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榎本武揚と国利民福 最終回-後編 -榎本武揚没後の世界-

2024.04.16 Tue

図1 フォード T型(1910年)

写真の説明
1910 Model T Ford, Salt Lake City, Utah. The photograph is for an advertisement, and taken by Harry Shipler of Shipler Commercial Photographers in 1910.
世界最初の大量生産方式による大衆車、 現代の自動車の原点になった。

出典:Harry Shipler, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

 

 

榎本武揚と国利民福 最終回-後編

-榎本武揚没後の世界-

 

 

故榎本電気学会会長紀念図書館設立資金募集

 

 明治41年(1908)10月27日に榎本武揚が薨去した後、明治44年(1911)1月から「故榎本電気学会会長紀念図書館設立資金募集」が始まりました。電気学会会員らの故榎本会長への敬慕の念の強さが感じられます。ここでは、電気学会雑誌上の榎本会長の大きな理念的な内容のみ取り上げましたが、通常、毎年新年の会長演説では具体的な数値を上げ、電気産業や技術の世界や日本の情勢などの解説や紹介をしています。榎本が初代会長に就任後、逓信大臣は交代しましたが、終生、会長職を務めました。

 明治32年(1899)に図書館令が公布され、全国的に図書館設立機運が高まり、公立、私立とも図書館は全国的に増えて行きました。一方、学会付属の専門図書館設置は学会設立当時から話題になりましたが、文献収集、整理に着手するも実際に図書館設立までには至らずにいました。明治44年(1911)1月*の電気学会雑誌に、五十嵐秀助、山川義太郎*²、浅野應輔*³の三人を発起人とし、「故榎本電気学会会長紀念図書館設立資金募集趣意書」が掲載され、募金が始まりました。当時の電気学会会長は、中野初子*⁴(在任、1911-1913)でした。大正9年(1920)集計の募集結果は、寄付者数443名、27法人、約5,400円(利子含む、現在価値約600万円)でした。

明治43年(1911)6月30日に図書館令施行規則の公布がきっかけになったのだろうか。
やまかわ・ぎたろう、1860-1933、埼玉県入間郡出身、工部大学校卒、電気工学者。金沢電信局勤務などをへて,帝国大学助教授。欧米に留学し,明治32年東京帝大教授。電気学会会長(在任、1914-1916)、照明学会会長などを歴任し,家庭電気の普及につくした。(講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク)
あさの・おうすけ、1859-1940、倉敷市生。無線工学の研究開発に貢献。工部大学校を卒業、教授補。東京電信学校長を経て逓信省電気試験所を創設し、所長。帝大工科大学教授、名誉教授。早大教授、名誉教授。早大理事、理工科長、理工学部長。大正7年、早大理工科長時代に理工科の品位を高め、帝大と比肩し得るように努力した。照明学会長。電気学会長(在任、1913-1914)(出典『工学博士浅野応輔先生伝』,工学博士浅野応輔先生伝記編纂会,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043346 )
参考 第23回浅野應輔/郷土の偉人達/歴史から学ぶ「福山」https://fm777.co.jp/historical/2117-2/*⁴なかの・はつね、1859-1914、佐賀県・小城藩士の生まれ。電気工学者。志田林三郎は2年先輩。工部大学校卒。工部大学校教授補、帝大工科大学教授。電気機械、高電圧送電、電気応用の開発や電気法規の整備に注力。(高橋雄造、コトバンクから抜粋)

 

 大正10年(1921)に電気学会の建物ができ、図書館が設置されました。名称は「電気学会榎本図書館」となり、大正11年1月の学会誌に開館の告知が行われ、開館時間は午前九時から午後五時まで、日曜など休日は閉館でした。利用資格は電気学会員准員とその紹介あるものとされています。11年度末までに扇風機や暖房機を施設することにしているとあり、閲覧者は暑さ寒さに耐えて勉強していことが分かります。さらに、夜間開館の希望が多いので、12年度に夜間開館を実施できるよう予算を編成したと報告されています。

 大正11年1月調の図書館目録を見てみると、「電信電話」の分類が一番多く、次に「辞典、ポケットブック、表、規定等」、「事業及経済」と続いています。全体的傾向は理論書よりも発電、照明、電気材料、送配電、電気機械、電気鉄道など応用書が大半を占め、理論書は、グリーンの応用解析学、ガウスのポテンシャル論など、ヘルツの電波に関する論文集が目を引きます。邦文図書にはまだ回路論の本がありませんが、その年購入した海外図書に電気回路論が一冊含まれていました。時代の流れを感じさせる目録です。電気学会に榎本が寄贈した図書が相当数あっただろうと想像されますが、残念ながらそれを示唆する電気学会記事はありません。

 図書業務開始後は毎月、学会誌が発行される都度に図書館は利用者数を報告しました。その報告によると、大正11年の利用者総数は484名、内訳は会員80名、准員326名、その他が78名でした。准員とは明治21年の学会規則によると、電気に関し専門教育を受けたり、資格を有して三年の経過をしていないが、実務に携わり専門家を志す人を指しています。専門家を目指して如何に准員が勉強熱心であったかが分かります。

 大正12年(1923)に入って前年比で月の利用者数が2倍程度に増え、3月末から扇風機や暖房が設備され、4月から夜間も開館することになり、利用者はさらに増える傾向を示しています。

 

図2 電気学会榎本図書館の利用者数の推移
(大正11年1月のデータは欠損)

 

 このように熱心に図書館は運用され利用者は益々増える傾向にありましたが、大正12年9月1日に発生した関東大震災で被災しました。9月は学会誌を発行できず、10月に9月との合併号が発行されました。その学会誌の冒頭で理事は「古今未曾有の災害に際し、我電気学会も亦類焼の厄介に逢い、歴史的の榎本図書館並びに書類等を焼失したるは痛嘆の至りにして、・・・」と報告しました。しかし、翌月発行の学会誌で、すべての蔵書を失ったが、将来適当な時期に図書館を設置すると報告しています。その後、外国から多数の書籍が寄贈され、図書館はよみがえり昭和五十年代まで維持されました。

 

・ポスト グレートゲーム

 

【ゲーム・エンド】

 

 日露戦争中の1905年6月に日英同盟改定交渉が始まり、『「在香港の極東海軍から巡洋艦は残置するものの、戦艦5隻全てを本国に召還したい」という英国側意向に対し、1905年6月2日に山本権兵衛海軍大臣は、・・・在フィリピン米国海軍の存在に警戒感を示した。しかし「米国 は……日英同盟に対する暗黙の同盟国」との見解を英国から示され』、7月に、日本の韓国*および米国のフィリピン支配を相互に認め、介入しないことにした、密約とも言われる「桂・タフト協定」を締結し、日英は8月12日に第二次日英同盟を締結しました。9月に日本は仲介国の米国からロシアへの賠償金の要求を断念させられ、ポーツマス条約を締結し、日露戦争は終結しました。

