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「湾生回家」と言う、好評の台湾映画

2016.12.18 Sun
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1  岩波ホールで鑑賞
珍しい映画を見る機会がありました。全国で一カ所の上映ですが、若い人も多く、結構な入りでした。ただ、公開は一箇月ほどで、既に終了しております。

以下、拙印象をポイント型で記します。

制作は台湾と記されていて、中華民国とは表示されていませんでした。 昨年2015年の作品です。原題は「湾生回家」となっていて、邦題も同じです。湾の字が用いられていて、いわゆる正字(繁体字 旧字)は、映画自体の字幕表示で、小さめに現れているだけでした。昨年台湾国内で上映されていますから、正字の使用ないし表示は必要だったのでしょう。

所謂プロデューサーは陳宣儒と言い、監督は黄銘正、制作会社は田澤文化有限公司となっていました。つまり、この映画を企画し、作った人々は現台湾人で、台湾の企業なのです。一方出演者は主に現日本人でした。この事に先ず驚きました。

そして、この作品は台湾国内で結構な観客動員が在り、上映も長期に及んだ由、また、その中には、戦後台湾に移住してきた所謂外省人やその子孫も結構居たと聞きます。その人々も台湾の「ふるさと」訪ねる日本人の姿を見て、涙したとの事です。

更に、この作品は、国際的にも幾つかの賞を取っています。

それにしても、かつて、所謂支配者側に居た人々を、支配されていた側ないしその子孫が喜んで受け入れ、かつての住まいを訪ねさせ、大いに語らせ、自由に交流させ、その様子を記録に残し、公開映画にするとは、結構微妙な問題を含んでいて、本来、中々実現しにくいことと思われます。だが、それは現実のこととなっているのです。しかも、その描き方が好意的で、実に温かい事が印象的でした。

私の胸に最も迫った言葉、それは、かつて両親が台湾の地に暮した、さる若い日本人女性が「アジアで、日本が嫌われていない国が現に在るんだ。自分はこのことが信じられなかった。」と言うものでした。

 

2  湾生

ここに、「湾生」とは台湾生まれの日本人を指す由。しかし、この言葉は大きな辞書にも出ておらず、死語となっていたようです。それを台湾の人々が発掘し、そういう日本人を日本に来て見つけ出し、その台湾でのふるさとをともども訪ね、ドキュメンタリーの映画にしたのです。斯くて、主題歌は有名な「高野辰之作詞 岡野貞一作曲」の「ふるさと」でした。何度も出てきます。

振り返れば、台湾は明治28年(1895)、日清戦争の勝利によって日本領となります。そして、それは日本が敗戦となる昭和20年(1945)まで約五十年続きます。この半世紀の日本統治の間、多くの日本人が台湾に渡りました。

このドキュメンタリー映画に登場する「湾生」達が生まれた昭和十年の国勢調査によれば、台湾の総人口は約512万人、うち所謂内地人(日本人)が27万人、その出身地域は全47道府県に及んだと言います。住民の平均年齢は23歳ほどと言い、将に台湾は若々しく、幼い子を育てながら、懸命に働く家族が中心を占める地であったのです。

其処には、支配・被支配と言うよりも「ともに歩もう」と言う姿勢が在ったと申します。

でも、湾生などの、これら日本人は、祖国の敗戦で何もかも失い、僅かな年月の間に、ほとんど財産らしい物を持たせてもらえず、所謂内地へ引揚げて行きました。数多の、大変な不幸と苦労があったと聞きます。

でも、歳月が経って、こうした湾生達が台湾のふるさとに帰ったとき、現地では漢族も
高砂族も諸手を挙げての大歓迎となったのです。

このことを知った、この映画の企画者や監督達は、湾生が平均八十歳などと高齢化しつつある現状を見て、今こそ、その姿を留め、ふるさとへの再訪、昔の仲間との再会の様子を捉え、ともに考えようと、この作品の制作を思い至ったと申します。彼等は後年の台湾世代ですが、皆日本語を理解するようです。

こうした話は、同じ日本人が体験した中でも、例えば、ソ連軍が日ソ中立条約を侵犯して満州、樺太、千島などに攻め込んで来て、起きたことなどとは、まるで状況が違いますね。

 

3  差別の側面
この作品が取り上げている諸事情の中には、所謂、負の面があります。

敢えて、そう言わなければならないほど、日本統治下に入った台湾の近代化は凄まじいものがありました。初期の混乱期が収ると、衛生状態の改善、水道、鉄道、道路などの
インフラの整備、教育の普及、治水・利水、ダム・水路など農業開発の進展、工業の発達が勢いよく進み出したのです。その成果はどんどん広がり大きくなりました。日本内地以上と言う評価もありました。斯くて、実は日本統治下の外地なのに、そのことにはほとんど無自覚でおれたのです。

しかし、日本人なら、ぼんやりしていても進学できましたが、そうでない人は必死に頑張って良い成績を取らないと、駄目な例が少なからず在りました。また、戦場に行けば日本人と肩を並べられるだろうと志願する非日本人も結構居たのです。

そして、かなりの日本人がこうした現実に気がついていなかったと言われます。それ程内地のような台湾でしたが、このような諸々の差別や諸事情は潜在していて、戦後分かった事が多かったと申します。

 

4   今もたどれる戸籍
或る湾生の人が、台湾でのふるさとの役場を訪ねるシーンがありました。驚くべき事に、其処になお、日本統治時代の戸籍原本が残っていたのでした。そして、実は今の日本に在る戸籍とも整合性がとれ、繋がっていると確認されていると申します。日本時代から続く、現台湾の行政水準の高さに圧倒されます。そのことを実示する台湾側の地方公務員の実務の高水準が察しられました。

 

5  言葉

映画で話される言葉は、湾生が登場するのですから、大半が日本語です。それも共通語に近く、所謂方言タイプは少なかったですね。

そうでない場面は、台湾現地の言葉が使われていたように思います。それは所謂マンダリンでなかったから、広東語に近い「台湾語」だと推定されます。

他方、ナレーションは所謂「普通話」でした。それは、現に台湾を統治する中華民国政府の用いている言葉で、マンダリンと思われます。これは英語の言い方ですが、もとは清の時代に、「満大人」と書いたと聞きます


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