。判決の確定から執行までは平均10年程度といわれていることもあり、確定後2年での執行については、映画のなかでも、事件を担当した刑事も記者も、あまりにも早い執行に驚いています。

 

推測される理由のひとつは、再審請求が起こされる前に、執行して事件を終わらせたいという法務当局の思惑です。再審請求がされ、DNA鑑定の信頼性が持ち出されることが困る事情があったのです。1990年に栃木県足利市で起きた女児殺人事件(足利事件)では、事件から1年半後、DNA鑑定で被害者に付着した体液とDNAが一致したとして菅谷利和さんが逮捕され、最高裁で無期懲役が確定します。しかし、2002年に再審請求が出され、東京高裁の指示によるDNA再鑑定で、不一致の結果が出て、菅谷さんは2009年に釈放され、2010年に無罪が確定します。

 

足利事件で有罪の根拠になったDNA鑑定は、飯塚事件でも行われた鑑定法でした。足利事件では、菅谷さんの有罪が確定したのち、この事件を冤罪事件と見た日弁連や学者、メディアがDNAの再鑑定を強く求めます。そうした世論を背景に東京高裁は再鑑定を認めますが、久間死刑囚に対する刑の執行はその2か月前でした。飯塚事件でも、DNA鑑定の再鑑定の動きが出るのは避けたいという思惑があったとしても不思議ではありません。

 

しかし、久間さんが真犯人であるのなら、アイコちゃん事件の犯人である可能性も高く、アイコちゃん事件の解決を求めるのなら、刑の執行を早める必要はなかったと思います。映画の中で、かつての捜査員の次のような言葉が記録されています。

 

「もうちょっと生きて、ひょっとしたら仏様のようになって、獄中からでも、なにか、言ってくれるかもしれないじゃないですか」

 

早期の処刑は、アイコちゃん事件の解決を葬るリスクがあったのにもかかわらず、それでも執行したのはなぜなのか、これも大きな「謎」です。

 

貴重な元警察官たちの証言

 

この映画が「冤罪キャンペーン」のドキュメンタリーとは異なるのは、事件にかかわった警察官たちの話を丁寧に取り上げ、警察官たちも誠実に対応していることです。久間さんがクロだという彼らの信念には揺るぎがないのですが、それだけに捜査の手法に踏み込んでいるような証言も出てきます。事件を指揮した当時の県警捜査一課長は次のように語ります。

 

「私は早く辞めるために無理な捜査をするというのが私の持論よ。だからあなたの言う通り刑務所の塀の上を歩いてね、内側に落ちちゃいかん、外側に落ちるというようなね。違法捜査じゃない。ギリギリのところをね。自分でやって 犯人に到達するという手法を自分はそれ以外は面白ないということはないけど、早く卒業することはでけんなと。いうことでですね。結局辞めたいがために無理をしたというのが私の本音です。誰にも話したことはないですけど」

 

この人にとって、何が「無理な捜査」だったのか、わかりませんが、犯人にたどり着くという目的のためには、「違法捜査ではないギリギリ」の捜査をしたということでしょう。弱い証拠の寄せ集めで逮捕に踏み切ったのは、現場の指揮官としての「英断」だったのでしょうが、それが弁護団には「冤罪」を確信させ、事件を検証した記者にも「死刑にするだけの十分な証拠があるとは思えない」と言わしめる原因にもなっているようにも思えます。

 

そして久間逮捕で、県警の捜査員にとって誤算だったのは、アイコちゃん事件の手がかりを得ることができなかったことでしょう。逮捕の日、県警の捜査員たちは久間さん宅をくまなく調べたあと、庭を掘り始めましたが、2日間の捜索でも何も見つかりませんでした。前述の県警捜査一課長の次のような証言が映画に記録されています。

 

「私は、庭に埋めとると思ったんですよ。アイコちゃんを。毎日ですよ。朝起きてきてから庭をうろうろするですよち。それを、埋めとるから心配になっとるやろうと思うたけんね。私は、前の日から重機まで(準備)してから、掘り返してもうた」

 

◆事件はまだ終わっていない

 

飯塚事件は、再審請求が2021年に最高裁で棄却されたのち、2021年7月に新たな証言を新証拠として第2次再審請求が出されます。証拠のひとつは、事件当日、被害者と見られるふたりの女児を乗せた軽乗用車と遭遇したという証言であり、もうひとつの証拠は、事件当日の朝、最後に女児を見たという女性が当初の証言を否定し、女児を見たのは事件とは別の日だったと証言したことです。

 

事件はまだ終わっていないのです。弁護士、警察、新聞記者の織りなす人間ドラマとしてはこの映画は完結しているかもしれませんが、「正義の行方」がどうなったのか、という結論が出るのはまだ先になりそうです。

 

映画は4月27日から、東京・ユーロスペース、福岡KBCシネマ、大阪・第七藝術劇場ほか全国で順次公開される予定です。本文中で、警察関係者や記者の証言は、映画から採ったものではなく、監督の木寺一孝さんの近著『正義の行方』(講談社)から、引用しました。映画で使ったのと同じ場面での証言を記録していると判断したからです。また冒頭の写真を含め。文中の映画の映像はすべて(C)NHK。

 


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