*朝鮮国は1897年に改名し大韓帝国と称し、独立国になり、日本の保護国化した。

 

 1905年6月から9月の一連の外交交渉で、天皇以下米国への不信が生まれ、パナマ運河完成後、大西洋側から米海軍の軍艦が太平洋へ続々と回航される危機が実感されました。パナマ運河建設中に、将来のシーパワーのバランスを取るために海軍力を整備する必要が生じました。榎本が中南米で運河や鉄道を建設しうる地峡の太平洋側へ殖民を推進した目的には、貿易の要衝を求めていただけでなく、安全保障も併せ持っていたのではと考えると、我々の理解が及びがたい榎本の深慮遠謀に驚かされます。

 榎本は殖民地選定基準を持っていて、1.輸出できる商品(世界商品)を生産できるか、2.どこへ輸出するのか(想定される市場)、3.国内製造業が利用できる工業資源はあるのか、4.輸出のためのルートと交通手段はなにか、5.日本の安全保障に貢献できるか(必要か)、6.人種差別の有無、だろうと推測できす。南洋群島と中南米の地峡帯は合格ですが、満州は失格です。1と2は×、3、4は○、5は▲(疑問、恐らく不要)、6.は中国の排日活動あり、でした。

『日露講和条約締結時に明治天皇の詔勅にいう「米国大統領の忠言を入れ」ということばが気になる。・・・ 確かに、防衛研究所図書館所蔵の『機密大日記』を見ても、不思議なことに、忠言がなされた1905年8月分だけが欠本になっている。どのような忠言がなされ、日本政府の為政者たちが忠言にどのような反応を抱いたのか、ここに対米戦争ありうべしとの日本人側の意識の鍵があるのでは ないかと思われてならない。』*¹

 1906年4月18日にサンフランシスコで大地震が起き、東洋人虐待が行われ、日本人排斥運動が高揚し、(カリフォルニア州で)日米開戦論が沸騰しました。7月に『日本海軍は、米国海軍駐日武官のマーブル中佐(Frank Marble)を通じて米国海軍に、同盟国である英国と同様な情報交換をしたいと申し出た。 ・・・想定敵としての米国海軍がクロー ス・アップされたことを如実に示している。・・・

 最後に、日本海軍からなされた対米協調提案は、移民問題で冷却化した日米関係を理由に、1907年1月中旬に米国海軍情報局から拒絶されてしまった。』*²

 1907年4月4日に制定された帝国国防方針では、米国との友好を保つことは必要だが、多方面からの分析により、いつか『劇甚ナル衝突ヲ惹起スル』かもしれない国だとして、ロシアとともに想定敵国に位置づけられました。7月30日、大陸や半島における日露相互の権益を尊重する日露協約が締結されました。1917年のロシア革命勃発までの10年間に4度改定されました。

*¹、² 高橋文雄『明治40年帝国興亡方針制定期の地政学的戦略眼』防衛所研究紀要第6巻3号2004.3(https://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j6-3_4.pdf)pp.76-77、p.84

関連論文
秦郁彦『明治期以降における日米太平洋戦略の変遷』国際政治 1968 (37) 、96-115, 1968、pp.105-109
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1968/37/1968_37_96/_pdf/-char/ja

 

 

 1893年(明治26)1月にハワイは実質的に米国の支配下に入りました。9月、山縣有朋は政府に、シベリア鉄道完成後のロシアの侵略行動を想定し、大陸の勢力バランス変動予測を論じた長文の意見書を提出しました。ロシアの侵略行為に反応する国は英仏とし、露仏英が大陸での侵略のプレーヤーと規定し、日本は攻守ともに軍備を充実させ、機会を逃さず利益をとるべきだとしました。

(岡義武『山縣有朋』岩波文庫青N126-4、2019、p.81、『榎本武揚と国利民福 最終編二章-3-(1)  勢力均衡点の流動化(後編)』で引用)

 

 この時点で、山縣は北太平洋に陣取った米国を大陸利権のプレーヤーとする視点が欠落していました。1898年(明治31年)に北太平洋を勢力圏に入れた米国から、1907年(明治40年)1月、「直接」本心を確かめ、ロシアと共に米国は想定敵国であることを陸海軍の共通認識として「国防方針」に書き込みました。そもそも、ペリー艦隊の日本への砲艦外交から、1898年に北太平洋に勢力を張った米国の最終目的地は推測できます。伊藤博文や井上馨、暗黙の協力者と見なせる榎本らは、米国が韓国や満州に侵入する余地を与えないため、日露協約締結を推進していたと考えられます。

 1906年4月4日策定の帝国国防方針立案を山縣有朋に提案した、参謀本部部員の田中義一中佐は、1906年3月、『「今ヤ我国ハ東洋ノ覇権ヲ掌握シ、嶋国ノ境遇ヲ脱シテ大陸国ノ伍伴[ごはん、仲間]ニ列シ」との認識を示し』、『対露戦争勃発時のイギリス陸軍のインド国境方面*での作戦活動が、満州で展開される日露の戦争に大きな影響を及ぼさないのに対して、英露戦争に際して日露の開戦は、支戦ではなく逆に本戦となる可能性が大きく、むしろ「作戦上ノ利益ハ全部英国ノ享有スルモノト認」められた』さらに田中は『「日英攻守同盟ハ政略以外作戦上ノ影響ニ於テ我カ陸軍ノ利益果シテ邦辺ニ在ルヤヲ発見スルニ苦マサルヲ得ス」という、きわめて率直な不満が表明』されました。日露戦争が終わってみると、作戦上の利益は全部英国および隠れた同盟国である米国の享有するものと認められたのでした。

出典 黒沢文貴『明治末・大正初期の日露関係』外交史料館報第30号、2017.3
*チベット侵入、1903.12-04.9

 

【人口の漸増と外国移民】

 

 翌明治39年(1906)6月、大隈重信は『戦後経営論』*¹を発表し、大陸経営に対する認識を示しました。以下、引用します。

『言換えれば、此島国に於て漸次増加する所の人口はもはやこの生活に困難を感じつゝある、此に置いて世界のあらゆる方面に国民が経済的に発展するの必要が目下迫つて居る。・・・ それから外国に移住して而して其天賦の富を自分自ら開発すると云ふ企業家が出てきて、外に向かって活動すると云ふことにならねばならぬ。』(大隈、p.2-3)

