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チャイナを診る : ヨーロッパと対比して

2018.09.09 Sun
文化

チャイナを診る : ヨーロッパと対比して

平成30年9月
仲津 真治

標記の問いは、学生の頃から、長年疑問に思って来た事ですが、
ジャレド・ダイアモンドという米ハーバード大学と英ケンブリッジ大学の博士号を持つ、大変な碩学が「銃、病原菌、鉄」と言う大著の中で、興味深い論を展開していますので、こうした見方も在ると言う良きヒントとしつつ、此処に紹介しながら、私見も交えて記します。

1) 著者は、チャイナ(中国)は中国化した言います。 その意味は、此の国も古代には、矢張り多様性に富んだ人種のるつぼであって、多くの人種や民族の人々が、広い地域に跨がって、争いつつ棲んでいたが、他地域の国々と違って、早々と徹底的に政治的な統一を見て、同化し、まとまったと言うのです。 (ただ、DNAなどのデータ、解析などからは、人種や民族の多種多様振りは現代にも継承されていて、単一の漢族と言うような一大民族が出来たわけでは無い由)

懸かる統一の歴史を、古い時代に沿って言えば、まず、黄河の上・中流域に一定の文化が生まれて、紀元前約二千年前以降、黄河の中・下流沿いに部族国家としての「夏」が形成され、次いで、懸かる部族国家の連合体として「殷(商)」が成立、華北を支配します。それは早や青銅器文明を築いていました。

そして、紀元前約千年前頃には、殷に代わって、周王室が興き、「周」が出来、一種の治まった封建制となりました。 しかし、やがて乱れ、周は遷都し、「東周」となります。 これで、周の権威は名目的となり、春秋時代が始まります。いわゆる春秋五覇が争い、中原は大乱の地となりました。呉越の戦いはその一環です。

次いで、周が全く衰え、実質無視される時代に突入します。戦国時代です。相争った諸国は戦国七雄とよく言われます。 この中で、当初「晋」が強大でしたが、やがて分裂、益々争乱は大きくなりました。その中でも、武器の発達と繋がりがあるのか、鉄製の鋤が使われ、牛耕が始まり、時代が進みます。

やがて、七雄の中の「秦」が特に強くなり、遂に紀元前221年、争乱の地
中原を統一します。 斯くて、有名な「始皇帝」が即位します。

この秦による天下統一以降、約二千二百年余、チャイナは基本的に一本にまとまり、分裂国家となったのは、例外に止まります。 この事を、私どもは良く認識しておくべきです。著者も、ここを強調しています。

注:秦、漢の後の三国「魏、呉、蜀」がその例外として
有名で、良く知られる「三国志」を生みました。

2)  ヨーロッパと違い、 チャイナが長い間、一本で纏まった来た分けは?

ずばり言えば、地理・地形などがかなりの程度作用したと言うのが、著者の見立てです。 まず、ヨーロッパは、地理的にユーラシア大陸の半島というべき大きさしかなく、その中にも、バルカン、ギリシア、イタリア、イベリア、スカンジナビアなどの諸半島があり、また、ブリテン島、アイルランド島などの諸大島が存在し、更に海岸線が極めて複雑多様で、一路で駆け抜けるような地帯が無く、気象条件が似ている東西方向の大河川や水系が貫いて居ません。 斯くて、やや偏狭な塊が出来易いのです。

一方、チャイナは、半島や大島に乏しく小さく、且つ、海岸線が丸みを帯びて比較的単調です。 それに巨大河川や水系が、黄河や揚子江を典型として、大陸を東西に貫き、似たような気候帯を、概ねまとめています。 また、チベット高原から東へ向かっては、急峻ではない傾斜の山岳地帯などをなしていて、大きな地域や地方としての纏まりを造っています。 要は、チャイナの地理は、巨大なる塊を成し易いのです。

斯く、欧州とチャイナは、ユーラシア大陸の両端にあって、相当対照的な地理・気象条件を擁していると言えそうです。

再言すれば、欧州では、ヨーロッパが一つの塊やまとまりを成したことは一度も無く、最大版図を誇ったローマ帝国ですら、その極大時でも全欧州の半分以下に止まりました。 そして、その東西分裂、西ローマ帝国の崩壊、フランク王国の形成と三分裂、イングランドやスコットランドなどの成立、神聖ローマ帝国の形成、多くのヨーロッパ諸国の建国などと、絶え間なく、纏まりや統一とは異なる動きが主たる流れとなってきました。 概括的に捉えると、ヨーロッパとは、非統一と各国の自立性や分散性に特徴付けられるのです。 戦後のEUは、大戦とその反省から来る動きなのですが、英国の離脱で分かるように、統合は決して順調とは言えません。

一方,チャィナは統一と集中と言う対照的な歩みをして来ました。 その染みついた哲学と世界観は、統一と集中なのです。

斯くて、歴史と伝統は誠に根深いものがあると言えるでしょう。

それが、結果として、近世以降について言えば、スペインやポルトガルを嚆矢とする、欧州諸国からの大航海時代の到来等と、これと対照的な、明の鄭和による大艦隊のアフリカ遠征での終焉となって、結実したのかも知れませんね。 個々の国の競合型の動きの欧州と、統一王朝一体の集中型意思決定のチャイナの違いです。

3)  チャイナに於ける統一と支配への、言語の寄与など

この集中の効果と蓄積は大きく、言語・文字文化の面では、北は満州付近から、南はトンキン湾付近まで、共通の「言語」が使われる様になっています。それは、言語学的には、シナ・チベット語ファミリーと呼ばれ、文字圏では漢字文化圏の形成と言う事になりましょうか。

ただ、それは表音の統一まで意味せず、書かれた言葉による意思疎通が可能とい
う文化圏ですね。 謂わば筆談の世界でしょうか。 ここを著者は、チャイナ語と(八大) 方言と記していますが、必ずしも正確では無く、別々の伝統を持つ言語が、漢字という文字で共用化し、音は区々であると理解した方が、経緯と実際に叶っていると思います。 それらは、日本に伝来し、残存した漢字の漢音・呉音・唐音より、遙かに複雑多様振りを示している由です。 もともと、それぞれが別々の言語だったのですから。

他方、このシナ・チベット語ファミリーの他に、苗族、タイ族などの三大ファミリー語族が在り、華中、華南、東南アジア各地に、広く分布、散在し、その態様は、謂わば飛び地型です。

著者は、歴史的、地域的経緯からみて、チャイナの統一王朝の勢力拡大に伴い、これら語族に属する人々が各地域に、諸国、諸地方として残存した結果と見ています。

なお、現代チャィナの権力集中や諸政策の結果ですが、共産党支配下の大陸では言語には、全土で普通話(北京官話)が導入され、強力に、その使用や教育が奨められて、統一色が濃くなっているとともに、所謂漢字の簡素化が奨められています。 良く言われる「簡体字」です。 それは、同時に古典から遠ざかる副作用をもたらしている由です。 更に、遠くない将来に於いて、漢字文化圏の終焉も招来する怖れがあるでしょう。


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