 明治40年の人口は47,416千人、人口増加率は1.3%*²でした。もともとは総人口の増大が問題ではなく、農村のいわゆる「次男三男」および娘達が都市へ流入し、低賃金労働者や失業者を増大させ、貧困層を形成したことが問題の始まりでした。政府が福祉や社会保障を用意しなかったので、民間人が努力して生活を支援しました。明治30年を過ぎると、機械産業の発達が始まり、農林業人口は減少傾向、鉱工業、商業、交通業人口は増加傾向になりました。

 大隈は、ポーツマス条約で獲得した利権を紹介し、さらに鴨緑江の大森林帯を一大富源として紹介しました。ロシアの皇室が出資した企業は東清鉄道に燃料用の木材を販売していました。この企業はロシア軍を利用して、鴨緑江を越えて盗伐を始め、日清共同出資の企業の利権を侵害したことが、日露戦争の一因でしたが、今回の戦争に勝利したので、安定的な利益になると大隈は言っています。

 さらに大隈は、日本軍が占領した旅順、大連、満州での事業は軍隊の仕事では無く、国民の仕事であり、『国民は大陸に経済的発展をなす階段として、一つ満州に試みたいと思ふ。・・・ 満州に於て、一度日本の経済的立脚地が確立したならば、夫れからは何処までも大発展をなすことが出来る。大陸には境界と云ふものはないのである。(列強国は・・・)、経済上に於て、先づ大陸の一部に成功したものを手始めとして、順次に大なる発展を遂げたのである。』と論じ、海外への移民のプロセスは、初めに軍隊が出動し、地域を占領することを前提とし、その後、国民が移民し、事業を始めるというものでした。榎本のエンタープライズ精神により自ら情報収集と企画をし、品位を保って海外へ殖民し、現地では地元の人々に馴染みながら仕事をし、さらに起業をするというプロセスとは全く違っていたのです。

大隈重信『戦後経営論』戦後経営臨時増刊号第12巻9号、1906
岡崎陽一『現代日本人口論』古今書院、昭62、p.10

 

【小日本主義の出現ー榎本イズムの再来】

 

 1911年(明治44年)、三浦銕太郎(みうら・てつたろう、1874-1972)は経済分析を用いて、『東洋持論』に「帝国主義の暗影」と題した論文を発表して帝国主義(大日本主義)の批判を開始し、その後「小日本主義」に関する論文を発表しました。

(田中彰『小国主義』岩波(新赤本)609、1999、p.118-125)

 

 三浦の「小日本主義」はまさに榎本的世界、榎本イズムを思わせます。その要点を「田中、p.124」、から引用します。

(1)領土拡大に反対し、保護政策に反対する。

(2)内治の改善、個人の自由と活動力との増進によって、国利民福をはかる。

(3)商工業の発展をめざし、産業資本の自由な発展を妨げる軍拡費を削減する。
       そして、小規模の軍備維持を理想とする小軍備主義をとる。

(4)産業をはじめ思想、道徳、文芸、科学の向上進歩を誇りとする。

(5)産業主義、自由主義、個人主義をとる。

 

 三浦は、静岡の自作地主の家に生まれ、早稲田大学の前身、東京専門学校で天野為之*1に経済学の指導を受け、1896年に卒業し、1899年に東洋経済新報社に入社しました。後に石橋湛山や高橋亀吉も入社しました。天野は1897年から東洋経済新報社の創立者の後任として経営・編集をしました。三浦は、1910年に『東洋時論』が創刊されると、編集長に就任しました。1912年、『東洋時論』は『東洋新報』と併合され、1921年に代表取締役・専務に就任し、1925年に退任しました。田中、p.110)後任は石橋湛山でした。石橋湛山も「小日本主義」*2を主張しました。三浦は「小日本主義」を論ずるにあたり、経済分析をし、日清戦争、日露戦争の前後10年間の行政費・軍事費・国債費を合計した結果、軍国主義、大日本主義ゆえ、『国民負担額の増加は実に三倍以上』と結論づけました。台湾、朝鮮、関東州、樺太の植民地経営も分析し、国民に与える「大犠牲の事実」を問いました。

*1  あまの-ためゆき、1860-1938。経済学者,教育者。藩医の長男として江戸唐津藩邸に出生。1882年東大文学部卒業後,立憲改進党に入党,同時に東京専門学校(早稲田大学の前身)講師に就任,高田早苗,坪内雄蔵(逍遥)とならんで早稲田三尊と後世称せられ,また操觚(そうこ)界(ジャーナリズム)にも活躍した。東京専門学校での講義は86年刊行の《経済原論》に結実したが,本書は10年間に21版を重ねるほどの好評を博し,・・・福沢諭吉,田口卯吉とともに明治の三大経済学者と称せられている。・・・(小松芳喬「改訂新版 世界大百科事典」平凡社、コトバンク)
*平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』上智大学出版、2022、pp.369-371.。和田みき子博士指摘による。

 

 1920年(大正9年)、北海道の人口は235万2千人になりました。北海道への移民家族は三世代目に入り、そろそろ北海道への移民は限界に達したと考えられました。1868年(明治元年)~1941年(昭和16年)の海外移民総数は85万人(除、満州)でした。この期間の海外移民数の年平均は、12,000人でした。1931(S6)年1月26日「人口政策確立要綱」が閣議決定されました。「東亞共榮圏を建設して其の悠久にして健全なる發展を圖るは皇國の使命なり···1960年(昭和35年)までに人口を一億人。1夫婦当たり出生5人などなど諸政策を並べ、人口増以外の狙いは、国防と勤労に耐える精神と肉体の増強、個人より家族、民族を優先すると」しました。東北が凶作になる年でした。翌年、1932年3月1日、満洲国が打ち立てられました。さらにその翌年の1933-37年の間、経済学者、上田貞次郎*は経済問題研究会を組織し、『日本人口問題研究』を発表しました。人口予測から、産児制限は労働者の負担を軽くするだけ、移民は人口増を消化できない、産業振興が根本的解決策と結論づけました。

 上田の『日本人口問題研究 第1輯』にクロッカー『日本人口問題』(1931)*という論文が邦訳され、収録されています。この論文の第七章に日本人の移民先として、満州、東印度諸島、南太平洋諸島、ブラジルの4箇所をあげ、「満州は既に支那人の郷土となり、日本人の移住には有利ではない、東印度諸島と南太平洋諸島には現在、白人は開拓に従事して居らず、又開拓の意思をもたない。ボルネオ、ニューギニアは日本人の植民地として用ふべき未墾の土地、ブラジルは既に・・・」と比較評価しました。また、日本の工業の将来のために資源がある地域への殖民の必要性を論じています。榎本が購入をし、世界商品を生産しようとした南洋群島や資源確保を狙った北ボルネオは、この論文からは日本人および日本国にはまさに適地だと確認できました。さらに、クロッカーは白人が開拓する予定がない地域だとしていますので、榎本が殖民地を選ぶとき、人種差別を避けることも条件にしていたことが分かりました。明治11年当時、たまたま南洋群島が売りに出たから、購入を政府に提案したのではなく、恐らく、世界中でいろいろな場所が売りに出ていた中で、南洋群島が売りに出たとき、黄色人種である日本人の殖民に適した地域であり、かつ、日本国に様々なメリットがある地域だという判断のもと、政府に提案したことを確認できました。伊藤博文が南洋群島購入や北ボルネオ租借権買取を頑迷に拒否しつづけたことの背景は資金不足だけとは思えない事情があったのではないかと疑問が生じます。

*たかた・やすま、1883-1972、佐賀県小城市出身。社会学者、経済学者。京都帝大卒業。同大教授、民族研究所所長などを歴任。著「社会学原理」「勢力論」など。(コトバンク)
*かわかみ・はじめ、1879-1946、山口県岩国市出身。帝大法科大学政治学科卒、日本共産党員,京都帝国大学教授。経済学者;社会主義者。(コトバンク)
*うえだていじろう、1879-1940、東京出身。明治-昭和時代前期の経済学者。大正9年母校東京商大(現一橋大)の教授、昭和11年学長。日本の経営学研究を確立し,イギリス経済学の影響をうけた理論的・実証的研究をおこす。
*W. R. Crocker, The Japanese Population Problems, 1930.7 副題 The Coming crisis
序文にオーストラリアのアデレイド大学出身で、オックスフォード大学に職があると自己紹介している。序文は、『太平洋が世界の嵐の源だといふ一部論客の議論は屢々[しばしば]誇張されて居るけれども、若しそこに嵐の起こるべき理由が多少ありとすれば、それは要するに日本の人口の激増、従つて此事実の上にたてられる所の日本の外交政策に基くことゝなるであろう』と締めている。

参考文献
・原田泰・和田みき子『石橋湛山の経済政策思想』日本評論社、2021
・上田貞次郎編『日本人口問題研究 第1輯』協調会、昭和8
・上田貞次郎編『日本人口問題研究 第2輯』協調会、昭和9

 

 榎本の死後、北半球では、ユーラシア大陸の東と西に分かれて既得権益の攻防が続きました。中国国内では内戦を繰り返し、日本は満州の支配を確固にしようとし、さらに南進して日中戦争を起こし、米国では反日感情が高まり、日本列島では反米感情が高まりました。北太平洋上では、日本の勢力圏である南洋諸島の勢力を米国は弱体化させようとしていました。小日本主義論は大正デモクラシーの潮流発生とともに政府、軍部が中国や大陸で勢力拡大に向け活発な活動*を続けていた時期に浮上し、国内が軍事色一色に変わりつつある時期に伏流化していきました。榎本の場合と同じように、進軍ラッパが鳴り響き始めると、理性的な発言は声をひそめざるをえないようです。

*男子の普通選挙、日韓併合、対華21ヶ条要求、シベリア出兵など

 

 政府の主流派や文明開化派たちの政策は、非主流派の頭目、榎本の政策と異なり、国内の諸制度、文化を欧米スタイルの真似をすれば、欧米から仲間に入れてもらうことができ、友として認められると考えていました。その結末が、徐々に明かされます。

 

【対日経済封鎖-孤独な途上国、大日本帝国】

 

 池田美智子『対日経済封鎖』*¹によると、日本は先進国の仲間入りを目指した唯一の途上国であったため、この貿易の大発展のリアクションとして貿易摩擦は大炎上しました。以下、『「対日封鎖」をみる視点』からの引用です。

『日本は戦前、戦後と二度にわたって〝奇跡的〟といわれる経済発展を成し遂げた。昭和の初期に日本は、今日[1992]よりも激しい貿易摩擦を身をもって体験した。・・・  1936年[昭和11年]と37年[昭和12年]に、日本経済は明治以降の急速な発展の結果、戦前の絶頂期を迎えていた。国民総生産は戦前の最高を記録し、ほぼ完全雇用に近い状態であった。 ・・・ [日本は]1930年頃から貿易摩擦のただ中にあった。やがてほとんど世界中の国々から非難の集中砲火を浴びせられていく。まだ第二次世界大戦のことを、ほとんどの人々が予感していなかった頃であった。

・・・

 昭和元(1926)年から十二(1937)年までの間、ボイコット運動*²で中国大陸市場から追われた日本は、米国市場を始めとして、対日規制が厳しくなる市場から規制の緩やかな別の市場へと、いわば貿易摩擦の焦点をはずしながら通商を続けた。やがて日本は世界市場の中を蹌踉(そうろう)としてさまようことになった。どこかで輸出が拡大しても、それは束の間のことで、厳しい輸入規制によって叩かれ、また別の市場を求めていっては、そこでも暫くすると、また同じように締めつけられるという経路を辿っていた。』

 日本は先進国入り[脱亜入欧]、欧米基準の国を目指した唯一の途上国、孤独な途上国でした。榎本はまずはアジア各国の政治体制を問題にせず、意思疎通を可能にし、人的、経済的交流を目指しました。榎本は、アジアの諸国同士、連帯とまでは言いませんでしたが、仲良くしよう、みんなで興亜をしよう、地域的には日清朝で提携し、相互の言語を学び、安全保障を強化しようと主張していました。別の視点では、欧米からの人種差別を警戒していたとも言えます。

池田美智子「1「対日封鎖」をみる視点 両大戦間の〝自由貿易〟」『対日経済封鎖』、日本経済新聞社、1992、p.18-20
『日本が中国へ武力侵攻したため、時期的に最も早くボイコットという一種の貿易摩擦に打ち当たった・・・』池田、P.34
足もとのたしかでないさま。ふらふらとよろめくさま。(精選版 日本国語大辞典)

 

【昭和農業恐慌】

 

『日本の貿易水準は1937年になっても、大恐慌以前の26-29年間の水準までには回復できなかったことは前表[省略]にみられるとおりである。しかし、日本貿易の回復率は他の国よりも高かった。37年に日本の輸出は26年水準の95%まで回復したが、世界の輸出は44%までしか回復していなかった。』(池田、p.29)

『そして、以上指摘してきたこと[省略]に劣らず大切なことは、この期間における日本の工業製品輸出の増大であった。この成長こそが、1926-37年間の後半に日本の主な交易相手からごうごうたる非難の的になった。』(池田、p.32)

 しかし、製造業の復活と就労人口の増加、国民総生産の過去最高をもってしても、「昭和農業恐慌」は1936年ごろまで続きました。世界恐慌による農村からの生糸などの輸出激減、価格破壊、台湾、朝鮮からの輸入米の増加と国内豊作による米価暴落、続く悪天候、都市部から労働者の引き揚げ、製造業でのより低賃金による雇用、農村に対し都市部や産業界への優遇政策の実施などが、その要因として上げられます。

出典 庄司俊作『近現代日本の農村』吉川弘文館、2003、p.116

 

 1935-39年の間、リヒアルト・ゾルゲ*¹が執筆した論文、ドイツの『地政学雑誌』の5編、『政治学雑誌』の1編は、『ゾルゲの見た日本』*²に収録されています。ゾルゲの論文、ドイツ『地政学雑誌』1937年1-3月号論版『日本の農業問題』から、ハンブルク大学で国家学の博士号を取得した共産主義者の目に日本の農業や農民の様子がどのように映ったのかを見てみます。226事件後に執筆された論文と推定されます。

『近代の日本工業の隆盛は決定的に日本農村と結びついている。農業人口の貧窮は毎年数十万の農家の青年子女を最低の生活と賃金に甘んずる賃労働者として、都市の工業に追いやっている。失業の場合には、村は黙って再び彼らを受け入れ、国家や工業界にはなんの負担もかけない。農業は高い税負担を引き受けて工業の重荷を軽減している。しかも農業は自らの困窮のため、安い食料を都市に供給するが、その販売は原価計算の近代的方法によるので、生産者にとっては莫大な損失となっている。こうして日本農業の窮状と工業の躍進は、かつて欧州で英国の産業革命の初期にただ一度だけあったように明白な関連を示している。』(p.49)

 ゾルゲは、「過剰人口」が日本国内で呪文のようによく口にされるるが、「過剰人口」は相対的な概念であることを次のように指摘し、批判しました。

『技術や社会秩序の改善や職分配と国家活動の向上により、除去されるか、または人口不足に変じ得ることを忘れている。』(p.81)

 2024年4月14日 日曜日 ゾルゲは、日本陸軍が農業と農民の問題に取り組もうとしている唯一の組織であると分析しました。

『特に陸軍が、農業問題の重大さを認識しているば かりでなく、たとえ完全な解決でなくとも、それにしてもこの問題を実際に取り上げなければならぬ必要性と、少なくとも理論上の可能性を見ている唯一のグループであることは、この国特有のことである。日本将校団の約40パーセントは農村出身者であり、日本兵士の少なくとも90パーセントは農民の子弟である。それゆえその出身が、日本陸軍の発行する、現下の政治状態に 関する諸種の刊行物に反映している。これらの小冊子の中の一つに次の非常に明白な一文が掲載「・・・・・・兵士をして後顧の憂なく戦場に立たしめんがためには、銃後に不安あらしめてはならぬ」と。この刊行物で日本陸軍はあまり体系的ではない一つの農業計画を示している。軍はわけても現行の小作制度、負債、過大な租税負担および零細経営に存する主要欠陥の除去を要求している。陸軍は農民に副業を与えようとして軍需関係の産業をできるだけ農村に移すためにも努力している。しかしこういう些細な実践方法や窮状の一般的な認識ではどうにもならないのである。』

『最後に日本農業問題の徹底的な解決に努力を集中する代りに、また幾多焦眉の急に迫っている改革問題を棚上げして、外敵に対する戦いに国家のエネ ルギーを向けようと努めているのは外ならぬ陸軍である。まさに日本で農民の悲惨な現状に最も理解を有する部分がこの葛藤に陥っているのである。』

 工業と農業の関係は足尾鉱毒事件と同じように、政府有力者らは農民の問題を後回しにし、工業優先になりました。さらには、困窮する農民を工業はさらに低賃金で雇用し、世界のマーケットで優位に立ちました。この問題を解決しようと試みた組織は軍隊だったので、軍のもともとの戦略実行のための予算と合わせて、農村救済のための予算も加わり、政府に要求しました。ところが、農村救済のための予算を農村関係の団体も政府に要求しましたし、関連省庁も要求しますので、政府内での予算要求額が膨れ上がりました。

 昭和11年発生のクーデター、「226事件」の背景に、青年将校らが思想的な影響を受けたなどという状況が指摘されていますが、ゾルゲの論文では、農村、農民の窮状が、青年将校らを直訴を兼ねたクーデターへ突き動かしたことを示唆しています。青年将校らは、大財閥、コンツェルンを優先した政党政治の弊害を昭和天皇に改めて貰い、理性撫民*を求めようとしたと推測できます。226事件が反乱軍として鎮圧されると、関東軍が作成した原案による「満州農業移民100万戸移住計画」が5月11日に国策になり、5月29日に岸信介工務局長らが前年に準備した「自動車製造事業法」が成立しました。

Richard Sorge、旧ソ連コーカサス州バクー生。ドイツ国人、1895-1944。ハンブルグ大学国家学博士、ドイツ共産党員、ソ連共産党員、コミンテルン本部情報局員、上海および日本で諜報組織を作り、活動をした。1941.18検挙。
みすず書房編集部編『ゾルゲの見た日本』みすず、2003
*りせい‐ぶみん、 世を治め民をいたわること。(精選版 日本国語大辞典、コトバンク)

 

【太平洋戦争/大東亜戦争の開戦と敗戦】

 

 昭和4年10月に起きたニューヨーク株大暴落が引き金になり世界恐慌が起き、日本では翌年の昭和5年に昭和恐慌、農業恐慌が起きました。さらに東北は凶作でした。中国政府が権益回収、国権回復、日貨排斥運動を進め、満鉄並行線が敷設されたため、満鉄の経営は赤字化しました。政府の外交交渉に不満を持つ関東軍は、昭和6年9月18日に柳条湖事件を起こし、翌昭和7年3月1日に満州国を建国しました。事変前に満州経営を立案したと自称する、鈴木貞一*は、戦後、インタビューに対し次のように答えました。

『その[米国の]勢いに処する日本人の馬鹿さ加減というものが支那事変なんですよ。

僕は満州を固めるのに五〇年はかかると言っていたんです。永田鉄山ともよく言っておったんですが、絶対に満州だけ固めて、満州以外に兵を用いない、と。それを当時の関東軍が満州を越えて勝手なことをやって、それから支那事変が起こって、ついに日米戦争になる。僕は陸軍省におって、満州事変がああいう形(昭和六年、柳条溝満鉄線路爆破)で勃発したということは 知らなかったんだ。あとで詳しいことを聞いて、非常にがっかりした。道義的根源を傷つけられちゃった。

・・・

われわれは軍人だから、軍の装備 をほんとうにしっかりするために、国策を立てなくてはいかん、では国策はどこへ持っていくかというと、これは満州経営だと言ったんですよ。それは軍略上も、人口問題[失業問題]解決から、産業開発からも必要だ、と。・・・』*²

 前後して、太平洋戦争(大東亜戦争)の起点は、英米の応援で英米の代理でロシアと戦って日本が勝つと、ハリマン*³が満鉄での分け前を求めてきたが、日本側が拒絶したところにあった、と発言しました。

*1すずき・ていいち、千葉県山武郡芝山生、1888-1989。陸大卒、参謀本部などに勤務し、中国関係に関わる。木曜会を結成し、二葉会と合流し、石原莞爾とともに満州派。満州経営を立案。開戦時は企画院総裁。戦争に反対するもA級戦犯に指定され、1955年まで拘禁。出牢後は政界へ復帰せず。
Edward Henry Harriman、1848~1909、アメリカの鉄道経営者。
*²三国一郎編『遂行された国策「開戦」:昭和史探訪』村上修二郎、昭和50、pp.221-238
ウォール街の事務員をへて鉄道界にはいり,ユニオン-パシフィック鉄道会社社長となり,サザン-パシフィック鉄道の支配権を獲得。鉄道の独占をはかり,鉄道王ヒルとの闘争は有名。国外では世界一周鉄道を計画し,満鉄の共同管理を提唱したが,小村外相の反対で挫折した。(出典 旺文社世界史事典 三訂版 コトバンク)

出典
三国一郎編『遂行された国策「開戦」: 歴史探訪 3 太平洋戦争前期』村上修二郎、昭和51年、pp.221-238
佐藤信、他編『詳説 日本史研究』山川出版、2017

 

 1941年(昭和16)12月8日、日米は戦争状態に入りました。『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』の最終巻、第5巻の最終頁では次のように締めくくられています。

『ルーズベルト大統領がいつ対獨参戦を決意し、そしていつ対日戦争を決意したかは、大きな歴史的課題の一つであろう。結論はなお将来にまつべきであるが、いわゆダンケルク*¹の危機当時には早くも獨逸打倒を決意し、日本軍の南部佛印進駐ないしいわゆる大西洋会談*²のころには対日戦争やむなしと判断したとみるのが、あたらずといえども遠からずというべきところであろう。果たしてしかりとすれば、ルーズベルト大統領の一年半前からの考えが今や日本の眞珠湾攻撃によって実現されたのであった。

 シャーウッド*³は言う、「米国及び英国の高官筋は二つの奇妙な計算違いをしていたと言ってもいいかも知れない。すなわち、彼らは日本の軍事力と果敢さとをひどく過小評価していたし、また彼らは日本の政治上の狡智をひどく過大評価していたのである」と。これは日本軍の眞珠湾攻撃の功罪を評価する皮肉な文句であるが、日本こそは米国の政治上の狡智を過小評価していたのであった。否ひるがえって思えばそれはかかる世界の変乱における我々の試練の未熟さを物語るものであろう。』(p.620)

 その未熟さとは、榎本の考えを理解できない明治政府の未熟さでもありました。

ダンケルク撤退作戦とも呼ばれる。第2次世界大戦中,1940年5月 28日から6月4日までの8日間にわたって,イギリスのヨーロッパ派遣軍 22万 6000人とフランス=ベルギー軍 11万 2000人が,フランス北部のダンケルクの海岸からイギリス本土へ撤退した作戦。[総計55万8千人を撤退させた](ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、コトバンク)
ルーズベルトとチャーチルが会談後、共同宣言した。大西洋憲章と言われる。
第二次世界大戦中、一九四一年八月、イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ルーズベルトが大西洋上で会談、発表したもの。全八か条。戦後の世界秩序についての構想をその内容とし、アメリカはこの憲章で孤立主義を捨ててファシズム打倒、民主的平和樹立の責任をとることを明言した。国連憲章の基礎となったことで有名。(精選版 日本国語大辞典、コトバンク)
Robert E. Sherwood、1896―1955、米国の劇作家。
第一次世界大戦に従軍。第二次世界大戦勃発の際には、各国人の反応を描いた「患者の喜び」(’36年)などを発表し、戦争批判の姿勢を示す。また、F.D.ルーズベルト大統領の演説の起草者を務めた・・・ピュリッツァー賞を4度受賞している。(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」1995年刊、コトバンク)

参考文献
・黒沢文貴『明治末・大正期の日露関係』外交史料館報第30号、2017.3
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/gaikoshiryokanpo/30/0/30_57/_pdf/-char/ja)
・防衛庁防衛研修所戦史室 著『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』5,朝雲新聞社,1974 
・「帝国国防方針、国防に要する兵力及帝国軍用兵綱領策定顛末」JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C14061024500、日本帝国の国防方針 明40(防衛省防衛研究所) https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14061024500

尚、前述の鈴木禎一は、『こちらを真珠湾におびき出した』という認識を示しています。前出、『遂行された「開戦」』pp.225-236

 

・技術立国ーイノベーション立国

 

 

【電気産業】

 

 榎本薨去の1908年(明治41年)は、ファラデーが電磁誘導の論文を発表した1831年から77年経過し、開国からは約半世紀過ぎた時期でした。その間、欧米では続々と様々な研究、発明、イノベーションが行われ、新たな事業が生まれました。日本は相変わらず西欧で誕生した製品や技術の輸入や複製を繰り返していました。榎本は、日本からも研鑽と発明によるオリジナリティのある工業用製品や一般消費者向けの商品の誕生、それらによる事業(エンタープライズ)の誕生、発展を切望していました。その帰結は国利民福の増進でした。

 例えば、白熱電球の最初の特許は英国のフレドリック・デ・モー リン(Frederick De Moleyns) が 1841 年に取得しました。その後、エジソンは白熱電球を実用化し、1879年に起業した会社で翌年、量産を開始しました。さらに白熱電球は改良を加えられ、1875年(明治8年)に田中久重*¹に創立された東芝は、1921年(大正10年)二重コイル電球、1925年内面つや消し電球を世界で初めて発明*²をしました。東芝の発熱電球に関する研究と発明、商用化は白熱電球の技術史*³に名を留めました。白熱電球の発明と実用化、商品化、さらなる性能の改良は、どれだけ人類の生活を変え、人々に幸福や慰安を与えたか計り知れません。国利民福の増進に大きな貢献をしました。榎本没後、わずか13年後の快挙でした。

東芝の創業社である『田中製造所は1875年、からくり人形や万年自鳴鐘などを発明し、若い頃からその名が広く知られていた田中久重(1799-1881)の創業から始まります。』
東芝「トップ >ヒストリー >1号機ものがたり」https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/history/ichigoki/index_j.htm
石﨑有義(いしざき・ありよし)『白熱電球の技術の系統化調査 1 A 』国立科学博物館技術の系統化調査報告、2011 https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/070.pdf

 

【自動車産業】

 

『日本最初の自動車販売会社『ロコモービル日本代理店が蒸気自動車を輸入し、それを日本人が初めて目にしてからわずか1年後の明治35年、日本人の手で最初の自動車2台が作られた。規模はたとえ小さくとも,これが日本の自動車工業の第一歩であった。2台を製作したのは、東京・銀座の自転車販売店「双輪商会」の技師、内山駒之助(当時数え年21歳)であった。1台目は乗用車で、同社の経営者・吉田真太郎がアメリカから持ち帰った横型2気筒・12馬力のガソリン・エンジンをべースに、内山が自力でシャシーを組み立て、ポディーを架装して作り上げたものである。純粋の国産車ではないが、「日米混血組立第1号乗用車」といってよい。』

(『日本自動車発達史』日本自動車工業会、昭和63年、p.3)

 

 翌年、開催された勧業博覧会は日本で開催された最後の博覧会でした。その看板は電気と自動車でした。

『翌36年の3月1日から7月31日まで,大阪では初めての第5回内国勧業博覧会が開催された(期間中に530万人が入場)。』(発達史、p.3)

『この博覧会の看板となった文明のシンボルが、電気とそして自動車だったのである。会場には蒸気自動車六台、電気自動車一台、ガソリン自動車一台が参考出品され、小さなコースを設けて実演運転もあった。加えて官営鉄道の梅田駅から会場入口の恵美須町まで二台のシャトルバスが運行された。一台はロコモビル社の蒸気自動車、もう一台は電気自動車だったといわれる。』

(中岡哲郎『自動車が走った』朝日618選書、1999、p.16-17)

 

 自動車に対し、明治35年にはエンジニアの熱意があり、明治36年には国民の強い興味を惹きつけました。自動車は総合産業であるため、車を製造するために必要な部材、部品などは国内での機械や化学技術の発達を誘導します。すぐには純国産車に辿り着きませんが、資本家もエンジニアも努力を続けました。日露戦争後、大陸での戦闘に自動車が必需であることに気づいた陸軍は、明治40年2月に軍用自動車の調査を開始し、明治44年5月、国産軍用トラック第一号「甲号」を完成させました。

『以後、昭和20年8月[敗戦]まで、軍は国の自動車産業に深く関与することになった。』(発達史、p.6)

 昭和6年9月18日、関東軍は柳条湖事件を引き金に満州事変を起こし、部隊を作戦に従い速やかに移動させる必要が生じました。そのために、軍用の普通自動車(トラック)を量産する必要が生じ、昭和10年に商工省へ異動してきた岸信介工務局長らの手により、翌、昭和11年5月29日に「自動車製造事業法」を成立させました。自動車製造業が総合産業であるという認識は良いのですが、日本の自動車産業は政府と軍部の統制経済下におかれました。この法律により、米国の自動車会社であるGMやフォードは日本で自動車を生産できないことになり、日本国内から追い出されることとなり、自動車産業界は政府、軍の統制下で軍用普通トラックの量産という戦時体制へ移行しました。

『この体制からはずれ、資材割当てその他で不利を受けるようになったオート三輪は、ここまでは順調な発展をとげ、昭和十二年には発動機製造(ダイハツ)、東洋工業(マツダ)を先頭に一万五八七四台という生産台数を記録したのに、それを頂点に急速に衰退して行く。同じくダットサンも、日産自動車が許可会社となる道を選び、普通トラックの新しい量産ラインの建設へとりかかる動きと並行して、昭和十二年の八三五三台をピークに舞台から消えて行く。こうして小型車という最も日本に適した領域での日本自動車工業の開花は、戦後へ持ちこされることになる。』(中岡、p.84)

 昭和12年、1937年は日本の国民総生産は戦前で最高に達しました。しかし、貿易は世界中から袋だたきに遭っていましたので、この時期、自動車産業界が輸出を伸ばせるかはだいぶ怪しい状況でした。しかし、1930年に完成し、翌年販売が始まった小型車「ダットサン」は排気量495cc、1932年、排気量は722ccになり、月産千台の工場建設をし、昭和11年まで生産数を伸ばし続けていました。外国製の普通車のマーケットではなく、小型普通車を販売することで、自動車事業が発展し始めていました。この時期、榎本の政策である、興亜、日清韓提携がすでに実現していれば、大陸での軍事予算を必要とせず、十分国内の自動車産業を支援することができましたし、GMやフォードとの合弁工場があれば、そこでも日本人を大量に雇用することができ、さらなる技術移転も可能でした。日本は約30年前に満州権益を米国に分け与えることを拒絶しましたが、この頃、国内企業がGMやフォードとの合弁で工場を建設し、事業を開始する選択もありました。GMやフォードが日本に資本投下をしていたなら、米国政府の日本攻撃欲が低減されたかもしれないという指摘もあります。日米交渉も焦点が少しズレたかもしれません。この時代に榎本が生きていたなら、総合的判断で、GMやフォードを追い出すような計算はしないと推測されます。

 岸信介らの政策は、榎本からは少し幼稚に見えたと考えられます。

 

 

・「国利民福」の去就

 

【第二の奇跡的経済発展】

 

   日清戦争から太平洋戦争の間の軍人・軍属、民間人(銃後人口)の戦争死傷者の総数は、3,026,112人*¹、死没者数は民間人を含め、2,233,347*¹でした。

『終戦時、海外には、軍人・軍属、ならびに民間人を含め在外邦生存者数が、およそ660万余人いたと言われています。そのうち、1947年12月31日までに、624万余人の方々が復員・引揚げを完了しました。』*²

帝国書院>社会科調べ学習用 統計データ>歴史統計>戦争別死傷者数(総務庁「日本長期統計総覧」による)https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history/detail/4/
「公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-」アジ歴グロッサリー、https://www.jacar.go.jp/glossary/fukuin-hikiage/

 

 戦前、人口が漸増しているなか、限られた国土では国民が生活できない、という論理を振りかざし、領土を拡張し続けました。太平洋戦争(大東亜戦争)で敗戦し、明治維新直後の領土から、北方四島、小笠原諸島を奪われた国土へ約600万人が帰国しました。お亡くなりになった方の数を差し引くと、国内では400万人の人口増が起きました。

 しかし、1967年(昭和42年)、自動車の生産台数は世界2位、翌年、GNPも世界2位*に達し、電気産業の販売ネットワークは世界に広がっていました。第二の『奇跡的経済発展』を成しとげたのです。終戦時の人口は7199万人、1970年は10467万人*に増えていました。生活苦の国民を軍人にして海外へ送り出す必要が無く、特に、食べられない農民や貧困者を軍で吸収し、海外で戦争する仕事を作る必要がなくなりました。さらに、農村からは都市部や工業地帯へ送り出せる人口は無くなるほど雇用が拡大しました。貧困な日本人が無くなった時代が訪れたのでした。

*我が国における総人口の長期的推移、我が国における総人口の推移、総務省「市町村合併のの進捗状況について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf

 

 もし、パラレルワールドがあるなら、あちらでは、徳川幕府が解体され、西周らが起案した上下院の政治体制が取られ、榎本武揚が首相となって、榎本的世界、榎本ワールドを築き、昭和40年代を待たずに、イノベーションとエンタープライズによる国利民福の増進を達成し、平和な、闊達で愉快な日本になっていたのではないでしょうか。

 

【国利民福の去就】

 

 康徳5年(昭和13、満州国年号)12月治安部警務司編纂『警察教科書草案 警察通則』満州国警察協会発行の「第一課 警察の本質 一警察の変遷」では、国利民福を『斯[かく]くして、行政は国利民福を図る積極的な行政と、秩序を維持するという消極的な行政との・・・』と用いられています。日本の国家支配が及ぶ範囲での行政では国利民福は国家目標として一貫して用いられていたようです。昭和の富国強兵に関する議論では、富国強兵は国利民福増進への近道のようにも用いられました。「国利民福」は「富国強兵」に対し、上位の目標であることは明白でした。国是は明治40年国防方針では「開国進取」でしたから、「富国強兵」や「産業立国」などは、同位の概念、施策でした。

 戦後、1947(昭和22年)6月5日の片山哲首相の「最高裁判所の建設」に関する談話で『裁判所は正義の殿堂であり、法の維持、治安の確保、人権の擁護、国利⺠福の最後の塞[とりで]である。・・・』*¹と語っています。用語「大東亜戦争」と違い、「国利民福」はGHQの禁止用語に指定されなかったようです。

 1968年(昭和43年)、日本のGNPが米国に次ぎ世界2位を達成し、自動車生産数は世界2位になり、電気製造業の販売ネットワークは海外へ広がりました。国民は国内で就労して生計を立てられるようになりました。日本は「暴力、特権、無知」の時代から「知性、産業、平和」の時代になりました。この結果、開国以来の国家目標、「国利民福の増進」は十分達成されたと考えられます。榎本たちが蝦夷島に新しい日本を樹立しようとした年から100年後、ようやく榎本の願いが叶い、「国利民福」は役目を終えました。

*¹「最高裁判所の建設(片山総理大臣談)(昭和22.6.5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060491400、裁判官任命諮問委員会書類・佐藤幹事(国立公文書館)
オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳「8 戦争について」『ナポレオン言行録』岩波文庫、1983、pp.258-259
  榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-2-1)』https://www.johoyatai.com/3314で引用

 

・結び

 

 榎本は百姓の時代から臣民の時代という、二つの時代にまたがって、行政や軍事、政治家の仕事をしました。オランダ留学当初は服装や風習にちょっと戸惑ったかもしれませんが、ヨーロッパに馴染み、数年滞在したので、日本での暮らしや服装の欧米化に抵抗感はなかったはずです。箱館戦争で敗戦し、非主流派に転落し、権力を掌握するには程遠く、淡白と言われた榎本の性格ゆえ、切り替えも早かったと考えられます。元々軍人ですから、命令に服従する訓練はされていましたので、薩長土肥の上司には表向きは従順に振る舞うこともできました。時代を跨いでも君恩は消えることはありません。その点を確認するように箱館戦争敗戦後、投獄された時に、(国に仕えるものとして)未だ君恩に報うことができていないと「獄中記」に書き記しました。心中辛くとも、薩長政府内において、民の福祉、福利、幸福のために働き続ける事にしたのです。ここが、筆者の榎本武揚に関する調査のスタート・ポイントで、亡くなるまで電気学会会長を務めた榎本が薨去した時点が調査のエンド・ポイントです。

 エンジニアである榎本の思想や世界観、価値観、業績を調べて分析し、把握するには、榎本以上の能力を必要とし、筆者の能力ではあまりにも困難な作業でした。フレデリック先生の榎本宛のメッセージに、榎本はヨーロッパの歴史に詳しいと書かれていたことからも、広範な分野の思想と知識を榎本は自分のものとしていました。榎本の頭の中を理解するためには、歴史の幅を広く調べ、地上の空間の領域もより世界的に広く把握することが必要でした。榎本のようなエンジニアが日本の過去、自分の生きた時代をどう考えていたか、榎本なき後の世界で、榎本の思想、世界観は評価可能になったのかを含め考察してきました。その分、非常に冗長な文章となりました。

 今後、榎本武揚のような人物が登場するには、どのような教育が適しているのかも議論に含められるならば、榎本武揚研究もさらに意義深いものになると思います。

 

謝辞

 筆者は、2005年から榎本武揚と産業立国との関係を調査し始め、2019年に調査結果の骨格がまとまったところで、高成田亨様からWEBサイト「情報屋台」で論考の発表を勧めていただきました。気づけば投稿終了まで5年という長きに亘りました。発表が長期に亘り、大変ご迷惑をおかけしたと思います。お詫び申し上げます。そして、このような発表の機会をいただき、非常に感謝いたしております。

終了

 

補足

1.本稿は、2015年7月12日に横浜黒船研究会にて講演した『開国・明治維新から産業立国実現までの百年間を俯瞰する』での発表資料をもとに書き起こしました。
2.本稿全体は、榎本武揚の伝記ではなく、あくまでも出牢から電気学会会長を辞めるまでの榎本と国利民福に関する、調査と分析を試みたものです。
3.本稿全体は、2011年7月10日から2019年5月12日の間、横浜黒船研究会の講演で用いた発表資料を利用して、文章を書き起こしました。
4.中村喜和先生が榎本武揚がドイツ政府の予決算書を見ていた件を論じられていらっしゃったと記憶し、関連論文を山積みの資料の中を探しましたが、見つからずに終わりました。榎本は、経済、財政分野でも資料を集めて、色々考えていたことは間違いないと考えられます。その傾向は、電気学会雑誌の会長の年初の論文にも現われています。
5.日本国憲法下では、国民は「国民」と呼ばれることになり、主権者になりました。国民第三号、第三世代です。憲法改正が行われると、国民第3.1号になります。国民Version3.1です。

 

以上

参考年表

 


この記事のコメント

  1. 匿名 より:

    長期にわたる研究発表、お疲れさまでした。最後まで、「国利民福」という榎本を視点から、榎本の業績を追求されたのは見事というしかありません。明治以降の軍人を含む日本の為政者たちに榎本の視点があれば、悲惨な15年戦争に進むことを避けられたように思えます。その意味でも、中山さんの研究をもとに榎本再評価が高まることを期待したいと思います。

  2. 中山 昇一 より:

    ありがとうございます。
    日本の現状も、当時、榎本武揚の考えをよく勉強しなかったことに一因があることには間違いありません。日本や国民は今後、どう生きていくのか、いささかでも参考になれば、幸いです。

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